見渡す限り、赤茶けた空と同じ色をした荒れ地が広がっていた。もし
古代ナザレの大工の息子よろしく、俺はただ独り荒野を進んでいた。
残念ながら聖霊の導きもなければ、石をパンに変えろと囁く悪魔すらこの場所にはいなかった。
奇跡も啓示もありはしなかった。
静間虎徹にあるものは、十字架代わりに背負った背嚢、腰から下げた鋼鉄の錐、それから無人の世界だけだった。
常に赤く分厚い帳に覆われた空は、天体について一切の観測を許さなかった。この世界が別の惑星にあるのか、地球と同じ座標に位置するのか、未だに定かではない。
磁針が無軌道に方向を変える為、方位磁針すら宛てにならなかった。なんらかの磁場が干渉しているのではないか──というのが定説だが、結局のところ何もわかっていないに等しかった。
俺は地図を取り出し、現在地を確認した。
外界で自らの位置を確かめる唯一の手段は地図だった。
15年の間、人類が数多の命と引き換えに記してきた成果のひとつだ。
俺が手にするたった一枚の薄い紙切れ。
ここに記された、たかが一センチメートル四方を広げる為、何人が犠牲になったかなどは考えたくもない。
人類が血で描いた地図によれば、第二補給地点まではもうすぐだった。既に何度か通った道ではあるが、外界で気を抜く理由としては弱すぎる。
到着後に補給を済ませ、本命の探査エリアに進む前にしばらく休息を取るべきだろう。
ささやかな報酬を人参の代わりにぶら下げて、くたびれた探査員は足を前に運び続けた。
◆◆◆
寄り添ったまま眠る親子のような二つの岩の間に、俺は腰を下した。
味気ない糧食を給水袋の中身で流し込み、事前に埋めておいた物資を取り出して背嚢の中に詰め込んだ。
背中から伝わる冷気に身を任せていると、自然と拠点での出来事が脳裏に浮かんだ。
『ここ数日のうちに外界に入るそうです』
出発前に拠点で顔を合わせた綾瀬はそう告げた。
どうやら回収作業の合間に俺を探していたらしい。
綾瀬の顔色は悪く、目には深い隈ができていた。
俺の"講習会"については、だいぶ前から娘に聞いていた様だった。
月城には会ったか、と尋ねると綾瀬は頷いた。
『ええ、会いました。回収員としては私より優秀なのでしょうが……』
娘と同じく、不安を覚えているようだった。
あの男の"キレイすぎる"態度は一見すると、他人に安心感を与えるように見える。
だが一度疑問に思った途端、騙し絵の老婆を見つけてしまった後のように、もう以前と同じ見方は出来なかった。
月城ほどでないにしろ、あの手の人間は世間に少なからず存在している。
彼らの行動は常に正しさを拠り所にしていた。もっと正確に言えば、間違った行動をしたと他人に責められる事を病的なまでに恐れていた。
結果の如何に関わらず、彼らの言動は常に他人を納得させるだけの正当性を持っていた。
そして正当性以外は何もなかった。
『しかし、もう私が何を言っても未来は変わらないでしょう。私は、せめて自分に出来る事をするだけです』
綾瀬の顔には、悲壮感と言うよりも末期を迎えた病人のような、一種の穏やかさがあった。
『美桜たちが外界から帰ってくるまで、私は回収員として扉のこちら側で待機するつもりです』
綾瀬はそう続けた。
本来、扉前での長時間待機は規則違反ではある。回収チームとして入場し待機した後は、自分たちの順番が回り次第、速やかに外界に出なければならない。
だが、病院の待合い室で日がな一日過ごしていても警備員に諭されないように、体育館程の広さの片隅で男が一人座っていようが、滅多な事では気にされまい。
警備の自衛隊員達は、あくまで扉の外からの脅威に備えていた。
『詳しい事情は伏せていますが、私だけ残る事について回収メンバーに相談したところ、なんとか承諾を頂きました』
娘が帰ってくるまで待つ。
それ以外に世の中の父親にできる事は無いらしい。
たとえ、娘の行き先が外界であったとしても。
『静間さん、これを』
綾瀬が差し出したのは小さな封筒だった。
受け取ると中に入っているものの形が、薄い紙越しに伝わった。
小さな長方形だった。短い辺の片側には、紐と金属の筒のようなものが付いていた。
『美桜から、貴方に渡してほしいと頼まれました。厄よけのお守りだそうです』
綾瀬は困ったように笑った。
『"静間さんはこういうものは必要としないだろうけど、私たちの為にもぜひ持っていて欲しい"、と』
俺は苦笑して、その封筒を上着の胸ポケットにしまった。
一回り以上年下の少女からの人物評は、どんな内容であっても気恥ずかしいものがある。ましてや、その内容が正確であればなおさらだった。
『娘は、本当に静間さんを信頼しています。あの日、あなたに声を掛けて良かった』
そう言って、綾瀬は頭を下げた。
俺は何も答えなかった。答えるべき言葉は見つからなかった。
◆◆◆
背中から染み込む冷たい感触が、俺を現実に引き戻した。
五感での警戒と思考とを別けて行う訓練は積んでいたが、本来それは探査の為に使う技術だった。
頭を軽く振り、先程の回想を脳から追い払おうとした。御大層に他人の心配ができる立場と状況ではない。
背嚢を背負い、立ち上がった。
エリア217まで残り約十キロ。ここから先は、俺にとって未知の領域となる。
胸ポケットに手を当て上から軽く撫でると、俺は足を踏み出した。
体内時計で二時間に少し満たない程度の移動の末、俺は目的のエリア、その入口付近まで到達した。
途中報告で確認していた通り、エリア217は見渡す限りほぼ平らな荒野だった。有り体に言えば、ここまでに見てきた風景と大差ない。
記念碑のように地面から突き出している巨石群の高さは、大きいもので三百メートルを優に超えていた。
雨風のない外界で、この地形がどのように形成されたのかについては、誰も答えを持っていなかった。
遥か遠く地平線の果てに、薄く稜線が伸びていた。
探査エリアとして指定される面積の平均は、おおよそ10km四方。
東京にある山手線の内側よりもだいぶ広い。
おおよそ一ヶ月を掛けて、その内部の調査と資源の回収を行っていく。
尾上たちの残した地形図を取り出した。
探査状況は全体のおおよそ二割といったところか。
少々歪な四角形の下辺部分に、彼らの調査記録が書き込まれていた。
入り口から見渡した限り、記録と地形に大きな齟齬は見当たらない。
駆け出しの探査員にありがちな、細かく情報を書き込み過ぎてかえって見づらくなるといった事もなかった。
少なくとも、彼らが確認したものを過不足なく記録している事だけは間違いなさそうだった。
俺はその場で立ち止まったまま探査方針について考えた。
彼らが残した記録が、箸にも棒にもかからない程度のものだったら話は単純だった。
全てを忘れ、一から探査し直せばいい。
だが実際には、報告内容の信憑性は高いと見える。
すでに彼らが報告済みの箇所は後回しにし、続きを引き継ぐ形で探査を進める選択肢があった。
この場合、補給の手間を含めたかなりの時間を節約できる。
先行してエリア中央付近で比較的安全な場所を確保できたなら、第三地点として新たな拠点にすることも可能だった。
エリア内に拠点が一つ増えるだけで、探査効率は大幅に上昇する。
普段かなりの時間を掛けていた作業を短縮できるのは、大きな利点と言えた。
思案に費やした時間は短かった。
尾上たちの失踪の原因がなんであれ、このエリアの探査を続ける限り、いずれは遭遇する事になる。
結局のところ、それが早いか遅いかの違いでしかなかった。
俺はエリア217の中央に向けて進むことにした。
◆◆◆
二分ほどの仮眠から目覚めた俺は、片膝立ちの姿勢から身体を起こした。
探査を開始してから、既に六十時間以上が経過していた。
確かに、平野部の探査は森林部や山岳部と比べると難易度は低い。
ただ、あくまで低いというだけであって、それが楽であるという事を意味しなかった。
荒野に点在する巨石に行き当たる度、一周しながら辺りを確認していく。
資源はともかくとして、獣の痕跡を見逃そうものなら後で手酷い応報を受ける羽目になる。
一か所につき、優に三十分を超えるほどの時間を費やして回り終えると、岩壁の窪みに身を潜めて休息を取る。
休息中であっても常に異変に対応できるよう、姿勢を崩し切る事はしない。
舐めるように限られた水分を補給し、比較的安全そうな箇所では数分の仮眠を挟む。
その繰り返しだった。
ここまでの道中で、危険を感じさせるものは何もなかった。
エリア中央に近づくにつれ、漠然とした不審がはっきりとした疑念に変わりつつあった。
余りにも
たとえ探査済みの平野部であっても、隈なく探せば獣の古い痕跡のひとつも見つかるはずだ。
この一帯には何もなかった。生を想起させるものも、死を予感させるものも何一つ見当たらなかった。
月面のような静謐だけが、ただ纏綿と続いていた。
ようやく辿り着いたエリア217の中心部は、都市の一区画がそのまま入りそうな広さの平坦地となっていた。
周囲の巨石群は、この空間を避けるか、あるいは取り囲むように配置されているように見えた。
無影の広場に足を踏み入れながらも、俺のどこかで響く警鐘は一向に停まる気配がなかった。
平坦地の中ほどまで進んだ時、靴底から伝わる感触が不意に変化した。
いままで踏みしめていた錆色の砂地は、金属とも岩ともつかない、硬く平滑な路盤に変わっていた。
チャンネルを変えた瞬間、画面が切り替わるような唐突さだった。
同時に、自分が奇妙なものを踏みつけていることに気づいた。
滑らかな床に、黒く大きな模様が薄く広がっている。なにかの液体が乾いた跡のようだった。
俺の靴の下で形を変えているそれは、黒ずんだ赤と黄ばんだ乳白色が混ざり合った一抱えほどの塊だった。
それが細切れになった尾上たちの肉片だと理解した瞬間、俺は全力で後ろに跳んでいた。
左のこめかみ辺りに衝撃が走り、次いで熱い感触へと変化した。
着地の勢いを殺さずに後転し、膝立ちの姿勢で停止すると腰から錐を引き抜き、逆手に構えた。
追撃はなかったが、俺はその姿勢を崩さずに待機を続けた。
頭からの流血が、左の視界を次第に紅く染めていったが、目を閉じることも拭うこともしなかった。
二分ほど経過したあたりで、警戒は解かないまま緩慢に立ち上がる。
左の側頭部に手をやると、どうやら浅い切創を負っているようだった。
傷の原因と思わしき相手は、周囲のどこにも見当たらなかった。
ふと思いつき、一歩後退してみる。
途端に、辺りの景色は元の荒野に戻っていた。
どうやら、光学迷彩に似た何かで一帯が覆われているらしい。
顔面の血を拭い取ってから背嚢を降ろし、中から手つかずだった糧食を取り出した。
不可解な空間に再び踏み込み、手に持った包装を奥に向けて放ってみる。
放物線を描いて飛んだ糧食は、尾上だった物体を越えたあたりで微塵に切り砕かれ、残骸となって地面に落下した。
不完全極まりないが、とりあえず現在可能な検証を終えた俺は、あらためて周囲を見渡した。
目を引いたものは一つしかなかった。
円形に広がった黒く硬い地盤の中央には、直径十五メートル程の縦穴が開いていた。
こちらのいる手前側から、なだらかな傾斜が空洞の奥へと続いていた。
空洞の壁面も傾斜も、すべて床と同じ材質で出来ていた。
それは、明らかに何者かの手によって造られた通路だった。