境界線の向こう側 〜配信中の銀色の聖女を、俺だけが穢す〜 作:与次郎
光莉が去った後の夏川みずきの部屋は、底深い夜の静けさに沈み返っていた。
みずきはベッドの端に力なく腰を下ろしたまま、細い両膝を胸元できつく抱え込み、虚ろな目でじっと床の一点を見つめていた。
部屋の照明は最小限のスタンドライトだけに落とされており、デスクの上で冷たく佇むPCモニターの、待機ランプの小さな赤い光だけが、暗闇の中でまるで血の滴りのようにぼんやりと瞬いている。
脳裏では、先ほどまでこの部屋で行われていた光莉との悍ましいやり取りが、最悪のフラッシュバックとなって何度も繰り返し蘇っていた。
光莉の、どこまでも優しく慈愛に満ちていたはずの笑顔。その光莉の身体から微かに漂っていた、見知らぬ男の香水の残り香。
いつの間にか淫らで退廃的な色に塗り替えられていた、かつての親友の姿――そして、みずきの肉体を揉みしだきながら、光莉の唇から無意識に漏れ出た「零さん」という、決定的な呟き。
みずきはきつく抱え込んだ膝に額を押しつけ、胸の奥に溜まった冷たい呼気をゆっくりと吐き出した。
服越しに強く指を突き立てられ、引っ張られた胸の先端が、未だに快感の熱を帯びて疼いている。
親友を失った失望、仕組まれていたことへの激しい怒り、あるいは自分の知らないところで蠢く巨大な闇への恐怖が、交互にどす黒い波となって彼女の精神を蹂躙していく。
(光莉ちゃん……。あんなに優しい笑顔で私を抱きしめて、私の涙を拭いながら……その裏では、あの『零』という男に、私の肉体も精神も、全部差し出そうとしていた……)
目をつぶれば、かつての光莉の顔が、楽しかった思い出とともに浮かんでは消える。
大学の講義室でくだらないことで一緒に笑い転げた日、夜遅くまでお互いの配信の未来について熱く語り合った夜、私の手を握って「みずきちゃんがいるから私、頑張れるよ」と言ってくれた、あの温かい言葉。
楽しかった思い出を振り返るほど、それらの輝かしい記憶のすべてが、今は最悪の凶器となって、みずきの心を痛いほど無慈悲に抉り倒していた。
(信じていたのに……なのに、二人で愉しむための玩具のように扱っていたんだ……!)
みずきは膝を抱える指先にギリギリと力を込め、指の関節が真っ白になるほど自らの身体を強く握りしめた。
激しい自嘲と惨めさが、胸の奥から込み上げてくる。
(本当に馬鹿みたい……全部、最初から意味なんてなかったんだ。光莉ちゃんは私の手の届かないところで、とっくにその男の手の中に堕ちていた。私は助けに行ってたんじゃない……ただ、次の獲物として、自ら罠に飛び込んだだけだったの……?)
自分がずっと過ごしてきた、部屋なのに。今日だけは、異様なほど広く、冷酷な密室のように彼女の孤立を際立たせる。
みずきはゆっくりと顔を上げ、涙で濡れた虚ろな瞳で、暗い部屋の中を力なく見回した。
(もう……どうすればいいの……?
何もかも全部捨てて、どこか遠くへ逃げる……?
……ダメ……まだ、光莉ちゃんのことを嫌いになりきれない……っ。でも、このまま彼女の言う通りにしていたら……私は、あの男に本当に、心も身体もぐずぐずに壊されてしまう……っ!)
絶望のどん底で、みずきが怯えるように肩を震わせた、その時だった。
ちり、と静まり返った部屋の中央の空間が、ガラスにヒビが入るような音を立てて微かに鳴った。
「――っ!?」
みずきは息を飲んだ。ハッと顔を上げ、目を見開いたまま、全身の肉体が恐怖でガチガチに硬縮する。
何もなかったはずの空間の空気が、急激にぐにゃりと歪み始めたのだ。
デスクの上のPCモニターが、激しいデジタルノイズを発して明滅し始める。それと完全にシンクロするように、歪んだ空間のただ中から、現実のものとは思えないほど鮮やかな、明るい金色とオレンジのグラデーションの光が溢れ出し、部屋の暗闇を強烈に侵食していった。
光は生き物のように激しくのたうち回りながら、徐々に、現実の質量を伴った「人の形」を成していく。
現実の部屋の空気を完全に無視して、明るい金色にオレンジのグラデーションが入った艶やかなロングヘアが、まるで毛先が太陽の炎そのものであるかのようにふわりと、熱量を持って揺らめいた。
輝く太陽そのもののような、爛々とした明るいオレンジ色の瞳。それは、みずきが最もよく知っている、笑うと星のようにキラキラと光るはずの、あの瞳だった。
白をベースに、鮮烈なオレンジと金のラインがあしらわれた、軽やかで動きやすいフレアスカートドレス――。衣服が擦れ合う現実の布の音が、確かにその場に鳴り響き、完全な実体となって現実の空間に降臨していく。
光の残滓が火花のように弾け、そこに毅然と立っていたのは――。
「ひまりちゃん……っ!?」
夏川みずき自身が魂を込め、画面の向こうで演じていたはずの、「太陽の天使」だった。
彼女のすべてであるはずのアバターが、モニターの枠を完全に踏み越え、みずきの現実の自室に、文字通り生身の肉体を持って現れたのだ。
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夏川みずきはベッドの最奥まで必死に身体を押しつけ、呼吸をすることすら忘れたように硬直していた。
本物の太陽の炎のようにふわりと、そして恐ろしいほどの熱量を持って揺れている髪。輝く太陽のような明るいオレンジ色の瞳が、いつも画面の向こうのリスナーに向けていたあの元気いっぱいの輝きで、今、まっすぐにみずきを射すくめていた。
ひまりはぱっと、ひまわりが咲いたような眩しい笑顔を輝かせ、みずきが怯えるベッドに向かって、現実の床をトントンと小気味よく鳴らして一歩踏み出した。
「みずきちゃん!」
その声は、生配信で何度もマイクを通して響かせていた、ひまりの明るく弾けるような美声そのものだった。
「あ、あっ……えっ……? うそ……っ」
その声はスピーカーから出力されたデジタル音などではない。今、この部屋の空気を震わせ、みずきの鼓膜をダイレクトに揺らしていた。
みずきは壁に背中がめり込むほど後ずさり、身を縮こまらせて、ガチガチと歯を鳴らしながら掠れた声を絞り出した。
「……どっ、どうして……っ? なんで……ひまりちゃんが……っ。あっ、あなたは……私の……アバターで、ただのデータで……現実に……存在するわけ……ないっ、ないでしょ……っ!」
狂った現実を否定しようと必死に叫ぶみずきに対し、ひまりはオレンジ色の瞳をキラキラと星のように輝かせ、小鳥のように答えた。
「えへへ、すっごくびっくりした? でもね、幻なんかじゃないんだよ! 零さんがこの世界に連れてきてくれたんだ! ずっと、ずーっとみずきちゃんに直接会いたくて……。お願いしたら、やっとこうして、現実の身体で会わせてくれたの!」
「零さん……? 光莉ちゃんが、さっき言ってた……零……っ?」
みずきはパニックで過呼吸になりそうな胸を押さえながら、震える声で尋ねた。
「ひまりちゃん……?……なっ、何が起きてるの……? 意味が、わからな……い……。疲れすぎて、変な夢を見てるんだよね……? お願い……夢だって……言ってよ……っ!」
すると、ひまりは「夢じゃないよ〜」と楽しそうに笑いながら、ベッドの端にぴょんと腰を下ろした。フレアスカートの布地が擦れる生々しい音が響き、みずきのすぐ隣のシーツが、彼女の肉体の質量によってぐにゃりと沈み込む。
そしてひまりは、躊躇なくみずきの震える両手を両側から包み込むようにして、自分の手を重ねた。
「ひゃうっ!?」
その瞬間に伝わってきた感触は、驚くほど温かく、柔らかく、ドクンドクンと力強い脈動が伝わってくる、紛れもない生身の女の子の肉体そのものだった。
「ほら、ね? 夢じゃないでしょ、みずきちゃん! 零さんがね、私にこの温かくて素敵な現実の身体をくれたの。みずきちゃんに、もっと近くで、もっといっぱい会いたかったから……。……ねえ、すっごく嬉しいでしょ?」
ひまりは太陽のような明るい笑顔のまま、みずきの細い指の間に自分の指をねっとりと滑り込ませ、恋人同士のように指を深く絡め合わせた。
その親しみやすい仕草や無邪気な表情は、みずき自身が設定し、演じていた「陽ノ川ひまり」そのものだったが、それが現実の質量として迫ってくる恐怖は、みずきの理性を粉々に粉砕するには十分すぎた。
「うっ、嬉しい、わけ……ない……っ」
みずきは全身の毛穴が総毛立つような悪寒に襲われながら、途切れ途切れの声を漏らした。
「……どうして……こんな現実がありえないことが……零って……一体、誰なのよ! ……怖いよ、ひまりちゃん……っ!」
みずきが涙をボロボロとこぼして拒絶しているというのに、ひまりは指を深く絡めたまま、いつも配信でリスナーのコメントを拾う時と同じように、元気よく小首を傾げた。しかし、その太陽のような笑顔の奥に、光莉が魅せていたあの男好みの、ドロドロとした淫らな雌の表情が、隠しきれずに混ざり込み始めていた。
「怖がることなんて、なーんにもないんだよ、みずきちゃん! 零さんはね、迷子になった私たちを、一番正しい場所へ導いてくれる、とってもとっても大切な人なの。光莉ちゃんも、大好きな零さんのために毎日すっごく頑張って、あんなにエッチで素敵な声が出せるようになったんだよ? 私だって……零さんのために、みずきちゃんを幸せにしにきたんだもん! ……だから、もっと、もっと近くで……ぎゅーってしたいな!」
ひまりはそう囁きながら、絡め合わせた指にギュッと超常的な力を込め、明るい笑顔のまま、みずきの華奢な身体を自分の方へと確実に引き寄せ始めた。
「私、みずきちゃんのことが世界で一番大好きだよ〜?」
みずきのオレンジ色の瞳から光が完全に消え去り、底なしの混乱と絶望の色が、ドロドロと広がっていくのだった。