番外編:ロンド・ベル司令リンの、とある1日
月への決戦航路(3日間の強行軍)の真っ只中。艦内の騒動が収まり、全速航行を続けるラー・カイラムの艦内。これは、激戦の合間に訪れた、司令官リンの「とある1日」の記録である。
【07:00】 医務室・最悪の目覚め
リンの1日は、医務室のベッドの上、ツンとする消毒液の臭いと、鼻腔に詰まった止血用ガーゼの不快感で始まる。
「……ん……」
上体を起こそうとした瞬間、左太ももの付け根に激痛が走る。ジャンク屋製の義足と神経を繋ぐ接続部(コネクタ)が、昨日のサイコフレーム暴走の熱量で軽く炎症を起こしていた。
「おいおい、起きるなと言ったはずだが?」
艦医が呆れた顔で仕切りカーテンを開ける。
「鼻血は止まった。だが脳波の数値はまだイエローゾーンだ。あの『虹色の眼』、あれは明らかに脳への過負荷が原因だからな」
「わかってるわよ、先生。でも、座って書類を見るくらいはさせて」
リンはベッドの端に腰掛け、痛む義足にゆっくりと体重をかける。金属が噛み合う機械音が、静かな医務室に虚しく響いた。
【10:00】 作戦会議室・山積みの現実
午前中は副艦長と共に、連合の有志から補給された物資の仕分けと、艦内統制の確認に追われる。
「ジェダとゼータプラス用の予備弾薬の装填、完了。燃料も満タンよ」
副艦長がタブレットを差し出す。
「それと……昨日のディスティニープランの件、混成部隊の兵士たちは納得してくれたわ。みんな、自分の意志で戦うって」
「ありがとう、副艦長。あなたがいてくれて本当に助かった」
リンは手元のティッシュで、まだ時折垂れてくる薄い鼻血を拭いながら、月面の最新マップを更新する。頭の奥がジンジンと痛む。サイコフレームの残滓が、まだ脳裏にノイズを走らせていた。
「(シン……レイ……。あなたたちは今、何を考えてメサイアにいるの?)」
マップに表示されたザフトの防衛線を睨みながら、リンの胸に消えない焦燥感が去来する。
【13:30】 MSデッキ・動かない『白き処刑人』
午後、リンは松葉杖をつきながら、騒がしいモビルスーツ・デッキへと足を運んだ。
そこには、前戦で完全停止(シャットダウン)したユニコーンガンダムが、周囲を無数のケーブルで埋め尽くされて佇んでいた。
「リン司令!」
整備員が汗を拭いながら駆け寄ってくる。
「エターナルパックのバッテリーは完全に焼き切れてます。連合からもらった予備回路で組み直してますが、問題は……このサイコフレームです」
ユニコーンの装甲の隙間から覗くサイコフレームは、今は不気味なほど冷たい黒色に沈んでいる。
「物理シャットダウンの後から、完全にシステムがロックされてて……俺たちの手に負えません。リンさん、この機体、本当に次、動くんですか?」
リンは松葉杖に寄りかかり、見上げるほど巨大な純白の足元に手を当てた。
「動かすのよ。私の脳が焼き切れるのが先か、この子が目覚めるのが先か……それだけの話」
「司令……」
その時、リンは自分の手元を見て、ハッとした。ユニコーンの装甲に触れた瞬間、ほんの一瞬だけ、自分の視界が「虹色」に明滅した気がしたのだ。
慌てて手を離す。心臓が嫌な音を立てて脈打った。
【17:00】 独りきりの司令官室・押し寄せる弱音
夕方、ようやく1人になれる司令官室に戻ると、リンは松葉杖を床に放り出し、ソファに倒れ込んだ。
義足を外し、赤く腫れた肌を冷やす。痛い。肉体も、精神も、もう限界を超えて擦り切れている。
「みんなには……合わせる顔がない、か……」
昼間、副艦長に言った言葉が口を突いて出る。
アークエンジェル。キラ、ラクス、カガリ。
あの温かい場所に帰りたい。生きていたと伝えて、泣いて、すべてを委ねられたらどれほど楽だろう。
そして、シン。あの子に「私は生きている」と伝えられたら、あの子の狂気を止められただろうか。
「……いや。私が中途半端に現れても、シンをさらに混乱させるだけ。私は死んだリンとして、あの子の憎しみの標的であり続けなきゃいけない。そして……ユニコーンで、そのすべてを撃ち砕く」
リンは引き出しから、クシャクシャになったティッシュの塊をゴミ箱に捨て、新しいガーゼを鼻に当てた。
鏡を見る。瞳の色は――まだ、綺麗な黒のままだ。
【21:00】 夜間哨戒・決戦の朝を待つ
夜、ラー・カイラムの艦橋。
静まり返った宇宙の闇を、船体に取り付けられたサーチライトが虚しく照らす。
月までの距離は、確実に縮まっていた。あと2日。
「リン、そろそろ寝なさい。明日も早いわよ」
見回りに来た副艦長が、温かいコーヒーの入ったマグカップを差し出す。
「ええ、そうね。……ありがとう」
リンはコーヒーを受け取り、一口含む。苦味が脳の疲れを少しだけ麻痺させてくれた。
機械の義足を再びカチャリと固定し、リンは居住区への通路を歩き出す。
鼻血、虹色の瞳、動かない核融合炉、そして迫り来るディスティニープランという悪夢。
絶望的な要素は数え切れないほどある。けれど、ロンド・ベルの仲間たちが、そしてかつて救った連合の兵士たちが、彼女に未来を託してくれた。
「(私の命なんて、あの時もう捨てたようなもの。……最後に最高の仕事をしてみせるわよ、ユニコーン)」
ベッドに潜り込み、目を閉じる。
夢の中に現れるのは、怒りに燃えるシンの赤い瞳か、それとも世界を支配しようとする議長の冷酷な微笑みか。
リンは静かに呼吸を整え、決戦の地「メサイア」へと近づくラー・カイラムの微かな振動を感じながら、深く、暗い眠りへと落ちていった。「テスト開始……同期、深度を上げます」
整備班長の声とともに、ユニコーンのコックピット内が淡い光に満たされる。リンが意識を集中させると、サイコフレームが呼応し、彼女の脳波と機体システムが直結した。
――その瞬間、異様なまでのプレッシャーとともに世界が剥がれ落ちた。
気づけば、リンはすべての色彩を失ったような、静寂に満ちた白い精神空間に立っていた。
その空間の奥から、かつてリンが戦場で対峙した、決して忘れることのできない男が姿を現す。
パプテマス・シロッコ。
カリスマ性と強大な野心を抱き、その天才的な能力でかつて戦場を恐怖に陥れた男。地球連合の実験によって生み出された最初の個体であり、最高傑作――**『強化人間001番』**としての冷徹な眼光が、リンの精神を射すくめる。
シロッコは、人の心を惑わし、自らの意思に従わせる強力な洗脳の力をその身に宿していた。彼は優しく、そして有無を言わせぬ絶対的な威圧感を持って、リンへと手を差し伸べる。
「また迷っているな、リン。……お前がこれまで犯してきたひどい仕打ちの数々を、まだ理解していないのか?」
シロッコのカリスマ性に満ちた声が、リンの脳内に直接響き渡り、逃げ場をなくしていく。同時に、サイコフレームが彼女の過去の記憶を容赦なく再生し始めた。
ベルリンで放ったビームの閃光、デストロイの残骸の中で命を落としたステラの悲鳴。ヤキン・ドゥーエで、そして先日のオーブ沖で、彼女の超長距離狙撃によって生きたまま焼き殺されたザフトのパイロットたちの断末魔の叫び。
「お前は『平和のため』と綺麗事を並べながら、その手で多くの命を奪い、シン・アスカの心をも完全に破壊した。お前がしてきたことは、ただの凄惨な虐殺であり、傲慢なエゴに過ぎない。お前のような人殺しを、現実の世界の人間が本当に受け入れると思うか?」
シロッコの言葉は、リンの最も脆い心の傷口を正確に抉り、言葉の刃となって突き刺さる。その圧倒的なカリスマ性と洗脳の力が、リンの理性を急速に麻痺させ、彼女の心をシロッコの側へと強引に引き寄せていく。
あまりの罪悪感と精神的負荷、そしてシロッコの洗脳の前に、リンの意識は急速に混濁していった。彼女の瞳から生気が失われ、まるで魂を奪われた操り人形のように、シロッコの手へと自分の手を伸ばし始める。
「私、が……してきたこと……。そうね……私は、人殺し……あなたの言う通りだわ……」
リンの指先が、シロッコの冷たい手に触れようとした、まさにその瞬間だった。
『リンッ!! ダメよ、そいつの手を取っちゃいけない!!』
精神空間を鋭く切り裂くような、力強い叫び声が響き渡った。
それは、ラー・カイラムの副艦長の必死な声。そして、リンを現実に繋ぎ止めようとする、アークエンジェルの仲間たち――キラ、カガリ、ラクスの魂の叫びだった。
『司令! 戻ってこい! あんたが犯した罪なら、俺たちも一緒に背負ってやる!』
『リンさん! あなたの歩んできた道は、決して間違いなんかじゃない!』
空間が激しく明滅し、リンの身体、腕、服を、無数の温かい手が強引に掴みかかってくる感覚が全身を襲う。ロンド・ベルのパイロットたち、そしてアークエンジェルの仲間たちが、彼女の精神を現実へと引き戻そうと必死に手を伸ばしているのだ。
「みんな……? ……でも、私は……」
『放すものか! あなたが流した血の重さを知っているからこそ、私たちはあなたを一人で行かせやしない!』
自分を掴む無数の手の温もり。それはシロッコの冷徹な洗脳とは違う、人間が泥にまみれながらも繋いできた確かな『絆』の熱さだった。
シロッコの冷酷な瞳が、わずかに不快そうに細められる。
「……消え去るべき過去の幻影どもが。リン、お前は私の側に来るのだ」
「いいえ……私は、行かないッ!!」
リンは叫び、洗脳の霧を振り払うように、シロッコの差し出した手を力強く弾き飛ばした。
「私が犯した罪は消えない! 殺した人たちの恐怖も、シンの絶望も、全部私がこの身に背負っていく! その痛みを忘れて、あなたの中に逃げ込むことなんて絶対にしないッ!!」
リンが完全に覚醒した瞬間、白い空間はガラスのように粉々に砕け散り、視界が真っ白に弾け飛んだ。
「――がはっ!!」
現実に引き戻され、リンはユニコーンのコクピットの中で激しくのけ反った。
アラートが鳴り響き、外部の整備員たちの悲鳴のような怒号がスピーカーから漏れる。
「リン司令!! 意識を戻せ! 応答してください!!」
荒い息を吐きながら、リンは血に染まったコンソールにしがみついた。
モニターに映る虹色の瞳が、みるみるうちに深い黒へと戻っていく。脳を焼き切るような精神の暴走は、完全に収まった。
「……戻った、のね……」
リンは震える手で顔を拭う。そこには、またしても過負荷で鼻から流れた鮮血がべっとりとついていた。
だが、サイコフレームの恐怖の奥に、自分を必死に連れ戻してくれた仲間たちの手の温もりが、今も確かに残っている。
「……みんな。ありがとう……」
リンは痛む義足をペダルに踏み込み、冷や汗を拭って前を向いた。
強化人間001番、シロッコの強力な洗脳すら跳ね除け、彼女の黒い瞳には、これまで以上の強固な決意が宿っていた。
「サイコフレームの調整テスト、終了よ。システム、安定。……ラー・カイラム、これよりメサイアへ突入するわ!」医務室から自室に戻ったリンは、副艦長から半ば強制的に言い渡された「完全休息」の指示に従い、ベッドの背もたれに寄りかかっていた。鼻血はようやく止まり、過呼吸の気配も収まったが、頭の芯にはまだ鈍い痛みが残っている。
気分転換にと、リンは壁に埋め込まれたテレビのスイッチを入れた。
だが、画面に映し出された映像を見た瞬間、彼女の身体は硬直した。
プラントの全チャンネルはもちろん、地球の主要ネットワークまでをもジャックしたその番組には、最高評議会議長ギルバート・デュランダルの姿があった。
『……私たちは今、ロゴスという長きにわたる戦乱の元凶を排除した。だが、これで本当に平和が訪れるのだろうか? 人はまた憎み合い、奪い合い、新たなロゴスを生み出すのではないか』
画面の中のデュランダルは、どこまでも優しく、そして理路整然と世界に語りかけていた。
『私はここに、人類がこれ以上の過ちを繰り返さないための、唯一のシステムを提案する。……ディスティニープラン。すべての人間が自らの遺伝子に適した役割を与えられ、それに従って生きる世界だ。欲望に惑わされず、分不相応な望みを持たず、ただ与えられた幸福を全うする。これこそが、人類が到達すべき究極の平和である』
「……っ!」
リンはタブレットに目を落とした。非公式ルートで手に入れたあの資料の記述と、今、議長が世界に向けて堂々と宣言している言葉が、完全に一致していく。
疑惑は確信へと変わった。
議長は本当にやるつもりなのだ。遺伝子という絶対的な檻に、全人類の未来を閉じ込める独裁を。
世界がその甘い言葉にどよめき、呑み込まれそうになった、その時だった。
『――お待ちください。その言葉に、惑わされてはなりません』
テレビの画面が切り替わり、厳かな、しかし凛とした歌姫の、本物のラクスの姿が映し出された。
『デュランダル議長の語る世界は、私たちが自ら選び、歩む未来を奪うものです。遺伝子によって定められた役割を生きることが、本当の幸せでしょうか? 間違いを犯し、迷いながらも、私たちは自らの意志で明日を選ぶ自由があるはずです。私は、その意志を否定する世界を認めません』
本物のラクスの命を賭した演説が、宇宙を、そしてラー・カイラムの艦橋を揺るがした。
「ラクス……!」
リンはテレビを消すと、痛む義足のことも忘れ、司令官用の制服を掴んで部屋を飛び出した。
通路を駆け抜け、自動ドアが勢いよく開くと同時に艦橋へと滑り込む。
「副艦長! パイロットたちに通達! ラー・カイラム、ただちに出撃よ!!」
息を切らせながら叫ぶリンに、艦橋のクルーたちが一斉に振り返った。
「リン!? でも、まだ月までは距離が……!」
「議長は本気よ! ラクスが声を上げた今、デュランダルは必ず反抗勢力を黙らせるためにあの兵器(レクイエム)を使う! これ以上1秒だって猶予はないわ!」
リンはコンソールを叩き、メインモニターにレクイエムの座標を映し出した。その黒い瞳には、過呼吸に怯えていた弱さは微塵もなかった。
「目的地の変更よ! メサイアではなく、まずは月面の『レクイエム』へ直行するわ! 議長の手からあの引き金を奪い取るのよ! 副艦長、全宇宙船のパイロットたちに最大戦速での航行を指示して!」
「……わかったわ、司令。やるしかないわね!」
副艦長が鋭く頷き、すぐさまパイロットたちへ怒号のような指示を飛ばす。
補給されたばかりの強力な燃料がラー・カイラムの主機へと送り込まれ、艦体が激しく震動を始めた。
「ロンド・ベル、これより運命の引き金をへし折りに行くわよ! ラー・カイラム、発進ッ!!」
本物のラクスの言葉を胸に、そして自らの未来を掴み取るために、リンを乗せたロンド・ベルの旗艦は、悪魔の砲身が待つ月面宙域へと向けて、最大出力で宇宙の闇を切り裂き突き進んでいった。