探査士資格所持者各位:次期探査対象区域の決定通知
無味乾燥な件名のメールが俺の携帯に届いたのは、新居で暮らし始めて二週間ほど経った頃だった。戦時中の赤紙よろしく、人命への影響が大きくなるほど文面は反比例して簡潔になっていくらしい。
もっとも、役所仕事のメール文面に情緒や文学性を求める方が間違っていた。
遠田からの連絡も来ていた。
『明日十時、施設長室まで出頭するように』
俺は携帯を閉じ、短く息を吐いた。
その日の夕食、俺は特に意味もなく食卓の風景を眺めていた。
アリスが学校での出来事を楽しそうに話し、マリアが微笑みながら相槌を打つ。リリカは静かに食事を進めていた。
夕食が一区切りしたところで、話を切り出した。
「次の探査区域が決まった」
穏やかに談笑していた三人が、静止画のように動きを止めた。
「明日、拠点に向かう。そこでの準備が終わり次第、しばらくは外界から戻らない」
こちらを向いたマリアの、青い瞳が一瞬だけ揺れた。
だがそれも僅かの事だった。彼女はすぐに微笑を浮かべてみせた。
「気を付けて行ってらしてください。皆で旦那様のお帰りをお待ちしていますから」
マリアは俺に向けてそう告げると、隣で肩を落としたアリスを宥め始めた。
「おじさま、早く帰ってきてね……」
早く帰るという約束はできなかった。
無事に帰ってくるという約束すらできなかった。
返事に詰まりかけたところで、マリアが静かにアリスの頭を撫でた。
「アリス。おじさまは大丈夫」優しい声音だった。
アリスは少し涙ぐんでいたが、こちらに向けて小さく頷いた。
「叔父さん」
静かな声に目を向けると、リリカがこちらを見ていた。
「気を付けてください」
そう言うと彼女は再び食器へ視線を落とす。
普段と変わらない声音だった。
フォークを持つ指先に、僅かに力が込められているように見えた。
「ああ」こちらも短く返し、食事を再開した。
その後の食卓には、食器の触れ合う音だけが響いていた。
◆◆◆
次の日の朝、俺はフェアレディを拠点外部の駐車場に停めると車を降りた。
冬の鈍い陽光が、運河の水面に黒白の斑模様を作っていた。
拠点入り口に足を進めたところで、こちらを呼び止める声が聞こえた。
「静間さん、おはようございます」
振り返ると、そこに立っていたのは篠塚だった。
直接顔を合わせたのは一月ほど前、体を重ねた時以来だった。
こちらの顔を見たとたん、あの夜の記憶が浮かび上がってきたのか、篠塚の顔が薄く紅潮していく。
「探査開始前だ。まだ回収資源はない」
「知ってます!」篠塚は少しムキになったようだった。
「事前営業ってやつですよ。静間さん、よい資源を回収された際は、ぜひ弊社とお取引お願いします!」
篠塚が頭を下げると明るい栗色の髪が流れ落ちた。
「考えておく」俺は曖昧な返答を返した。
探査員に対する事前営業の必要性については問いたださないことにした。
頭を上げた篠塚に別れを告げ、拠点の入り口に向かって歩き出した時だった。
「そういえば」
背後から聞こえた声に振り返ると、篠塚がこちらを見て微笑んでいた。
「彼氏とは別れました」
俺がなんと返答すべきか考えているうちに、続く声がした。
「それだけです」
短い言葉と微笑だけを残し、篠塚は大橋の方に歩き出した。
俺は、遠ざかっていく篠塚の背中をしばらく眺めていた。
◆◆◆
一見すると、拠点施設の様子は普段通りに見えた。
だが、よく見れば行き交う職員達の足が少しだけ早かった。
繁盛店が開店準備を始める前に似た、どこか浮ついた空気が漂っていた。
指定された十時にはまだ間があった。
缶コーヒーだけはやたら種類が豊富な自販機で無糖を買い、壁面の大型モニターを眺めて時間を潰すことにした。
時間の表記と共に並んだ白字の番号は、回収チームの出発日程表だった。
一見すると病院の外来受付に見えなくもない。
時折画面を見上げる施設職員達に漂う緊張感は、看護師たちのそれよりもよほど薄かった。
人の生き死にが近い職場ほど、それが予定に組み込まれ、無感動に消化されるようになるらしい。
空き缶を捨て、二階に上がり、施設長室のドアをノックしたのは指定時間の一分前だった。
入室を促す短い声に応えて部屋に入ると、相変わらず不機嫌そうな顔の遠田が椅子に座ってこちらを見ていた。
この男は、本当に不機嫌な時でも周囲が気づかないのではないかという考えが頭を過った。
施設長室は以前来た時と何も変わっていなかった。
無機質な机。書類棚。最低限の調度品。
窓際のソファーテーブルには灰皿が置かれていたが、遠田が煙草を吸っている姿は十年間見たことがなかった。
挨拶を済ませると、遠田は口を開いた。
「休暇はどうだったかね」
軽く雑談を挟む気らしい。
「少々持て余し気味でした」俺は答えた。
暇を、とは言っていない。嘘はついていないはずだった。
遠田は一呼吸分だけ俺を見つめてから、この男にしては珍しく苦笑らしきものを浮かべた。
「年長者の助言は話半分でも聞いておいた方が良い」
「次があればそうします」と、俺は答えた。
遠田は軽く頷くと椅子に座り直し、本題に入る合図を分かりやすく伝えてきた。
机の上に置いてあったファイルケースから紙を一枚取り出し、こちらに差し出した。
受け取って文面を確認する。国嘱託探査士──俺しか存在しないが──に向けた通知書だった。
お堅い文章の末尾近くに、今期の
「君の担当区域だが、エリア217となる事が正式に決定した」
エリア217──尾上たちが失踪した探査区域だった。
「君がすでに、前担当チームの経過報告資料について閲覧申請を出していたのは把握している。自分が担当する事になると、ある程度予想していたようだな」
遠田は手癖のようにファイルケースの角を机に軽く打ち付けると、引き出しにしまった。
「改めて言っておこう。前担当チームは全員が未帰還。不可解な──と言えるほど、我々は外界に詳しくない。だが、予想外の何かがあった事だけは確かだ。留意したまえ」
俺は頷いた。外界に挑む際に必要なのは、予想の精度ではなく対処の速度だった。
「今期探査の全日程は本日より78日間。探査計画及び進捗管理については、君に一任する」
「承知しました」
話はここで終わりらしく、遠田はそれ以上何も言わなかった。
俺は上司に別れを告げ、部屋を後にした。
最初から最後まで、遠田も俺も”最善を尽くす”という類の言葉は口にしなかった。
口に出す必要すらなかった。
そうしなければ生き残れない程度のことは、お互いに理解していた。
◆◆◆
受付に戻り、まずは個室使用申請を行った。
探査期間中、探査員は拠点内の簡易居住区画が使用できる。
外界から帰還した後、わざわざ都市部まで戻る体力を残している人間は少ない。
「個室区画B-12を継続使用設定へ変更しました」
職員から認証カードを受け取り、次は搬入口区画へ足を運んだ。
搬入済みの物資は金属ラックにまとめられていた。
携帯食料や給水袋の詰められた段ボールを一つずつ開き、中身を確認していく。
エリア217までは扉からおよそ70キロ。拠点まで気軽に補給に戻れる距離ではない。
本格的な探査を始める前に、中継用の補給地を複数設営する必要があった。
物資確認を一通り終えたところで、背後から控えめな声が掛かった。
「静間様」
振り返ると、受付職員の若い女が立っていた。
「回収員の方が面会を希望されておりますが」
普通、回収員が探査員に直接声をかけるような事態はない。
それぞれの仕事は独立しているからだ。
探査員が持ち帰れなかった資源に関しても、回収員の割り振りと派遣は管理部が行っていた。
「向こうの名前は」
「綾瀬様と名乗られていますが」
告げられた名に聞き覚えはなかった。
ただでさえ探査期間が始まったばかりだ。
見知らぬ人物からの面会の申し出など断るべきだった。
同時に頭を過ったのは、この時期に探査員を呼び出すには、それ相当の理由があるはずだろうという不確かな予感だった。
俺は小さく溜息を吐いた。
「どこだ」
「回収担当者受付のロビーです。ご案内します」
職員に促されるまま受付へ戻る。
ロビーの長椅子には、四十代半ばの男が座っていた。
袖口に補修跡が残っている作業用ジャケットを身に着け、膝の上に置かれた両手を落ち着きなく組み直している。
白髪の目立つ顔には、不治の病を告げられた患者のような表情を浮かべていた。
こちらに気づいた瞬間、弾かれたように立ち上がった。
「……静間さん、でしょうか」
ひどく疲れた顔だった。
外界帰りの人間に有りがちな疲弊しきった色が、目の奥に薄く残っている。
「そうだが」
短く返すと、男──綾瀬は深々と頭を下げた。
「突然お呼び立てして申し訳ありません」
その声音には、追い詰められた人間特有の硬さが滲んでいた。
「少しだけ、お時間をいただけないでしょうか。静間さんに会わせたい人達がいるんです」
「幸運を呼ぶ壺なら、自分の為に買った方がいい」
綾瀬は慌てたようだった。
「いえっ、そうではなく……どうしても静間さんに協力して貰いたい事がございまして」
「先に今この場で内容を聞かせてもらう。出来ないなら話はここで終わりだ」
「その、用件については向こうが静間さんに直接話すと言われておりまして......いえ、あちらの身元はしっかりしています。決して、反社会に関係するような者たちではありません」
ヤクザの相手なら当分事足りるくらいに済ませていた。
「誰に会うのかも分からない。何を言われるのかも分からない。お宅が俺の立場だったら、そんな誘い文句に付いていくと思うか」
綾瀬は言葉に詰まって黙り込んだ。
立ち去ろうとした俺の足を、男の沈痛な声が止めた。
「……娘の命が、かかっているんです。静間さん、どうかお願いします」
綾瀬に視線を戻すと、彼は俯いたまま立ち竦んでいた。
冗談を口にしている様子ではなかった。
冗談であってくれた方がよほど有難かった。
俺はせめて身振りで不本意を表現しようとしたが、相手の視線は地面を向いていた。
「どこにいけばいい」
綾瀬の肩から、僅かに力が抜けた。
ありがとうございます──と振り絞るような声で呟くと、こちらに顔を上げた。
「すぐ近くの喫茶店です。ご案内します」
◆◆◆
綾瀬と名乗った男を助手席に乗せ、案内に従って到着したのは拠点から車で十分程の場所にある喫茶店だった。
店内は明らかに女性客を意識しており、パステルカラーで統一された客席には若い女が何組か座っていた。
テーブルの上にある小洒落た料理を熱心に携帯で撮影しているグループ以外は、携帯をいじるか、携帯で喋るかしている人間しかいなかった。
大して若くもない男二人は、身につまされるような気分を味わいながら店内を進むハメになった。
奥のテーブルには三人の女性が座っており、それぞれ温度の違う視線を俺に向けた。
真ん中の席に座っていた四十代半ばほどの女が立ち上がった。
紺のスーツに身を包み、髪を後ろで一つにまとめている、いかにも仕事のできる女"風"といった風情だったが、こちらを値踏みするような視線を隠しきれていないあたり、あまり信用はできなかった。
「お忙しい中ありがとうございます。私、芸能事務所アルテミス部長の寺垣と申します」
差し出された名刺を眺めながら俺は口を開いた。
「歌もダンスも自信はないが」
寺垣は面食らったようだった。
小さく噴き出す音に視線を向けると、右隣に座っていた少女と目が合った。
「……あっ、す、すみません……」
顔立ちからして、十代半ばを過ぎたところだろうか。
肩口より少しだけ長い髪が、慌てて頭を下げた彼女の動きに合わせて滑らかに流れた。
華奢な肩に、大きな瞳と長い睫毛。高校のものらしき制服を押し上げる起伏は目を惹くものがあった。
温厚そうな印象とは裏腹に、瞳の奥には差し迫ったような色が垣間見えた。
慌てたように頭を下げる彼女に、反対側に座っていた短髪の少女が不機嫌そうに眉を寄せた。
「ちょっと
ついでのように俺へ向けられた視線には、露骨な警戒と敵意が混じっていた。
美桜と呼ばれた少女と同じくらいの年齢だろう。黒に近い青髪。細い首にはチョーカー。
スレンダーな身体を包む服装は露出が多かったが、それでいて人を寄せ付ける空気はまるでなかった。
異性より同性から人気のありそうな中性的な美形ではあったが、眉間に寄せた皺とへの字に曲がった口は、自らの価値をまるで気にしてないようだった。
彼女は腕を組んだまま、こちらを睨みつけていた。
「で? このおっさんが探査員?」
「
美桜が慌てて諌めたが、彼女の態度は変わらなかった。
「何。別に間違ったこと言ってないでしょ」
寺垣が仕切り直すように小さく咳払いをした。
「鳴海。少し黙ってなさい」
鳴海凪という名前らしき少女は、舌打ちこそしなかったものの不満げに視線を逸らした。
美桜は胃を押さえるようにしながら、こちらに再び頭を下げた。
「あの、すみません、本当に……」
心の中で早くも退出の口実を探し始めながら、俺は空いていた席へ腰を下ろした。