昨日の夜から降り続けた霙がようやく止んだ午前十一時頃だった。
ベッドの上に放り置いていた携帯電話が鳴りだした時、俺は椅子の背にもたれ掛かって巷で流行っているという外界ライトノベルを斜め読んでいた。
自分だけが使えるアイテムボックスとやらに資源を詰め込み始めた主人公を机の上に置くと、俺は身を起こして携帯を拾い上げた。
着信は遠田からだった。拠点施設への立ち入り制限解除までは、まだ半月以上あるはずだ。
通話を押して携帯を耳に当てると、初老の男の不機嫌そうな声が聞こえた。
「遠田だ。君への依頼を抱えた人物から仲介を頼まれた」
俺が何か喋る前に、続けて遠田はこちらが聞こうとしていた内容を全て並べた。
「相手は外務省の人間だ。依頼内容は聞いていない。日程の都合はそちらに合わせるが、なるべく早い方が望ましいとの事だ」
「直接の連絡とは珍しい。いつも通りメールで指示を貰えれば対応しましたが」
「私が君へ指示する権限を有するのは、嘱託した外界探査の対象範囲までだ。だから……そうだな。今回の件は、私から君への個人的な頼みと言っていい」
遠田の声には、この男にしてはめずらしい苦笑が滲んでいた。
「問題ありません。依頼の方も引き受けるべきですか」
「別に断ってくれても構わない。私が頼まれたのはあくまで君への仲介だけだ。依頼を受けるかどうかは、君の判断に任せよう」
俺はいつでも伺いますと言って通話を終えた。
十五分後、遠田から東区にある都市庁舎の住所と末廣という名前が書かれたメッセージが届いた。
指定された時刻は今日の午後一時だった。いつでも、といったのはこちらだったが、余程急ぎの用件らしい。
あるいは単に無駄な時間を惜しんでいるのかもしれなかった。経済至上主義で組み上げられたこの都市では、金より大切とされるものは時間くらいしか存在しない。
手持ち無沙汰な日々を過ごしている今の俺にとっては、少々負い目を感じる思想だった。
一日作さざれば一日食わずというお節介な禅僧の格言を頭の中から追い出した俺は、早めの昼食を済ませる事にした。
そして、ようやく職にありついた失業者の初出勤日のように、心持ち胸を張って外に出た。
◆◆◆
霙の上がった冬空は、逆に寒々しさを感じるほど青く晴れ渡っていた。
東区のほぼ中央に位置する三階建ての庁舎は、中央区の本庁舎に収まりきらない各省庁が寄り集まった出張所のひとつだった。
俺は落ち葉だらけの駐車場にフェアレディを停めた。
受付で名前を告げ、案内に従って階段を上がり、薄暗い廊下を進んで手前から三つ目の『応接室2-C』とプレートの掛かった扉をノックすると中から「どうぞ」という声が聞こえた。
応接室は十二畳ほどの質素な客間で、背の低いガラステーブルを挟んで二つ置かれた黒革のソファーの他には、壁際にぽつねんと置かれたキャビネットしか調度品は見当たらなかった。
俺が部屋に入るのと同時に、奥のソファーに座っていた二人の男が立ち上がった。
一人は五十代半ばあたりの年配で、恰幅の良い体を薄茶色のダブルに包んでいた。少々薄くなった頭髪をカバーするかのように生やした口髭は、どこか愛嬌のある男の顔立ちに不思議とよく似合っていた。
もう一人は特徴のない紺色のスーツを身に着けた三十歳前後の痩せた男で、後ろに撫でつけた黒髪の下にある顔に、減量中のボクサーのような険しい表情を浮かべていた。
勧めに従って彼らの対面に置かれたソファーに座ると、二人も再び腰を下ろした。
年配の男がこちらに向けて愛想よく笑った。
「静間君だね。外務省の
錦辺と呼ばれた男は尖った視線でこちらを一瞥すると僅かに顎を引いた。どうやら会釈をしたらしい。
末廣は上着の内ポケットから煙草を取り出すと、こちらに断ってから火を着けた。
近年、役所の類は全面禁煙が定番だったが、どうやら例外もあるようだ。
「いや、わざわざ来て貰って済まないな。直接連絡をすることも考えたんだが、知らない役人からいきなり呼び出されるよりは、遠田さんから話を通して貰った方が早いと思ってね」
宙に煙を吐き出した末廣は、こちらへ身を乗り出すと、内緒話をするように声を潜めた。
「実は遠田さんは大学時代の先輩でね。いつも不機嫌そうな顔をしているが、あれで結構面倒見がいいと一部では評判で──」
「なかなか興味深い話だが、先に用件をお聞かせ願いたい」
俺は末廣の懐古談を遮った。内容に関心がないでもなかったが、知り合いの昔話を拝聴しに来たわけではない。
ああ失敬、と言って吸い差しの煙草を灰皿の縁に乗せた末廣は、わずかに姿勢を正した。
「実はある人物が君との面会を希望していてね。ぜひ引き受けて貰いたいのだが」
「どういう相手か聞かせてくれませんか。いきなり"ある人物に会え"と言われても気軽にはお受けできない」
「うん、もっともな話だ。……とりあえず、さる高貴な身分にある方だと言っておこうか。今回の件は非公式の希望なんだが、我々の立場としてもそう無下にもできなくてね。まったく、宮仕えの辛いところだよ。国家嘱託探査員とはいえ、あくまで民間人である君に要請するのは心苦しくはあるんだが──」
弁解するような口調で喋り続けるこの男は、おそらく善良な人物なのだろうが、些か話が長すぎるきらいがあるようだ。
末廣の長広舌に、今まで黙って座っていた錦辺が口を挟んだ。
「ここから先は面会に同意してからの話になる。警護の都合上、理解願いたい」
俺は黙ったまま考えた。外務省の人間が依頼をしてくる以上、相手はまず間違いなく海外の要人といったところだろう。
錦辺という警察官は所属部署を名乗らなかったが、おそらくは警備局あたりと思われた。
「ずいぶんとご大層な人物らしいですが、なぜ一介の探査員などに会いたがっているのでしょうか」
末廣は自分が話している間にほとんど灰になってしまった煙草を灰皿に落としてから答えた。
「先方からの強い要望があった。"コテツ・シズマとトウセキロウ・イバにぜひ会ってみたい"、とね」
拠点施設界隈きっての鼻つまみ者二名に会いたいとは、相手は余程の物好きらしい。
「ご指名のもう一人は何と答えましたか」
末廣は太い首を横に振った。
「丁重に断られたよ。と言っても私も直接会えた訳じゃないがね。ああ、そういえば風聞で君の師匠筋と聞いたが、その話は本当かね」
俺が答える前に、錦辺が投げやりに問いかけた。
「で、あんたは結局どうするんだ」
人相の悪い警察官は、頻繁に脱線する末廣の話に辟易しているようだった。
「お受けしましょう」俺は二人に向かって答えた。
遠田への義理立てもあるにはあったが、何より長期にわたる出勤停止で暇を持て余していた。
大の男が自宅で自堕落に過ごしているばかりの姿は、姪たちの教育上好ましいとは言えないだろう。
「引き受けてくれるか!」
末廣は顔を輝かせた。遠田がこの人物からの仲介依頼を断り切れなかった理由が少し解った気がした。
彼は足取りも軽く窓際に移動して携帯を取り出すと耳にイヤホンを付け、誰かと言葉を交わし始めた。
ニュアンスの異なる「ええ」と「そうです」を何回か繰り返した後に通話を終え、こちらに戻ると笑顔で切り出した。
「今からすぐにでも会いたいそうだ。静間君、時間はあるかね」
「今からですか」錦辺が唖然とした声を上げた。
俺は自分の草臥れたジャケットを見直した。
「高貴な方への拝謁の栄に浴する格好ではありませんが」
末廣は俺の格好を見回すと首を傾げた。
「別に構わないだろう。なんならもう少し着崩してもいいんじゃないか。向こうが会いたがっているのは歴戦の探査員だ。君たち『クロコダイル・ダンディー』は観たことあるかね?ナイフでヒゲを剃るような野性的な人物が、先方にはウケるに違いない」
移動しながら説明しよう。車を回してくるから外で待っていてくれ、と言い残すと末廣は上機嫌で部屋を出ていった。
後に残された男二人は思わず顔を見合わせた。
俺は苦虫を噛み潰したような顔をした錦辺に向かって言った。
「俺がポール・ホーガンに見えるか」
錦辺は首を左右に振ると、呆れた声で口にした。
「あれで欧州参事官だというから恐れ入る」
探査員と警察官は揃ってため息を吐くと、応接室を後にした。
◆◆◆
運転を申し出た錦辺にハンドルを任せ、俺と末廣はセンチュリーの後部座席に腰を下ろした。先方は中央区のクラシックホテルに滞在しているらしい。到着までの十五分ほどの間に、俺は隣に座った外交官から面会相手について説明してもらうことにした。
「君との面会を希望している相手だが、いわゆる王族と呼ばれる身分の方だよ。まあ、正確には
俺は頷いてから答えた。
「一般常識程度なら。しかし、確か前世紀に王制が廃止されて、現在は共和国だったはずですが」
末廣は少し驚いた顔をしてから相好を崩した。
「ほう……いや、たいへん結構。最近じゃ歴史どころか地理もあやふやな人間が増えてきてね。この前、別省の若いのと話す機会があったんだが、アルゼンチンを『ヨーロッパにある国でしょうか』などと抜かしおった。高校大学と一体何を学んできたのやら。国際社会に必要なのは他国への敬意と理解だ。私が思うに──」
錦辺が唐突に鳴らしたクラクションが、末廣の演説を遮った。
「失礼。急に変な方向へ曲がった車がいたものですから」
そうか、危ないな。と相槌を打った末廣は再びこちらを向いた。
「何の話をしていたか。ああ、ルーマニアだったな。君の言う通り、百年ほど前に王制が廃止されてからは、あの国に公式には王族という身分は存在しない。我が国や
「先方の身分は理解しました。それで、相手はどのような人物なのですか」
末廣は困ったように眉根を寄せた。
「それが……先ほど連絡した際に、向こうから詳細を伏せるように言われてね。直接、君に自己紹介したいそうだ」
旧王族の道楽に振り回される立場としては、外交官も探査員も大差はないらしい。
「いくつか質問してもいいでしょうか。高貴な御方との面会に際して、物知らずを嗤われない程度には事情を把握しておきたい」
錦辺がハンドルを操りながら口を開いた。
「こちらが必要だと判断したことについては答えよう。……末廣さんもそれでよろしいですね」
錦辺の言葉は許可を求めているように聞こえたが、実際はお喋りな外交官に余計なことを漏らさないよう釘を刺しているのだろう。
「ああ、構わないよ」
当の本人は気づいていないようだったが。
「先ほど"まだ"と言っていたのは?これから王族になるようにも聞こえますが」
「それについては俺から話す」
運転席側から聞こえてきた低い声に顔を向けると、バックミラー越しに錦辺の鋭い目と視線が合った。
「まだ、というのはあんたの面会相手だけを指している訳じゃない。現在のルーマニアでは旧王室そのものが、再び制度に則った王族として復権しつつある」
つまり面会相手も含めたルーマニアの旧王族は、旧の字が外れて現役復帰を遂げている最中のようだ。
「十五年前に『扉』が世界各国に出現したわけだが、ルーマニアも『扉』が現れた国家の一つだった。これは俺よりも、探査員であるあんたの方が詳しいかもしれないが」
全世界二十三箇所に出現した扉の場所なら把握していた。探査員が持つべき知識としては、数学者にとっての四則演算とさほど変わりはない。
「回収される資源の有用性が知れ渡ってから、『扉』を保有する各国はそれぞれ独自に外界攻略を進め始めた。だが、ルーマニアはそれに大きく出遅れた。なぜだか分かるか」
俺が答える前に、錦辺は続けた。
「テロだよ。扉の出現と時を同じくして、『レフォルマトル』と名乗る武装勢力がルーマニア国内で活動し始めた。本来なら攻略を担うはずだった国軍は対応に追われ、政府も外界にまつわる諸々の制度を敷くどころの話ではなかった。……国民感情はとてもじゃないが穏やかとは呼べなかっただろうな。目の前に宝の山があるのに、一向に手を出せないのだから」
当時の俺は探査員を目指して自己鍛錬に励んでいた年齢だった。東欧でテロ行為が多発しているとニュースか何かで聞いた記憶が朧げにあったが、はっきりとは思い出せなかった。
「そんな中で外界攻略へ名乗りを上げたのが、旧王家であるロムニエル家だ。先ほど話が出た通り、国家制度としての王族ではなくなっていたものの、国内でも段違いの力を持つ名家であることに変わりはない。金も私兵も抱えた彼らが政府に代わって外界探査を買って出て、まずまずの成果を上げ始めた。さて、どうなると思う」
俺にもようやく事情が理解できた。
「民衆の支持は大いに集まるだろうな。王政復古とまではいかずとも、旧王家がその気になれば名目上の王位くらいなら取り戻せる程度には」
錦辺はミラー越しに首肯した。
先程から会話に参加する機会を窺っていた末廣が、話の続きを口にした。
「共和国政府も、国政への直接的な関与を認めないことを大前提に、外界探査を担う存在として王家の公的地位を回復させる協議に応じざるを得なかった。いや、政府にしてみればむしろ渡りに船だったかもしれないね。厄介な外界攻略を押し付けられるんだから。現在は王号の復活と憲法改正に向けた手続きが進められている。つまりルーマニアは、今まさに立憲君主制へ向けて体制変更の真っ最中という訳だ」
末廣は車内にも関わらず、耳打ちするような口調に切り替えて若干こちらに身を寄せた。
「これは公然の秘密だから構わんと思うが……現在の当主は高齢の上に病床の身でね。おそらく王号の法制化までは持たないだろうと言われている。次の当主が王位復活後、最初のルーマニア国王になるだろうね」
君の面会相手も家長の継承権を持つひとりだよ、という外交官の言葉に頷いて、俺は次の質問をすることにした。
「件のテロ組織だが、おそらく反外界政策を標榜しているんじゃないか。先程の話では敢えて軽く流したようだが、始動のタイミングと結果を見れば明らかに外界攻略の妨害を目的としている」
少しだけ言い淀む気配がしたが、調べれば分かる事を誤魔化す意味がないと悟ったのだろう。錦辺は渋々口を開いた。
「……そうだ。『外界の齎す富は国家の未来を腐らせる』というのが奴らの主張だそうだ。反政府組織のただの建前か、本気でそう思い込んでる馬鹿の集団なのかは知らんがな」
「レフォルマトルとやらの目的が外界攻略の阻止なら、王室に対してもなにかしら動きがあったはずだ。……お宅が神経を尖らせている理由にもなりそうだな」
錦辺はルームミラー越しに俺を睨みつけたが、やがて鼻息を鳴らした。
「ふん。知ってる世間が外界のみというのが相場の探査員にしては、そこそこ頭が回るらしいな。察しの通り、復権した王室が外界攻略を主導する法案が可決した後、しばらくしてから各メディアに声明文が届いたよ。『例え敬愛する王家と言えども、祖国の堕落に手を貸す愚行は看過できない』とな」
テロ組織からしてみれば、外国を訪問中の王族など格好の標的だろう。
そして錦辺──警察庁にとっては、日本国内で他国の王族が襲撃されるなどという事態は絶対に避けたいはずだった。
皮肉の交じった我々の応酬を聞きながら気を揉むような表情をしている末廣を尻目に、俺は次の質問を重ねた。
「俺の面会相手だが、王室の一員ともあろう者なら名前のひとつも公開されているのでは」
錦辺が鼻で笑った。「調べてみろ」
俺は携帯を取り出すと検索を始めた。
寄付をしきり催促してくる百科事典に、ロムニエル家現当主の記事が作成されていた。
だが、そこにあるはずの配偶者と子女の構成は、ページに一切記載されていなかった。
「王室が意図的に伏せているようだ。おそらく外界攻略を引き受けた時からな」
レフォルマトルの狙いが、いずれ自分たちに向けられることを予想していたのだろう。
扉出現以前に公開されていた情報についてはどうしようも無いだろうが、それにしても現当主はかなりの先見性の持ち主のようだった。
俺は病床に臥している当主の情報を目で追った。
アルマンド・ロムニエル。三十八歳で家長を継ぎ、王政廃止後も歴代当主が継承してきた称号『ルーマニア王冠の守護者』を踏襲。
敬虔なルーマニア正教徒で、子女たちにも厳格な信徒教育を施す。国内各地の修道院や城郭の保存事業を主導し、文化財保護に尽力。
『扉』の出現後は私財を投じて探究者の育成と編成を行い、小規模ではあるが国内初となる外界資源の搬出ルートを確立。
獲得した資材の用途は政府に委ね、国内の雇用に貢献したことも相まって、彼の名望と威信は日毎に高まりつつある。
まさに八面六臂と言っていい活躍ぶりだった。
特に外界攻略に関しては規模こそ違えど、この国で防衛省と経産省が行った工程をほぼ単独で成し遂げたことになる。
それほどの人物であっても、寄る年波と病には勝てないものらしい。
俺がページを読み終わると同時に、隣に座った男は補足するように口を開いた。
「次の当主、つまり外界政策を仕切るルーマニア王が誰になるのかという話題には国内のみならず、世界の関連組織からも注目が集まっているよ」
「そんな状況で候補者のひとりが呑気に外遊とは、些か不自然に思いますが」
だいぶ楽天的な性格をしているらしい末廣だが、この人物にしては珍しく嘆息してみせた。
「ただの外遊ならまだ良かったんだがね。なにしろロムニエル家当主の継承権を持つ者の全員がこれから──」
「末廣さん」
口数が多い外交官を遮った錦辺の声には、針のように硬い響きがあった。
「その先の話は必要ないでしょう」
「……うん、そうだったな」
階段を踏み外しかけた時のように軽い狼狽を浮かべた末廣をミラー越しに一瞥し、錦辺は右手でウィンカーを上げながら口を開いた。
「あんたが知っておくべき情報はこんなものだろう。把握できたか、探査員」
「大いに参考になったよ、公僕殿」
窓の外を流れる拠点都市のビル群を眺めながら、俺は今聞いたばかりの話について考え始めた。
◆◆◆
錦辺の運転するセンチュリーは中央区の大通りから一本脇へ入った。
ビルの谷間から姿を現したホテルは、周囲に立ち並ぶ近代的な高層建築とは明らかに趣を異にしていた。
灰白色の石材を積み上げた重厚な外壁に、等間隔で縦長の窓が並んでいる。正面玄関を覆う大きな庇の上には館名を刻んだ真鍮の文字が掲げられ、長い年月を経て鈍くくすんだ色合いが、かえって建物の歴史を誇示しているように見えた。
車は正面玄関を通り過ぎ、そのまま建物脇の駐車場へ入った。
「呼ばれたのは君ひとりだ。私はここで待っているよ。何かあれば連絡をくれ」
「相手の滞在するフロアまでは俺が案内しよう」
末廣を車内に残し、俺は錦辺と二人で正面玄関へ向かった。
回転扉を抜けると、外観に違わず古風なロビーが広がっていた。平日の昼過ぎにもかかわらずホールに人の姿は多かった。
ラウンジで寛ぐ観光客に混じって、何人かの人間がさりげない視線をこちらに向けてきたことには気付いていた。
おそらく錦辺の部下の刑事かSPたちだろう。
錦辺の後について進んだ先にあるエレベーターホールには、六つの扉が並んでいた。一番奥にある扉の脇に紺色のスーツを着た男が立っており、錦辺と短く言葉を交わした後、俺へ向き直った。
「失礼します」
男は俺の上着の脇や腰回りを手早く確認していった。手を動かしながらも視線を俺の顔から離さない、プロらしい仕事だった。
ボディチェックを終えた男が半歩下がると錦辺は胸元から小さなケースを取り出し、中に収められていた黒いボタンのようなものを俺に差し出した。
「自動通訳機能が付いたイヤホンだ。相手も同じものを着けている」
文明の利器を耳に嵌めながら、俺は錦辺に向かって話しかけた。
「実は俺がルーマニア語には堪能だと言ったらどうする」
「そいつをとっとと返して貰う」錦辺はお義理にも笑わずにエレベーターのボタンを押した。
「他は配線を変えている。目的のフロアまで通じているのはこの一基だけだ」
二人だけを乗せたエレベーターは静かに上昇を始めた。
「おい、探査員」
錦辺の声に隣を向いたが、警察官の鋭い視線は数を増やしていく階数表示パネルを睨んだままだった。
「一つ忠告しておく。もし相手から何か依頼されたとしても、絶対に引き受けるな」
「遠田施設長からお宅らに会えと依頼され、お宅らからは王族に会えと依頼された。王族は、次に誰に会うよう依頼してくるんだ」
錦辺は黙ったまま答えなかった。
軽い振動と共にエレベーターが止まり、やがて音もなく扉が左右に開いた。
目の前には、長い臙脂色の絨毯が敷き詰められた細長い廊下が伸びていた。淡いクリーム色の壁には一定の間隔で真鍮製の照明が並んでいる。両側には濃褐色の客室扉が規則正しく続き、その先は途中で折れ曲がって見えなくなっていた。
俺が廊下へ踏み出しても、錦辺はエレベーターから降りようとしなかった。
「すぐに案内が来る。そこで待っていろ」
前を向いたまま頷いた俺の背中に、錦辺の低い声が投げかけられた。
「忠告を忘れるなよ」
その言葉を裁断するように、背後でエレベーターの扉がゆっくりと閉じた。