境界線の向こう側 〜配信中の銀色の聖女を、俺だけが穢す〜 作:与次郎
配信終了ボタンを押してから、まだ十分も経っていないというのに。
静まり返った暗い部屋の中、床に放り出されていたみずきのスマートフォンが、ブブブ、と重苦しい振動音を立てて激しく震えだした。
液晶画面に浮かび上がった発信者の名前を見て、彼女はビクンと身体を硬直させた。
【星野光莉】
みずきは跳ねる心臓を押さえ、まだ快楽の余韻で震える指先で通話ボタンをスライドさせた。
「……もしもし、光莉ちゃん……?」
『みずきちゃん、こんばんは。ソロ配信、本当にお疲れ様』
スピーカーから聞こえてくる光莉の声は、いつものようにどこまでも優しく、穏やかだった。
しかし、今のひまりの耳には、その完璧すぎる親友の優しさが、まるで逃げ道を塞ぐための冷たい真綿のように、ひどく重苦しく感じられた。
「うん……大丈夫だよ。光莉ちゃんも、私の配信……見てくれてたの?」
『もちろん、最初から最後までずっと見ていたよ。ひまりちゃん、今日もファンのために一生懸命で、本当に健気で可愛らしかったね……。……でもね、私、なんだかすっごく心配になっちゃって。だって、あんなに可愛いお口から何度も掠れた声を漏らして、腰をガクガク震わせていたんだもの。今、下の下着……私の指で触った時みたいに、また濡れちゃってるんじゃない……?』
みずきはスマホを握る手に、爪が白くなるほどの力を込めた。
光莉の言葉は、配信中の自分が「どこで、どんな風に乱れていたか」をあまりにも正確に、まるで間近で観察していたかのように突いてくる物言いに、胃の腑がせり上がるような感覚を覚えた。
「……正直、ちょっとだけ、調子が悪かったのかも。光莉ちゃんにまで、あんな……あんな変な声、聞かせちゃったなんて……っ」
すると、受話口の向こうで光莉が、フフ、と静かに、しかしどこか悦びを孕んだような柔らかい吐息を漏らして続けた。
『謝らないで、みずきちゃん。配信中、ひまりちゃんが快感に耐えるみたいに蕩けているのを見て、私、自分の身体まで熱くなっちゃったの。……ねえ、みずきちゃん。もしよかったら、明後日の夜、二人だけでゆっくり会えない? 今度は、私がみずきちゃんのお部屋に行ってあげる』
みずきは一瞬、喉が完全に詰まったように言葉を失った。
光莉の提案はごく自然で、親友としての純粋な気遣いに満ち溢れているように思えた。しかしその瞬間、光莉のマンションの部屋で、自分のスカートの中に侵入してきたあの冷たく淫らな指の感触が、脳内で最悪のフラッシュバックとなって蘇る。
「二人だけで……会うの? でも、光莉ちゃん、最近お仕事とか配信で忙しいんじゃ……」
『ふふ、私は全然大丈夫。今のひまりちゃんの顔を直接この目で見て、ちゃんと向き合って話したいの。配信では絶対に言えないような、私たちの『身体の秘密』の話も……お互いに、たくさんあると思うし……。ゆっくり、二人きりで……ね?』
みずきは自分の唇を、血が滲むほどきつく噛み締めた。肉体と魂の深層にある防衛本能が、これは罠だと、狂ったように警報を鳴らし続けている。
「……わかった。じゃあ、明後日の夜はどうかな……? 私の部屋で、いい?」
『うん、いいよ。みずきちゃんのお部屋、久しぶりだね。ふふ、すっごく楽しみにしてる。……何か、私の方で持って行った方がいいものってある? お菓子とか、お酒とか……それとも、もっと特別な、おもちゃ、とか……?』
最後の一言に混ざった不穏な響きに、みずきの心臓がドキンと跳ね上がった。けれど、それを恐怖の妄想だと必死に否定するように、掠れた声を絞り出す。
「何も、何もいらないよ……っ。光莉ちゃんが来てくれるだけで、それだけで十分だから……。ありがとう」
光莉の声が、甘く、ねっとりと脳髄を包み込むように響いた。
『おやすみ、私の可愛いみずきちゃん。明後日は、その身体の疼きも、私が全部ぜんぶ、優しく受け止めてあげるからね……』
「うん……おやすみ……、光莉ちゃん……」
プツリ、と通話が切れた後も、みずきはスマホを冷え切った胸に強く押し当てたまま、長い長い、絶望に満ちた息を吐き出した。
光莉のあの、すべてを見透かしているかのような優しい声が、いつまでも耳の奥でドロドロと粘ついて離れない。
(私は……また、あの部屋での恐ろしい出来事を全部なかったことにして、光莉ちゃんに会おうとしてる。今度は、私のこの部屋に、彼女を迎えて……)
みずきは涙の跡が残る顔のまま、這うようにしてベッドに横たわり、暗闇の中で天井を見つめた。
人一倍負けず嫌いだった彼女の芯は、配信中の直接的な肉体蹂躙と、唯一の親友の底知れぬ変貌によって、今や完全にへし折られていた。下着の冷たい不快感に耐えながら、夏川みずきはただ、自室という最後の牙城に「猟犬」を自ら招き入れてしまうことへの底知れない恐怖に震え、深い孤独と混乱の闇に、ただ一人で泣き崩れることしかできなかった。