カチ、カチ、カチ……。
規則的な、どこか安っぽい機械の作動音が、微かに耳の奥に届いていた。
(……あれ?)
冷たい水の感覚も、太ももを焼き焦がしたあの悍ましい熱量も、すべてが嘘のように消え失せている。
私は重い、まるで鉛でも埋め込まれたかのようなまぶたを、ゆっくりと押し上げた。
視界に飛び込んできたのは、見慣れたアークエンジェルやナラティブの洗練されたコックピット天井ではない。
剥き出しの配線、油の匂いが染み付いた無骨な鉄板、そして天井から無造作に吊り下げられた、薄汚れた作業用ライト。お世辞にも綺麗とは言えない、だけどどこか妙に落ち着く、見知らぬ部屋の光景だった。
「……っ、あ……」
声を出そうとしたけれど、喉がカラカラに干からびていて、掠れた吐息しか漏れない。
私は自分が、ひどく固くてスプリングの軋む、小さな簡易ベッドの上に横たわっていることに気づいた。
(私……生きてるの……? なんで……)
あの時、確かにナラティブは撃破され、私は海の底へ沈んでいったはずだ。シンに最期の言葉を遺して、すべてを諦めたはずだった。
混乱する頭を動かそうとした瞬間、ふと、下半身に感じる「妙な冷たさと重み」に気づいて心臓が跳ね上がった。自分の肉体ではない、冷徹な機械の気配。
私は弾かれたように上半身を起こそうとした。激しい目眩が襲ったけれど、それを無視して、自分の身体を覆っている薄汚れた毛布を強引に剥ぎ取る。
「え……あ、あ……」
そこに、私の本当の足はなかった。
太ももより下。あの時、インパルスのサーベルでドロドロに溶かされ、潰された私の両足は、跡形もなく失われていた。
代わりに剥き出しになっていたのは、鈍いメタリックの輝きを放つ、複雑なフレームで構成された機械の足――義足だった。シリンダーや精密なモーター、そして不恰好に繋がれた配線が、私の太ももの付け根から不気味に伸びている。
「おいおい、急に動いちゃダメだろ。まだ調整が終わってねぇんだ」
呆れたような、だけどどこか気のいい男の声が、部屋の入り口から響いた。
振り返ると、そこには油汚れのついた作業着をまとい、工具を片手に持った見知らぬ男が立っていた。壁の棚には、ジャンクMSのパーツや、得体の知れない機械のスクラップが山積みにされている。
「……あなた、は……? これ、は……」
「ここは見ての通りのジャンク屋さ。ベルリンの海で、お前さんが乗ってた妙なガンダムの残骸と一緒に、俺たちが引き揚げたんだよ」
男は工具をポケットに突っ込みながら、私のベッドの傍らに歩み寄ってきた。
「命があっただけでも奇跡だが、その足はな……もうどうしようもなかった。だからうちの親方が、その辺にあったMSの余りパーツと、最新の義肢技術をちゃんぽんして、お前さん専用の義足を作ってやったんだ。神経接続は一応成功してるが、まだまともに動かねぇだろう。……まぁ、生きてたことを喜びな」
ジャンク屋のベッド。
ザフトでも、連合でも、ロンド・ベルでもない、戦火の文字通り「クズ拾い」たちの手によって、私は地獄の底から引き揚げられていた。
失われた両足と、代わりに手に入れた冷たい機械の身体。
消えるはずだった私の命は、見知らぬ混沌の街の片隅で、過酷な現実と共に再び動き出そうとしていた――。
ドン、と鈍い衝撃が走ると同時に、コックピットにじわりと冷たい海水が侵入してくる。
システムを強制停止させられ、ただの鉄塊となったフリーダムは、重力に引かれるまま暗い海底へと沈んでいた。
「くっ……! 動け、動いてくれフリーダムッ!」
キラは狂ったようにコンソールを叩いたが、サイコキャプチャーによる機能停止(シャットダウン)の呪縛は解けない。メインモニターは完全にブラックアウトし、補助電源の緊急用ウィンドウだけが、異常を知らせる警告を虚しく点滅させていた。
頭が混乱していた。何が起きたのか、理解が追いつかない。
ナラティブガンダム。あの機体に乗っていたのは、紛れもなく自分たちの仲間であるはずのリンだ。それなのに、あのドラグーンは明確な殺意を持って、アークエンジェルを、そして自分を拘束し、戦線を離脱させた。
(どうして……? リン、君は僕たちを……アークエンジェルを裏切ったの……!?)
脳裏に、自分を機能停止に追い込む直前の、ナラティブの姿が蘇る。
裏切り。その最悪の二文字がキラの胸を締め付け、絶望が広がりかけた――その時、キラの脳裏に、ニュータイプとしての強烈な直感が走った。
違う。
あの瞬間、画面の向こうで私たちが目撃したナラティブガンダムのツインアイは、いつもの緑色の輝きではなかった。禍々しく、まるですべてを呪うかのように、鮮血のような赤色に染まって激しく明滅していたのだ。
(いや、違う……あれは、裏切りなんかじゃない……! リンは、あの機体に、システムに呑まれて……暴走していたんだ……ッ!)
気づいた時には、すべてが手遅れだった。
水中マイクが、はるか上空の洋上で発生した、この世のものとは思えない凄まじい衝撃音を捉えた。
――ズドォォォォォォォォォォォォォンッ!!!
海水を伝って、コックピットのフレーム全体がガタガタと悲鳴を上げるほどの強烈な震動がキラを襲う。ミネルバの陽電子破城砲『タンホイザー』の咆哮。そして、ナラティブガンダムが文字通り木っ端微塵に大爆発を起こした、終わりの音だった。
「……あ……、あぁ……っ!!」
キラの顔から、一気に血の気が引いていく。
何が起きたのかは分からない。だが、あのナラティブのサイコフレームから感じていた、狂おしいほどのリンの精神波が――今、完全に、この世界から消滅した。
◇
数時間後。
ザフト軍の追撃を奇跡的に振り切り、命からがら戦域を離脱したアークエンジェル。
その薄暗いMSデッキは、まるで通夜のような重苦しい静寂に包まれていた。
急速潜行の直前にタンホイザーの直撃を受け、左舷装甲を大きく破壊されたアークエンジェルは、海水に浸かりながらも、沈没寸前でなんとか浅瀬へと座礁し、生き延びていた。海底で再起動に成功したキラのフリーダムも、自力でアークエンジェルへと帰還を果たしていた。
バシューッ、と激しい蒸気と共に、フリーダムのハッチが開く。
パイロットスーツ姿のキラが飛び出すようにデッキへ降り立つと、そこにはマリューやカガリ、そして修復作業の手を止めた整備兵たちが、全員青ざめた顔で立ち尽くしていた。
デッキの中央。クレーンによって海中から引き揚げられた、一機のモビルスーツの残骸が、無残な姿で転がっていた。
「……リン……っ!」
キラが駆け寄る。それは、あの決戦の爆煙の隙間から、アークエンジェルが総力を挙げて奇跡的に回収した、ナラティブガンダムのコックピットブロックだった。
胸部装甲は完全にひしゃげ、インパルスのビームサーベルによってドロドロに溶かされた痕跡が、生々しく赤黒く変色している。
「マリューさん! リンは!? リンは無事なんですかっ!?」
キラの必死の叫びに、マリューはただ、苦しそうに顔を背けて唇を噛み締めることしかできなかった。カガリもまた、拳を血がにじむほど強く握り締め、ボタボタと床に涙をこぼしている。
「……いないのよ、キラ」
マリューが、絞り出すような声で言った。
「コックピットのハッチをこじ開けたときには、もう……。内部は浸水していて、シートの太ももより下は熱で完全に溶け落ちていたわ。でも……そこに、リンの姿だけが、どこにも無かったの……」
「そんな……嘘だ……!」
キラはへたり込むように、ひしゃげたコックピットの縁に手をかけた。
内部を覗き込むと、そこには切り裂かれ、熱でドロドロになったシートの残骸と、リンが流したであろう真っ赤な血痕が、侵入した海水に洗われて薄く滲んでいるだけだった。
脱出装置が作動した形跡はない。この状態のコックピットから、五体満足で生還できる人間などいるはずがなかった。
海へ投げ出され、海の藻屑となって消えてしまったのか。それとも――。
「リン……どうして……、どうして君が、こんな目に……っ!!」
ガンダムの冷たい装甲に額を押し付け、キラは声を上げて泣き崩れた。
仲間を裏切ったわけではなかった。暴走し、苦しみながら、それでも自分たちを守ろうとして戦い、そして誰にも看取られることなく消えていった少女。
静まり返ったアークエンジェルのデッキには、ただ、大切な仲間を失った者たちの、痛切な涙と嗚咽だけがいつまでも響き渡っていた。
ミネルバの廊下は、いつも以上に冷たく感じられた。
シンは、戦果を報告する義務すら忘れたかのように、ただふらりと個室へと戻っていった。周囲のパイロットたちが彼に声をかけようとするが、そのあまりの形相――魂が抜け落ちたかのような、土気色の顔に浮かぶ虚無的な表情を見て、誰もが思わず足を止めた。
「シン、お前……」
レイの呼びかけも、シンの耳には届かない。
彼は部屋の扉を閉ざすと、鍵をかけ、そのままベッドの縁に力なく腰を下ろした。
部屋の中は沈黙に支配されていた。しかし、目を閉じれば、モニターの向こう側に映っていたリンの顔が、嫌でも脳裏に焼き付いて離れない。
(リンさん……)
あの中に、あんたがいた。
俺はステラの仇を討とうと必死だった。ステラを殺した憎い連合の敵を、完膚なきまでに叩き潰そうとしただけだった。なのに、その刃が貫いたのは、俺の事情を知って、少しでも支えになろうとしてくれた、あの優しい先輩だった。
シンの手は震えていた。
サーベルを振り下ろした時の、あの金属が捻れ、肉が潰れる悍ましい感触が、神経の奥底にこびりついている。
コックピットの装甲を剥がした時に見た、血と吐瀉物にまみれても、なお誰かを守ろうとしていたあの姿。
そして、自分が殺したはずのその人が、最期に自分を責めるのではなく、震える唇で「ごめんね」と言い残して逝った――そんな幻聴が、頭の中で無限にリフレインする。
(俺は、また殺したんだ……。ステラを守れなかっただけじゃなくて、俺の過ちを許そうとしてくれた人まで……)
ステラの最期と、リンの最期。二つの映像が混ざり合い、シンの精神を容赦なく削り取っていく。
軍は戦果を評価したかもしれない。だが、シンにとってその勲章は、死人たちの血に濡れた重荷でしかなかった。
「……ううっ、ああ……っ!」
彼はベッドに倒れ込み、シーツを拳で叩きつけた。
叫ぼうとしたが、喉が引き攣り、嗚咽しか出てこない。強烈なPTSDのフラッシュバックが彼を襲う。ふとした瞬間に、リンの最期の言葉が、溶けたコックピットの焼ける匂いが、彼をパニックの淵へと突き落とす。
タリア艦長の温情か、あるいは彼があまりにもボロボロだったからか。シンは「精神疲労による経過観察」という名目で、無期限に近い休暇を与えられた。
だが、休暇は救いにはならなかった。
シンは部屋から一歩も出なかった。
食事も喉を通らず、ただ窓から見える果てしない海と空を眺めては、あの日、リンが語ってくれた言葉を反芻していた。
(リンさん、あんたはなんであんなところにいたんだ……。何がそんなに辛かったんだ……?)
リンの苦しみも、薬のことも、彼女が抱えていた秘密も、何も知らなかった。いや、知ろうとしなかったのは自分の方だ。
部屋の隅に置かれた、自分自身のパイロットスーツ。そこには、まだリンの血の匂いが残っているような気がして、シンはそのスーツを毛布の下に隠した。
誰とも話さない。誰の言葉も受け入れない。
ただ、消えてしまった二人の少女の面影と、自らの手で奪ってしまった命の重みに耐えながら、シンは暗い個室の中で、一人沈み続けていた。
復讐が終わったはずのその場所で、彼は自分自身という終わりのない地獄の中に閉じ込められていた。
「……ころした……おれが……リンさんを……ステラを……おれが……」
シンはベッドの上で小さく体を丸め、壊れた蓄音機のように同じ言葉を繰り返していた。
その瞳はどこにも焦点を結んでいない。ただ虚空を見つめ、あの日見たナラティブの残骸と、ステラの最後が混ざり合う悪夢の縁を彷徨っている。
「……ッ、ごめ、ごめん……ごめんなさい……!」
最後の一言が掠れた悲鳴となって消えると、シンはガクリと力なく頭を垂れた。
過呼吸で激しく上下していた胸が、次の瞬間にはぴくりとも動かなくなる。限界を超えた精神は、これ以上の苦痛から逃れるための最終手段として、自らをシャットダウンさせてしまった。
「シン! シンッ!!」
部屋に入ったレイが駆け寄るが、シンの意識はすでに深い闇の底へ沈んでいた。
人事不省。完全に、心が折れたのだ。
◇
医務室の白い無機質な天井。
消毒液の匂いが鼻を突く。シンは点滴に繋がれ、まるで別人のような青白い顔でベッドに横たわっていた。
周囲に艦の仲間たちの気配はある。だが、シンには何も聞こえない。
意識の深層で、彼は永遠に続くような後悔の海を漂っていた。
(どうして俺は、あんなことを……)
なぜ、あそこで引き金を引いた?
なぜ、ちゃんと相手の顔を見なかった?
なぜ、ステラの仇だと思い込んで、盲目的に憎しみをぶつけた?
心の中で自分自身を指さす罪悪感の刃が、何度も何度も胸を刺す。
今までの戦いすべてが、まるで間違っていたかのような錯覚。自分は「平和」のために戦っていると思っていたのに、結局、守りたかった人たちを自分の手で壊すことしかしていなかった。
「……ステラ……リンさん……」
眠りの中で、シンの目から大粒の涙がこぼれ落ちる。
彼は、自分がどれだけ罪深いことをしたのか、その重さを初めてすべて理解しようとしていた。そして、その重さに押し潰され、二度と浮かび上がれないほどの深い絶望の中にいた。
彼を突き動かしていた「怒り」という名の燃料は、すべて使い果たされた。
今、シンの心の中に残っているのは、焼かれた廃墟のような荒野と、凍てつくような孤独だけだった。
どれだけ時間が経ったのかも分からない。
シンは医務室のベッドで、ただひたすらに、自分が壊してしまったかけがえのないものたちへの悔恨に苛まれ続けていた。この深い昏睡が、彼にとって唯一の逃げ場だったのだ。医務室の冷たい空気の中で、シンの意識は長い長い暗闇を漂っていた。しかし、周囲の仲間たちは彼を見捨てなかった。
「シン、少しでいい。何か胃に入れろ」
ルナマリアは毎日、誰よりも早く医務室へ足を運んだ。彼女の持ってくるスープは、以前のような威勢の良さはなく、どこか痛々しいほどに優しかった。彼女もまた、この戦火で多くの友を失った。シンの壊れた心根を誰よりも理解できるのは、同じように戦いの中で傷つき続ける彼女だった。
「お前が自分を責めるのは分かる。だが、死んだ奴らは……リンさんもステラも、お前がそこで止まったままになることを望んでいるか?」
レイの言葉は相変わらず厳しかった。けれど、その裏にはシンの戦士としての帰還を願う、冷たくも確かな絆があった。
タリア艦長もまた、艦長としての立場を一時離れ、一人の母親のような眼差しでシンを見舞った。彼女は言葉少なに、ただシンの震える手に自らの手を重ねた。
シンは最初、誰の言葉にも反応しなかった。暗い病室で、ただ天井を見つめ、時折リンやステラの名前を呼んで泣き崩れる日々が続いた。
だが、仲間たちの粘り強い献身は、少しずつシンの凍りついた感情を溶かしていった。
「……あいつらは、もういないんだよな」
ある日の夕暮れ、シンが誰に聞かせるでもなく、掠れた声で呟いた。
その言葉は、彼が自分自身の深い後悔と初めて向き合えた瞬間だった。誰かのせいにするのではなく、自分が失ったものの大きさを、ようやく「現在」として受け入れ始めたのだ。
「……また、飛べるようになるか? 俺」
ルナマリアに向けたその問いかけには、以前のような傲慢さはなかった。そこにあるのは、死線を越え、取り返しのつかない罪を背負った者が、それでも生きようとする、悲痛なほどの脆さと静かな決意だった。
シンはまだ、完全には戻っていない。
ふとした瞬間にフラッシュバックが襲い、冷や汗を流して飛び起きる夜もある。
だが、彼を待つ仲間の温もりに触れ、少しずつ、本当に少しずつ、シン・アスカという少年の魂が、再びこの世界へと戻り始めていた。
それは、壊れた機体を修理するように、一つ一つの部品を拾い集め、歪んだフレームを叩き直していくような、気の遠くなるほど長い「再生」の始まりだった。