境界線の向こう側 〜配信中の銀色の聖女を、俺だけが穢す〜 作:与次郎
大学の講義終了を告げるチャイムが、教室中に鳴り響く。
夏川みずきは、後方の席から弾かれたように立ち上がった。トートバッグを肩にかけ、栗色の髪をガシガシとかき上げる。
「ふぅ……今日の文学史、先生の熱が入りすぎてて難しかったなぁ……」
わざと大きなため息を吐く。瞳の奥には、不安をかき消すような強い光が宿っていた。大切な親友、星野光莉の異変。昨夜誓った通りそれを放置することだけは、絶対にできない。今日は講義の後に、学食で彼女と会う約束を取り付けていた。
教室を出て、学生たちで溢れ返る賑やかな廊下を歩いていくと、すぐに目当ての黒髪が見つかった。
控えめな私服に身を包んだ光莉が、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
「光莉ちゃん!」
みずきは大きく手を振り、弾ける笑顔で駆け寄った。
けれど、みずきに呼ばれて顔を上げた光莉は一瞬だけビクッと肩を跳ねさせ、視線を彷徨わせた。
「あ……みずきちゃん。お疲れ様」
「顔色、大丈夫? 講義、長かったよね」
「うん……大丈夫。それより、みずきちゃんこそ、その」
光莉は言葉を切り、無意識に首元の黒い革製チョーカーを指でなぞった。みずきは思わず息を呑む。
チョーカー。普段は絶対に付けないはずの、太く重厚な装飾。……それ自体が違和感だが、光莉の白い首筋に食い込んでいる跡が、あまりに不自然で、生々しい。
(……あれ、何なの? 誰かに付けられたみたいに……)
思考を遮るように、光莉がポケットの中のスマホを気にしながら、落ち着きなく視線を泳がせた。その態度が、みずきの正義感をさらに刺激する。
「ねえ光莉ちゃん、私たち最近コラボ配信してないよね? 昨日の配信も聴いたんだけど……」
「昨日の配信……聴いてくれたの?」
「うん。だからさ、久々にルミナちゃんとひまりひまりで一緒に配信したいなーって思って! どうかな?スケジュール空いてたりしない!?」
「えっ……!?」
その瞬間、光莉は言葉を失い、文字通りその場に凍りついた。
あまりの驚きからか、みるみるうちに光莉の顔から血の気が引いていき、唇が小刻みに震え始める。昨日のカフェの時とも違う、何か決定的な破滅を突きつけられたような、異常なまでの取り乱し方だった。
「光莉ちゃん……? どうしたの、そんなに驚くこと?」
「あ……えっと、コラボ、です…か……?」
「うん! 二人で配信したら絶対に楽しいよ! 最近の光莉ちゃん、ちょっと元気なさそうだったから、私の太陽パワーでいっぱい盛り上げてあげたいなって!」
みずきは無邪気に胸を張り、トレーナーの上からでも分かる胸の膨らみを誇らしげに揺らした。……この時の彼女は知る由もない。自らの提案が、親友を救うための『完璧な先手』ではなく、零の用意した処刑台へ自ら登る一歩であったことに。
光莉は喉をひくつかせ、必死に作り笑いを浮かべた。その表情は、どこか艶っぽく、痛々しいほどに歪んでいる。
「……うん。いいね、みずきちゃん。私も、ちょうど同じことを考えていたの。ひまりちゃんと一緒に配信できたら、きっと、すごく元気になれると思う……」
光莉の指先が、みずきの腕にそっと触れる。
瞬間、昨日カフェで感じたものと同じ、じっとりと湿った異様な熱が肌に伝わり、背筋がピリリと駆け抜けた。
(やっぱり、光莉ちゃんは何かを隠してる。でも、これでいい。コラボ配信が決まれば、ファンの前で絶対にボロを出すはず……!)
みずきは確信を深め、負けず嫌いな笑みを浮かべながら、光莉の手を引いて学食へと向かった。
その背中を、光莉は虚ろな瞳で見つめながら、指先を痙攣させるように動かしていた。
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昼下がりの学食は、講義を終えた学生たちの喧騒と、安価なコーヒーの香りに満ちていた。
窓際の席を確保したみずきは、トレイに載せたアイスコーヒーのストローを指先でくるくると回しながら、身を乗り出す。
「ねえ、本当にコラボ楽しみ! 久々にルミナちゃんと一緒に配信できるなんて、今からワクワクが止まらないよ! それでね、さっき歩きながら考えたんだけど、どんなテーマにしようか?」
向かい側に座る光莉は、おっとりと微笑みながら、自分のグラスの縁を白く細い指先でゆっくりとなぞった。以前の彼女ならもっと控えめだったはずなのに、今の指使いには、どこか見せつけるような妖艶な滑らかさが混じっている。
「ええ。みずきちゃんとなら、どんな企画でも素敵だと思うわ。……そうね、まずは『ルミナ(清楚)』と『ひまり(元気)』の役割をどうするか話し合いましょうか」
「いいね! 私、いつも通り元気いっぱいにルミナちゃんを盛り上げる係ね! 光莉ちゃんはいつもの聖女モードで、リスナーを癒やしちゃってよ」
「ふふ、そうね……。それが一番、リスナーも喜ぶかもしれないわ。テーマは、何かやりたいことがあるの?」
「うん!よくぞ聞いてくれました!」
みずきは鞄からお気に入りのノートを取り出し、ペンを構えて熱っぽく語り始めた。
「私は『夏の思い出』がいいと思うんだよね! 二人で夏休みのエピソードを語りながら、得意のASMRも混ぜるの。例えば、波の音、風鈴の音、かき氷を削る音とか……。光莉ちゃんの声で『夏の思い出』を癒し系に囁いてもらって、私が元気いっぱいに『夏の冒険』を語る感じ! どう? 面白そうじゃない?」
光莉はくすっと小さく、喉を鳴らすようにして笑った。そしてテーブル越しに、みずきの手の上に自分の手をそっと重ねてきた。
その指先は、ひんやりとしたグラスに触れていたはずなのに、驚くほど温かく、じっとりと湿ったような独特の熱を帯びていて、みずきの肌にねっとりと染み込んでくる。
「いいと思う。みずきちゃんのアイデアは、いつも本当に楽しそうだね……。夏の波の音……素敵。私、みずきちゃんのために、耳元で優しく、囁いてあげるの、すごく好きだよ……?」
「う、うん……ありがと」
光莉の潤んだ瞳がじっと自分を見つめてくる。その視線の濃厚さに、みずきは頬を少し赤らめながらも、負けじと笑顔で頷き返した。
企画出しはスムーズに進んだ。
「夏の思い出」というテーマを軸に、ASMRで使う波の音や風鈴の選曲、さらに二人で演じるミニドラマの台本など、話せば話すほど、二人のシンクロ率は高まっていく。みずきが熱っぽくアイデアを語るたびに、光莉もまた、「みずきちゃんの言う通りにするわ」と従順に、そして少しだけ熱っぽい瞳で頷いてくれる。
「……完璧だね! 今回のコラボ、絶対伝説になるよ。あ、そうだ。せっかくだからリスナーから募集したお便りコーナーも入れない?」
「いいわね。みずきちゃんと二人なら、どんな難題もこなせそう」
みずきは安堵し、ノートにペンを走らせる。順調すぎるほどに噛み合う二人。だが、会話が後半へと差し掛かると、不意に学食が混み合い、周囲の騒音が耳障りなほどに大きくなってきた。
「……っ、ちょっと騒がしいね。これじゃあ、細かな台本の打ち合わせは難しいかも」
みずきが眉をひそめて周囲を見渡すと、光莉は静かに微笑んでみせた。
「ええ……。ねえ、みずきちゃん。静かな場所で、もっと細部まで詰めたくない? ……例えば、近くのカラオケボックスとか、個室のネットカフェなら集中できるかも」
「そうだね! それなら台本読み合わせもできるし、すごく捗るはず!」
みずきはパッと表情を輝かせ、すぐにスマホで近くのカラオケボックスを予約した。
自分から場所を提案し、自ら予約を入れるその行動力が、零にとってどれほど都合の良いカードであるかも知らずに。
「よし、決まり! 行こう、光莉ちゃん!」
「ええ……行きましょう。二人きりのほうが、もっと深い……『秘密』の話ができるでしょ?」
光莉がふと漏らした言葉に、みずきは一瞬だけ首を傾げた。
(……今、何か言った?)
だが、すぐに「やっぱり光莉ちゃんも、良い配信にしたいんだ」とポジティブに解釈し、みずきは光莉の手を引いて学食を立ち上がった。
彼女が握った光莉の手は、心なしか昨日よりも熱く、そしてどこか逃がさないようにと強く絡め返されていた。二人の足取りは、これから始まる「練習」という名の泥沼へ向かって、何の疑いもなく一直線に伸びていた。