薄暗い基地の通路を、シンはあてもなく歩いていた。クレタ沖での激戦、そして自分が恩人であるトダカ一佐を討ってしまったかもしれないという、胸の奥の消えないざわつき。そんな擦り切れた心を癒やしてくれるのは、医務室のベッドで眠るあの無垢な少女の存在だけだった。
「ステラ……」
彼女の様子を見ようと、シンが医務室の重い扉に手をかけた、その時だった。
中から漏れ聞こえてきたのは、タリア艦長と軍医の、重苦しく、そして冷徹な会話だった。
「……それで、あの少女の容態はどうなの?」
「ハッキリ言って、絶望的です。彼女の体内にある特殊な薬物の分泌異常、そしてナノマシーンの崩壊速度が速すぎる。我が艦の設備では、これ以上の延命は不可能です。……このままでは、彼女は遠からず死にます」
「そんな……」
タリアの痛ましげな声が響く。だが、軍医の言葉はさらに酷な現実を突きつけた。
「仮に、本国の最高設備に送って奇跡的に一命を取り留めたとしても……彼女は地球連合の『生体CPU』、つまり最重要機密のサンプルです。プラントの上層部に引き渡されれば、待っているのはただ一つ。……一生、死ぬまで研究室のモルモットとして、実験体扱いにされるだけです」
「……っ!」
扉のすぐ外で、シンは雷に打たれたように愕然と立ち尽くした。
頭の中が真っ白になる。助からない。助かっても、プラントで実験体にされる。あの優しかったハイネのように消えていくか、あるいはリンがかつて命懸けで逃げ出したという、あの悍ましい研究所の地獄へステラを突き落とすことになるのか。
(そんなこと……そんなこと、絶対に許せるかよ……!)
ステラを救う道は、もう一つしかなかった。彼女の身体を完全に熟知し、あの発作を抑える専用の薬物と設備を持っている場所。それは、彼女を兵器に仕立て上げた、ネオ・ロアノークのいる地球連合軍の手元だけだ。
「敵に、返すっていうのか……? ステラを……あんな奴らのところに……っ!」
激しい葛藤に拳を血が滲むほど握りしめるシン。だが、迷っている時間などなかった。ステラの命の灯火は、今この瞬間も消えかけているのだ。
「……何をしている、シン」
背後から突然かけられた声に、シンはビクリと肩を揺らした。振り返ると、そこには感情の読めない瞳で佇むレイがいた。
「レ、レイ……。俺、俺は……っ」
シンは必死に声を押し殺しながら、今聞いたばかりの事実を、そして自分のやろうとしている『軍規違反』の暴挙を、狂ったようにレイに訴えかけた。裏切り者として撃たれても構わない、そう覚悟して。
だが、レイの反応はシンの予想を裏切るものだった。
「……分かった。お前の言う通り、このままではその少女は死ぬ。そして、プラントへ送ることも、俺はおすすめしない」
「レイ……? じゃあ……!」
「手を貸そう、シン。俺が監視カメラの記録を書き換える。お前は今のうちに彼女を連れ出せ」
「いいのかよ!? こんなこと、見つかったらお前だって……!」
「お前は、その不条理な世界をぶち壊したいんだろう? だったら、今目の前にある命一つ救えなくて何ができる」
レイの冷たくも確かな後押しに、シンは強く頷いた。
レイが鮮やかに医務室周辺のセキュリティをハッキングする隙を突き、シンはベッドからステラをそっと抱き上げた。驚くほどに軽い身体。熱に浮かされ、うわ言で「シン……」と呟く少女を強く抱きしめ、シンはミネルバの格納庫へと走った。
深夜の闇に紛れ、シンはステラをインパルスのコックピットへと運び込む。
機体を密かに発進させると、シンはラボの戦闘で鹵獲していたガイアガンダムの識別コードをインパルスの通信回路に強引に割り込ませ、地球軍の暗号周波数へとアクセスを試みた。
「聞こえるか……! 地球軍、ネオ・ロアノーク! 聞こえているなら、俺の言葉に応答しろ!!」
ノイズの向こう側に向けて、シンは必死に叫び続ける。
「お前たちの『生体CPU』……ステラ・ルーシェは、今俺のところにいる! あいつは、死にそうなんだよ! あいつを助けたいなら、今すぐ俺の指定する座標へ、一人で来い……ッ!!」
狂気とも言えるシンの決死の通信。それが、ユーラシアの闇を駆けるネオの乗るウィンダムの受信機を、確かに捉えていた――。薄暗い夜明けの光が、静かに波打つ海岸線を紫色に染めていた。
波の音だけが響く砂浜に、地響きを立てて着地したインパルスガンダム。その少し離れた場所に、地球連合軍の漆黒のウィンダムが静かに降り立つ。
コックピットからステラを優しく抱きかかえ、砂浜へと降りていくシン。向こうからは、特徴的な仮面をつけた男――ネオ・ロアノークが、警戒を怠らない足取りで歩み寄ってきた。
「本当に、一人で来たんだな……」
シンはステラをそっと砂浜に座らせ、ネオの前に立ちはだかるようにして睨みつけた。
「そりゃあね。可愛い部下の命がかかっているんだ、無茶な条件でも飲むさ。……それで、ステラは?」
ネオの声はいつもの軽薄さを装っていたが、その視線はシンの後ろで力なく座り込んでいる少女へと向けられていた。
シンは一歩も引かず、ネオの胸元を掴みかからんばかりの勢いで叫んだ。
「あんたがネオだな! ……約束しろ! この子を、ステラを、二度とあんな悍ましい実験施設に入れないって! 二度と、モビルスーツになんか乗せて、戦場に近づけないって……俺に約束しろ!!」
シンの悲痛な叫びが、夜明けの海風に掻き消されていく。
ネオは仮面の奥の瞳を少しだけ見開き、シンの剥き出しの怒りと、それ以上に深い『願い』を受け止めた。彼は小さくため息をつくと、優しく、だけど確かなトーンで応えた。
「……分かったよ。約束する。これでも俺は、あの子たちの『隊長』だからね。ここへ連れ帰って、ちゃんとした設備で治療を受けさせる。戦いなんて、もう二度とさせやしないさ」
「本当だな……。もし破ったら、俺はあんたを、地球軍を、絶対に許さないからな……!」
シンはゆっくりと身を引き、ステラの前へと膝をついた。
ステラは、ぼんやりとした大きな瞳で、目の前にいるシンを見つめている。薬のせいで記憶が混濁しているのか、その表情にはまだ幼い怯えが残っていた。
「ステラ……」
シンはポケットから、小さなガラスの小瓶を取り出した。中には、あのディオキアの海岸で一緒に拾った、透き通るような綺麗な貝殻が入っている。
それをステラの小さな手にそっと握らせた。
「これ……あげる。持っていって」
「これ……きれい……。ステラ、これ、しってる……?」
ステラは不思議そうに小瓶を見つめ、それからシンを見上げた。
「……俺のこと、忘れちゃダメだ。いいかい、ステラ。俺はシンだ。シン・アスカ。……俺を、忘れないで」
「しん……? しん、まもる……?」
「ああ。俺が、ずっとステラを守るから。だから……元気でな」
それが、シンにできる限界の嘘であり、最高の願いだった。これ以上ここにいれば、本当に軍に連れ戻せなくなってしまう。ステラの命を救うためには、今この手を離さなければならない。
シンは無理やり立ち上がると、ネオに向けて短く言った。
「……頼む」
「ああ、任せな」
ネオはステラを優しく抱き起こし、ウィンダムの方へと歩き出す。ステラはネオの腕に抱かれながらも、ずっと小瓶を胸に抱きしめ、去っていくシンの背中を見つめていた。
「しん……? しん、どこいくの……? しん……っ!」
後ろから聞こえるステラの弱々しい声を背中で受けながら、シンは一度も振り返ることなく、インパルスのタラップを駆け上がった。
コックピットのハッチが閉まった瞬間、緊張の糸が切れたように、シンの目から大粒の涙が溢れ出した。
「うっ……、うああぁぁ……っ!!」
乱暴に袖で涙を拭っても、拭っても、次から次へと溢れて止まらない。
自分の無力さが悔しかった。あんなに『守る』と約束したのに、結局は敵の手に委ねることでしか、彼女の命を繋ぎ止めることができなかった。
「ステラ……、ステラァァーーッ!!」
夜明けの紫色の空へ向かって、インパルスは激しい爆音を響かせながら急上昇していく。あふれ出る涙で歪む視界の向こう、砂浜に取り残された一筋の足跡と、静かに遠ざかっていく地球軍の機体を見下ろしながら、シンはコックピットの中で激しく泣き続けた――。