境界線の向こう側 〜配信中の銀色の聖女を、俺だけが穢す〜 作:与次郎
夕暮れの空が橙色に染まり、街に夜の帳が下りようとする頃。夏川みずきは、光莉が暮らす高級マンションの、見慣れたはずのドアの前に立っていた。
何度も何度も深呼吸を繰り返しても、胸の奥で早鐘を打つ心臓の鼓動は一向に収まらない。肩にかけた鞄のストラップを握りしめる両手はべっとりと汗ばみ、指先が微かに震えていた。昨日まで自室のPCの前で、画面を血走らせながら「零」という怪物の正体を追っていた自分が、今、その元凶が待ち受けているかもしれない親友の部屋を直接訪れているという現実。それが、冷たい恐怖とともに異様な現実味を帯びて迫ってくる。
「……行くよ。ここで引いたら、私は一生自分を許せない」
小さく、自分を鼓舞するように呟き、みずきは意を決してインターホンのボタンを押し込んだ。
軽い音が静かに響き、間を置かずにドアが開いた。そこには、いつもと変わらない、あの柔らかく清楚な笑顔を浮かべた星野光莉が立っていた。
「みずきちゃん! 来てくれてありがとう。 さあ、入って入って」
光莉の声は優しく、おっとりとしていて、以前と何一つ変わらない「大好きな親友」そのものだった。しかし、みずきが緊張で身体を硬くしながら玄関に一歩足を踏み入れた瞬間、その表情がピキリと凍りついた。
――違う。明らかに、この空間の何かが、根本から狂っている。
女の子らしい柔軟剤やアロマの清潔な匂いは、綺麗さっぱり消し飛んでいた。代わりにみずきの鼻腔を突いたのは、男物の重く甘い香水の匂いと、それに混じるかすかな加熱式タバコの残り香。玄関の三和土には、光莉の華奢なパンプスに並ぶようにして、みずきが見たこともない海外高級ブランドの、サイズの大きな男物の革靴が無造作に揃えて置かれていた。
みずきは無言のまま、導かれるようにリビングへと進んだ。視界に入るすべての光景が、彼女の喉を急速に干からびかせていく。
お洒落なローテーブルの上には、無骨な大きめのマグカップが二つ。リビングの白いソファには、男物の大きめの黒いワイシャツが、まるで自分の縄張りを主張するようにクシャリと放り出されている。
それだけではない。ルミナ・ステラの配信環境である防音室のドアが半開きになっており、その中に鎮座するゲーミングチェアの背もたれには――光莉が普段穿いているはずの、薄ピンク色のレースのショーツが、みっともなく脱ぎ捨てられたまま引っ掛かっていた。
(もう……隠す気すらないんだわ。ここは光莉ちゃんの部屋じゃない……完全に、あの男にマーキングされてる……っ)
聖域が完全に「零」の存在によって汚され、支配されているという圧倒的な生理的嫌悪感。光莉はそんなみずきの硬直をすべて分かっていながら、昔と変わらない聖女のような微笑みを崩さずに背後から見つめていた。
「どうしたの、みずきちゃん? 突っ立ったままで。顔色がすごく悪いよ? とりあえずソファに座って。今、体にいいハーブティーを用意するからね」
光莉がトントンと軽い足取りでキッチンへと向かう後ろ姿を見ながら、みずきはスカートの脇で、爪が肉に食い込むほど拳を強く握りしめた。胸の奥で、恐怖と激しい怒りがぐちゃぐちゃに混じり合って火花を散らす。
ここに来るまでは、データがどれだけ黒くても、「まだ光莉ちゃんは騙されているだけかもしれない」という淡い希望を捨てきれずにいたのだ。しかし、この部屋に満ちる淫らで重苦しい空気は、みずきのそんな儚い希望を容赦なく踏み潰して粉々に砕いていた。
「光莉ちゃん……」
みずきは低く、しかしこれまでにないほど冷たく引き締まった声で、キッチンへ呼びかけた。カップを棚から取り出そうとしていた光莉が、ゆっくりと振り返る。相変わらず、非の打ち所がないほど穏やかな笑顔だった。
「ん? どうしたのみずきちゃん。お砂糖、入れた方がいい?」
みずきは光莉のその底の知れない視線を真正面から強い意志で受け止め、核心を突きつけた。
「零って……誰?」
その瞬間、リビングの空気がパキリと音を立てて凍りついたように張りつめた。光莉は少しだけ首を傾げ、その美しい瞳をすうっと細めた。それでも、優しい表情の表面だけは、不気味なほど一切崩さずにみずきを見つめ返してくる。
「ふふ、急にどうしたの? 怖い顔して。とりあえず座ろうよ、ね? ゆっくりお話ししよう」
「もう、演技はやめて、光莉ちゃん」
みずきは一歩、キッチンに向かって足を踏み出し、自らの怒りを言葉に乗せて叩きつけた。
「私は全部、調べて知ってる。あいつが光莉ちゃんを、私のひまりちゃんを、裏でどうやって操ってるのか……全部知った上で、ここに来たのよ」
光莉の瞳の奥に、これまでのみずきとの人生で一度も見せたことのない、ぞっとするほど冷酷で、そして淫らに濁った光が、一瞬だけ、確かに過ぎ去った。
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光莉はキッチンから、琥珀色のハーブティーが注がれた二つのグラスを持ってリビングへと戻ってきた。何事もなかったかのようにいつもの柔らかい笑顔を浮かべ、ローテーブルを挟んで、みずきの真向かいのソファに音もなく腰を下ろす。
「零さんって……誰? って、急にどうしたの? そんなに怖い顔をして」
光莉の声はどこまでも穏やかだった。まるで、精神的に追い詰められている大好きな親友を、心から気遣っている聖女そのものの佇まい。だが、みずきはその綺麗に整えられた仮面のような笑顔を真正面から強い視線で見据え、逃げ場を塞ぐように声を低く抑えた。
「もう、演技はやめて。私は全部、知ってる」
光莉は困ったように優しく目を細めた。
「全部って……何のこと? みずきちゃん、最近本当に疲れてるみたい。何か悩み事があるなら、私に話して。親友だもん、ちゃんと何でも聞くよ?」
その、どこまでも白々しい「親友」としての優しい言葉が、逆にみずきの胸の奥を激しくざわつかせ、どす黒い不快感で満たしていく。みずきはスカートの上で拳を強く握りしめ、覚悟を決めて告発の言葉を紡いだ。
「ひまりちゃんが私の部屋に現れたの。質量を持って、実体みたいに、私の身体に触れて……私を組み敷いた。そして、あなたの口からも出た『零さん』って名前を口にしたわ。光莉ちゃん……あなたも、ルミナのシステムを媒介にして、あの男に、零に……何かされてるよね?」
みずきがそこまで一気に捲し立てると、光莉は持っていたグラスをテーブルにコト、と静かに置いた。そして、前髪の隙間からじっとみずきを見つめてくる。その瞳には、いつもの清楚な優しさの奥に、言葉では言い表せないほど冷たく、そしてドロドロに濁った恍惚の光が混じり合っていた。
「……ふふ。みずきちゃん、意外と頑張って調べてくれたんだね」
光莉の声のトーンが、わずかに変質した。表面上の優しさは保たれたままなのに、どこか脳を直接撫でられているかのような、甘く、ねっとりとした淫らな響きが加わっている。
「答えてよ、光莉ちゃん! 零って……誰なの!? あんたを、私のひまりちゃんを、こんな化け物みたいにしたのは、あいつなんだろう!?」
光莉は小さく、愛おしそうに息を吐き、ゆっくりと至福の微笑みを浮かべた。
「零さんはね……この世界で一番、とても優しい人よ。私に、本当の気持ちを教えてくれたの。ルミナ・ステラっていう、みんなが作った綺麗な『偶像』の檻に閉じ込められていた私を、あの方の底知れないほど大きくて深い愛で、内側から優しく解放してくださったんだよ……」
みずきは一瞬、耳を疑い、息を飲んだ。かつて誰よりも清楚で、ファンのために健気に努力していたあの星野光莉の口から、そんな狂信的で、生々しい肉欲を肯定するような言葉が出るとは思わなかった。
「光莉ちゃん、目を覚まして! あなた、その零って男に、精神的にも操られてるんじゃないの!?」
みずきが訴えかけると、光莉はソファから静かに身を乗り出し、机を挟んで、みずきの震える両手を優しく自分の両手で包み込んだ。その光莉の指先は驚くほど温かかったが、同時に、決して逃がさないという蛇のような冷たい圧力を感じさせた。
「操られてる……? ふふ、違うよ、みずきちゃん。私はね、零さんのことを、心から、魂の底から愛してるの。私のこの肉体も、心も、全部、全部あの方のもの。あの方の玩具でいられることが、今の私の最高の幸せなんだよ?」
その言葉は、まるで初恋を語る純真な少女のように穏やかで、瑞々しかった。しかし、その語られる内容は、みずきの胸を鋭く抉り倒し、目の前の親友が完全に手遅れなほどに「書き換えられてしまっている」という絶望的な事実を突きつけていた。みずきはあまりの恐ろしさに手を引き抜こうとした。だが、光莉の細い指は、信じられないほどの力でみずきの手首をがっちりと握りしめ、微笑んだまま決して離そうとしない。
「みずきちゃん……あなたも、きっとすぐにわかるよ。零さんの優しさ……その深さを。あの方の手が頭の中に直接入ってきて、開発されるあの本当の救済を……ね?」
みずきは唇を強く噛み切り、血の味を口内に広げながら、必死に拒絶の声を絞り出した。
「……信じられない。零に、あの男に、何か悍ましいことをされて、頭まで壊されてるんだ……っ!」
それでも光莉は、ただ、慈愛に満ちた聖母のような歪んだ微笑みを浮かべたままであった。