アリスは激怒した。
必ず、かの好色淫蕩の教師を除かなければならぬと決意した。アリスには男女の機微がわからぬ。アリスは、小学三年生の女児である。父を亡くし、姉と遊んで暮して来た。けれども母親に対して向けられる視線には、人一倍に敏感であった。
アリスの担任教師は三十前後の独身男である。
パパがお空にいってしまってから、三者面談や家庭訪問にかこつけて、担任はママに会いたがった。
そのたびにママに向けられる視線が、アリスはとてもイヤだった。
前のおうちに来ていた怖いおじさんたちと同じ、べとべとしている目だった。
──いちばん困ってたときに、助けてくれなかったくせに。
母子家庭の様子を見に来るという口実でも用意していたのだろう。
ある日アリスの家まで車でやってきたその教師は、玄関前の
その後、担任はしばらく大人しかった。最近になってアリスの身なりが良くなったのに気づいたらしい。
どうやら問題は解決したようだと察した男は、猫なで声でアリスからママの様子を聞き出そうとした。
だが、もう遅い。
もうママには、おじさまがいるのだ。
強くてかっこよくて、いつも静かだけど優しいおじさま。
いつかママとおじさまは結婚するだろうが、新しいパパにはなって欲しくない。
前にパパは「パパとは結婚できないんだよ」と笑っていた。
アリスがおおきくなったら、おじさまのおよめさんにして貰うのだ。
その後ならママと結婚してもいい。
しかたがないが、アリスにちゃんとお願いするなら、お姉ちゃんもおじさまのおよめさんになるのを許してあげてもいい。
さいきん、お姉ちゃんはアリスとママが二人で出かけるのをじっと待っている気がする。
おじさまと二人きりになったら、思い切り甘えているに違いない。
それでも、おじさまは渡さない。
ママもおねえちゃんもキレイだしお胸も大きいけど。
おじさまを好きな気持ちはだれにも負けないのだ。
◆◆◆
一家団欒の夕食の終わり。
アリスはポケットにしまっていたプリントをおじさまに差し出した。
大きな手が折り畳んだ紙を受け取ると、低い声が紙片に書かれた内容を読み上げた。
「冬の運動会、保護者参加のご案内……だそうだ」
おじさまはママに向けてプリントを広げた。
「アリス、おじさまは忙しいから……すみません、旦那様」
頭を下げようとしたママを、おじさまが手で止めた。
「別に構わない……だが、保護者同士の懇談とやらには期待しないで貰いたい」
やったぁ!と思わず歓声を上げる。ママもうれしそうだった。
「叔父さんに交流は期待していませんが、多少身なりは整えた方がいいと思います」
ハンカチで口を拭きながら、お姉ちゃんが口をだした。
叱ろうとしたママが何か言う前に、逆にママに言い足した。
「お母さんも、お洒落した叔父さんと一緒に行きたいんじゃありませんか」
ママはすごい勢いで首を縦に振った。その後、我に帰ったようにおじさまを見た。
「えっと、旦那様がよろしければ……ですけど」
おめかしをしたおじさまなんて見たいに決まってる。
お姉ちゃんも、たまにはいいこと言う。
アリスも期待を込めておじさまを見た。
「……わかった」おじさまは苦いものを食べたような顔をして頷いた。
お姉ちゃんがハンカチに隠した口でほくそ笑んだが、アリスからは全部見えていた。
「決まりですね。では週末、私と買い物に出掛けましょう。女性の意見があった方がいいと思いますよ」
……やっぱり、お姉ちゃんはずるい。
◆◆◆
朝から校庭はお祭りみたいだった。
白線が引かれた土の上を、赤組と白組の帽子が走り回る。
放送席では校長先生がマイクの調子を確かめていて、保護者席ではシートを広げる音があちこちから聞こえてきた。
アリスは整列しながら、何度も校門の方を見た。
ママが入ってきたのはさっき見つけた。
おじさまは……まだ来ていない。
「おい」後ろから声がした。振り向くと、同じクラスの男子が腕を組んで立っていた。
「お前の父さん来ないんだろ」
この男の子はいつもアリスにいじわるな事を言う。アリスは何もしてないのに。
彼の言動はこの年齢にありがちな好意を持った相手への裏返しであったが、アリスが男児の名前を覚えることはなかった。
アリスの横にいた女子が口を挟んだ。
「やめなよ。アリスちゃんのお父さん、死んじゃったんだよ」
女児の言葉は一見するとアリスを庇うようだったが、その声音には優越感が滲んでいた。
子供の社会ではしばしば起こる事だが、優れている点ではなく劣っている点がより注視される。
毎日のように投げかけられる同情と見下しの混じった言葉に、いつもアリスは悲しい思いをしていた。
でも、今日は違う。アリスは小さく胸を張った。
「おじさまが来るもん」
「おじさま?」「だれだよ、それ」
おじさまのすごさを説明しようと思ったところで笛が鳴り、校長先生のお話が始まった。
いつの時代でも、校長の話は長くて退屈なものと相場が決まっている。
もしかすると、話が長くて退屈な人間だけが校長になれるのかもしれない。
右耳から入る音を左耳に流すだけの労働をようやく終えたアリスは、まっすぐ保護者席へ走った。
「ママ!」
ママがこちらに手を振る。
柔らかそうな黒いセーターに、白いロングスカートを合わせたママは、今日も世界でいちばんきれいだった。
でも、隣にいるはずのおじさまが見当たらない。
「おじさまは?」
「車を停めてるの。もうすぐ来るから」
アリスは胸を撫で下ろした。
「あら、マリアさん。今日は誰かと一緒なんですか?」
近くにいた誰かの母親の一人が、ママに声を掛けた。
「ええ。旦……
少し困ったように答えたママに、母親は一見すると心配そうに見えなくもない表情を浮かべた。
「まあ、そう。よかったわね。……でも、いつも手伝ってくれるわけじゃないでしょう。貴女、早く新しい人見つけたらどうかしら?」
近くにいた何人かが、誘われてもいないのに話に加わってきた。
劣っていると見なされる点がより注視されるのは、どうやら子供の社会だけではないらしい。
「最近なにかと物騒ですし、母親だけだと子供の教育にも……ねえ」
「そうそう。マリアさんくらい奇麗な方なら、すぐにいい人みつかりますよ」
嫌な笑みを浮かべた母親の一人が、わざとらしく目線を動かした──その先から。
「静間さん、おはようございます。いや、今日もお美しい」
担任が近寄って来た。
軽薄な笑いを顔に貼り付かせながら、すばやくママのお胸とお尻を盗み見たのを、アリスは見逃さなかった。
「今日はお一人でしょう。よかったらお昼をご一緒させて頂けませんか」
「いえ、その……」
ママが答えようとした、その時。
保護者席の向こうで、人の流れがゆっくり割れた。
自然と出来た道の向こうから、一人の男がこちらに近づいてくる。
長身を包むのは品の良いベージュのスーツ。
ネクタイは締めず、胸元を開けた黒いシャツ。
ピカピカに磨き上げられた、ベルトと同色の革靴。
無駄な装飾品は一切なく、左手首に銀の腕時計だけ巻いたその男──アリスのおじさまは、少しだけ仏頂面をして歩いていた。
『ただ高価だというだけでは駄目です。高価だと悟らせないために敢えて手間を掛けて、ようやく及第点です。一番いいのは、その価値を自然に相手へ気付かせることですね。……服も中身も同じことです』
お姉ちゃんの言っていた言葉の意味はよくわからなかったけど、それが正しいことは周りのみんなの様子でわかった。
ただ歩いているだけなのに、誰も前を横切ろうとはしない。
保護者の女性の何人かが、おじさまの後ろ姿を視線で追っていた。
──さすがお姉ちゃん。いいしごとをする。
テレビで見たこれまた意味はよく分からないセリフと共に、アリスは心の中で姉に拍手を送った。
「旦那様」ママの声が、明るくなる。
アリスとママの前まで来ると、おじさまは足を止めた。
「待たせた」
「いいえ」
交わされたのは、たったそれだけのやり取りだった。
その様子を呆然と見ていた担任は、ママに狼狽した目を戻して問いかけた。
「こちらは、新しいご主人で……?」
ママはゆっくり首を振った。「違います」
担任の顔色が明るくなった──ほんの少しの間だけ。
ママはおじさまの片腕を取ると、自分の大きな胸に抱き寄せた。
「──私は、そうなればいいなとは思いますけど」
にっこりと微笑んだママに引き攣った笑いを返すと、担任は肩を落として立ち去った。
その背中に、アリスは小さく舌を出した。
担任の姿が人波に消えるのを見届けてから、アリスは周りに目を向けた。
どうやら聞き耳を立てていたらしい周囲の空気が変わっていた。
近くに座っていた母親たちが示し合わせたかのように、じりじりとおじさまの方へ近づいてきていた。顔には愛想の良い笑顔を浮かべていたが、アリスはすぐにわかった。
あの教師にどこか似た目が、今度はおじさまを向いていた。
「あの、マリアさんの
母親の一人がおじさまに声をかけた、その瞬間。
ママがおじさまの腕を取ったまま、そっと身を寄せた。
そのまま特に何も言わず、静かに笑顔を浮かべたままだった。
話を続けるつもりで喋りかけた母親が、何かに気づいたように口を閉じた。他の一人が隣の人と目配せをして、そのままさりげなく視線を逸らした。
そのまま波が引くように、人が散っていった。
アリスは少し驚いた。ママがあんな顔をするのを、あまり見たことがなかった。怒っているわけでも困っているわけでもない。ただ静かで、落ち着いていて、それでいてどこか……怖い。
お姉ちゃんが時々する顔に、少しだけ似ていた。
「ママ、今の」
「なあに?」こちらを向いたママは、いつも通りの柔らかい笑顔に戻っていた。
アリスはしばらく考えてから、首を振った。
「ううん、なんでもない」
おじさまはその間ずっと、グラウンドの方を向いていた。ママの様子に気づいていたのかどうかアリスにはわからなかった。でも、たぶん気づいていた。
おじさまはきっと全部わかってる。
◆◆◆
開会式が終わると、校庭はいよいよ運動会らしい喧騒に包まれた。
最初の競技は低学年の五十メートル走だった。
スタートラインへ並んだアリスは、保護者席へ目を向けた。ママが大きく手を振り、おじさまは静かにこちらを見ている。目が合うと、小さく頷いてくれた。それだけで、うるさかった胸の音が少し落ち着いた。
よーい、というどこか間の抜けた先生の声に腰を落とした次の瞬間、頭の中は真っ白になった。
ドン、という音が頭に響いた瞬間、夢中で駆け抜け、気がつけばゴールだった。
息を切らしながら振り返ると、ママが立ち上がって大きく拍手をしている。
アリスは三位だった。
一番ではなかったけれど、ママがあんなに嬉しそうなので、まあ良しとしておこう。少女はしたり顔で頷いた。
その後も競技は次々に続いた。
玉入れでは籠目掛けて夢中で玉を投げ、気づけば三つも入っていた。騎馬戦では帽子を守ろうと最後まで粘ったものの、体の大きな子に奪われてしまう。悔しさに唇を噛みながら思わず保護者席を見ると、おじさまは変わらずこちらを見ていた。
分かりやすく手を振ったりはしない。
こちらが失敗してもガッカリした素振りも見せない。
ただ、黙ってアリスを見ていた。
それだけで十分だった。
お昼休憩になると、アリスは二人のところへ一目散に駆け寄った。
「おじさま!」
見てた?とは聞かなかった。知っているからだ。
おじさまは手を伸ばし、大きな掌でアリスの頭を撫でてくれた。
えへへへ、という声が思わず口から漏れてしまう。
「玉入れ、三個入ったの」
さっきから気になっていたことを聞く。
「おじさまだったら全部入れられる?」
おじさまは少しだけ考えてから答えた。
「そうする必要があるならな」
アリスは満足そうに頷いた。
つまり全部入れられるということだ。
お弁当を広げると、おじさまも自分の弁当箱を開ける。
そのまま、おじさまは少しの間だけ動きを止めた。
朝からお姉ちゃんが台所に立っていたのを思い出し、おじさま用の中身が気になって思わず横目で覗きそうになる。でも何となく後で怒られそうな気がして思いとどまった。
隣でママがカップにお茶を注ぎ「どうぞ」「ああ」という短いやり取りが交わされる。
ほんのそれだけなのに、二人は昔からそうしてきたみたいに自然だった。
アリスはお弁当を頬張りながら、その様子を何度も見てしまう。
初めて知った。
しあわせがいっぱいなると、泣きたくなることもあるんだ。
午後の競技もあっという間だった。
綱引きでは赤組が勝ち、応援合戦では声が枯れるまで叫んだ。競技が終わるたび、アリスは保護者席へ目を向けた。
そこにママがいて、おじさまもいる。
その当たり前が嬉しくて。今日という日がずっと終わらなければいいのにと思った。
やがて運動場に放送が流れる。
「親子混合リレーに出場される皆様は、本部前へお集まりください」
保護者席が少し騒がしくなり、おじさまが静かに立ち上がった。
「いってらっしゃいませ、旦那様」
運動靴へ履き替えたおじさまは、ベージュの上着を脱いでママに預けると黒いシャツ姿のまま本部前へ向かった。
アリスは、その背中が大人たちの人混みに紛れて消えるまで目で追っていた。
◆◆◆
親子混合リレーは、運動会の締めくくりだった。
校庭中の視線が集まるなか、アリスは三走として中継地点へ立っていた。前の走者が近づくにつれ胸の鼓動も速くなる。思わず前に目を向けると、トラックのはるか彼方でおじさまが静かに待っていた。
「渡すよ!」
息の切れた声が掛かると、アリスは振り返らず先生に教わった通り腕を後ろへ伸ばす。そのまま前へ走り出しながら指先に触れたバトンを握り込もうとした、その瞬間だった。
受け渡しのタイミングがほんのわずかにずれ、滑ったバトンを掴み直そうと身体をひねる。無理な体勢のまま踏み込んだ足がもつれ、アリスは勢いよく前へ転んだ。
膝へ焼けるような痛みが走り、一瞬だけ校庭の歓声が遠のく。それでも腕の中へ抱え込むようにしたバトンだけは離さなかった。
先生やクラスメイトの声が聴こえる気がする。こちらの名前を呼んでいるみたいだけど、よくわからない。
でも、そんなことはどうでも良かった。
アリスの心を占めていたのは、早く走り出さなければいけないという思いだけだった。
だって、そうしないと。
必死に立ち上がると膝についた土も払わず、おじさまの待つ場所へと向かって走った。
おじさまはいつも通りの姿勢でそこに立っていた。
こちらを見つめる顔には焦りも不安も見えはしない。
転んだアリスを心配する様子すらなかった。
その表情に浮かんでいるのは、アリスが必ずここまで辿り着くという静かな信頼だけだった。
「おじさま……!」
おじさまが静かに片手を差し出す。
アリスは転ばないよう踏ん張りながら、その固い掌へバトンを押し込んだ。
受け取る瞬間、おじさまは一瞬だけアリスの顔を見て、低く言った。
「任せろ」
その言葉すらかき消すような勢いで、黒いシャツが校庭を一直線に駆け抜けていく。
そのリレーは、本来なら勝敗よりも参加することを楽しむ競技だった。転んで笑いを誘う父親もいれば、子供の声援に照れ笑いを浮かべながら走る母親もいる。校庭を包んでいた空気も、そんな和やかなものだった。
だが、おじさまが前を走る一人に追いつき、そのまま迷いなく抜き去った瞬間、校庭の空気は目に見えて変わった。あちこちから上がっていた歓声はいつしかどよめきへ変わり、二人目、三人目と前の走者を抜いていく頃には、笑いながら見ていた保護者も、友達へ声援を送っていた子供たちも、誰一人として目を逸らさなくなっていた。
最後の直線へ入る頃には、おじさまは他の走者を引き離し、ただ独りで走っていた。
──まるでいつもそうしているように。
おじさまはそのまま誰よりも先にゴールテープを切った。
一瞬遅れて、校庭中から割れんばかりの歓声と拍手が湧き上がった。
ママは立ち上がったまま夢中で拍手を続け、アリスは膝の痛みを忘れて立ち尽くしていた。
おじさまがゴールの先で振り返ると、小さく頷いた。
アリスは泣きそうな顔のまま、大きく頷き返した。
◆◆◆
閉会式が終わる頃には、アリスの足はもう言うことを聞かなかった。
駐車場へ向かう途中でフラフラしていると、背中に目がついてるかのように、おじさまがこちらを振り向いた。
「歩けるか」
首を横に振ると、おじさまは何も言わずしゃがみ込み、そのまま背中へ乗せてくれる。
大きくて暖かい背中に揺られ、靴底が一定の調子で地面を踏みしめる音を聞いていると、不思議なくらい眠気が込み上げてきた。
「おじさま」
「なんだ」
「……ありがとう」
少しだけ間が空き、いつも通り「ああ」という短い返事が返ってきた。
おじさまと並んで歩くママがこちらを覗き込み、優しく微笑む。アリスも笑い返しながら頬をおじさまの肩へ預けた。
きっとここが世界で一番安心できる場所なんだと思いながら。
アリスは静かに目を閉じた。
普段の虎徹はここまであからさまに目立つことをしませんが、今日は何故か例外だったようです。
ストックが切れてしまいましたが、断章はあといくつか続く予定です。