※この作品はR-18です。

境界線の向こう側 〜配信中の銀色の聖女を、俺だけが穢す〜   作:与次郎

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56:怒れる天使の覚醒

 

 遮光カーテンの隙間から、冷ややかな朝の光が差し込む中、夏川みずきはベッドの上で弾かれるように上体を起こした。

 あの後、聖母のような歪んだ微笑みを浮かべた光莉が暗闇へ消え去り、そこから恐怖と肉体の疼きの限界のなかで、一睡もできぬまま迎えた朝だった。

 覚醒の拒絶を許さぬほど、昨夜この身に降りかかった悍ましい怪異のすべてが、最悪の鮮明さで脳裏に蘇ってくる。

 陽ノ川ひまりの、太陽のように無邪気な笑顔。突如として現実の密室に現れた自分のアバターに、逃げ場のないベッドの上で強く組み敷かれ、布越しに指先で執拗に秘部を抉られたあの感覚。そして、己の肉体が汚されていく屈辱と激しい快楽の波に脳を焼かれ、意識を失う直前――。

 

『全部……現実だよ、みずきちゃん。私みたいに、最高に幸せになれるから……ね?』

 

 みずきを優しく見下ろしていた光莉の、穏やかでありながら底冷えのするあの声が、今も鼓膜の奥にべっとりとこびりついて離れない。

 みずきは汗で額に張り付いた乱れた前髪を、荒々しくかき上げた。下半身を包むショーツに残る、カサついた不快な違和感。そして、シーツの中央に刻まれた薄い愛液の染みが、昨夜の出来事が夢や幻覚などではないことを、容赦のない「現実」として無言で突きつけていた。

 

「……光莉ちゃん」

 

 小さく呟いた声は、まだ恐怖の名残で微かに震えていた。

 誰よりも信頼し、お互いを支え合ってきたはずの親友が、自分が蹂躙されている現場で、カルトの狂信者のような目で自分を見つめていた。その裏切りの現実は、肉体的な陵辱以上に、みずきの胸の奥を鋭く、深く抉り倒していた。

 だが、現在の彼女の頭に、光莉の変貌以上に、どす黒い楔となって突き刺さっている名前があった。

 

 ――零

 

 ひまりが「現実の身体をくれた大切な人」と無邪気に口にした、その名前。光莉が「もう、零さんのものなの」と、誇らしげに、身を捧げていたその存在。

 みずきはパジャマの上から、自らの細い太ももを、爪が食い込むほどに強く握りしめた。指の関節が真っ白になり、肉体が悲鳴を上げるほどに、ギリギリと力を込める。

 

「零……。あんたが……全部の元凶なんだな」

 

 肉体に刻まれた恐怖の痺れは、まだ胸の奥深くにどす黒い根を張っている。しかし、それを強引に押し流すほどの激しい感情が、今、みずきの内側でマグマのように赤々と燃え上がっていた。

 ――激しい、怒り。

 そして、これまで配信の世界で幾多のライバルと戦い、人気を勝ち取ってきた、夏川みずき本来の「負けず嫌い」で頑固な本性が、絶望の底から猛然と疼き始めていたのだ。このまま怯えて、あの男の言う通りに身体を開き、光莉のように脳まで蕩かされた従順な玩具に成り下がるなんて、死んでも御免だった。

 

「光莉ちゃんを……あいつの手から、私のすべてを賭けて絶対に取り戻してやる。……そのためには、まず、あの裏で糸を引いてるあいつのを、引きずり出す」

 

 みずきは乱暴にベッドから這い出ると、下半身の汚れを洗い流すことももどかしいまま、デスクに向かって愛用のノートPCを開いた。大学の午前の講義に行くまでの時間は、まだ少しある。

 ただ怯えて泣くだけの時間はおしまいだ。今すぐ、できることのすべてを始めるつもりだった。

 

「絶対に、私の手でその化けの皮を暴いてみせる」

 

 液晶モニターの光に照らされたみずきのオレンジ色の瞳には――もはや怯えの涙ではなく、明確な敵を屠るための、烈々たる強い意志が宿っていた。

 

 

---

 

 

 お昼時の喧騒に包まれた大学のカフェテリア。その一番隅の、周囲から画面が見えにくい席で、夏川みずきはノートPCの画面に鋭い視線を張り付け、一心不乱にキーボードを叩いていた。

 午前中の講義など、完全に上の空だった。耳にはワイヤレスイヤホンを片方だけ深く差し込み、画面には光莉のアカウント――銀髪の聖女『ルミナ・ステラ』の、ここ一ヶ月分の配信アーカイブのソースファイルがずらりと並んでいる。

 

「……ここだ。ここもおかしい」

 

 みずきは周囲に気づかれないよう、低く掠れた声で呟いた。

 一般のリスナーが見れば、ただの「いつも通りの配信」にしか見えないだろう。しかし、同じVライバーとしてモーションキャプチャーや音声機材の調整を日常的に行っているみずきの目は、その映像の裏に隠された異常な違和感を、今ならはっきりと捉えることができた。

 画面の中のルミナの身体が、一瞬だけ、物理演算では説明のつかない不自然な動きを見せる。3Dモデルの『ボーン』の座標データを確認すると、特定の瞬間だけ、外部から直接制御信号を上書きされたかのように、腰や太ももの位置情報がミリ単位で歪んでいた。

 さらに、彼女が吐き出す音声の周波数帯を解析ツールにかけると、人間の耳には聞こえない超音波領域に、規則的な高周波のデジタルノイズがベッタリと混入している。

 

「声のわずかな掠れ……腰の微かな浮き沈み。これ、モーションアクターの光莉ちゃんの肉体に、何かおかしな信号が直接フィードバックされてるんだ……っ」

 

 みずきは奥歯を強く噛み締めた。配信中、光莉の肉体は、見えない何かに直接触られ、奥を抉られるような調教をリアルタイムで受けていたのだ。あの『零』という男の手によって。

 みずきはブラウザの画面を切り替え、匿名のアカウントを使用し、DiscordのVライバー・クリエイター用闇サーバーにログインした。ここには、V業界のシステム構築を請け負う凄腕のプログラマーやモデラーたちが集まっている。

 彼女はプライベートチャットを使い、ネットワークの知識が豊富な知り合いの技術者に、ダイレクトメッセージを投げた。

 

【みずき】

先輩、ちょっと聞きたいんだけど。配信中の3Dモデルの挙動に割り込んで、生身のアクターの体に直接ショックが走るようなカスタムプラグインって、今の技術であり得る?

あと、業界の裏で『零』って名乗る開発者の噂、聞いたことない?

 

 返信はすぐに数通返ってきた。

 

【技術者A】

ハハ、何それ、VRの未来技術? トラッキングの逆送出なんて今の市販機材じゃ不可能だよ。アクターのスーツに電流でも流す特注仕様なら別だけど、一般家庭の配信環境じゃ無理無理。

『零』? 聞いたことないな。有名どころのスタジオにもそんなハンドルネームの奴はいないよ。

 

【クリエイターB】

ルミナ・ステラの最近のアーカイブ? あー、あれはノイズっていうより、むしろ『吐息がエロくなってる』ってライバー間で評判だよ。

『零』って名前は心当たりないね。ただの熱狂的なファンの考察厨か何かじゃないの?

 

 みずきは苛立ちと焦燥感から、思わず自身の唇を強く噛み切った。

 

「誰も……誰も気づいてない……。光莉ちゃんが画面の向こうで、あんな男に肉体を玩具にされてるってのに……!」

 

 表の人間には、あれはただの配信の魅力向上にしか見えていないのだ。それこそが、あの『零』という男の隠蔽の完璧さだった。

 それでもみずきは諦めなかった。今度は、非公式プラグインの売買が噂される海外の匿名掲示板をいくつか開き、「仮想干渉」「境界接続」「触覚パケット」などの不穏なキーワードで検索を繰り返した。

 しかし、どれだけログを漁っても、零に繋がる直接的なデータは、まるで最初からこの世界に存在しないかのように、綺麗に消し去られていた。

 

「くそ……っ。ただの凄腕プログラマーってレベルじゃない。痕跡を消すどころか……デジタル空間のルールそのものを、あいつが書き換えてるみたいじゃない……っ」

 

 みずきは冷めきった缶コーヒーを一口すすった。喉を通る苦い味が、現在の自分の圧倒的な無力さを証明しているようで、たまらなく惨めだった。

 それでも、彼女の指はキーボードの上で踊り続けた。今度は光莉の配信データから抽出したデータのタイムスタンプを、異常が発生した瞬間ごとにミリ秒単位でリスト化し、プロットしていく。

 

「ここ……このタイミングで、あいつは光莉ちゃんの中に『指』を滑り込ませてたんだ……っ」

 

 ノートに書き込まれていく、おぞましい調教のタイムライン。みずきはマウスを握る手を小刻みに震わせながら、瞳にドス黒い怒りの炎を灯した。

 

 「光莉ちゃん……もう少しだけ待ってて」

 

 周囲の学生たちの笑い声が遠くで響く中、みずきはただ一人、見えざる蜘蛛が残した電子の足跡を、狂ったように追い続けていく。

 

 

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