特異環境総合管理施設と呼ばれるこの建物は十階まであるそうだ。
伝聞のような言い方になったのは、職員以外が二階より先に上がる事はほとんど無いからだった。少なくとも俺に関して言えば、この十年で一度も上がった事はない。
施設管理者の遠田は防衛省の所属だった。外界関連の仕切りは基本的に経済産業省が行っている。
探査員になってから政府組織間の対立について様々な噂を聞くことはあったが、外界で生き残る為に有用なものは一つもなかった。
施設長執務室は、東館二階の一番奥の部屋にあった。
扉をノックすると、"入れ"という低い声が返ってきた。
執務室は狭く、質素な造りだった。部屋の中央にある木製のデスクには、五十代半ばの男が革張りの椅子に深く腰を落として本を読んでいた。
白髪の目立つ頭髪を几帳面に後ろへ撫でつけ、彫りの深い面長の顔に渋面を浮かべている。
初めて会った時から、この男は常に不機嫌そうな顔をしていた。本人にその気がないことは長い付き合いで知っているが、初見の人間は大抵萎縮するらしい。
仏頂面の施設長が手にしているのは、表紙に色鮮やかなイラストが描かれた本だった。若者向けの、いわゆるライトノベルと呼ばれる類のものだ。
なかなかに奇妙な光景だった。
「ずいぶんと趣味が変わったようですね」
俺の声に、遠田は本から目を上げた。一瞥がこちらの右腕に落ちた。巻かれた包帯から傷の存在を察したのだろう。
それだけで視線を戻し、本の表紙を俺に向けた。
『外界探査員になった俺が最強の力に目覚めて無双する』
「近所の本屋で買った。内容はタイトルの通りだ」遠田は抑揚のない口調でそう言い、本を閉じてデスクに置いた。
「座りたまえ」
俺はデスクの正面に置かれた椅子に腰掛けた。
「腕は」短い問いが降ってきた。
「引退を考える程ではありません」と、俺は答えた。
遠田は頷き、それ以上は聞かなかった。
不機嫌そうな男はしばらく黙って、閉じた本の表紙を見ていた。
「最近よく見かける。書店の棚に何冊も並んでいる。似たような本もあるが、大抵は外界に挑んで栄光を掴む話だ。こんな代物でも、実際に読んだ挙句に回収員として外界に入り、死んでいく若者がいない訳では無い」
俺は黙って遠田の話を聞いていた。
「外界には、このタイトルのような分かりやすい最強の力など存在しない。君が十年間生き延びてきたのも、そういった力があったからではない。目的を見失わず、状況を読み、やるべきことをやり続ける。それだけだ。派手さのかけらもない能力だが、あの世界では最も確かなものだと私は思っている」
遠田は一度言葉を切ると、鋭い視線をこちらに向けた。
「だからこそ厄介でもある。君の経歴も成功モデルとして消費されかねない。最年少合格、十年以上の単独探査、死亡率七割超の環境を生き延びた男。物語にしやすい素材だ。現に政府の広報部署が動いている。どうやら、民衆に向けた英雄譚を作りたがっている連中がいるらしい」
要するに、俺をダシにして
「涙が出る程ありがたい話です」協力相手がアンクル・サムでなければの話だが。
「くだらない目論見ではあるが、彼らの意図は理解できる」
感情の抜け落ちた声で遠田は続けた。
「数多の犠牲を出しながらも我々が扉の向こう側に執着する理由は、今や誰もが知っている。外界で回収できる資源には人類にとってそれだけの価値がある──個人的な意見はさて置くとしても、そう信じる者が大多数だ」
最初期に少人数で出発し、幸運にも生還した探索者が持ち帰った資源の数々は、既存の常識では考えられないものだった。
水に溶かすだけで数トンの石油を精製できる鉱石。老化現象を抑制する効能を持つ草木。汚染物質を除去する力を秘めた植物。生物の傷跡を修復する不思議な花。自己再生機能を持つ加工可能な石材。
そして、倒すことさえできれば、徘徊する外界生物の死骸すらも貴重な資源となった。
血液、鱗、皮膚、骨、内臓——未知の成分が、製薬から建材まで、人類の営みのあらゆる領域に革命をもたらす可能性を秘めていた。
効果こそ薄くなるものの、僅かな回収資源から莫大な量の実用製品を量産する手法も確立され始めた。
「外界に挑む上で技術力と組織力を封じられた人類に残ったものは、純粋なヒトとしての強度だけだ。だからこそ、君たちが選ばれた」
探索を担う者として、特異環境探査士の資格制度が導入されたのは扉が出現してから二年後の事だった。
自衛隊レンジャー試験を上回る難易度を誇る国家資格。合格率は低く、資格保有者は希少とされる。
俺が探査士試験に合格したのは18歳の時だった。当時は最年少だったらしい。今はどうなのかは知らないが。
「各企業が資格保有者の確保に血道を上げているのは君も知っているだろう。最近は将来の探査員候補として、現役の自衛隊員どころか登山家やアスリートまで、実績ある人材の青田買いに余念がない」
企業間の協議と折衝の末、極力ルールに抵触しない制度として探査チームは三人一組という形が定着した。
年数回のシーズン制で探索区域を割り当てられ、命懸けの探査を行い資源を発見、回収する。
──そして、シーズンが来る度に誰かが死んでいった。
「政府も企業も外界に挑む人間は多ければ多い方がいいと考えている。今回の探査における君の成果すらも利用してだ」
「探査員不足は昔からでしょう。今更政府が俺などを担ぎ出す必要がありますかね」
外界に潜る者は大別すると二種類いる。
片方は企業の顔として、未踏エリアの調査、資源の発見を主な活動とする探査員。
合格率一割以下の国家資格保持者。外界探索といえば世間的にはこちらのイメージが強い。
「大企業ご自慢の広告塔なら、先ほど下のモニターで未来の英雄に向けた熱弁を振るっていましたが」
遠田は首を振った。
「回収管理部からも要望があった。人員不足だそうだ」今に始まった事ではないが、と彼は付け加えた。
もう片方、回収員と呼ばれる者たちの活動は、文字通り発見済みの資源回収が主だった。鉱山や群生地のように長期安定した回収が見込まれるポイントは、彼らの領分になる。
資格試験の必要なし。探査済みエリアとなるため、ある程度の安全が担保されている──というのが謳い文句だが、死亡率は5%を超える。現代の蟹工船と呼ばれることもあった。
高コストかつ希少な探査員と比べると、既に発見済みのポイントから延々と資源を回収し続ける彼らは、国家、企業から見れば働きアリに過ぎない。
その他として例外のような人物が一人いるが、それはカウントしない。イレギュラーは分類出来ないからイレギュラーだ。
「探査員だろうと回収員だろうと、結局は命の使い方が違うだけの同業者だ」
拠点施設の最高責任者は深くため息を吐いた。
「この都市──いや、この国はより多くの物語を必要としている。自身の飽食を支える奉仕者を、効率よく集める為に」
十五年かけて、日本側から探索が完了した領域は四国程度の広さに過ぎない。それも不完全なマッピングだ。
向こう側がどこまで続いているのか、誰も知らない。各国の扉が同じ世界に繋がっているのかどうかさえ、いまだ確認されていない。
人類はまだ、その世界の玄関先に立っているに過ぎなかった。
遠田がこちらを見る。いつもの不機嫌そうな顔に、付き合いの長い人間にしか読み取れない程度の気遣いが加わっていた。
「君がどの企業にも属さず、単独で探査を行っている事実もそれに拍車を掛けている。今なら選ぶ先には困らないだろう。本人に向かって言うのも何だが、君は間違いなく世界有数の探査技能保持者だ。これを聞くのは何度目かになるが、どこかに所属するつもりはないのかね」
現在この日本に存在する探査資格所持者は、俺を除くほぼ全員がどこかの企業と専属契約を行っている。
回収した資源は所属先の企業が優先的に買い取る権利を持つが、それに加えて担当エリアの探査完了だけでも高額な基本報酬が支払われる。
チームに欠員が出れば雇い主が代替人員を手配し、装備や治療についてもサポートを受けることができる。
まともに考えれば所属しない理由はない。
「今のところ予定はありません」
俺は答えた。いつも通りの返答だった。
試験に合格した当時、俺と契約を結ぼうという企業は一つもなかった。
最年少資格取得者と言えば聞こえはいいが、裏を返せばそれは過去に何の実績も持たないという事だった。
同じ資格所持者でも、企業は経験のある者──特殊部隊経験者や元自衛隊所属者──を優先して雇用していた。
残された手段として、俺は国家と直接契約する事となった。名目上とはいえ、外界に関する一切の権限は国家が管理している。この場合は国家から嘱託という形での探査になる。施設管理者の遠田は、俺にとって直属の上司に近い。
基本報酬ゼロ、装備も、計画も、負傷や死亡についても全て自己責任。探索箇所は、リスク管理の観点により企業が候補から外す山岳部や森林部などの危険エリアが担当になる。
探査員の死亡率は通常のチーム編成時で年間二割程度だが、単独探査となると七割を超える。
過去、俺以外にも単独で外界に挑む人間がいないでもなかったが、生還した者は一度の探査でその生き方を辞める事となった。
それ以外の者は全員死んだ。
単独での探査を続けて二年もすると、手のひらを返すように専属契約の打診が殺到した。
全て断った。意地になっていたのかも知れない。
「企業所属の利点は理解しています。ただ、外界での探査はそれが全てではない」
だが最も大きな理由は、俺にとって単独探査が最も生存率の高い手段であると合理の果てに自覚したからだ。
企業所属になれば否応なしにチームに組み込まれる。
仮にそれを免れたとしても、探査に纏わる様々なしがらみは避けられない。選択する理由など何もなかった。
「理解した」遠田の言葉はこちらの返答を予期していたように短かった。
「君を呼んだ用件は以上だ。覚悟のない人間が物語に背中を押されて外界に入る。それがどういう結末を迎えるか、君は誰より知っているはずだ」
その結末ならバーゲンセールで売るほど見てきた。
「休暇中はおとなしくしていろ。目立つ事はするな」
「努力はします。少なくとも、こちらとしては」
遠田は頷き、少し間を置いてから口元を僅かに緩めた。常に表情に張り付いた渋面が、微かに和らいだ。
「偶には羽根を伸ばしたまえ」
「そうするつもりです」
俺は立ち上がり、部屋を後にした。扉を閉める瞬間、デスクの上に置かれた本が視界の端を掠めた。
廊下に出ると、巨大な施設特有の無機質な空気が戻ってくる。
表紙の鮮やかな色だけが、妙に頭に残った。
◆◆◆
執務室を出た俺は階段を降り、一階を通り越して地下まで足を進めた。
すぐにでも拠点を出て遠田の勧めに従いたいところだったが、まだやるべきことが残っていた。
探査員用の整備区画は東館の地下一階にあった。
企業から支給される遠征糧食から予備の探索装備品まで、探査員が活動する為に必要な物資がチームごとに保管されている。
いくつかのグループが、コンテナやら金属ラックやらの前で寄集まっていた。企業所属の探査チームだった。
区画内に足を踏み入れると、彼らが気付いた順番にこちらに視線を向けるのがわかった。
九割はこちらを一瞥した後、すぐに視線を戻した。自分の命を預ける装備の前では、他人の動向など最初から眼中にない。極めて正常な優先順位だった。
残りの一割は違った。視線が少しだけ長く留まる。籠もっていたのは敵愾心とも呼べないほど僅かな感情だった。どちらかと言えば異物に向けるそれに近い。彼ら自身も自覚していないだろう。表立って何か言ってくる者はいないのは、俺が彼らより長く生き残っているという、それだけの理由だった。
管理受付カウンターの奥から二番目に森國が座っていた。
たしか四十代後半だったはずだ。禿げ上がった頭の下にある金壺眼が睨むようにこちらを向いた。
通常なら探査員装備の支給と整備は、企業から派遣された担当者が行う。自衛隊技官である森國が俺の装備に手を入れるのは、完全に彼の趣味だった。
「帰って来たか。見せてみろ」こちらが声をかける前に森國の短い要求が聞こえた。
腰から引き抜いた錐を渡すと、男は光にかざして刃先を確認した。
「なんだこりゃ。……おい、今度は何を殺った」
俺が鱗甲類との戦闘経過を伝えると森國は低く唸った。
「お前さん、相変わらずどうかしてる」
最新の人間工学とやらに基づいた多機能短槍を標準装備とし、三名協力を前提とした交戦・撤退を基本理念とする企業探査チーム。
彼らと比べれば、自作の武器一つとナイフのみで探査を進める人間など、確かに正気を疑われても仕方ないのかも知れない。
刃先をためつすがめつしていた男は、目の前のカウンターに錐を置いた。
「芯は歪んじゃいないが、刃先が欠けてる。研ぎ直しだな。サービスで掴紐も取り替えておいてやる」太い指で器用に紐を解きながら顔を上げずに続けた。
「
俺は首を横に振った。「今期の探査は終わった」
「ならいい。数日したら取りに来い」
森國は引き出しから緑色の引換証を取り出すと、こちらに放った。
「優秀な技師がいる事に感謝しておけよ」
「優秀な技師は自分の仕事をいちいち自慢したりしない」
「口が減らない野郎だ」
そう悪態を吐くと、自称優秀な技師は錐を抱えて奥に引っ込んだ。
探査後の後片付けをようやく済ませた俺は、拠点を出て自分の事務所に帰ることにした。
この世界に戻ってきてからすでに三時間以上が経過していた。
最強の力に目覚めて無双するような探査員なら、傷を抱えて惨めにうろつく羽目になぞならなかったろうに。