境界線の向こう側 〜配信中の銀色の聖女を、俺だけが穢す〜 作:与次郎
カラオケボックスの重い扉を閉めると、学食の騒音は嘘のように消え去った。
狭い個室に漂うのは、清掃用のスプレーと、かすかな古い絨毯の匂いだけだ。
「わあ、ここなら静かだね! よし、まずは……って、その前にちょっと歌っちゃう?」
みずきは弾んだ様子でデンモクを手に取り、画面を素早くスクロールした。
「え? 打ち合わせの前に歌うの?」
「そうだよ! 講義で頭ガチガチだし、喉を開いておいた方がこの後の読み合わせもスムーズにいくでしょ? ほら、光莉ちゃんも選んで!」
「ふふ、相変わらず形から入るんだから。じゃあ、いつものアニソンにしようかな」
「あ、それずるい! 私もそれデュエットしたかったのに!」
みずきが適当なアップテンポの曲を入れると、スピーカーから大音量のイントロが流れ出す。マイクを握ったみずきは、狭い室内をステップを踏むようにして全力で歌い始めた。現実世界での少しの人見知りが嘘のように、光莉の前では完全に素の自分をさらけ出している。
「はい、光莉ちゃんサビ! いっくよー!」
「うん……っ! 『――見上げた空に描いた夢は!』」
「そうそう! 綺麗! やっぱり光莉ちゃんの高音、めっちゃ通るよね!」
「みずきちゃんが隣で動くから、ちょっと音程外しちゃったじゃない」
「えへへ、盛り上がったもん勝ちだよ!」
二人は交互にマイクを回し、時には肩を並べて1つの画面を見つめながらデュエットした。曲が終わるたびに「今のハモり最高だった!」「みずきちゃん、ちょっと声が大きすぎ」と笑い合う。
みずきは全力で歌う光莉の姿を見て、胸の奥でホッと息を吐いていた。
(よかった……。こうやって笑って歌ってる姿は、いつもの光莉ちゃんだ。昨日のことなんて、私の考えすぎだったのかな……)
3曲ほど歌い終え、心地よい疲労感とともに二人はソファに深く腰掛けた。ドリンクバーの氷がカランと音を立てる。
「ふぅ、歌ったらお腹空いてきちゃった。ポテト頼んでもいい?」
「いいよ、私も少しつまもうかな。……じゃあ、そろそろ本題に入ろっか」
みずきは自分のキャンバストートから、付箋が何枚も飛び出したお気に入りのノートを取り出し、ガラステーブルの上に広げた。
「さっき学食で言ってた『夏の思い出』ASMRだけどさ、私、具体的な流れをちょっと考えてみたんだよね」
「うん、聞かせて?」
「まず、導入は夏の夕暮れ。ひまりが『ねえねえ、ルミナちゃん! 早く行かないと屋台閉まっちゃうよ!』って手を引くところからスタートするの」
「なるほどね。じゃあ、ルミナは『もう、ひまりちゃんは慌てん坊ですね。お祭りは逃げませんよ』って返す感じかしら」
「それ! まさにそれ! さすが光莉ちゃん、解釈が完璧すぎる!」
みずきは嬉しそうにペンを走らせる。
「でね、今回の目玉は『環境音』との連動だと思うんだ。波の音とか、風鈴のチリンって音をバックに流しながら、二人の距離感がだんだん近づいていく演出にしたいの。機材のゲイン調整、いつもよりシビアになるけど大丈夫かな?」
「ゲインは少し高めにして、ノイズゲートを浅くかければ、吐息のニュアンスまで綺麗に拾えると思うわ。……みずきちゃんの、元気な声の合間に漏れる、小さな息遣いとかもね」
「あ、それいいね。臨場感が出そう! あとは……やっぱり浴衣の衣擦れの音とか、花火が上がった時の静寂の瞬間に、耳元で内緒話を囁くの」
「内緒話……。どんなことを囁くの?」
光莉が少しだけ身を乗り出し、潤んだ栗色の瞳でみずきをじっと見つめた。
「え? あ、えっと……『来年も、一緒に来ようね』とか、そういうエモい感じのセリフだよ!」
「ふふ、可愛い。みずきちゃんがそれを照れずに言えたら、リスナーはみんな悶絶しちゃうわね」
「もう、からかわないでよ! でもさ、本当にさっきのセリフ、あの時の花火大会を思い出すよね」
みずきはノートを見つめたまま、懐かしそうに目を細めた。
「ほら、去年の夏休み、二人で浴衣着て行ったじゃない。私、下駄に慣れてなくて派手に転びそうになって」
「あったわね。私が慌てて手をつかんだら、みずきちゃん、顔を真っ赤にして『ありがと』って小さな声で言って」
「う、うるさいなあ、あの時は本当に恥ずかしかったんだから! でも、光莉ちゃんがずっと手を握っててくれたから、すごく安心したんだよ。迷子になっても、光莉ちゃんがいれば大丈夫だって思ったの」
「……みずきちゃん」
「だからね、今回のコラボは、あの時の楽しかった気持ちをそのままリスナーに届けたいんだ。……ねえ、光莉ちゃん、最高の配信にしようね」
みずきはノートから顔を上げ、満面の笑みを親友に向けた。
だが、光莉の表情は、先ほどまで一緒に歌っていた時とは明らかに違っていた。その瞳はどろりと熱く濡れ、向けられた視線はみずきの唇のあたりをねっとりと這いまわっている。
「……ええ。最高の配信にしましょう。みずきちゃんと私の……誰にも邪魔されない、特別な時間に」
光莉はそう言いながら、テーブルの上でみずきの手の上に自らの白い手を重ねてきた。
ひんやりとしたグラスに触れていたはずなのに、その手のひらは驚くほど高くて濃密な、じっとりとした熱を帯びている。
「あ、光莉ちゃん……? 手、すごく熱いよ?」
「そう? 歌って、少し火照っちゃったのかしら。……それより、そろそろ台本の読み合わせ、してみない?」
「う、うん。そうだね。じゃあ、中盤の『夜店巡り』のパートからいこうか」
みずきは微かな胸騒ぎを覚えながらも、ノートのページをめくった。
「いくよ。……『ねえ、ルミナちゃん。あっちの屋台のチョコバナナ、すごく美味しそうだよ! 買いに行こ!』」
光莉は一度、小さな舌先で唇を湿らせ、すうっと息を吸い込んだ。
「……ええ。チョコバナナ……。そうね、甘くて、ねっとりとしていて……とても美味しそう……」
その声が鼓膜に触れた瞬間、みずきはゾクッと背筋が震えた。
声のトーンは確かにルミナのものだ。しかし、言葉の端々に混ざる粘り気と、吐息の量が明らかに多すぎる。
「あ、あはは……! いいね、そのねっとり感! でも、もうちょっと『ひまり、そんなに食べたら太っちゃうわよ?』みたいな、いつものお姉さんっぽい余裕がある方がルミナちゃんらしいかも!」
みずきは冗談めかして軌道修正を試みる。だが、光莉のバグは止まらない。
「……お姉さんっぽい、余裕? ……ひまりちゃん、そんなに食べたいなら……私に、あーんって、してほしいの? それとも……私の口から、直接食べたい?」
「――っ!? ちょ、光莉ちゃん!?」
台本には一行も書いていない、あまりにも淫らで過激なアドリブ。
光莉の白く細い指先が、みずきの膝の上を衣服の上から愛撫するようにゆっくりとなぞり始めた。
「あ……っ、ご、ごめんなさい! 今のは、その……っ」
光莉は急に目を見開き、慌てて自分の口元を両手で押さえた。その顔は、みるみるうちに羞恥と激しい動揺で真っ赤に染まっていく。
「光莉ちゃん……? 今の『直接』って……ルミナちゃんのキャラ、完全に崩壊しちゃってるよ?」
「ち、違うの! 今のは……口が滑ったというか、その! リスナーが……そう、リスナーが喜んでくれるかなって、ちょっと大胆なウケを狙おうとしただけで……っ!」
光莉の言葉は完全に裏返り、呼吸は浅く激しく波打っている。その様子は、明らかにパニックを起こしていた。
みずきは驚きながらも、必死に取り繕おうとする親友の姿を凝視した。
(嘘……。ただ口が滑っただけじゃない。光莉ちゃん、体調が悪いんじゃなくて、何か……私には言えない『別の理由』で、こんなに頭が混乱してる……?)
いつもなら「もう、変な冗談言わないでよ!」と笑い飛ばせるはずだった。しかし、光莉の瞳の奥で揺らめく、男の影を想起させる甘く危険な「毒」が、みずきの直感を冷酷に突き刺す。
だが、ここで怯えて逃げたら、光莉を救えない。負けず嫌いな正義感が、みずきの背中を強く押した。
「……ううん、びっくりしたけど、そういう大胆なアプローチも、ギャップ萌えで面白いかもね!」
みずきはあえて深く追及せず、いつもの太陽のような笑顔を張り付かせた。
「でも、光莉ちゃん、ちょっと気負いすぎだよ。そんなに無理して新しいキャラを開拓しなくても、いつもの光莉ちゃんで十分素敵なんだから」
そう言って、みずきは自ら光莉の隣へとさらに距離を詰め、その華奢な肩をそっと抱きしめた。
「そんなに気負わなくていいよ。私がついてるんだから」
「みずき……ちゃん……っ」
抱きしめた光莉の身体は、まるで熱病にかかったかのように熱く、小刻みに震えていた。
すると次の瞬間、光莉は弾かれたようにみずきの身体を抱きしめ返してきた。それは親友同士のスキンシップを完全に通り越した、強烈な力だった。
光莉はみずきのオーバーサイズのトレーナーを引き絞るように強く握りしめ、剥き出しになったみずきの首元へ、熱い顔を埋めて激しい吐息を吹き付ける。
「あ……っ、光莉ちゃん……!? ちょ、ちょっと、苦しいよ……っ」
「みずきちゃん……みずきちゃん……ごめんなさい……っ。私……私ね……っ」
耳元で囁かれる、掠れた、泣き出しそうな声。
みずきは顔を真っ赤に染めながらも、その背中を優しく叩き続けた。
(やっぱり、光莉ちゃんは誰かに脅かされてるんだ……。こんなに怯えて、私に助けを求めてる……!)
「大丈夫だよ、光莉ちゃん。私、どこにも行かないから。来週のコラボ、絶対に成功させて、全部元通りにしようね」
「……ええ。元通りに……。来週の水曜……絶対に、良い配信にしましょうね……」
みずきの首元に顔を埋めたまま、光莉の声がどろりと甘く変化していく。
親友を救いたいという純真な正義感から、自ら光莉を強く抱きしめ、その肉体に密着してしまったみずき。
彼女のその健気な行動こそが、衣服の奥でじわじわと感度を高めていく光莉の「猟犬としての本能」を完全に覚醒させ、自らの首に外れない蜘蛛の糸を巻き付ける決定打になっていることなど、一ミリも気づいていなかった。