全てが始まった喫茶店に、あの日に居合わせた人物が揃っていた。
綾瀬を連れた俺は、三人が座ったテーブルに向けて足を進めていた。
思わず時間が一カ月前に巻き戻った錯覚を覚えたが、俺を目にした美桜と凪の輝くような笑顔は、あれから重ねた時間が確かに存在することを思い起こさせた。
寺垣の両隣りに座っていた二人は、俺が正面の席に腰を下ろす前に立ち上がるとテーブルを周って駆け寄ってきた。
「静間さんっ、こんにちは!お元気でしたか?」
「おっさん、久しぶり。怪我は大丈夫?もう痛くない?」
二人は自然な動作で俺の両隣りに腰を下ろした。
今まさに座ろうとしていた席を奪われた父親は往生していたが、娘の方は気に留めていないようだった。
「ずっと心配してたもんね。凪ってば、あれから静間さんの話ばっかりするんですよ」
「……それは美桜もでしょ。おっさんから返信くるまで、スマホ見過ぎて怒られてた癖に」
女三人寄れば──という言葉があるが、少なくとも十六歳の女子高生に関して言えば二人でも十分条件は満たすらしい。
綾瀬は苦笑しながらテーブルの向かいまで移動し、寺垣の隣に腰を下ろした。
元部下は分かりやすく顔を顰めて見せたが、今回は俺からの呼び出しのため、かつての上司を部外者呼ばわりすることはなかった。
俺を挟んで開催された二人の女子会を、寺垣の咳払いが打ち切った。
「静間さん、まずはお礼を申し上げます。この子たちを助けて頂いたそうで」
寺垣はこちらに向かって頭を下げた。
念願の資源回収証が手に入ったというのに、少しも嬉しそうな様子は見えなかった。むしろ前に会った時よりも憔悴しているように見えた。
「それで、今日はどのようなご用件で?」
疑問を口にしながらも、寺垣の顔はすでに答えを見つけた者の表情が浮かんでいた。
借金の申し出をしにやって来た、遠い親戚を見る目を俺に向けて言葉を続けた。
「救助の謝礼金については社内で協議の上、後日改めて金額をお知らせします」
通りかかった店員に出来るだけ濃いコーヒーを淹れてくれないかと頼むと、俺は寺垣に向き直った。
「謝礼金は必要ない。自分の財布から自分に金を渡す人間はいない」
寺垣は少し戸惑ったようだったが、俺の発言については意味のない戯言だと切り捨てることにしたらしい。
「では、一体何のために我々を呼び出したのです」
「今後の方針について伝える為だ」
俺は酷く疲れ切ったような目をした女を見据えた。
「あの回収証明書は公表しない。二人は正当な手段でデビューをさせる。もちろん契約を結んでいる企業にも、それに協力してもらう」
寺垣は呆気に取られた顔をしていたが、やがてその表情は怒りと苛立ちに取って代わられた。
「……貴方は何を言ってるんです。契約の件は二人から聞いたんですか。おおかたこの子たちに同情でもしたのでしょうが、元はと言えば本人たちの言い出したことですよ。そもそも部外者の貴方に好き勝手な提案をされる筋合いはありません」
「提案ではなく、指示をしている」
寺垣の忍耐は限界を迎えたようだった。彼女の苛立ちの原因は、自身でも気づかないフリをしている罪悪感なのかも知れなかった。
「だから一体何の権利があって──」
俺は携帯のメール画面を開き、寺垣に見えるようにテーブルの上に置いた。
「昨日合意の連絡が来た。未上場のアルテミスは創業者一族が全ての株式を保有していたが、それを丸ごと買い取ることにした」
寺垣はしばらく携帯の画面に目を落としていたが、やがて顔を上げて俺を見た。メールの内容自体は理解できたが、現実が追いついていないようだった。
「待ってください……つまり、貴方は」
俺は頷いた。
「この事務所の持ち主は俺という事になる。指示のひとつも出す権利くらいはあると思うが」
◆◆◆
今までの話を聞く限り、アルテミスの未来は限りなく暗いものに見えた。そもそも所属アイドルに炎上商法を強いている時点で、それは明らかだった。
ある程度どころか、かなり抑えた金額でもアルテミスという
だが一般社会でまともに労働に従事した経験のない男に、暴力関係以外の交渉は荷が重かった。
協力を依頼した綾瀬の働きぶりは想像以上だった。元々実質的な経営を取り仕切っていた男が買収側に回ったのだ。城主が城攻めに参加したようなもので、経営状況や創業者の問題行動など、向こうの弱みは全て筒抜けだった。俺一人では相手にコンタクトを取るだけでも相当の時間が掛かっただろう。
結果として買収に掛かった金額は、今回三人で仕留めた第四種の売却額に毛が生えた程度のものだった。
唐突に降って湧いた話に、寺垣だけではなくアイドル候補生たちも当惑しているようだった。
「えっと、ちょっと待って……じゃあ、おっさんがうちの事務所のオーナーってこと?」
「そういう事になるな」
「あのっ!……静間さんじゃなくて、これからはオーナーって呼んだ方がいいですか?」
事態を処理しきれていないのか、いささかピントのずれた美桜の発言に俺は苦笑した。
「好きに呼んでもらって構わない」
コーヒーが運ばれてきたので口を付けたが、味は以前と変わらずひどく薄かった。
寺垣は携帯のメール文面と俺の顔を交互に眺めていた。
そうしていれば、彼女の居た日常が帰ってくるかのように。
「一体なぜこんな……まさか、二人の為だけにこれだけのことを?」
俺は答えず、代わりに先ほどの問いを繰り返した。
「寺垣部長。事務所の新方針に対して、まだ君の返答を聞いていないが」
寺垣は反射的に背筋を伸ばしたが、そんな反応を見せてしまった自身に立腹したようだった。
挑戦的な目で俺を睨むと口を開いた。
「それは企業との契約に違反します。発生した違約金も、貴方が面倒を見てくれるのでしょうか」
俺は首を横に振った。
「契約を破るつもりはない。さっきも言ったが、連中には彼女たちのデビューまでしっかりと協力して貰う」
「いや、ですからそれは……」
交通違反の取り締まりに対してゴネる人間を相手にしているような口調の寺垣を手で遮った。
「最初に会った時、お宅も自分で口にしていただろう。"証明書の取得が費用負担の条件"と」
記憶を探っているのか、寺垣の視線が俺を通り越して入り口の方に向いた。
正確には車の中で綾瀬から聞いた話だが、最初に出会った時に同じ内容を、目の前の女部長も口にしていた。
「俺の方でも契約書を確認した。確かに二人への支援条件は回収証明書の取得だった。だが、それだけだ。
綾瀬が苦笑しながら口を開いた。
「まあ、死ぬ危険を冒さないと手に入らない代物を、使わないとは普通考えませんよね」
対処すべきは、経営危機によりどうしても話題性が必要だったアルテミスの方だった。
例え契約上は証明書を使う必要がないとしても、彼らの方針を変えさせない限り問題は解決しない。
方針を変えることが難しければ、方針にしがみつく人間の方を無くせばいい。
寺垣は買収を知らせた時のように唖然としたが、やがて頭の中で整合性を検討し始めたようだった。
「それは……文面としてはその通りかも知れませんが……しかし、向こうが納得するかどうか」
別に納得しなくても構わない。
証明書は国家から二人に対して発行されたものだ。部外者にそれをどうこうする権利はない。元の計画通りアイドル自ら公表するならともかく、スポンサーとなる側が契約アイドルのプライベートを勝手に暴露でもしようものなら、燃え上がるのは間違いなく彼ら自身になる。
彼らがスポンサーを降りると言うなら、契約不履行による違約金は向こうの支払いだ。アイドルのデビューに関わるプロモーション費用がいくら掛かるのかは知らないが、違約により発生する金額よりは安く済むはずだった。
俺の話に綾瀬が補足しつつ説明した内容を、三人はなんとか理解したようだった。
美桜も凪も呆然としていた。
執行日当日に、突然無罪を告げられた死刑囚のような気分なのだろう。
沈黙していた寺垣が目を上げた。
彼女の顔には狼狽と焦燥が入り混じった表情が浮かんでいた。
「貴方の……いえ、事務所の方針は分かりました。ですが、今後どうするつもりですか?失礼ですが、芸能界について知識のない人間に事務所の経営が務まるとは思えません。貴方のやったことは二人には救いかも知れませんが、他の者たちにとっては迷惑極まりない。それとも、生じた赤字を永遠に補填し続けるつもりですか」
「そんなつもりはない。第一、経営者なら俺などよりよほど適任がいる」
俺は斜め向かいに座った綾瀬に目を向けた。
「……静間さん。よろしいのですね」
男の声は少しだけ震えていた。
「いいも悪いもこちらから頼んでいる。雇われ社長でよければ、引き受けてくれると助かる」
綾瀬は何かを吹っ切るように被りを振ると、俺に向かって姿勢を正した。
「わかりました。決してオーナーに損はさせません。買収に使って頂いた金額くらい、すぐに取り戻して見せますとも」
言い終わるとこちらに右手を差し出したが、何かに気づいた表情で慌てて引っ込めた。
「娘から聞きましたが、探査員の方は握手をしないそうですね……」
俺は苦笑すると「相手による」と言って自分の右手を綾瀬に向けた。
握手を通して伝わって来た感触は、娘の夢を支え続けた父親の掌だった。
「それで。今度は私が
俯いた寺垣は、自嘲気味な笑いを浮かべて小さく呟いた。独り言のようにも聞こえた。
こちらに目を向けた綾瀬に、俺は肩をすくめて見せた。
「現場の経営者が雇う人物について、いちいち口を挟んだりしない」
綾瀬は頷くと、隣に座った寺垣に視線を移した。
「寺垣。君が私の娘を危険に晒したことは、簡単には許せない。だが元は美桜の提案だったことも知っている。君が君なりに事務所を守ろうとしていたことも分かっている」
穏やかな声だった。その口調には戦場から帰還した兵士を労うような響きがあった。
「私の下でやり直さないか。今後は後ろめたい気持ちで仕事をするような目には合わせない。……約束する」
しばらくの間、寺垣は動かなかった。やがて、瞳からいくつかの雫が零れ落ちた。
俯いたまま「……お願いします」と呟くような声を漏らした後、寺垣は自分の顔を両手で覆った。
幾らもしないうちに、小さな嗚咽が指の隙間から漏れて来た。
「美桜も鳴海も、それでいいかな」綾瀬は二人に顔を向けた。
先ほどから軽い放心状態が続いていた美桜は、自分への呼びかけに対して我に返ったようだった。
啜り泣く女に穏やかな眼差しを向けた後、父親に頷いて見せた。
「もともと私が言い出したことだし……静間さんのおかげで、凪も私も無事だったから」
凪は複雑な表情で寺垣を眺めていたが、やがて腕を組んで顔を背けた。
「……まあ、美桜がそう言うなら」
少しだけ拗ねたような声色だったが、彼女も否定はしなかった。
やるべき事は全て済ませた。
俺は立ち上がるとその場にいた全員に向かって言った。
「そういう訳だ。これで誰も損をしていない。アルテミスの創業者は手切れ金を貰って喜び、従業員はまともな経営者を得た。俺が支払った金額もそこの男が取り返してくれるそうだ」
少し考えて続けた。
「炎上での注目を当てにしていた企業については……おかげで将来のトップアイドルとの契約を失わずに済んだ。──そうなるはずだろう?」
最後の言葉は、まだうわの空の二人に向けたものだった。
伝票に伸ばした手を綾瀬が止めた。
「我々はこれから今後について話し合いますので、ここの支払いくらいは任せてください」
俺は頷いた。「
苦笑する綾瀬と三人の女に背を向けて、俺はそのまま喫茶店を出た。
◆◆◆
フェアレディのドアに手を掛けたところで、二つの影が喫茶店の入り口から飛び出してきた。
「──静間さん!」
「──おっさん、待って!」
美桜と凪は全力で俺の元に駆け寄ると、息を切らしながら俺を見上げた。
二人は何度か口を開きかけたが、うまく言葉がまとまらないようだった。
ようやく息の落ち着いた美桜の口から漏れたのは、ひどく単純な疑問だった。
「静間さん……私たちに、どうしてそこまで……」
「外界で、助けてくれと俺に頼んだだろう」俺の答えも単純だった。
「だから将来受けるはずの糾弾とは無縁にしておいた。ユニットごとになったが」
美桜は一瞬戸惑った表情を見せたが、俺の話がどこに繋がっているかすぐに理解したようだった。
「あれは、凪を獣から助けて欲しいって意味で……」
「そうか。次からはもう少し詳しく説明してくれると助かる」
凪が小さく笑い声を上げた。
「おっさんさぁ、ホントに……そういうとこなんだけど」呆れたように言い放った少女の目の端には涙が浮かんでいた。
諦めていた夢が突然戻ってきたことに、美桜はまだ現実感がないようだった。
罪悪感と戸惑いと歓喜が、目まぐるしく彼女の表情を巡っていた。
「でも、わたしがあんなこと言い出したせいで……みんなに迷惑ばかり掛けて……責任、取らないといけないって……」
俺は揺らぐ美桜の瞳を正面から見つめた。
「あの時、君が口に出した報酬を覚えているか」
なぜ今その話を持ち出すのか分からないという表情だったが、美桜は頷いて見せた。
「それを使わせて貰う。頼むから
美桜の目が大きく見開いた。
見る者を惹きつける可憐な瞳に貯まったものが溢れ出し、彼女の頬を伝って流れていった。
しばしの間そうしていた美桜は、やがて小さく震える手の甲で頬を拭うとこちらを真っ直ぐに見返した。
「──はい!」
夢を取り戻した少女は、そう言って笑ってみせた。
冬の日差しを受けた笑顔の向こうには、凍晴の空が広がっていた。
そこには雲の欠片も見当たらなかった。
車に乗り込んだ俺は、サイドウィンドウを下ろして二人に声をかけた。
「デビューライブを楽しみにしている」
それだけ言い残すと車を出し、冬の路上を走らせ始めた。
全ての偶像はどこかの誰かに造られたものに過ぎない。
だが、例え目指す先が不確かな虚像であろうとも、命を懸けてはならない理由もない。
ふと荒野の只中で見つけたものを思い出した。
結局、俺自身にしたところで同じことだった。
思わず笑いだしたくなる衝動を堪えて、俺はアクセルを踏み続けた。
バックミラーから少女たちの姿が消えるまでそうしていた。
三章本篇をご覧頂き、ありがとうございます。
ここまでお付き合い頂いたことに感謝の念を堪えません。
三章EXに続きますので、こちらもぜひお楽しみください。