※この作品はR-18です。

暴虎は外界を馮る   作:義山硝子

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三章 偶像と人造⑥

 

 外界に限らず、数多の創作物においても異世界に迷い込む話はよく耳にする。

 だが、異世界の中でさらに異質な世界に迷い込んだ事例は、俺の想像の外だった。

 

 俺に出来ることは事象の把握でも理解でもなく、進退についての判断のみだった。

 そして、最初から選択肢など存在しなかった。

 冒険譚の主人公ならいざ知らず、現実において臨機応変な勇敢さなど何の役にも立ちはしない。

 一介の探査員がこの場で出来る事など何もなかった。

 

 正体不明の異物に背を向けるような不用意は避け、慎重に一歩ずつ後退していく。不可視の境界を通り過ぎ、縦穴と路盤と元尾上が視界から消え去った。

 さらに十歩ほど退ったところで、ようやく息を吐いた。

 

 獣の脅威に晒された時とは別種の冷や汗が、背中を流れていくのを感じた。

 

 十年以上外界を出入りしているが、これまで文明の痕跡など一度も見たことがない。

 無論、隠蔽している可能性もあるが、世界各国で行われている探査でも同様のはずだった。

 

 人類は十五年かけて外界を定義してきた。

 罰則の発見、資源の活用、探査の運用。

 集積された情報を礎として、ここが未開の世界であることは外界を語る上での共通認識だったはずだ。

 その前提があっさりと覆された。

 俺にしたところで、探査員を名乗る誰もが少なからず持っているであろう外界知識についての自負は霧散していた。

 

 この事実を知った為政者たちが、外界に対する方針をどう変えるのかは分からない。

 自らの生み出した技術の制御すらままならない人類が、未知の文明に手を掛けたところで碌でもない事にしかならないだろう。

 かといって世の平穏を願い、人類の為と称して隠蔽を決断できるほど、俺は自らを過大評価していなかった。

 

 今すぐに探査を中断し、報告に向かうべきだった。

 

 そうすることにした。

 

 

 ◆◆◆

 

 

 約七十五キロの行程を踏破し、扉に帰還するまでに掛かった時間は凡そ十三時間だった。

 

 生憎、信号板は帰還者たちに向けて赤を示威していた。外界から足抜けするためには、しばらく待機が必要らしい。

 

 扉の周囲に、何組かの回収員が切替待ちをしているのが見える。チーム毎に点在して座り込む彼らは、柄の部分を地面に刺した旗を掲げていた。

 密集のペナルティを避けるためだった。

 他のチームが百三十メートル以内に踏み込まないよう、自分たちのいる位置を周囲に示していた。

 

 禁忌を踏み抜いた際に出現する存在については、他の外界の事象同様、現状何も分かっていないに等しい。

 

 生存者が殆どいないという点もあるが、扉に逃げ込んで何とか難を逃れた数少ない者たちの証言は、一様に要領を得なかった。

 起きた瞬間、今まで見ていた夢を思い出せなくなるように。 刑罰の執行者達の姿は、彼らの記憶から砂のように零れ落ちていた。

 

 俺が駆け出しだった頃、一度だけ目撃した事がある。

 いや、あったはずだった。

 徘徊型の獣に捕捉され、追われたチームが他人を巻き込んだ事故だった。何が起こったのか、何が原因だったのかは覚えている。

 現れた者の姿だけが、本から頁を抜き取られたかのように消失していた。

 

 思い出せない限りは意味がないと切り捨てたはずだった。だが、先程目視した異物は忘れた記憶の残滓に指を掛けていた。

 

 記憶との泥仕合に思考が沈みかけた時、信号板の色が青に変わった。腰を上げた回収チームが、三々五々と扉に吸い込まれていく。

 

 俺は泥沼から頭を引き摺り出し、扉へ向かうことにした。

 

 

 ◆◆◆

 

 

 いつも通り奇妙な感覚を味わいながら扉を抜け、待機施設内に戻った俺は、壁際に立っていた自衛隊員に声を掛けた。

 

「探査士の静間だ。遠田施設長に至急報告したい事がある。施設内にいるかどうか確認してくれないか」

 

 隊員の視線が一瞬だけ俺の頭にできた傷に向いたが、何も言わなかった。彼は帽子のひさしに触れるような敬礼をすると、奥の詰め所らしき場所に駆けていった。

 しばらく待っていると、詰め所から出てきたのは先程とは別の隊員だった。

 

「施設長は先日より本省に向かわれております。お戻りについては、おそらく明日以降になるかと」

 

 通常、探査期間中に遠田が直接判断を求められるような事態はまず起きない。十五年掛けて構築されたサイクルは、良くも悪くも安定稼働と呼べる域に到達しつつある。

 外界に出た人間が十人やそこら還らなかったところで、それはすでに前提として組み込まれていた。

 もっとも、今の俺にとっては不運としか言いようがない。身に余る荷物は、さっさと本来の所有者に押し付けてしまうに限る。

 

 隊員に礼を言い、医務室に向かって足を踏み出しかけた時だった。待機所の奥の壁近くに、見知った顔が所在なさげに立っているのに気づいた。

 綾瀬だった。

 俺が近づくと、向こうも俺に気づいたようだった。

 

「……静間さん」

 

 沈んだ声で俺の名を呼ぶ綾瀬は、手術室の前で祈りながら成否の知らせを待つ、患者の家族を思い起こさせた。

 

「二人は」短く問いかけると、綾瀬は力なくかぶりを振った。

 

「美桜たちが出てから、もう五時間以上経っています」

 

 判断に迷う時間だった。

 移動が徒歩に限定される外界では、五時間は決して長いとは言えない。

 ただ、おそらく月城たちが向かったのは扉近くの未探査地形である可能性が高かった。エリアごと未探査の場所に赴くよりは、行き帰りの安全性の分だけ幾らかマシだ。

 資源の探索にそれなりの時間を使ったとしても、すでに戻ってきてもおかしくはない時間だった。

 

 だが探査員としての理屈は、娘とその友人の安否を祈る父親にとって何の意味も成さないに違いない。

 

 俺は綾瀬の隣に並ぶと、待機所の冷たい壁に背中を預けた。

 ……ありがとうございます、という小さな呟きが隣から聞こえた気がした。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 そのまま俺たちは無言で待ち続けた。

 綾瀬も俺も口を開こうとしなかった。

 

 気休めの楽観的な意見を口にする気はなかったし、綾瀬も聞きたくはないだろう。

 俺たちに出来るのは、ここで二人を待つ事以外になかった。

 

 壁の花ならぬ壁の染み二つが無為に立ち尽くしている間にも、外界へ続く扉からは回収員が五月雨式に帰還していた。

 

 幾組目かの帰還した回収員たちの中に、見覚えのある顔が紛れていた。

 子供の班決めからあぶれたように周囲から浮いたその男は、挙動不審な様子で周りを伺うと、出口でもある検査区域にそそくさと足を運び始めた。

 

 綾瀬も男に気づいたようだった。

 止める間もなく走り出し、逃げるような歩調の男に追いつくと進路を塞ぐように立ちはだかった。

 

 少し遅れた俺も綾瀬の隣に並び、目の前の男を見下ろした。

 

「なぜ一人でここにいる」

 

 男は──月城は答えなかった。

 

 怯えた目をこちらに向けたが、それ以上に周囲の視線が気になっているようだった。

 検査区域に向かう回収員たちは足こそ止めないものの、こちらに好奇の視線を向けていた。

 俺は月城の肩を掴むと、先程まで綾瀬と立っていた壁際に引き摺っていった。

 

 手を突き放すと、同じ台詞を繰り返した。

 

「もう一度聞く。なぜ一人で戻ってきた」

 

 野次馬の目が無くなったことで、月城は口を開く気になったようだった。

 

「……資源を探していたら、いきなり獣が出てきた。こっちに襲いかかってきた。あんなものだとは思わなかった」

 

 喫茶店で見せていた、爽やかさは何処かに消え去っていた。余裕のある口調を取り繕う事さえ忘れているようだった。

 

 綾瀬が悲痛な声を上げた。

 

「娘は!鳴海は!?どこへやった!!」

 

 月城は目を逸らした。 

 どう答えようか考えているようだが、それは綾瀬の心情を慮っての事ではなさそうだった。

 

「……それについては分からない。あれだけ危険な生き物に急に向かってこられて、冷静さを保てという方が間違っている……と思いませんか」

 

 それ以上の追及を恐れるように、早口で続けた。

 

「自分で出来ないことを人に求めるのはどうなんです?僕だったらそんな恥ずかしい事は言えませんが」

 

「つまり二人を見捨てて一人だけ逃げ帰ってきた訳か」

 

 俺の言葉を聞いた月城は、またも目線を忙しなく動かし始めた。

 状況を説明しようとするよりも、どうしたら上手く切り抜けられるかを考えているようだった。

 

「いや、僕は……その、助けを呼ばなくては、と」

 

 月城は自分の言葉に弾かれたように顔を上げた。

 窮余で発した口上を膨らませる方針にしたらしい。

 もっとも、本人にその自覚は無いのだろうが。

 

「そう!救助依頼をするつもりだったんです。誰かが戻らないと救助も出せないでしょう」

 

 二人を見捨てて逃げた事よりも、それを非難される事を恐れる声色だった。

 

「あの状況では最善の判断だったと思います。結果的に二人を置いてくる事になりましたが、間違った行動をしたとは思って──」

 

 喋りきる前に、綾瀬が月城に掴みかかった。

 口からは言葉にならない怒声が上がっていた。悲鳴のようにも聞こえた。

 月城は抵抗しなかった。というよりも、何が起きているのか理解していないように見えた。

 

 俺は振り被った綾瀬の腕を掴んで止めた。

 

「離してくれ!こいつは……この男の身勝手な言い分のせいで娘たちは……!」

 

 俺の手を振り解こうとする綾瀬の腕に、注意を引くように力を込めた。

 

「救助に向かうにしても二人の居場所を聞く必要がある。殴るのはその後でもいいだろう」

 

 俺の発した言葉の意味がゆっくりと頭に伝わるにつれ、綾瀬の腕から徐々に力が抜けていった。

 

 周囲を確認したが、こちらの騒動に気づいたものはいなかった。

 あるいは、気づいているが明らかな乱闘騒ぎでも起こさない限り、民間人同士の諍いに干渉しない方針なのかも知れない。

 

 腰を抜かして床に座り込んだ月城に向かって、俺は口を開いた。

 

「獣と遭遇したのは、いつ何処でだ」

 

 月城は俺を見上げた。目の端に涙が溜まっていたが、それは自責の念からではなかった。

 信じがたい事だが、綾瀬の怒りが自分に向けられる事を予想していなかったらしい。

 この男は、正しい事を言ったはずの自分に向けられた()()()()()()にショックを受けているようだった。

 金魚のように何度か口を開いたが、言葉は出てこなかった。

 

 俺はしゃがみ込むと月城と目線を合わせた。

 

「お前のご立派な釈明を現実にしてやると言ってるんだ。考え込む理由はないだろう」

 

「エ、エリア4への回収ルートの途中から北に……近くに未探査の場所があったから。獣が襲ってきて、扉まで真っ直ぐ走ったから……一時間はかかってないと思う」

 

 その場所なら知っていた。彼らが途中まで進んだのは、鉱石の採掘場に向かう回収ルートだ。

 ルートから北に位置する山岳エリアとその前に広がる岩石地帯は、拠点から近い未探査箇所のひとつだった。

 

「ルートを進んで、どのあたりで進路を変えた」

 

「……扉を出てからルートを一時間くらい歩いた。北に外れた時、近くに大きな赤い岩があった、気がする」

 

 俺は頷いた。月城たちが未探査箇所に踏み入った箇所も把握した。

 ルートを辿らず、扉から直線距離で向かえば二十分以内には到着できるはずだ。

 

「獣が襲ってきたといったが、姿形は覚えているか」

 

「そんなもの分からない!見てる余裕なんて無かったんだ!」

 

 月城は叫ぶと顔を覆った。襲われた時の恐怖がぶり返してきたらしい。

 

 獣の種類が分かれば、二人の生存を判断する大きな材料になる……と考えた所で、俺は内心で苦笑を浮かべた。

 

 生存確率が低ければ救助を取りやめるべきなのか。

 根拠に基づいた勝算もなく、外界に向かうような真似をして探査員が務まるのか。

 そもそも、人類に影響を及ぼしかねない情報を持ったまま、たかだか二人の人間を救うためだけに死地に飛び込むことが本当に正しい事なのか。

 言い訳らしき言葉はいくつでも浮かんできた。

 

 その全てに取り合わず、俺は立ち上がった。

 黙ったまま俺を見つめる綾瀬に向かって告げた。

 

「外界に関することで約束はできない。だが、最善は尽くす」

 

 綾瀬の顔が歪んだ。表情には安堵や希望と、不安や絶望とが分かち難く結びついていた。

 彼が口を開きかけた時、別の言葉が割り込んだ。

 

「なんだよ、結局行くんじゃないか」

 

 座り込んだままの月城が、呟くように言葉を漏らしていた。

 

「最初からあんたが引き受けてれば、こんな事にはならなかったんじゃないか」

 

 溺れかけたところに救助ロープを差し出された人間のように、月城は自分の言説に縋りつき始めた。

 

「そうだよ。僕はあんたの尻ぬぐいをしたんだ。あの娘たちを助ける為に、回収員なのに探査員の仕事をするなんて無茶を引き受けたんだ」

 

 綾瀬が理解できない生き物を見るような目を月城に向けたが、本人はそれどころではないようだった。

 

「上手くいかなかったのは認めるよ。けど根本的な原因はどこにあるのか考えたら、僕だけを責めるのはどうなんだろうか」

 

 自分なりの正統性を取り戻したおかげか、月城の態度は落ち着きつつあった。

 立ち上がると、俺に向かって小さく両手を広げて見せた。

 

「どうだろう、僕の言ってることは間違ってるかな」

 

 論破してやった、という顔だった。

 勝手に議論を持ち込んで一人で完結している人間を相手にする暇はなかった。

 ついでに言うと、いい年齢をして他人を言い負かすことだけに腐心している人間は相手にする価値がなかった。

 

 ただ、正直に言えば。

 月城の言い掛かりめいた非難の一部分に、俺の心のどこかは確かに痛みを覚えていたのだ。

 

 ()()を盤石にする為か、なおも言葉を連ねようとした月城が突然くぐもった悲鳴を上げて蹲った。

 綾瀬が喋りかけた月城の顎を下から殴りつけていた。

 舌を噛んだようで、顎を抑える手の指から血が滴っていた。

 

「もう彼から聞くべきことはないでしょう?」

 

 綾瀬の顔には爽快とは程遠い感情が浮かんでいた。

 これまでの人生で、他人に手を上げた事がないのだろう。

 握りしめた拳が震えていた。

 

「静間さん……どうか」

 

 深く頭を下げた綾瀬に頷くと、俺は扉に向かって歩き始めた。

 

「静間探査士、なにか」

 

 扉前の自衛隊員が近づく俺に声を掛けた。

 

「忘れ物をしたので取りに行ってくる」と俺は答えた。

 

 若い隊員は面食らったようだった。彼の顔は見覚えがあったが、名前は知らなかった。

 

「今は収容時間です。あと一時間程お待ちください」

 

 更に俺が近づくと反射的に銃を上げたが、引き金に指は掛かっていなかった。

 

「悪いが待てない。然るべき処罰は後で受ける。そこを通してくれ」

 

 異様な雰囲気に気づいたのか、他の隊員達が集まりつつあった。

 一瞬、このまま無理矢理にでも扉に飛び入ろうかという考えが頭を過った。

 

「通してやれ」銃を構える隊員に、上官らしき男が近づいて言った。

 

「予定人数の収容は確認している。今なら事故も起きないだろう」

 

 隊員は反論せずに銃を下した。この国の自衛隊はずいぶんと教育が行き届いているらしい。

 上官は俺に向き直った。面識は無いはずだが、何処か見覚えのあるような顔立ちだった。

 

「遠田施設長から、緊急と思わしき際は便宜を図るようにと言われている。今がそういう事態、という事でいいな」

 

 俺は頷いた。だが内心は疑問が浮かんでいた。

 いかに直属とはいえ、遠田が理由もなくいち探査員への便宜を図るとは思えなかった。

 

 上官の顔が近づき、俺にしか聞こえない小声で囁いた。

 

「堂島さんのとこの角田泰臣は俺の弟だ。お前に世話になったと聞いている」

 

 遠田の言葉云々は、周囲に向けた方便だったらしい。

 角田の兄は何事もなかったかのように顔を離し、俺に向かって言葉を続けた。

 

「とはいえ違反は違反だ。戻った際は拘束させてもらうぞ」

 

「構わない。()()を待っていてくれ」

 

 俺は妹の婚礼に出席する兄の気分で扉に踏み込んだ。

 セリヌンティウスを待たせなくていい分だけ、気は楽だった。

 

 

 ◆◆◆

 

 

 月城から聞き出した場所に向かって、俺は全力で外界を駆けていた。

 

 探査の開始から碌に休息を与えていない身体は、先程から喧しく悲鳴を上げていたが無視することにした。

 一度は断った依頼のはずだった。

 無様を晒しながら今さら必死で果たしに行こうとする己の滑稽さに、知らずと自嘲が込み上げてきた。  

 

 だが、引き返す気には一向にならなかった。そうするには、彼女たちとの時間を積み重ね過ぎた。

 

 大人しく白旗を上げ、認めることにした。

 俺は、彼女たちが気に入っていた。

 もし手が届くかもしれない場所にあったなら、命のひとつも賭けていいと思えるくらいには。

 

【挿絵表示】

 

 

 磁針が無意味な外界においては、方角は人類の為の便宜に過ぎなかった。

 扉から採掘箇所に向かってエリア4を横切るルートの中央から、北と仮決めされた方位へ進んだ先。

 岩石地帯に到着したのは、約十五分後の事だった。

 

 未探査エリアである山岳部の麓に位置するその場所には、人の背丈の数倍ほどある岩柱が、無数に乱立していた。

 岩の大きさ自体は、半日前まで俺が探査していたエリア217のそれと比べものにはならないが、逆にこちらの方は比較にならない程、数が多かった。

 ところどころ折り重なるように倒れた岩柱が、有るか無しかの進路を塞いだ様は岩石で出来た迷宮のようだった。

 

【挿絵表示】

 

 

 躊躇せず、奇岩群に足を踏み入れた。

 凡そ五歩に一度、踏み足を強めて砂地に足跡を刻む。

 すこぶる付きに厄介な場所だった。

 獣の対処以前に、見通しの悪いこの場所で彼女たちの位置を捕捉する事自体が困難だった。時折大声で二人の名を叫んだが、俺の声は岩柱に跳ね返り、そのまま消えていった。

 

 全身を炙る焦燥感に耐えながら走り続けていた最中、ほぼ無意識に戦闘服の胸あたりに手が伸びた。

 自らの死を予感しながらも、俺の為にお守りを用意してくれている時、彼女はどんな顔をしていたのだろう。

 

 ふと、綾瀬から伝えられた美桜の言葉を思い出した。

 

 "静間さんはこういうものは必要としないだろうけど、私たちの為にもぜひ持っていて欲しい"

 

 最悪の状況でも最善を探せ、と俺は彼女たちにそう言ったはずだった。

 

 胸に仕舞い込んだままだった封筒を手に取り、封を破いて中身を取り出した。

 中に入っていた長方形のお守りは、それ自体は確かに何の変哲もないものだった。

 紐の結び目についていた金属の筒を見てようやく気が付いた。

 

 たまに神社の授与所で見かけるそれは、小さな笛付きのお守りだった。

 

 動きを止めたのは一瞬だったと言っていい。

 その一瞬の間に俺の胸に飛来した思いは、一言では言い表せなかった。

 

 全ては偶然に過ぎなかった。

 俺が探査を切り上げて帰還した事も、俺が拠点にいる間に月城が逃げ帰ってきた事も、選んだ場所が扉から最も近い未探査箇所だった事も。

 何もかもが期せずして組み合わさっただけの結果に過ぎない。

 

 それでも、ひとつだけ確かなことは。彼女たちが探した末に見いだした最善が、今俺の手の上にあるという事だった。

 

 口に咥えた筒に息を吹き入れる。

 人間の声など比べ物にならない高さの周波が、岩柱を越えて広く響いた。

 

 しばらく進んでは足を止め、笛を吹く動作を繰り返した。

 別の獣を呼び寄せる可能性は承知していたが、今はそれより優先すべき事があった。

 

 笛の残響が遠く消えること十数回、微かな声が俺の耳に届いた。

 

「──────っ」

 

 漂流した無人島で、遥か遠くに船影を見つけた時のような気分のまま、俺は笛を鳴らしつつ声の方に駆けだした。

 

「────静間さんっ!」

 

 岩陰から飛び出してきた少女は、半ば転ぶような勢いでこちらへ駆け寄ってきた。

 

 綾瀬美桜だった。

 

 身に着けたトラックジャケットは土と砂で汚れ、呼吸は散々に乱れている。だが、見える範囲で大きな怪我は負っていないようだった。

 湧き上がる安堵を抑え、警戒の維持を優先するのには、少々努力が必要だった。

 

 凪の姿が見えなかった。

 俺が問うより先に、美桜が震える声を上げた。

 

「私が、私の所為で凪が……」悲愴な音吐がそこで詰まった。

 

 震える美桜の肩に両手を置く。揺れる瞳が俺を見上げた。

 

「俺を見ながら深く息を吸え。窮地で落ち着く方法は教えたはずだ」

 

 美桜は頷くと俺の目を見つめながら、ゆっくりと深呼吸を始めた。

 両手に伝わる震えは、消えはしなかったが徐々に弱まっていった。

 

「凪は何処にいる」何があった、とは聞かなかった。現状は対処が優先だった。全てはその後でいい。

 

 美桜は奇岩群の奥を指差した。

 

「疲れて走れなくなった私を助ける為に、リュックを投げつけて囮に……」

 

 俺は頷いた。美桜に向け、ここまで走ってきた方向を手で示した。

 

「先にここから離れていろ。俺の足跡を伝って外へ出たら、近くの周囲が見渡せる場所で待て」

 

 美桜は動かなかった。俺を見上げる瞳に涙が溢れ、頬を伝って零れ落ちた。

 

「──静間さん……凪を、助けて」

 

 それは酷く静かな絶叫だった。

 片方の命が消えた時、残った側も消え去りそうな錯覚すら覚えた。

 

「お願いします、私にできる事なら何でもします。だから、凪を……お願い……」

 

 俺に向けて崩れ落ちるように下げた美桜の頭に掌を置く。

 

「引き受けた」

 

 それだけを言い残し、俺は石造りの迷宮の奥へ奔走を再開した。

 

 

 ◆◆◆

 

 

 山岳エリアに近づくに連れ、石柱の間隔は狭くなっていった。

 探査員の基本技術として追跡術(トラッキング)は修めていたが、使うまでもなかった。

 

 美桜の残した足跡を辿りつつ、彼女が指差した方向に走りだしてから幾らもしないうちに、この地で繰り広げられた逃走劇の痕跡が目に入った。

 狭い通路のそこかしこに刻まれた人と獣の足型は、まるで誰かがここで舞踏会を開催した後のようだった。

 乱雑にばら撒かれた足跡の中から、北へ伸びた一人と一匹のものを見つけ、追跡を再開する。

 

 彼女たちを襲った獣についても特定ができた。

 第四種 礫牙類。足跡の大きさからして、おそらく成体。

 なべて獣の最高速度は人類を大きく上回るが、この種に関しては機動力が劣る傾向があった。

 彼女たちが、一時間近く追い付かれることがなかった理由も腑に落ちた。

 敢えてこの場から離れずに、複雑な地形を利用して逃走を続けていたからだろう。

 

 全て俺が教えた事だった。

 

 二重息吹で欺き続けた走力も底を尽きかけた頃、石柱の間から響く鈍い音が聞こえた。

 狭い隙間に身を滑り込ませた先は、ちょっとした広間のような空間だった。

 

 山岳エリアの麓らしく、奥側には切り立った山壁が一面に聳え、そこに崩れた石柱が防波ブロックのように積み重なっていた。

 

 鳴海凪はその中にいた。

 

 先程から断続的に響いていた鈍い音は、崩れた岩の集積体に獣が頭部を叩きつけるものだった。

 

 全体的に獅子を思わせる体躯だが、前脚だけが節足類染みて極端に細い。

 光沢のある黒い胴体に比べてやや大きめの頭部は、猫科動物のそれとは似ても似つかなかった。

 鰐のように突き出した長い顎の上には、左右四つずつの黒い単眼が無感情に蠢いていた。

 

 獣の顎が打ち付けられる度に、脆くなった石柱は砕け、崩れ落ちていた。

 岩の隙間から見え隠れする凪の顔は血の気を失い、徐々に近づく終わりに小さく肩を震わせていた。

 

 俺は腰から錐を引き抜き、獣の背後へ向かって歩き始めた。

 

 互いの距離が十メートルを切った時、獣と少女は同時に俺に気付いた。

 凪の目が大きく見開かれた。本人の意思とは関係なく口が動いたようだった。

 

「────嘘」

 

 破砕の音が鳴り止んだ静寂の中、微かな呟きが俺の耳にも届いた。

 

 獣がこちらに向き直った。

 威嚇するかのように開いた大口の内部には、(ノコギリ)染みた乱杭歯が上下一面に植わっていた。

 

「走れるか」俺は姿勢を低くしながら、凪に問いかけた。

 

「……ごめん。転んじゃって……足が」岩柱の隙間から消え入るような声が返ってきた。

 

 獣と距離を保ったまま、ゆっくりと時計回りに足を運ぶ。

 探査における十年間、それなり以上に獣と遭遇し、その度に辛勝を拾ってきた。

 だが、外界生物相手に正面切って闘いを挑んだことは一度もない。

 それ程までに、獣と人類の間には生物として圧倒的な格差が存在していた。

 

 あらゆる方向に瞬時に動けるよう備えながらも、この場を切り抜ける方法に思考を巡らす。

 唯一の可能性としては、獣が凪より俺に執着する程度の傷を負わせ、この場を離れるというものだった。

 

 残されたなけなしの持久力で俺が逃げ切れるかどうかについては不明だが、それについては後で考えることにした。

 

 獣が離れたらそこから出て外へ向かえ──そう凪に言葉を投げようとした瞬間だった。

 一切の予備動作を見せることなく、開いた獣の大顎が目の前に迫っていた。

 

 投げ出すように身を躱す。一瞬前まで俺がいた空間が、顎の内部に閉ざされていた。

 背筋を一斉に這い上がる冷たい感覚すら置き去りにし、着地と同時に踏み込み、両手で握った錐を前に突き出した。

 狙いは過たず、錐の先端が単眼のひとつに突き立った。

 

 その判断が間違いだったと気づいたのは、獣が単眼を刺されたまま大きく首を振った時だった。

 勢いで眼から錐が抜け、柄から手を放す暇さえ与えられなかった俺の身体は、その動きに釣られて大きく前に泳いだ。 

 

 次に見えたのは、無防備に宙に投げ出された俺の両腕に巨大な両顎が喰らいつく光景だった。 

 

 

 俺を呼ぶ凪の悲鳴が聞こえた気がした。

 

 

 

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