「お疲れ様です、リン少佐!」「さすがロンド・ベルの切り札だ、あの化け物を仕留めちまうなんてな!」
アークエンジェルのMSデッキに帰還したナラティブガンダムB装備から降り立ったリンを、整備員や集まったオーブ軍の有志たちが割れんばかりの歓声と拍手で迎えた。多くの命を救った英雄に対する、心からの賛辞。
しかし、コックピットから這い出てきたリンの耳に、その声は一切届いていなかった。
「あ……、あ、う……」
ヘルメットを脱いだ彼女の顔は、幽霊のように真っ白だった。ガタガタと全身が自らの意志とは関係なく激しく震え、膝が笑ってまともに歩くこともできない。歓声を上げる人々の間を、何かに 怯えるように視線を泳がせながら、這う失意のままにすり抜けていく。
(違う……私は、みんなを守るために……あの子を……でも、あの中にいたのは……ステラ、だった……)
あの子は、あの地獄のような研究所で、自分と一緒に怯えていた子供たちの成れの果てだった。ガンダムという存在に怯え、泣いていたただの女の子だった。それを、自分のこの手が、ナラティブのビームサーベルが、命を繋ぐ駆動ブロックごと焼き切ってしまったのだ。
「うっ……!」
湧き上がる強烈な吐き気に襲われ、リンは自分の個室へ逃げ込むように飛び込むと、鍵をかけ、そのまま洗面台へと崩れ落ちた。
「オェェェッ……! げほっ、う、あぁぁ……ッ!」
胃の中から苦い胆汁しか出なくなるまで、何度も、何度も激しく吐き続けた。
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、鏡に映る自分の顔を見る。
「私が……殺した……。助けるって、言ったのに……死なせないって、決めたのに……ッ!」
リンは自分の両手を目の前に掲げた。その掌が、まるでステラの血で真っ赤に染まっているかのように見えて、猛烈な恐怖が彼女を襲った。
(怖い……。何、これ……?)
今までだって、戦場で引き金を引いてきた。ロンド・ベルの兵士として、敵のモビルスーツを撃ち落とし、その中にいるパイロットの命を奪ってきたはずだった。それなのに、なぜ今になって、こんなにも引き金を引くことが、モビルスーツに乗ることが、人を撃つことが怖いのか。
ニュータイプとして目覚めかけた能力が、サイコフレームが、奪った命の重みとステラの絶叫を、あまりにも生々しく彼女の脳に刻みつけてしまったからだ。一人生き残ってしまったという罪悪感と、かつての同胞を手にかけた後悔が、リンの心を完膚なきまでに叩き割っていた。
「あ、頭が、割れる……。嫌だ、思い出したくない……あの子の、顔……声……っ!」
パニックを起こしそうになる呼吸の中、リンは震える手で私物の救急キットを漁り、奥に隠していた強い向精神薬のシートを引っ張り出した。
通常なら一錠で十分なはずの強力な精神安定剤。それを、リンは狂ったように指先で押し出し、何錠も、何錠も手のひらに乗せた。
「あは、は……これがあれば……消えるから……」
水も飲まずに、何錠もの薬(OD錠)を無理やり喉の奥へと流し込む。
カガリたちのケアや、マリューがムウ(ネオ)のことで動揺しているアークエンジェルの艦内は、今どこもかしこも大混乱の渦中にあった。誰も、この部屋で限界を迎えているリンの元を訪れる余裕などない。それが今のリンにとっては、唯一の救いだった。
冷たい床に背中を預けて座り込む。
しばらくすると、過剰に摂取した薬物が血流に乗り、激しく脈打っていた脳の神経を強制的に麻痺させ始めた。
「……あ……」
視界がぐにゃりと歪み、天井のライトがいくつもの光の輪になって解けていく。
激しい頭痛も、胸を切り裂くような後悔も、ステラの最後の悲鳴も、すべてが白いモヤの向こう側へと遠ざかっていく。
頭が、ふわふわとする。
体から感覚が失われ、まるで宇宙の真っ暗な虚空に一人で浮いているかのような心地よさ。意識の糸は辛うじて保たれているものの、それはもう正常な人間の思考ではなかった。ただ、現実の恐怖から逃げるためだけに、リンは薬の霧に包まれながら、薄暗い部屋の中で一人、虚ろな目を虚空へと向け続けていた――。薬がもたらす強制的な酩酊感のなかにあっても、リンの脳は完全に休むことを許さなかった。
意識の底に沈み込んでいく彼女を待っていたのは、冷たくて、逃げ場のないどす黒い悪夢だった。
――視界が真っ赤に染まっている。
爆音が鼓膜を震わせ、目の前でアークエンジェルが、ロンド・ベルの仲間たちが、キラやカガリ、マリューが、肉片と鉄の屑になって吹き飛んでいく。自分が伸ばした手はあと一歩のところで届かない。
『お前のせいだ、リン』
死んでいった仲間たちが、血の涙を流しながら自分を睨みつけている。
場面は唐突に切り替わり、今度は見知らぬ街の雑踏。ナラティブガンダムのコックピットにいるリンは、なぜか狂ったように引き金を引き続けていた。悲鳴を上げて逃げ惑う、名前も知らない無関係な一般の人々。それを、自分の意志とは無関係に、深紅に輝くサイコフレームが次々と焼き尽くし、圧殺していく。
『人殺し! 化け物!!』
「いや……! やめて、私は……私はッ!!」
「――っ、はぁ、はぁ、はぁっ!!」
自分の悲鳴で、リンは跳ね起きるように目を覚ました。
全身が冷や汗でびっしょりと濡れ、シーツを掴む指先がガタガタと震えている。薬の効果で頭はまだ鉛のように重く、ふわふわとした感覚が残っているのに、夢の恐怖だけが鮮明に脳裏にこびりついて離れない。
「夢……、また、夢……っ」
喉がカラカラに乾いていた。胃の中は完全に空っぽのはずなのに、喉の奥から酸っぱいものがせり上がってくる。リンは震える手で床を這い、デスクの引き出しから辛うじて掴み取ったエネルギーゼリーのパックを、縋るようにして口に押し込んだ。
生きるためではない。ただ、この喉の渇きと、胸の奥の不快感を何かで塗りつぶしたかった。
ゴブ、ゴブ、と冷たいゼリーが喉を通り、胃に落ちていく。その冷たさに、少しだけ張り詰めていた神経が落ち着きを取り戻すかのように思えた。
「……大丈夫。私は、まだ生きてる。ここは、私の部屋……」
ゼリーのパックを床に落とし、自分の膝を抱きしめて深く息を吐き出そうとした、その直後だった。
「――うっ!?」
急激に押し寄せてきた強烈な拒絶反応。胃に入った冷たい塊を、身体が「異物」として完全に拒絶した。
リンは慌てて口を抑え、再び洗面台へと転がり込む。
「げほっ、オェェェッ……! ごほっ、うあ、ぁ……っ!」
先ほど流し込んだばかりのゼリーが、容赦なくすべて吐き出された。それだけでなく、もう何も残っていない胃が激しく痙攣し、胃液と血の混じった苦い液体が口の中に広がる。洗面台の白い陶器に、ぽつぽつと赤い斑点が散った。
涙で視界がボロボロに歪む。
どれだけ薬で頭を誤魔化しても、どれだけ落ち着こうとしても、身体が、魂が、ステラを殺したという事実を拒絶し続けている。
「うう……、あぁ……っ……」
リンは洗面台の縁にしがみついたまま、声を殺して咽び泣いた。
かつて戦場を駆けた誇り高きエースパイロットの姿は、そこには影も形もなかった。ただ、自らの引き金がもたらした命の重さに押し潰され、恐怖と後悔の泥沼の中で、孤独に震え続ける一人の少女がいるだけだった――。「……よし」
洗面台の鏡に映る、ボロボロの自分に冷水を叩きつける。
リンは震える手でリップを塗り、血色の消えた唇をごまかした。深呼吸を何度も繰り返し、脳内の薬の霞を無理やり心の奥底へと押し込める。
(いつまでもここに引きこもっているわけにはいかない。私は……ロンド・ベルの指揮官なんだから)
部屋の鍵を開け、一歩通路へ踏み出した瞬間、リンの顔にはいつもの「頼れるエースパイロット」の笑顔が張り付いていた。完璧な、偽りの笑顔と、毅然とした感情の仮面。
ブリーフィングルームの重い扉を開けると、中にはマリュー、キラ、カガリ、そしてオーブ軍のアマギたちが、重苦しい空気の中でモニターを囲んでいた。
「遅れてごめんなさい。ナラティブの初期データチェックに手間取っちゃって。……で、状況はどう?」
リンは努めて明るい、いつもの少しからかうような口調で輪に加わった。
「リン……。体は大丈夫なの?」
マリューが心配そうに視線を向けるが、リンは「これくらい、強化人間の頑丈さを舐めないでほしいわね」と、おどけて肩をすくめてみせる。
会議の内容は、ベルリン戦の被害状況と、これからの作戦行動、そして――撃墜された連合の指揮官、ネオ・ロアノークについてだった。
「……間違いないわ。あの機体に乗っていた男の素顔を、この目で見たの。……ムウ、ムウ・ラ・フラガだったわ」
マリューの声は震えていた。かつてアークエンジェルを、そしてマリューを守って宇宙に散ったはずの英雄。
「でも、彼は私たちのことを何も覚えていないようだった。地球軍の、記憶操作か何かで……」
カガリが悔しそうに拳を握りしめる。ネオについての話が飛び交う中、リンは「記憶の書き換えなんて、連合の十八番(おはこ)よ。珍しくもないわ」と、冷徹な分析を口にしながら、完璧に作戦会議の役割をこなしていた。
だが、その隣で。
キラだけは、言葉を発するリンの姿に、奇妙な違和感を覚えていた。
(……リン?)
キラの視線の先で、リンは確かにいつも通りに笑い、的確に意見を述べている。
けれど、時折モニターの光に照らされる彼の手元が、ほんのわずかに、痙攣するように震えているように見えた。その笑顔の奥にある瞳が、不自然なほどに虚ろで、どこか遠くを見つめているような……。
「リン、あの……」
キラは思わず、声をかけようと一歩踏み出した。
「顔色が、少し悪いみたいだけど……本当に大丈夫? 無理してない?」
その言葉に、リンは一瞬だけピクリと身体をこわばらせた。だが、すぐにキラの方を振り向くと、いたずらっぽく綺麗に微笑んでみせた。
「なによキラ、私が見惚れるほど美人だからって、そんなに凝視しないでくれる? 緊張しちゃうじゃない」
「えっ!? あ、いや、そういうわけじゃ……!」
予想外の返しに、キラは一瞬で顔を赤くしてうろたえた。
「冗談よ。ちょっとベルリンの煙を吸いすぎただけ。天才スーパーコーディネイター様でも、女の子の顔色の変化には敏感なんだね?」
クスクスと笑うリンの表情には、一点の曇りもないように見えた。
(……なんだ、僕の気のせいか。あの激戦の後だ、疲れているのはみんな同じだよね。リンがそんなに弱いはずがないし……)
キラは自分の胸のざわつきを、「気の所為」だと思い込ませ、それ以上追及するのをやめてしまった。
すぐ隣にいる仲間すら騙し通せたことに、仮面の裏側で、リンは冷や汗が背中を伝うのを感じていた。頭の芯は、過剰摂取した薬のせいで、今もぐにゃぐにゃと不気味にふわついたままだというのに。誰も自分の本当の悲鳴に気づかない安堵と、底知れない孤独が、偽りの笑顔の裏でリンの心をさらに蝕んでいくのだった――。ブリーフィングルームを出た瞬間、張り詰めていた糸が切れ、リンは逃げるようにして再び自分の個室へと戻った。
バタン、と重い扉を閉め、鍵をかける。
そのままベッドへ倒れ込む気力すらなく、冷たい床に背中を預けて座り込んだ。
「はぁ……、はぁ……」
薬のせいで、頭の芯は今も不気味にふわふわと浮き上がっている。リンは虚ろな目を天井の無機質なライトへと向け、ぼんやりと何かを考えようとした。
ステラのこと。自分があの時、引き金を引いてしまったこと。そして、記憶を失って敵として現れたムウ・ラ・フラガ――ネオ・ロアノークのこと。けれど、いくつもの思考は混ざり合い、白いモヤの向こうへ溶けていって、形をなさずに消えてしまう。
コンコン、と静かなノックの音が部屋に響いたのは、どれくらい経ってからだったか。
「リン少佐、入りますよ。……少し、お食事を持ってきました」
入ってきたのはアークエンジェルの若い船員だった。トレイの上には、温かいスープと簡単な食事が乗っている。ベルリン戦の後、まともに休んでいないリンを気遣ってのことだろう。
「……あ、ありがとう。わざわざ、すまないわね」
リンは顔にさっと「偽りの笑顔」を貼り付け、受け取った。船員が「しっかり食べて休んでくださいね」と言い残して部屋を出ていくと、その笑顔は一瞬で消え失せた。
トレイを見つめる。湯気の立つスープの匂いを嗅いだだけで、また胃の奥がキュッと収容されるような不快感に襲われた。けれど、ここで何も食べなければ、本当に体が動かなくなる。
(食べなきゃ……。私は、ロンド・ベルの指揮官なんだから……)
自分に言い聞かせるように、震える手でスプーンを取り、スープを口に運んだ。
ドロリとした液体が喉を通る。その瞬間、猛烈な拒絶反応が襲ってきた。胃が激しく波打ち、食べたものが逆流しそうになる。
「うっ……! クッ……!」
リンは口元を強く押さえ、必死に胃の痙攣をねじ伏せようと上を向いた。喉まで競り上がってきたものを、涙目を浮かべながら力任せに飲み込む。洗面台へ走りたい衝動を、奥歯をガチガチと震わせながら、精神力だけでどうにか耐え忍んだ。
荒い息を吐きながら、冷や汗を拭おうと、少しだけ換気のために開けていた部屋の扉の隙間に目を向けた、その時。
「……おいおい。ずいぶんと酷い顔をしてるじゃないか、お嬢さん」
通路から声をかけてきたのは、アークエンジェル内で軟禁状態にあるはずの男――ネオ・ロアノークだった。見張りの目を盗んだのか、それとも今の艦内の混乱に乗じて歩いていたのか、彼は仮面のない素顔のまま、扉の隙間からリンの様子をじっと見つめていた。
リンの引き攣った呼吸、必死に吐き気を堪える姿、そして机の上の異様な量の薬のシート。それらを、ネオの鋭い瞳は見逃さなかった。
「あんた……ネオ。何でここに……」
リンは慌てて口元から手を退け、いつもの冷徹な表情を作ろうとした。だが、声の震えまでは隠しきれない。
ネオは一歩、部屋の中へと足を踏み入れ、皮肉げな、だけどどこか見透かすような視線をリンに向けた。
「いや、ちょっと退屈だったんでね。……それよりあんた、さっきの会議じゃあ大層立派な指揮官様を気取ってたが、裏じゃあ今にも壊れそうなツラして、薬漬けか? ……あの子を、デストロイ(ステラ)を墜としたのが、そんなに堪えてるのかい?」
ネオの言葉が、リンの最も触れられたくない傷口を正確に抉った。
一瞬にして、リンの瞳に冷たい、刺すような殺意が宿る。
「……何のことよ。言ったでしょ、ただベルリンの煙を吸いすぎて、少し胃の調子が悪いだけ。強化人間の身体はデリケートなのよ」
リンはわざと冷たく言い放ち、ネオを睨みつけた。
「あんたが見たのは、ただの気の所為。いい? 捕虜の分際で、余計な詮索は身のためにならないわよ。……それとも、今すぐここで私に黙らされたい?」
その深紅の瞳の奥にある、狂気すら孕んだ強い拒絶に、ネオは両手をすっと上げて苦笑いを見せた。
「おっと、怖いねぇ。……分かったよ、俺の気の所為ってことにしておくさ。お邪魔したな、お嬢さん」
ネオはそれ以上追及せず、静かに部屋の扉を閉めて去っていった。
通路に消えていく足音を聞きながら、リンは張り詰めていた力を抜き、ドサリと床に崩れ落ちた。ネオを黙らせることはできた。けれど、自分の内側の崩壊は、もう誰の目にも隠し通せないところまで来ている。
頭を支配する薬の甘い痺れに身を任せながら、リンは再び、冷たい部屋の中で一人、静かに呼吸を繰り返すことしかできなかった――。