境界線の向こう側 〜配信中の銀色の聖女を、俺だけが穢す〜 作:与次郎
嵐のような愛撫が去り、光莉が満足げな笑みを残して部屋を出て行った後。
夏川みずきは、玄関の重い鉄扉を閉めた姿勢のまま、しばらくそこから一歩も動くことができなかった。
カチャリ、と無機質な鍵の音が静寂に響く。彼女は背中をドアに預れたまま、ずるずると床に滑り落ちるようにして、その場にしゃがみ込んだ。
胸の奥が、どろどろとした熱を帯びたまま、引き裂かれるように痛い。
強く揉まれ、衣服と擦れ合うだけで痛むほどに敏感にされてしまった胸の感触。耳元で囁かれた、あのねっとりとした光莉の声。そして、太ももの内側を這い回り、ショーツの奥まで容赦なく熱を伝えてきた指の残像――それらすべてが、未だに生々しい嫌悪感とともに肉体にべっとりとこびりつき痕跡を残している。
だが、それ以上に彼女の脳髄に焼きついて離れないのは、漏れ聞こえた、あまりにも致命的な呟きだった。
(……零……)
みずきはぎゅっと目を閉じ、その名前を心の中で何度も、何度も繰り返した。そのたびに、胸の奥底からドス黒い怒りと、底なしの失望、自由を奪われる恐怖が、マグマのように一気に噴き上がってくる。
膝を抱える指先に、血の気が引いて白くなるほどの力がこもる。
親友として、相方として、何があっても支え合おうと誓ったすべての美しい記憶が、今は鋭利な刃物となって彼女の胸をズタズタに抉り倒していた。
「どうして……っ、どうしてなの、光莉ちゃん……。あなたは、私のことを……一体何だと思っているの……っ!」
みずきは唇を強く噛み締め、情けない嗚咽を堪えるようにして顔を完全に膝の間に埋めた。
光莉の部屋で感じた、あの不気味な男の香水の残り香。洗面台のマグカップ。配信での異様な痴態。そして今、自分の耳に残る「零さん」という明確な名前。バラバラだったすべての謎が、今、最悪の形で一つの確信へと繋がってしまった。
冷え切った部屋の空気が、今の彼女には異様なほど広く、孤独に感じられる。自分の場所だったはずなのに、もうどこにも安全なんてない。
(信じていたのに……。縋るように部屋に呼んだのに……っ。光莉ちゃんは、私を……あの『零』とかいう男に、生贄みたいに捧げようとしていたんだ……。私はただの、二人の愉悦のための玩具に過ぎなかったの……!?)
ローテーブルの上に置かれたままのスマートフォンが、静かに青白い光を放った。液晶画面に浮かび上がっているのは、今しがた出て行たばかりの【光莉】の名前。みずきは這うようにして手を伸ばし、その端末を親の仇のように強く、強く握りしめた。
(……完全に嫌いになれたら、どんなに楽だろう……。まだ頭のどこかで、あの優しかった頃の光莉ちゃんを探しちゃう……。だけど、もう、信じることなんてできない……。このまま彼女の言う通りにしていたら、私は本当に、あの男に肉全部めちゃくちゃに壊されてしまう……っ!)
親友の直接的な肉体蹂躙と底知れぬ変貌、そして「おもちゃにされている」という最悪の自覚によって、今や完全にへし折られていた。みずきはスマホを涙で濡れた胸元に強く抱きしめ、訪れる本当の破滅の足音に怯えながら、深い孤独の闇の中でただ一人、声を殺して泣き続けることしかできなかった。
――同じ頃、深夜の街を走るタクシーの車内。
星野光莉は、後部座席の暗がりに身を沈めながら、静かに自身のスマートフォンを耳に当てていた。
受話口の向こうから、天峰零の低く冷徹な声が響いてくる。
『光莉……。よくやった。モニター越しに観ていたが、みずきの心は、今の一件で完全に猜疑心と恐怖に支配され、激しく揺らいでいる。……肉体の馴染み方も完璧だ。次は、いよいよ最終段階だな』
光莉は恍惚とした笑みを浮かべ、自身の太ももをそっと愛撫しながら、陶酔しきった声で静かに答えた。
「……はい、零様。みずきちゃんの心……もう、私が直接触れて、零様の『境界潜航』を流し込んだだけで、ほとんど壊れかけています。彼女はまだ必死に抗おうとしていますけれど、あの身体は、もう零様の快感なしではいられないほど、開発されていますわ……。私、零様の望む通りに……次の配信で、みずきちゃんのすべてを、完全に零様のものにしてみせます」
受話口の向こうで、支配者・天峰零が、すべてを掌の上で転がすような満足げな冷笑を漏らした。
『いい子だ、光莉。お前と水希の関係が、完全に俺の、漆黒の色に染まりきるまで……その極上の崩壊を、存分に楽しませてもらうとしよう』
「――はい、零様……。私の、愛しい主……」
光莉は通話の切れたスマホを愛おしそうに胸に抱きしめ、妖艶に目を閉じた。
かつての親友を裏切っているという微かな罪悪感。それすらも凌駕する、零への狂信的な服従の悦び。そして、あの清純で負けず嫌いなみずきが、自分の手によって徹底的に屈服させられ、壊されていくことへの底知れないサディスティックな興奮が、堕ちた歌姫の胸の中で、静かに、しかし激しく燃え上がっていたのだった。