晩餐会を終えた私は、ファンデーション王宮内に用意された来賓用の客室に一人で滞在していた。
ソファに深く腰掛け、手元の暗号化デバイスのモニター越しに、アークエンジェルのマリューさんたちとオンラインで通信を繋ぐ。そこに和やかな空気はなく、皆、真剣な面持ちでこれからの動きについての話し合いを続けていた。
「――やはり、ミケール大佐の部隊はファンデーションの国境付近でも散発的な動きを見せていますね。ネェル・アーガマとも密に連携し、包囲網を狭める必要があります」
「ええ。明日に備えて、アークエンジェルの整備班にユニコーンの各部スラスターの再チェックと微調整も頼んでおいたわ。この国の支援があるとはいえ、いざという時は私たちの手で確実に動けるようにしておかないと……」
画面越しの仲間たちと綿密なすり合わせを行いながら、私は気を引き締めていた。
しかし、その部屋の扉一枚を隔てた廊下では、ひっそりと冷たい空気が渦巻いていた。
私の部屋の前で直立し、警護に当たっていた2名の元ロンド・ベルのパイロットたち。彼らは、先ほどから肌を刺すような強い『違和感』を抱き続けていた。
数々の死線をくぐり抜けてきた彼らの直感が、見えざる危険を知らせる警鐘を鳴らしている。その原因は明確だった。先ほどの晩餐会で、ラクス・クラインがファンデーションの宰相オルフェとダンスを踊っていたあの光景。彼女の様子は、どこか操られているかのような、拭い去れない不自然さがあったのだ。
(この国は、何かおかしい――)
そう警戒心を極限まで高めていた彼らの耳に、廊下の奥から静かな足音が近づいてくるのが聞こえた。
現れたのは、宰相オルフェ・ラム・タオと、近衛師団長シュラ・サーペンタインだった。
二人の姿を視界に捉え、目と目が合った瞬間――護衛の一人が、一切の迷いなく動いた。
言葉を交わすまでもない。彼らが纏う異様な殺気と、ラクスの件で感じていた確信的な不気味さを本能で察知したのだ。護衛は瞬時に懐から武器を抜き放ち、シュラへ向かって鋭い攻撃を仕掛けようと踏み込んだ。
しかし。
「――無駄だ」
シュラは冷酷な笑みを浮かべたまま、まるで全てを事前に知っていたかのように、最小限の動きで護衛の猛攻をふらりと避けた。
シュラには、相手の『心を読む』力がある。護衛の思考、殺意、攻撃の軌道――そのすべてが筒抜けだった。
すれ違いざま、シュラの手にあるサーベルの刃が冷たく閃く。
音もなく、護衛の首元が深々と一突きにされていた。
「が……っ」
悲鳴を上げることも、抵抗することもできず、最初の護衛は糸が切れた人形のように崩れ落ちた。
「なっ……!」
残されたもう一人の護衛は、相棒が瞬殺された光景に目を見開いた。敵の圧倒的な力。ここで自分たちが勝つことは不可能だと悟った彼は、己の命よりも優先すべき『ただ一つの使命』を果たすため、部屋の中で通信を続けている私に向かって叫ぼうと大きく息を吸い込んだ。
「リン司令!! 避難――」
だが、その決死の警告が、部屋の中まで届くことはなかった。
瞬きする間もなく距離を詰めたシュラの刃が、残酷なほどに正確に、彼の喉笛を斬り裂いていた。
声にならない血の泡を吹き出しながら、二番目の護衛の体もまた、力なく冷たい床へと倒れ伏す。
ドサッ……。
微かな鈍い音が廊下に響いただけだった。
扉の向こうで、私がアークエンジェルの仲間たちと作戦を練っている間に。私を守ると誓ってくれた彼らの命は、あまりにもあっけなく、音のない闇の中へと散っていった――。アークエンジェルとの通信を終え、暗号化デバイスの電源を落としたその時だった。
ふと、部屋の外が異常なほど静まり返っていることに気がついた。
先ほどまで確かに感じていた、扉の向こうに立つ二人の護衛の気配が、完全に消失している。代わりにドアの隙間から微かに漂ってきたのは……鉄の匂い。血の匂いだった。
(まさか……!)
私は直感的に危険を察知し、瞬時にブーツに仕込んでいたサバイバルナイフを引き抜いた。
音を立てずに扉へ近づき、警戒しながらノブに手をかけた瞬間――扉が外側から静かに開かれた。
「そこっ!」
私は躊躇うことなく、開いた隙間から死角を突いてナイフを突き立てた。
だが、その渾身の一撃は、信じられないほどの反応速度で容易く弾かれた。
(防がれた!?)
体勢を立て直し、相手の顔を見た瞬間、私は息を呑んだ。
「お前は……近衛師団長の、シュラ・サーペンタイン!?」
まさかファンデーションの要人が自ら襲撃してくるとは。一瞬の驚きが全身を貫く。だが、幾度も戦場を潜り抜けてきた私の身体は、思考よりも先に次の行動に移っていた。
弾かれた勢いをそのまま利用して身を沈め、瞬時にシュラの懐へと潜り込む。そのまま下段から逆手持ちのナイフで急所を狙う、鋭い連撃を繰り出した。
「……直ぐに対応するか。見事な反応だ」
だが――私の刃が彼を捉えることはなかった。
シュラは私の動き、いや『思考』すらも事前に読んでいるかのように、最小限の動きで全ての攻撃を完全に躱していく。そして、私の腕を正確に捉え、ギリッと捻り上げた。
「くっ……!」
「だが、無駄な抵抗だ」
手首に激痛が走り、ナイフを取り落とす。抗う間もなく壁に押さえつけられ、完全に動きを封じられてしまった。
そのシュラの背後から、宰相オルフェ・ラム・タオが悠然とした足取りで姿を現した。その瞳が、妖しく、そして絶対的な支配の光を帯びて光る。
瞬間、頭を直接ハンマーで殴られたような強烈な衝撃が走った。
彼ら『アコード』の持つ精神干渉の力が、私の思考の壁を強引にこじ開け、脳の奥深くにまで濁流のように流れ込んでくる。
「あ……ぁ……っ」
膝から崩れ落ちそうになる体を、シュラが無造作に押さえている。
抗おうとする私の意識を、オルフェの力が黒く塗り潰していく。抵抗できない。頭の中がハッキングされたように、自分の意思が溶かされていく。
薄れゆく視界の中、開け放たれた扉の向こう、冷たい廊下の床に転がっている二つの影が目に入った。
喉と首を斬り裂かれ、血溜まりの中でピクリとも動かなくなった元ロンド・ベルのパイロットたち。
私を守ると誓い、この見知らぬ土地まで文句一つ言わずについてきてくれた、大切な仲間たちの骸だった。
(私の……せいだ……)
絶望が胸を締め付ける。私がファンデーションの異常さにもっと早く気づいていれば。ラクスの様子のおかしさに気づいた彼らの違和感を、もっと真剣に受け止めていれば。私が、彼らをこんなところに連れてこなければ、二人は死なずに済んだのに。
(ごめん……なさい……私の、せいで……!)
「もう思い悩む必要はありません。貴女はただ、我々の導きに従えばいいのです」
オルフェの甘く、ひどく冷酷な囁きが、脳内に直接響き渡る。
自責の念と後悔の涙が頬を伝う中、最後に残っていた抗う力すらも完全に奪い去られ――私の意識は、オルフェが支配する深い闇の中へと完全に沈んでいった。意識が浮上する。瞼を開けると、そこは見知らぬ豪華な寝室の天井だった。
「……ん、私……」
頭の中は奇妙なほど晴れやかで、なぜ自分がここにいるのか、つい先ほどまで何をしていたのか、深い霧の中に隠されたような感覚に包まれていた。自分が誰で、何をすべきかという大枠の認識は残っているが、直前の記憶がすっぽりと抜け落ちている。
コツ、コツ、と優雅な足音が部屋に響き、扉が開かれた。そこに立っていたのは、昨日会ったはずの宰相、オルフェ・ラム・タオだった。彼は柔らかな微笑みを浮かべ、私を穏やかな瞳で見つめている。
「おはよう、リン。……随分と深く眠っていたようだね。もう4時間も過ぎているよ」
「4時間……? 私、そんなに?」
私は無意識に枕元を探した。本来ならそこにいるはずの護衛の二人がいない。彼らがいないことに一瞬、言葉にできない違和感が胸をよぎったが、オルフェの落ち着いた声がそれを遮った。
「君の護衛の二人なら、先ほど急な任務が入ったとして、ネェル・アーガマへ戻っていったよ」
「……急な任務?」
私は眉をひそめた。昨日までそんな話は聞いていなかったはずだ。私は不審に思い、自分の携帯デバイスを手に取って機密連絡のログを確認しようとした。
(そんな任務、あったかしら……)
画面をタップし、ネェル・アーガマの艦隊運用スケジュールを検索する。すると、確かにあった。私がうっかりしていたのか、それとも昨日確認し損ねていたのか――『プラント方面への技術支援および出向任務』という記述が、緊急招集として記録されていた。
「……ああ、あったわね。確かにこの時期、プラントへの出向があったはずだわ」
私はふぅ、と小さく息を吐き、張り詰めていた肩の力を抜いた。護衛がいなくなったことへの説明がついた安堵感が、先ほどまでの微かな違和感を塗り潰していく。
「納得してくれたかな? 彼らも君が眠っている間に出発するのは心苦しそうだったが……軍人だからね、命令は絶対なんだ」
オルフェはそう言って、私を促すように微笑んだ。彼の言葉には何の引っ掛かりもない。私は素直に頷き、「そうね。彼らならきっとうまくやるはずだわ」と応えた。
この時、私の意識の深淵には、冷たい廊下で骸となった彼らの記憶は存在しなかった。ただ、何かが欠落しているはずの空白地帯が、心地よい偽りの充足感で埋め尽くされていた。