境界線の向こう側 〜配信中の銀色の聖女を、俺だけが穢す〜 作:与次郎
光莉のマンションから命からがら逃げ帰ってきた夏川みずきは、自室の玄関ドアを閉めた瞬間、鍵をかける手さえガタガタと震わせていた。
カチャリ、と無機質な金属音が響く。その場にへたり込むように、彼女は冷たい壁に背中を預けたまま、ずるずると床にしゃがみ込んだ。
腕に抱え込んでいた資料の入った鞄が、床にドサリと力なく落ちる。
みずきは両手で自分の顔を覆い隠したが、指の隙間から漏れる吐息は、過呼吸の一歩手前のように激しく乱れていた。
「はあ……っ、はあ……、くっ……」
静まり返った自室は、いつもなら彼女にとって唯一の、誰にも侵されない聖域のはずだった。なのに、今夜の部屋は妙に広く、刺すように冷たい。
どれだけ激しく首を振っても、光莉の部屋で嗅がされた、あの甘く重い「見知らぬ男の香水」の不気味な残り香が、まだ鼻の奥の粘膜にべっとりとこびりついているような錯覚が消えなかった。
(あの部屋……。全部、私の気のせいだ、ただの思い込みだって言い張りたいのに。どうしても、あの匂いと……あの感触が、頭から離れてくれない……っ)
みずきは細い膝を胸元できつく抱え込み、必死に震えを止めようと肺の空気を吐き出した。
ジワジワと脳裏を侵食してくるのは、つい先ほどまで味わわされていた最悪の背徳感だ。
(光莉ちゃん……。大学の講義室で一緒にバカみたいに笑って、夜遅くまでルミナとひまりの配信の未来について熱く語り合って……。あの一番近くにいたはずの光莉ちゃんが、あんな風に笑うなんて……っ)
ぎゅっと目を閉じれば閉じるほど、光莉の部屋での出来事が信じられないほどの解像度で鮮明にフラッシュバックする。
心配を装いながら近づいてきた親友の笑顔。耳元を濡らした熱い息遣い。そして、何よりも――自分のスカートの裾を捲り上げ、薄いショーツの上から、最も敏感でなクリトリスを捏ね回してきた、あの容赦のない指の感触。
みずきは血が滲むほど強く唇を噛み締めた。目頭が急激に熱くなり、恥ずかしさと悔しさで涙が溢れそうになるのを、喉の奥を鳴らして必死に堪える。
(あの部屋に入った瞬間からずっと、背筋がゾクゾクして……目に見えない誰かが、特等席から私をじっと覗き見ているような気がしてならなかった。それが、最近の光莉ちゃんの異変と、完全に繋がっている気がして……頭が、頭がぐちゃぐちゃになる……っ!)
このまま座っていれば、恐怖で精神が完全に破綻してしまいそうだった。みずきはフラふらと幽霊のような足取りで立ち上がり、部屋の中をあてもなく歩き回った。
遮光カーテンの隙間から見える窓の外は、すでに漆黒の闇に包まれており、都会の無機質な街灯が冷たく明滅しているだけだ。
じわじわと這い上がってくる狂気から逃れるように、みずきは導かれるままパソコンの前に座り、電源ボタンを押し込んだ。
起動音とともに、液晶モニターが眩しい光を放ち、彼女の青白い顔を照らし出す。
「……配信、しよう。一人で、いつもの『陽ノ川ひまり』として……」
震える指でマウスを握り、配信管理ソフトを起動していく。
「ファンのみんなと、いつも通り楽しくおしゃべりして、笑って……。少しでも、気持ちを紛らわせないと……じゃないと、私……っ」
みずきはモニターに映るひまりのLive2Dモデルを見つめ、泣き出しそうな顔のまま、弱々しく口角を上げた。いつもの元気なアイドルの仮面を被れば、このおぞましい現実から一瞬でも切り離してもらえると信じたのだ。
だが、彼女の胸の奥深くでは、光莉の部屋で埋め込まれた違和感という名の「毒の種」が、すでに静かに、しかし確実に、漆黒の根を張り巡らせ始めていたのだった。
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配信ソフトの画面に浮かぶ、赤くて大きな「配信開始」のボタン。みずきは深く息を吐き、張り裂けそうな胸のざわつきを無理やり抑え込むと、マウスをカチリとクリックした。
その瞬間、彼女の顔には、まるで魔法をかけたかのような、一点の曇りもないいつもの「陽ノ川ひまり」の眩しい笑顔が貼り付けられた。
画面に「LIVE」の文字が点灯し、待機していた視聴者数のカウンターが、数百、数千、数万へと爆発的な勢いで跳ね上がっていく。
みずきはポップなデザインのマイクに向かって、お腹の底から精一杯の、ひまわりのように明るい声を響かせた。
「おっはよー! 太陽の光が、みんなに元気届けてるかなー? 今日もみんなの向日葵、陽ノ川ひまりが、画面の向こうの君に元気を100倍にしてお届けしにきたよーっ!」
一瞬で画面が文字で見えなくなるほど、超高速のコメントが濁流のように流れ始めた。
【ひまりちゃんおはよー!】【待ってたよおおお!】【今日も世界一可愛い!】【ゲリラ配信助かる、今日どんな話してくれるの?】
みずきは貼り付けた笑顔の口角を維持したまま、目まぐるしく流れるコメントを読み上げ、いつものトーンで答えていく。
「えへへ、みんな早速たくさん集まってくれてありがとう! 実はね、最近ちょっとだけお仕事とかが忙しくて疲れ気味だったんだけど……みんなの温かいお顔が、どうしても見たくなっちゃって配信しちゃいました! 今日はゆるっと、みんなとおしゃべりメインでいこうかなって思います!」
リスナーからのコメントが、ひまりの言葉に反応して次々と飛び込んでくる。
【夏といえば花火大会!】【ひまりちゃんの浴衣姿、想像しただけで気絶する】【そういえば最近、ルミナちゃんとコラボ配信したよね? あれ最高だった!】
――「ルミナ」という三文字が視界に飛び込んできた瞬間、みずきは心臓を直接掴まれたような、強烈なざわつきに襲われた。下着の奥の、さっき光莉に弄られた場所が、一瞬だけキュウと熱く縮こまる。
だが、彼女は卓越したプロ意識でそれを即座に隠し、ひたすら明るく声を張った。
「わあ、花火いいよね! 私も花火の音とか屋台の匂い、大好き! ……あ、そうそう、ルミナちゃんとのコラボね! うん、久々に二人で一緒に配信できて、私もすっごく……すっごく嬉しかったよ!」
コメント欄の加速が、二人の人気VTuberの話題によってさらにヒートアップしていく。
【ルミひま最強!】【あのコラボ、マジで神回だったわ】
画面の中のLive2Dモデルを大きく動かし、笑いながら両手を振るモーションを重ねた。
「みんな褒めすぎだよ~、照れちゃうじゃん! でもホント、ルミナちゃんの声って、隣にいるだけでとろけちゃいそうなほど癒されるよね。私も聞いてて、ずっと幸せだなぁって思ってました! みんなも、あのコラボ見てくれたかな?」
【っていうか、あの日のルミナちゃんの声、なんかいつもより色っぽくてエロくなかった?】【そうそう! ひまりちゃんもなんか、後半ちょっと声が色っぽくなっててドキドキしたんだけど……】
無邪気なリスナーたちが書き込んだそのコメントを目にした瞬間、みずきの笑顔が一瞬だけ、目立たないほど僅かにフリーズした。
脳裏に、あの密室の光景が、おぞましいリアリティを伴って蘇ってくる。
(……みんなのコメントでも、やっぱり『色っぽい』って……。あの配信の後、私も同じような、誰かに触られてるみたいな変な感覚に襲われて……)
みずきは背中にドッと冷や汗が吹き出すのを感じながらも、内心の激しい動揺を必死に押し殺し、大裟嗟な笑い声をマイクに吹き込んだ。
「えーっ!? 色っぽいって何それ、ひまりにそんな大人の魅力、あるわけないじゃん! 恥ずかしいよ~! 私はいつも通り、元気いっぱいのひまりだったと思うんだけどなぁ……みんなの目に、フィルターでもかかっちゃってるんじゃない?」
コメント欄はさらに盛り上がり、ひまりの健気な反応を楽しんでいる。
【ひまりちゃん今日も元気で安心した!】【ルミナちゃんとの裏話もっと聞きたい!】【ひまりちゃんの夏の思い出教えて!】
みずきは液晶画面を見つめ、笑顔の仮面を完璧に保ちながら、必死に視聴者との会話を繋いだ。視線の先で目まぐるしく踊る何千もの文字を追いかけながら、彼女は心の中で、自分を叱咤するように小さく呟き続けた。
(そう、みんなとこうしておしゃべりして、笑って……。少しでも、頭の中を空っぽにしないと……。私は、みんなの太陽なんだから……)
しかし、どれだけ笑顔を貼り付けようとも、水希の胸の奥底のざわつきは激しさを増す一方だった。