※この作品はR-18です。

境界線の向こう側 〜配信中の銀色の聖女を、俺だけが穢す〜   作:与次郎

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44:疑惑の問答

 

 深夜の静まり返った自室で、夏川みずきはパソコンの前に座ったまま、血の気の引いた唇を強く、壊れそうなほどに結んでいた。

 薄暗い部屋の中で、液晶モニターの青白い光だけが、彼女の険しい表情を冷酷に照らし出している。

 机の上には、彼女が睡眠時間を削り、狂ったようにまとめ上げた「資料」が不気味に広がっていた。ルミナ・ステラの過去の配信アーカイブを何十時間、何百時間と見返して抽出した、言葉の端々の掠れや艶っぽい息遣いの記録。コメント欄の卑猥な変遷の分析。日付ごとの光莉の視線の異変のまとめ。

 そして、前回のコラボ配信中、自分の肉体が実際に味わわされた、あの悍ましくも甘美な「見えない触覚」の詳細な被害メモ――。

 みずきは指でノートをめくり、胸の奥を激しく掻きむしられるようなざわつきに耐えていた。

 

(……もう、これ以上一人で抱え込むのは限界。限界だよ……っ。光莉ちゃんに直接、この資料を全部ぶつけて、ちゃんと話を聴かなきゃ……!)

 

 頭の裏では、光莉のいつもの優しい笑顔と、最近のあの鼓膜に絡みつくような淫らな声が、不協和音となって回っている。

 光莉は本当に、何も知らない被害者なのか。それとも、邪悪な何かに加担し、自分を陥れようとしているのか。どちらにせよ、このまま一人で疑心暗鬼に陥っていれば、自分の精神が先に狂ってしまうのは明白だった。

 みずきは湿った手のひらでスマートフォンを握りしめ、深く息を吸い込んだ。他人のプライベートに踏み込むことが何よりも苦手だった自分が、こんな行動を起こすなんて有り得なかった。けれど、彼女の芯が、恐怖を辛うじて上回っていた。

 震える指先で、彼女はメッセージを打ち込んだ。

 

【みずき】

 光莉ちゃん、今大丈夫?

 実は、最近の配信のことで、すごく気になることがあって……。

 二人だけで、誰にも内緒でちゃんと話したいんだけど……時間、作れるかな?

 

 送信ボタンをタップした瞬間、心臓が爆発しそうなほど跳ね上がった。スマホを胸にきつく抱きしめ、息を殺して返信を待つ。

 わずか数分後、画面に既読がついた。

 

【光莉】

 みずきちゃん、どうしたの?

 もちろん大丈夫だよ。みずきちゃんが話したいことなら、私はいつでも何時間でも聞くよ。

 ……もしよかったら、明日の夜、うちの部屋に来ない?

 ここなら二人きりでゆっくり話せるし、誰にも、邪魔されないから……ふふ。

 

 文末の「ふふ」という二文字を見た瞬間、みずきは冷水を浴びせられたように一瞬息を止めた。

 光莉の部屋。以前は何度も遊びに行き、一緒にお菓子を食べて笑い合った、安心できる親友のテリトリー。なのに、今の光莉から提示されたその場所は、まるで獲物を手ぐすね引いて待つ底なしの沼のように思えて、胸に鉛のような重い圧迫感がのしかかった。

 

【みずき】

……うん、わかった。じゃあ、お言葉に甘えてお部屋にお邪魔するね。明日の夜で大丈夫?

 

【光莉】

うん、明日の夜ね。みずきちゃんの都合に全部合わせるよ。楽しみに待ってるね。

 

 液晶画面を消したみずきは、そのままスマホを額に押し当てて目を閉じた。

 大切な親友を救い出さなければならないという強い使命感と、その親友の変貌への拭いきれない恐怖が、暗闇の中で激しく渦巻いて彼女の胃をせり上げる。

 

(負けない……。私はただ、不安に怯えて逃げ回るだけの弱虫じゃない。光莉ちゃんを本気で信じたいからこそ、私は私の足で、ちゃんと真相を確かめに行くんだ……)

 

 広げられた資料の束を丁寧に、けれどきつく鞄の中へと詰め込む。明日の夜、親友の部屋で待ち受けているものが何であるかも知らず、心臓は、不吉な警鐘のようにドクドクと速度を上げて鳴り響いていた。

 

 

 ------

 

 

 翌夜、高級感漂う静かなマンションの一室の前で、夏川みずきは立ち尽くしていた。

 手に持った通学用の鞄の重みが、今はまるで鉄塊のように感じられる。その中には、自分のすべてを懸けてまとめた「光莉の異常」を示す資料がぎっしりと詰まっていた。

 みずきは震える指先でもう一度だけ鞄のストラップをきつく握り直すと、意を決してインターホンのボタンを押し込んだ。

 カチャリという電子ロックの解錠音に続き、ゆっくりと開いたドアの向こうから、部屋着を身にまとった光莉が、いつもの優しい笑顔で顔を覗かせた。

 

「みずきちゃん、待ってたよ。さあ、早く中に入って。ゆっくり、二人きりで話そう?」

 

「うん……。夜遅くにごめんね、お邪魔します……」

 

 みずきは緊張で強張った身体のまま、光莉の部屋へと足を踏み入れる。

 一歩、リビングへの廊下を渡った瞬間、みずきは本能的な違和感に襲われてピタリと足を止めた。

 

(……え? なんか、この部屋……雰囲気が違う……?)

 

 何度も遊びに来た時とは、部屋の空気そのものが完全に別物へと変質していた。

 女の子の一人暮らしらしい生活感が消え失せ、まるで高級ホテルのように整然と片付けられすぎている。そして何より、みずきの優れた嗅覚が、部屋の空気に混ざり込んだ「異物」を鋭敏に察知した。

 甘く重い、高級な男物の香水の匂い。いや、それだけではない。嗅いでいるだけで下腹部がむず痒くなるような、明らかに「見知らぬ男の体臭」が、リビングのファブリックの奥深くにまで染み付いているのだ。

 みずきは無意識に鼻を小さく動かし、不快感に眉を寄せたが、光莉はトロンとした潤んだ瞳のまま微笑みかけてくる。

 

「みずきちゃん、飲み物は何がいい? いつものコーヒーにする?」

 

「……あ、ううん、お茶でいいよ。ありがとう」

 

 光莉がキッチンへ向かう間、みずきは吸い込まれるような恐怖を感じながら部屋を見回した。ローテーブルの横のサイドテーブルの上に、男物の無骨で大きめな黒いマグカップが、洗われることもなく無造作に置かれている。カップの縁には、誰かが口をつけたような乾いた跡が残っていた。

 

(……誰の……? 光莉ちゃん、ずっと一人暮らしのはずなのに。なんで、こんな男の人の影が……)

 

 親友のプライベートに、自分の知らない「男の存在」が完全に定着している。その現実に胸を抉られながら、みずきは逃げ出したい衝動を堪えてソファへと腰を下ろした。

 やがて、光莉がトレイに二つのグラスを載せて戻ってきた。グラスの氷がカランと涼しげな音を立てる。

 

「はい、どうぞ。……それでね、みずきちゃん。話したいことって何かな?」

 

 光莉がみずきのすぐ隣――肩が触れ合うほどの至近距離に腰を下ろし、優しく、けれど獲物を観察するようなねっとりとした視線で尋ねてきた。その距離は、親友同士の距離感としては近すぎる。光莉の身体からも、あの匂いがほんのりと漂ってきて、みずきの心臓の鼓動がさらに激しくなる。

みずきは、震える手で鞄からあの分厚い資料を取り出し、覚悟を決めてテーブルの上にバサリと広げた。強張った背筋を精一杯に伸ばし、裏返りそうになる声を必死に抑えて切り出した。

 

「光莉ちゃんにだけ、ちゃんと見てほしくて……。最近のルミナちゃんの配信をまとめたの。ここに、全部書いてある。だから、嘘つかないで、見てほしい」

 

 光莉は驚いたように小さく目を見開くと、広げられた資料を手に取り、ゆっくりとページをめくり始めた。

 

「え……嘘、こんなにたくさん、私のために記録してくれてたんだ。みずきちゃん、すごいね。私、自分の雰囲気がこんなに変わってるなんて、本当に、全然気づいてなかったよ……?」

 

 光莉はそう言って、哀れむように微笑む。みずきは光莉が配信中に不自然に腰を浮かせ、胸を自ら書き抱いていた日付の欄を、白くなった指先できつく指差しながら、声を張り上げた。

 

「気づいてないわけないよ……っ! この日の配信、ルミナちゃんの声、明らかに掠れて熱っぽくて、その、変なことをされてるみたいだった! コメントだって『最近エロくなった』って書き込みが急に増えてる! 光莉ちゃん、本当に何も心当たりがないの!? 私、すごく心配で……っ!」

 

 一気に捲し立てたみずきは、肩を激しく上下させて息を荒くした。

 そんな親友の必死の告白を受け止め、光莉は資料からゆっくりと顔を上げた。その瞳の奥には、ドロドロとした暗い熱が宿っていた。

 

「みずきちゃん……。ここまで真剣に、私のことだけを考えて調べてくれて、本当にありがとう。正直、びっくりしちゃった。……でもね、みずきちゃんがそんなに私のことを特別に思ってくれて、私、すっごく……『嬉しい』よ」

 

 光莉の声はどこまでも穏やかで、親しげだった。しかし、みずきにはその言葉の裏側で、光莉の「優しさ」と「この部屋の異常さ」が、完全に噛み合わずに不気味な火花を散らしているのが、はっきりと分かってしまった。

 

「光莉ちゃん……? 私、ただ心配だから聞いてるの。本当に、何も隠してない……?」

 

 光莉は少しだけ目を伏せ、妖艶に唇を湿らせながら、静かに重い息を吐き出した。

 

「隠し事なんて、親友のみずきちゃんにするわけないじゃない。でも、その前に……みずきちゃんがここまで私を求めてくれた気持ち、私、ちゃんと受け止めたいの」

 

 光莉はそう囁きながら、テーブルの上の資料を押さえていたみずきの手の上に、そっと自分の手のひらを重ねた。その手はいつもの親友の温もりだったはずなのに、重ねられた瞬間、みずきは電流が走ったように全身の毛穴を硬らせた。

 

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