漆黒の宇宙から飛来したかのような怨念を纏うナラティブと、血塗られた復讐鬼と化したインパルス。
ベルリンの曇天と荒れ狂う海原を背景に、二機のガンダムは互いの命を削り合う死闘へと突入していた。
「お前だ……! お前がステラを殺したんだァァァッ!!」
シンの絶叫と共に、インパルスの高エネルギービームライフルが連続して火を噴く。ステラを失った喪失感と怒りは、シンの潜在能力を極限まで引き出していた。フォースシルエットの推力を活かした変幻自在の機動で、ナラティブの死角を次々と突き、容赦のないビームの雨を降らせる。
「あ、ぁぁぁ……ッ! 墜ちろォォォッ!!」
対するリンの意識は、すでに限界のその先で千切れかけていた。
薬効が完全に切れ、離脱症状による激しい吐き気と眩暈が襲う中、暴走したNT-Dが彼女の脳髄から無理やり戦闘データを引きずり出す。鼻の奥からどっと溢れ出した大量の鼻血が、口元を赤く染め、顎を伝ってボタボタとパイロットスーツへ滴り落ちていた。
ナラティブはインパルスの猛攻を受け、追加装甲を削られ、左腕のシールドを吹き飛ばされながらも、全く怯むことなく反撃に転じた。
完全に無線化し、深紅の光を放つドラグーンがインパルスの周囲を飛び交い、「サイコキャプチャー」の不可視の檻を展開する。空間そのものを歪めるような捕縛の光条。
「ちぃっ! なんなんだよこの兵器はッ!!」
シンは舌打ちしながら、スラスターを吹かして間一髪でその光の檻をすり抜ける。だが、その回避を見越したかのように、ナラティブのビームライフルがシンの進路を塞ぐように乱射された。
「消えろ、消えろ消えろ消えろォォォッ!!」
狂乱するリンの叫びと共に、ナラティブは頭部バルカンを斉射しながら、自らインパルスの懐へと突っ込んでいく。
「ふざけるなッ! 化け物がぁぁぁッ!!」
両者は同時にビームサーベルを抜き放ち、激突した。
ガギィィィンッ!! という鼓膜を破るような凄まじい衝撃音が響き渡る。
ピンクと深紅の光刃が交差し、火花がコックピットのモニターを覆い尽くす。機体同士のパワーのぶつかり合い。ナラティブのサイコフレームが不気味に共鳴し、インパルスの関節部が悲鳴を上げる。
リンは鼻血で顔をぐしゃぐしゃにしながら、もはやパイロットとしての理性すら手放し、獣のような執念でインパルスに組み付いた。
サーベルの鍔迫り合いから強引に機体を捻り、ナラティブの右腕がインパルスのフォースシルエットの翼を掴み取る。そのまま力任せに引き千切り、さらにインパルスのビームライフルを持つ右腕の駆動部へ、バルカンを零距離で浴びせかけて破壊した。
「このッ……! 離せぇッ!!」
武装を次々と剥がされながらも、シンの闘志は全く衰えなかった。むしろ、ステラを殺した憎き敵が目の前でもがいている事実が、彼の殺意に油を注ぐ。
バチバチと火花を散らす至近距離の格闘戦。互いの装甲が削れ、カメラアイが睨み合う。
その時、リンは狂気の中で一瞬の隙を見出した。インパルスの胸部、コックピットブロックが完全に無防備になっている。
(これで……終わらせる……ッ!)
リンは血走った目でモニターを睨みつけ、ナラティブの最大出力のビームサーベルを、インパルスのコックピットへ向けて真っ直ぐに突き出した。
「させるかぁぁぁッ!!」
しかし、シンの執念がその刃を上回った。
シンは咄嗟に「構造分離」のレバーを叩きつける。瞬時にインパルスのロックが解除され、チェストフライヤー(上半身)とレッグフライヤー(下半身)が上下に泣き別れた。
「え――」
ナラティブの必殺の刃は、インパルスの胴体があったはずの「虚空」を無様に貫いた。
そしてすれ違いざま、空中に跳ね上がったインパルスのチェストフライヤーが、無防備になったナラティブの胸部――リンのコックピットへ向けて、残されたビームサーベルを容赦なく振り下ろした。
その、刃が直撃する、ほんの数秒前の刹那。
ドクン、と。
シンの脳裏を、強烈な閃光が貫いた。ニュータイプとしての直感と、ナラティブのサイコフレームが引き起こした精神の共鳴。
ひび割れ、ひしゃげようとしているナラティブの装甲の向こう側。そこにいるパイロットの姿が、シンの心の中に鮮明なビジョンとして流れ込んできた。
吐瀉物と涙、そして大量の鼻血で顔を汚れさせ、狂乱と恐怖の中でガタガタと震えながらレバーを握る、小柄な少女。
(え……? リン……さん……?)
シンの心臓が、恐怖で凍りついた。
連合の非道なパイロットでも、血も涙もない化け物でもない。
かつてオーブのドッグで、不器用ながらも自分たちの言葉に耳を傾け、マユの形見の携帯電話を見て一緒に悲しんでくれた。そして、ステラのために……ステラを助けたいと、あの時確かに言葉をかけてくれた、ロンド・ベルのリン。
(なんで……なんでリンさんが、あのガンダムに……!?)
濁流のように押し寄せる疑問と記憶。
もしかして、彼女はステラを『殺そう』としたんじゃないんじゃないか?
暴走する巨大なデストロイの中で苦しむステラを、なんとかして『止めよう』として、あんな無茶な戦いをしていたんじゃないのか?
今、目の前で血と吐瀉物にまみれてボロボロになっている彼女も、ステラを救えなかったことに苦しみ、狂わされてしまった結果なんじゃないのか……!?
「嘘だろ……! 待って、止まれッ! リンさんッ!!」
シンは血相を変え、悲鳴を上げながら、力任せに操縦桿を逆方向へ引き絞った。引き金から指を離し、放たれたサーベルの軌道を無理やり逸らそうとする。
だが、モビルスーツの質量と、限界まで加速した慣性は、人間の意志で急停止できるものではなかった。
遅すぎたのだ。
「あ……」
ナラティブのコックピットの中で、リンの虚ろな目が、モニターいっぱいに迫るピンク色の光刃を映し出した。
ズガガァァァァァァンッ!!!!
インパルスのビームサーベルが、ナラティブの胸部ブロック下部――パイロットの足元を正確に貫き、両断した。
その瞬間、リンは聞いた。
分厚いガンダリウム合金が飴細工のようにぐしゃぐしゃに捻れ込まれ、自分の両足の骨と肉が、凄まじい圧力と熱量によって『ミンチ状に押し潰される』、あのあまりにも嫌で、残酷で、生々しい音を。
「――――――――ッッ!!!」
声にならない激痛の絶叫がコックピットに響いた直後、リンの視界は完全な暗闇へと叩き落とされた。
時を同じくして、海底へ逃れようと降下していくアークエンジェルに対し、ミネルバの艦首が冷徹にその牙を剥いていた。
「タンホイザー、てぇーッ!!」
タリアの悲痛な号令とともに放たれた陽電子破城砲の巨大な光の激流が、海面を割り、逃げるアークエンジェルを容赦なく直撃する。
ドゴォォォォォォォォォォォォォンッ!!!
ベルリンの海原に、アークエンジェルの大爆発と、ナラティブの崩壊による二つの巨大な炎の柱が立ち上った。
天地をひっくり返すような凄まじい爆風が吹き荒れ、黒い硝煙と水柱がすべての視界を奪い去っていく。
やがて、その激しく燃え盛る爆煙の中から、ゆっくりと姿を現したのは――上半身と下半身を再結合させ、ボロボロになりながらも空中に佇む、シンのインパルスガンダムだった。
「あ……、あ……」
コックピットの中で、シンはガタガタと全身を震わせ、力なく宙を掻く自分の両手を見つめた。
その手には、ビームサーベルが金属と肉を同時に焼き切り、押し潰した時の、あの悍ましい感触がはっきりと残っていた。
殺した。
俺が、この手で。
俺たちを心配し、ステラのために動いてくれていた、あの大切な先輩を。
あの時、オーブの海風の中で一緒に笑い合った人を、俺は自分の憎しみに任せて、肉片ごと踏み潰してしまった。
「ああああああああああああああああああああッッ!!!」
シンの絶望の咆哮が、誰にも届かないコックピットの中で響き渡る。
大切な人を喪った悲しみを、自分自身の手で、もう一人の大切な人を殺すことで再現してしまった。
止めようとしたのに。気づいた時には、もう何もかもが遅かった。
真っ黒な煙を上げて沈んでいくナラティブの残骸と、泡立つ海面を見下ろしながら、シンは頭を抱え、狂ったように涙を流して泣き叫び続けることしかできなかった。ひしゃげ、ひどく歪んだナラティブのコックピット内は、警告音すらも途絶え、ただ不気味な静寂と、金属が焼け焦げる異臭に包まれていた。
「……あ、あぁ……」
薄暗い闇の中、私は力なく息を吐き出した。
全身の感覚が、ひどく遠い。いや、正確には下半身の感覚が完全に消失していた。
インパルスのビームサーベルが直撃したコックピットの底部。赤熱したガンダリウム合金の装甲がドロドロに溶け落ち、それと同時に、私の太ももより下もまた、シートごと高熱で溶かされ、無惨に焼き潰されていた。本来なら発狂するほどの激痛に襲われるはずだが、切断時の凄まじいショックと熱による神経の焼失、そして極度の薬物離脱症状が重なり、脳が痛みを認識することすら放棄している。
焦げた肉と鉄の匂いが鼻を突く中、私は微かに残る本能で、脱出レバーへ向けて震える手を伸ばそうとした。
(脱出……しなきゃ。いや、でも……)
動かない。太ももから下が溶け固まった金属に完全に巻き込まれ、食い込んでしまっている。身体を引き剥がして脱出することなど、逆立ちしたって不可能だった。
その絶望的な事実を前にして、私の心にふっと降りてきたのは、恐怖ではなく、奇妙なまでの「安堵」だった。
(……そっか。これで、やっと……死ねるんだ、私……)
ステラを自分の手で殺してしまった罪悪感。いつ暴走するか分からない自分の狂気。それらすべてから解放される。
人を殺する恐怖に怯え、薬を噛み砕いて無理やり戦場に立っていた地獄のような日々が、ようやく終わるのだ。
私は血と吐瀉物にまみれた顔で、弱々しく、自嘲気味な笑みを浮かべた。
ゆっくりと、重くなったまぶたを閉じようとした――その瞬間、パチパチと火花を散らすメインモニターの残骸に、一瞬だけ外部の映像が映し出された。
そこに映っていたのは、私を貫いたインパルスガンダムの姿。
そして、ニュータイプの知覚とサイコフレームの共鳴が、コックピットの中で狂ったように泣き叫び、激しい後悔と絶望に引き裂かれているシンの強い精神波を、私の脳裏に直接伝えてきた。
あいつは、気づいてくれたんだ。
中に私が乗っていることに気づいて、あんなに必死に刃を止めようとしてくれたんだ。
(ああ……そうだったね、シン……。君は、優しい子だった……)
ステラを失い、世界のすべてに絶望してもおかしくないはずなのに、私のためにあんなに泣いてくれている。
それなのに私は、君が大切に想っていたステラを救えなかった。それどころか、暴走に呑まれて君にまで刃を向け、人殺しの業を、この若すぎる少年にまた背負わせてしまった。
込み上げてきたのは、シンへの恨みなどでは決してなかった。
ただただ、申し訳なさと、胸が締め付けられるような愛おしさだった。
私は血の混じった涙を流しながら、もう映らなくなったモニターの向こうのシンを見つめ、震える唇を動かした。
「ごめんね……シン……。ステラを……助けてあげられなくて、ごめん……。君に……こんなことを、させちゃって……ごめんね……」
声にはならなかったかもしれない。それでも、私の心からの謝罪は、サイコフレームの残光に乗ってシンの心へと優しく溶けていった。
足元から、ゴボゴボと冷たい海水が勢いよく浸水してくる。
焼け焦げた太ももの傷口を無慈悲に冷やす水の感覚が、私の意識をいよいよ世界の終わりへと誘っていく。
でも、不思議と怖くはなかった。
私は最後に、もう一度だけ微笑んだ。
(よかった……君が、生きていてくれて……。シン……どうか、生きて……)
自分の命が消えゆく中で、大好きな後輩が生き延びてくれたという確かな事実に、私は心から安堵していた。
ゆっくりと、今度こそ静かにまぶたを閉じる。
満身創痍のナラティブガンダムは、主人の最期の祈りを抱いたまま、光を失い、暗く冷たい海の底へと静かに沈んでいった。