俺はエレベーターホールの壁に掛けられた東山魁夷の版画を眺めていた。
ドイツ古都の夕暮れに浮かび上がった大聖堂の尖塔は、荘厳さと同時に不思議な物悲しさを感じさせた。原画は長野かどこかの美術館に収められていた筈だが、直接お目に掛かったことは無かった。
最上階を丸ごと借り切っているのか、周囲に人の気配は全く感じられない。エレベーター前から伸びる無人の薄暗い廊下には、ふと目を離した隙に双子の少女が並んで現れそうな不穏な趣きがあった。
廊下の奥から聞こえた絨毯を踏み歩く微かな靴音に顔を向けると、角を曲がって姿を現したのはバーンズ姉妹でも斧を持った小説家でもなく、三十代半ばほどの長身の男だった。
細身のジャケットを身に着けているがネクタイは締めておらず、ズボンの裾から覗いているのはレザースニーカーという寛いだ格好だった。
彼はこちらに気付くと笑顔を浮かべた。
顔立ちは絶世の美男子という程ではなかったが、柔和に細められた目と穏やかな微笑には、そのあたりの外国人俳優などよりよほど人を惹きつける魅力があった。
「待たせてしまったかな」
イヤホンから男の声にほんの僅か遅れて日本語が聞こえた。機械的な抑揚は全く感じられず、相手が日本語で話していると錯覚しそうなほど自然なのだから、文明の進歩とは大したものである。
十年来の友人に久々に出会ったような口振りで声を掛けて来た男は、こちらに近づくと右手を差し出した。
「レオン・ロムニエルだ。伝説の単独探究者、コテツ・シズマにお会いできて光栄だよ」
そこまで言うと何かに気付いたように自分の右手を見詰めた。
「そういえば、この国で言う探査員は握手を敬遠するんだったかな」
彼は右手を自分の胸に当てると、洒脱に一礼して見せた。
芝居がかった仕草に違和感を覚えないのは、彼の動作が洗練されていた為か、単に王族という看板が俺に色眼鏡を掛けさせているのかは分からなかった。
こちらも返礼をして見せたが、相手のそれと比べると学芸会の不出来な演技のようだった。
「お初にお目にかかります、レオン殿下。
レオンと名乗った男は肩を竦めて見せた。
「ああ、全部『妹』の受け売りだよ。今回キミをお招きしたのも彼女さ」
どうやら俺を呼んだのは別の人間らしい。
「それと、僕は一応ロムニエル家の人間ではあるけれど、あまり気を使わなくても構わないよ」
「それは有難う存じます。ところで、王族から『気を使わなくていい』と言われた人間が『はい、そうします』と無邪気にお答えできるかどうかは考慮頂けましたか」
レオンは目を丸くすると、声を上げて笑った。
「いや、すまない。君の言うとおりだ。ただ、気を使わなくていいのは本当さ。何代か前のご先祖様がひどく女好きでね。愛人の血筋なんだ、僕は。王室の一員とは見なされているけれど継承権はない。飾りみたいなものだよ」
飄々とした口調には、自らの出自を卑下するような暗い色は含まれていなかった。
ロムニエル家の人間に関する情報は意図的に伏せられているという話だったが、どうやら隠されているのは継承候補だけではないらしい。
「それでは、私を呼んだのは王女殿下という事ですか」
こちらの質問にレオンは頷いた。
「僕と違って正真正銘、現当主の直系だよ。実兄ではない僕を立てて兄と呼んでくれてはいるけどね。彼女は君の熱心なファンなんだ。面会が決まってから落ち着きがなくて困っていたところさ。……おっと。あまり待たせすぎるとヘソを曲げかねない。移動するとしようか」
レオンは自分が歩いてきた方向を手で示すと、こちらが歩き出すのを待ってから自然に隣に並んだ。
「外界関係者以外に、他国の探査員にそれほど興味を持っている人間がいるとは思いませんでした」
現役の探査員である俺にしたところで、海外で成果を上げているチームの名前はある程度覚えていたが、個人名まで話が行くと数人程度しか記憶に残っていなかった。
見知らぬ他国の王族が自分のファンだと伝えられるのは、会ったこともない親族の結婚式に参加したかのような居心地の悪さがあった。
「ロムニエル家は外界のおかげで復権したようなものだからね。一族の面々は否が応でも外界事情に詳しくならざるを得なかったよ。もっとも、彼女はちょっと行き過ぎなきらいはあるけどね」
「ずいぶんと研究熱心なご家庭のようですが、いくらなんでも王族自ら外界に赴くなどという事はないでしょうね」
並んで歩いてみて明瞭になったが、レオンの足運びはそれなりに鍛えられている人間のものだった。
俺の質問の理由を察したらしく、彼は苦笑しながら答えた。
「傍流とはいえ、王室の一員ともなると多少の護身術は叩き込まれるんだ。……特に最近は何かと物騒だしね」
剽げた口調の裏には、こちらがどこまで事態を把握しているのかを確認するような響きがあった。
「護衛が見当たらないようですが、揃って都市内でも観光中ですか」
俺の言葉にレオンは小さく噴き出しかけ、笑いを堪えながら答えた。
「少々、
さりげなく告げられた内容は、本来あり得ないものだった。
現状では旧の字が付くとはいえ、次期王位継承権を持つ者がたかがそれだけの人数で他国を訪れるという事態は、どう考えても普通ではない。
まして武装勢力が自分たちを狙っているという状況を把握しているなら尚の事だ。
その理由について問いただそうとした時、廊下の先からこちらに向かって足早に駆け寄ってくる少女の姿が見えた。
彼女は俺たちの前で音を立てて止まると、少々息を切らせながらこちらを見上げた。俺を映す紅玉のような瞳が、自ら光を放っているかのように輝いていた。
年の頃は十を少し超えたばかりといったところだろう。
腰まで伸ばした銀色の髪にホワイトブリムを付け、華奢な身体を包む白いブラウスと黒を基調としたスカートの上からエプロンを纏っている。少々時代錯誤なはずの侍女姿は、ホテルの古めかしい内装に良く馴染んでいた。
少女が口を開いて言いかけた何かを、レオンのため息混じりの声が遮った。
「セラ。仕える主を放り出して、一体何をしに来たのかな」
セラと呼ばれた少女は我に返ったようにレオンに視線を動かし、慌てた口調で弁解を始めた。
「えっと……王女様が待ちきれないから様子を見てこいって」
「君が見たかっただけだろうに。ほら、ちゃんと挨拶をしないと」
彼女は裾を摘まむと、こちらに向けて小さく膝を折った。
「お目にかかれて光栄に存じます、シズマ様。王女殿下の側役を務めております、セラと申します」
どうやらこの少女が先ほど話に出ていた侍女らしい。
静間虎徹です、と名乗ったこちらの顔をセラは尚も熱心に眺めてきた。
こちらが見詰め返すと、相手は慌てて視線を逸らした。
「あの……ごめんなさい。王女様からシズマ様のお話をたくさん聞いていたので、私もお会いしてみたいと思っていて……」
レオンがこちらに揶揄うような視線を向けた。
「では、現在このフロアにいる人間は全員キミのファンということになるね」
俺は近くの扉に目を向けて、表面に浮かんでいる樫材の木目を観察することにした。
忍び笑いを漏らしたレオンは、未だにこちらに視線を向け続ける銀色の少女に声を掛けた。
「もう満足したかな。そろそろ案内してくれると助かるんだけどね」
本来の役目を思い出したらしい。セラは「あっ」と短く声を上げると、俺たちに背中を向けて歩き始めた。
歩く姿だけを見ればそれなりに様になっていたが、歩幅の小ささだけは如何ともしがたかった。背筋を伸ばして心持ち得意げに進む少女について歩きながら、男二人は細かい足取りの調整を余儀なくされた。
やがて廊下の突き当たり近くまで進んだセラは、一際大きい両開きのドアの前で足を止めた。
「こちらです。中で王女殿下がお待ちです」
小さな手がドアを軽く二度叩くと、中から短い返事が聞こえた。ドアを開けたセラは、こちらへ道を譲るように半歩横へ退いた。
彼女に目線だけで礼を告げると、俺は部屋の中へ足を踏み入れた。
◆◆◆
そこは客室というより邸宅の居間といった風情の、品格ある一部屋だった。
厚い絨毯が敷き詰められた広い室内には、中央に置かれたローテーブルを囲うように革張りのソファーが並び、奥には酒瓶の収まったバーカウンターが設えられている。壁際には古めかしい書棚や飾り棚が置かれ、大きく取られた窓の向こうには拠点都市の摩天楼が冬の日差しを反射していた。
奥側に置かれた赤いロココ調のソファーに、一人の女性が腰掛けていた。
年齢は二十代の前半といったところだろう。腰まで伸ばした鮮やかな赤髪に、透き通るような白い肌。細身ではあるが華奢という印象はなく、シンプルだが品のあるレディーススーツの上からでも大層起伏に富んだ体つきが見て取れた。
こちらに向けられた黄金の瞳と視線が合う。
冷たさを感じるほどに整った顔立ちは尤物と呼ぶに相応しかったが、それよりも俺の目を惹いたのは彼女の姿勢だった。
深く腰を預けているように見えて、重心はほとんど崩れていない。こちらが部屋へ入った瞬間から視線だけで俺の肩、両手、腰元を順番に確認していた。
王族は最低限の護身術を叩き込まれるというレオンの言を思い出したが、どうやら彼女も例外では無いらしい。
後から入ってきたレオンかセラのどちらかが扉を閉める音が聞こえた。赤髪の女性は二人の位置を確認するように軽く視線を動かすとこちらに戻した。
「ようこそ。貴方がコテツ・シズマですか」
俺は軽く視線を下げつつ頷いた。
彼女の前に置かれたローテーブルには、琥珀色の液体に満たされたカットグラスと洋酒瓶が並んでいた。
「そこの二人は挨拶を済ませましたか。改めて紹介しましょう。侍女のセラと私の義兄にあたるレオンです」
継承権を持たない王子と銀髪の侍女は、それぞれ俺に会釈を披露した。彼らが頭を下げる直前、レオンが少しだけ眉を顰めた様子が視界を過った。
「どうぞ、楽な姿勢でお座りください」
赤毛の女性は自分の対面のソファーを手で示した。ほんの少し前、庁舎の応接室で腰を下ろした長椅子とは比較にならないほど上等な感触に身を任せて顔を上げると、王女はこちらに感情の読めない目を向けていた。
「初めまして。ロムニエル家のルシアです」
「特異環境探査士の静間虎徹です。本日はお招きいただきありがとうございます」
俺はここに来てから三度目となる自己紹介を済ませた。
朝から数えれば、自分の名前をこれだけ口にした日は記憶になかった。
背後で衣擦れと椅子を引く微かな音が重なった。振り返らずとも、レオンとセラが俺の座るソファーの後ろに控えたのだと分かる。
正面の王女は二人が腰を落ち着けるのを待っているのか、しばらくこちらを観察するように見詰めていた。
整った顔にはほとんど感情らしいものが浮かんでない。歓迎されているのか、値踏みされているのか、それとも単にそういう顔なのかはわからなかった。
やがて彼女は膝の上で両手を重ねると、前置きらしい前置きもなく口を開いた。
「単独で外界に挑み続け、尚且つ十年以上も生存し続けている極東の探査員の話は、我が国の関係者の間でも口の端に上っています。正直、最初に聞いた時は真偽を疑いましたが」
俺は黙ったまま、話の続きを待っていた。
「まずお聞きかせください。貴方が単独で探査を続ける理由は何なのですか」
「生存率が高いと判断したからです、王女殿下。もちろん私にとっては、の話ですが」
俺の返答に、相手は微かに首を傾げた。
「人数が増えれば、それだけ生存率も高くなるものだと思っていましたが」
「引き換えに相手に捕捉される可能性が上がります。生存率が高くなるというのは、いざと言う時に自分がハズレくじを引く確率が低くなるというだけに過ぎません」
俺の告げた内容は極論ではあるが、ある意味これ以上無いほどの結論でもあった。
「選択肢が増えるということは、必ずしも利点とは限りません。限られた時間で最適解を探すには、設問自体を単純化した方がよい場合もあります。言ってしまえば、私にとって外界探査とは比較的マシな選択をし続けることなのです」
ルシア王女は納得したように頷いたが、こちらは少々拍子抜けだった。ある程度外界探査を知る者からは反証が来るような答えだったからだ。もっとも、それに対する再反駁の言語化に、俺は成功した試しがなかった。
続けて、外界に関する質問をいくつか受けたが、彼女が口にした内容はかなり専門的な分野まで踏み込んだものだった。俺についても、国外の人間にしては相当詳しく調べているらしい。
にも関わらず会話を重ねるごとに、俺はある違和感を抱きつつあった。
「
「そんなものがあるとしたら、私が教えて欲しいくらいです。つい先日も第四種相手に危うく死にかけました」
その質問をするなら、この場への臨席を断ったもう一人の人物が適任だった。
王女は首を僅かに傾けた。
「貴方は単独で第三種を討伐したと聞きましたが、四種程度の相手に苦戦するものなのですか」
外界では常識とも言える内容の問いかけに答えながら、俺の頭にはある考えが浮かんでいた。
「探査員の共通認識として、外界生物の脅威度は状況によって大きく変動します。第四種をそれなりに安定して討伐可能なチームが、第五種相当の群れに飲み込まれた事例もあります。少なくとも私は、外界生物相手に必ず勝てると確信を持って挑んだことなど一度もありません」
「じゃあ、シズマ様が今まで戦った中で一番強いと思った外界生物は!?」
背後からの声に振り返ると、セラが椅子から上半身を浮かすようにしてこちらに詰め寄っていた。
瞳を爛々と輝かせている彼女に、レオンが諫める声を掛けた。
「セラ、王女殿下のお話を邪魔してはいけないよ」
背中に強い視線を感じて向き直ると、王女は肘掛けを掴んでいた手を離して自分の額に触れ、頭痛を堪えているような声を出した。
「……あとで彼女の質問にもお付き合い頂けますか」
「ええ、構いません」
俺の返答を耳にしたルシア王女は鷹揚に頷くと、自らの侍女に眇めた眼差しを送った。
「ほんと!?約束だからね!」
小躍りしている当の本人は、主人の視線にも気づいていないようだったが。
王女は小さくため息を吐くとグラスに手を伸ばして口をつけた。白い喉が艶めかしく動く様子からは、意識して視線を外すようにした。
グラスを置いた彼女は、こちらに目を向けた。
「何か飲まれますか」
喉元まで出かけた遠慮の声を握り潰して、俺は答えた。
「それでは、同じものを」
ルシア王女は頷くと音もなく立ち上がり、バーカウンターに置いてあったグラスをひとつ手に取ると再び椅子に腰を下ろした。
手ずから注いで貰った琥珀色の液体を口に運びながら、俺は自らの疑問に答えを出しつつあった。
こちらが中身を三分の一ほど減らしたグラスをテーブルに戻すと、王女は会話を再開した。
「しかし、そんな環境でよく十年間も生き延びましたね。まさしく神のご加護といったところでしょうか」
「そうかもしれません。生憎、こちらで信仰されているのは別の代物ですが」
彼女は小首を傾げた。「それはいったい何でしょうか」
「経済です。平たく言えばお金ですね。この都市で崇められる唯一神です。もっとも、その意味でなら私は無神論者とも言えなくもありません」
赤毛の王女は少し考えてから口を開いた。
「金銭が信仰に取って代わる……経済を外界に依存すれば、我が国もいずれ同じ道を辿ると言うことでしょうか」
俺は首を横に振ってみせた。
「私は経済学者でも宗教学者でもないので分かりかねます。ましてや海の向こうの国家事情ともなれば尚更です」
「では予測でも構いません。貴方自身はどうなるとお考えですか」
「信仰や思想などと言うものは、例えるなら化粧品のようなものです。簡単に変化しますが、地の部分はそうそう変わりません。欧州で最初にできたとされる教会は、どの国にあるかご存知ですか」
ルシア王女は少し考えるように目線を彷徨わせてから答えた。
「確か……ギリシャと聞いたことがありますが。つまり貴方は元々金銭を尊ぶのが人間の本質だと仰るのでしょうか。信仰や思想は彼の国での始まりから二千年間積み重ねようが、あくまで後付けに過ぎないと」
背後で誰かが口を開きかけた気配がしたが、俺は構わずに問答を続けた。
「言ってしまえば金というのは価値の具象化そのものです。私自身それを否定する材料は持っていません。ですが、本質だからと言って裸一貫で──失礼。何も纏わずに過ごすことが正しいとも考えていません。被った仮面が、いずれ素顔になる事もあるかも知れません」
俺は目の前の女性に微笑んでみせた。
「ただ、残念ながら
表情の乏しい王女は少しだけ笑うような素振りを見せた。
「なんだか難しい話になってしまいましたね。日本の方にしては随分と欧州の歴史に詳しいようですが、貴方は
俺は無礼にならない程度に肩を竦めた。
「ある人物からの受け売りです。私はどちらかといえば不可知論者ですかね。従って、貴女の国の未来を予測するなど少々荷が重すぎます」
彼女は厳かに頷いた。
今回の面会の目的は、概ね達成されたといったところだろう。
形式ばった会談の終わり際に有りがちな、弛緩した空気が漂い始めた。
──どうせこれから全て台無しになるのだから。
俺はグラスの中身を一口分だけ自嘲と共に飲み込むと、音を立てないようにテーブルの上に戻した。
「こちらからもお聞きしてよろしいですか」
「ええ、答えられない事もありますが」
俺は目の前の美しい女を見詰めながら尋ねた。
「貴女は誰なのですか」
部屋の中に凍り付くような沈黙が落ちた。
しばし漂った静寂を破ったのは、沈黙よりも温度の低い声だった。
「どういう意味でしょうか」
「
王女は──正体不明の女は、少なくとも表面上は冷静に見えた。……不自然なほどに。
俺の問いは、本来なら激昂されてもおかしくない。いや、本人以前に他の二人がとっくに咎めていなければならない。
しかし、背後の気配は沈黙を守り続けていた。
「……では、貴方は私を何だと言うのです」
「それを知るために誰なのかと質問をしましたが」
鼻白んだ女に向けて、俺は言葉を重ねた。
「話してみて分かりました。貴女は外界に関して疎い訳では無いが、それなりの知識しか無い。わざわざ東洋の島国の探査員を名指しで呼ぶほど興味を持つ者なら、当然知ってるような話も知らない。にも関わらず質問の内容自体は相当に深い。俺への質問は別の誰かが考えたとみるのが自然だ」
彼女は少し考えた後、口を開いた。
「……貴方を呼び出したのは、祖国の為に有識者の質問を王女の私が代行して聞いていたとは考えませんでしたか?あるいは外界の話を聞きたかったからではなく、呼び出したのは別の理由だったのかも知れません」
「仮にそうであったとしても貴女が王族で無い事には変わりはない」
「何故そう言い切れるのです」
疑問の声には、僅かに動揺が混じっていた。
「最初にこの部屋に入った時、貴女は自分より先に後ろの二人の紹介を優先した。王族としての応対なら、非公式とは言え来客に対してまずは身分の高い者──自分自身から紹介するはずだ。つまり貴女の身分は二人よりも下という事になる」
「……私が家臣思いの王女なのかも知れませんよ」
「いくら家臣思いの王女様であっても、侍女を座らせたまま自分が立ち上がってグラスを取りに行くなど、まずあり得ない。それとも、次は"
彼女の視線がグラスに向いた。そこに反論の糸口を見出すように、バカラの
「まだある。王室の現当主は子女にも厳格な教育を施すほどの敬虔なルーマニア正教徒だ。貴女が幼い頃から聞かされているはずの伝承では、聖人が最初に福音を伝えたのは現在のルーマニアであり、自国の教会こそヨーロッパ最初の正統な教会だとされている。王室の立場にある人間が、例え一般論で『ギリシャと聞いた』と答えたとしても、そのあと聖アンデレに触れないはずがない」
赤毛の女は黙り込んだ。既に反論する気も失せたようだった。
「最後になるが、貴女が身につけている護身術は少々強すぎる。その練度は自己ではなく他人を護る事を生業にする人間のものだ。貴女は会話のなかでも常にこちらを警戒していたが、もっとも気配が強くなったのは、セラが俺に接近した時だった」
俺は背後に座っているセラを振り返った。
銀髪紅目の少女の顔に浮かんでいたのは、抑えきれない喜色だった。
「ついでに言えば俺への質問を考えた本来の人物──異国の探査員なぞに興味のある物好きな王女は、是が非でも近くでその答えを聞きたいはずだ。つまり──」
セラが我慢できなくなったかのように笑い出した。
赤毛の女は頭痛を堪えるかのように額に手を当て、レオンは呆れ顔で肩を竦めてみせた。
「言ったでしょ、コテツ・シズマなら気づくって」
何故か得意げな顔で二人に言い放った少女は、立ち上がってこちらに向き直り、優雅に一礼して言った。
「騙すような真似をしてごめんなさい、
◆◆◆
優雅な礼を終えた少女は、顔を上げるなり先ほどまでの厳かな表情をあっさりと消した。
「もう外していいわよね、これ」
ホワイトブリムを頭から取り外し、続いてエプロンの紐へ手を回す。ソファーから立ち上がったルシアが近づいて、いつの間にか手にしていた黒いケープを彼女の小さな肩に被せた。
十秒もしないうちに侍女から王女へと装いを変えたセラフィナは、先ほどまでルシアが座っていたソファーへ当然のように腰を下ろした。
代わってルシアはその斜め後ろに移動し、背筋を伸ばして直立した。
位置が入れ替わっただけで、先ほどまで漠然と感じていた違和感が消え、何かが然るべき場所に収まったような奇妙な落ち着きが取って代わっていた。
「こちらも改めて紹介しておこう」
レオンがルシアを手で示した。
「ルシア・ドラグレスク。王政時代から代々ロムニエル家に仕えていた旧貴族の家系で、今はセラの側役を務めている。さっき君が見抜いた通り、侍女だけじゃなく護衛も兼ねているけどね」
「先ほどは失礼いたしました」
ルシアは無表情のまま頭を下げた。王女役を演じていた時は、表情から不自然さを隠すためだと思っていたが、どうやらこれが素の彼女らしい。
「それについてはお互い様です。こちらも随分と無礼な物言いをしました」
「いえ、従者の身です。そこまで畏まっていただくには及びません」
必要なことだけを口にすると、ルシアは再び彫像のように沈黙した。
その横で、セラが落ち着きなく身体を揺らしていた。
何か言いたくて仕方がないらしい。
俺が視線を向けると、それを許可と受け取ったのか、小柄な身体をこちらへ乗り出した。
「ねえ、シズマ様!探究者としてルーマニアに来ませんか?」
唐突な誘いに、今度はこちらが返事を失う番だった。
「外界に行くなら王室がいくらでもサポートするし、行きたくないなら、たまに探査の講習をするだけで一生遊んで暮らせる生活を用意するわ!」
どうやら冗談の類ではないらしい。
背後のルシアは止めようともせず、レオンに至っては慣れたものなのか苦笑を浮かべていた。
「セラフィナ王女殿下」
「セラでいいわよ」
「恐れながらご期待には沿いかねるようです。セラフィナ様」
セラの顔にはそれほど驚いた様子は見えなかった。俺の答えをどこか予想しているようでもあった。
「……一応、理由を聞いてもいいかしら」
「探査区域を途中で放り出すような探査員は長生きできません」
銀髪の王女は不満そうに唇を尖らせたものの、それ以上食い下がろうとはしなかった。
「コテツ・シズマならそう答えるでしょうね。まあいいわ。まだ機会はあるもの」
小さく呟かれた言葉の意味を問い返すより先に、座ったまま腕を組んでいたレオンが小さく嘆息して口を開いた。
「しかし驚いたな。優秀な探査員は優秀な探偵でもあるようだね」
「買い被りです。そちらが最初から念入りに準備して騙す気だったら見抜けなかったでしょう」
恐らく彼女たちの入れ替わりは、こちらが訪問する事が決まってから急遽思いついた悪戯だろう。
「それはフェアじゃないわ。こちらもアドリブという条件で進めたんだから。それにしても、やっぱり私の目に間違いはなかったって事ね!」
得意げに胸を張ったセラフィナ王女に、直立不動のルシアが冷静な声を投げかけた。
「看破された最大の要因は、セラ様がシズマ様の到着を待ちきれずに飛び出していったことかと思いますが」
うっ、と声を詰まらせた王女は恨めしそうな視線を従者に向けたが、相手は顔色ひとつ変えなかった。
「でも、これで証明されたでしょ。私のシズマが例の依頼をするのに相応しい人物だって」
いつ俺が彼女の物になったかは不明だが、どうやらスカウトの他に本命の依頼があるらしい。
「私は反対です」
ルシアの感情の見えない声に、セラは後ろから撃たれたかのように驚いて見せた。
「なんでようルシア。最低でも私たちの入れ替わりを見抜ける程度の人物じゃないと、って言い出したのは貴女じゃない」
「ええ、確かにそう言いました。シズマ様が優秀な人物である事は認めます。ですが依頼については反対という立場には変わりありません」
王女と従者の言い合いに、レオンの呆れた声が水を差した。
「二人とも。彼を前にしてずいぶんと失礼なやり取りをしている自覚はあるかな」
睨み合っていた双方は──実際には無表情のルシアをセラが一方的に睨んでいたのだが──やがてお互い視線を外した。
「もう良いわ。私が直接話すから」
そう言い放った少女はこちらに向き直ると小さく咳払いをして見せた。
「シズマ様。依頼というのは他でもありません。私たちがこの国に滞在している間、貴方に側にいて欲しいのです。護衛兼、相談役として」
居住まいを正したセラフィナ王女の口から発せられたのは、些か意図を掴みかねる依頼だった。
「護衛というのは、レフォルマトルとかいう連中から護れという事でしょうか」
「そこまでご存知なのですね……勿論それもあります。しかし、何よりこの国に来ている私の家族──私と同様、継承権を持つ者たちから護って頂きたいのです」
王女殿下の回答はこちらの予想の外だった。俺は頭を振って脳内から疑問符を追い出すと問いを重ねた。
「なぜご家族から危害を加えられるとお考えなのですか。いえ、それ以前に他の王族も何人か来日しているという事ですか」
「
俺の問いに硬い声で答えたのはレオンだった。
「ロムニエル家当主の継承権を持つ全員が、今現在この都市に集合している。……次期当主の座を手に入れる為にね」
順序立てて話そう、と言った男の顔には初めて見せる冷笑にも似た表情が浮かんでいた。
「王権の復活は、現当主アルマンドを含めた歴代当主たちの悲願だった。その奇跡が手の届くところまでやって来たんだ。法案を可決させるにあたり、アルマンドは政界や財界の有力者たちに大きな借りを作らざるを得なかった。……それでも、当主が壮健なままなら王制の成立まで抑え込めていたんだろうけどね。彼の誤算は、継承者を明言しないうちに自分が病に倒れてしまったことだよ」
長子に内定はしていたようだったけどね、と彼は呟いた。
「当主が臥した途端、各政党や国内企業が一族それぞれの継承者への支持と支援を表明したのさ。今後の外界政策は国の未来を左右する。それを託すのに最も相応しい人物こそが新たな王になるべきだ、とね。もちろん建前だよ。本音は……君になら説明する必要は無いだろう」
早い話が、自分に甘い蜜を吸わせてくれる相手を次期当主に押し上げようという魂胆だろう。
「おそらく当主は自分が王冠を被りたかったんだろう。まさに
この段になって今さら家長の継承者を公表したところで、時すでに遅しという事らしい。
俺にもある程度背景は理解できたが、まだ最大の疑問が残っていた。
「王に相応しい人物という漠然とした証明はどのようにするつもりなのです。そして、なぜ継承者たちはこの都市に集まっているのですか」
「彼らと支援者の総意として、誰が王たるに相応しいかの検証を行う事になった。この国は世界でも有数の外界先進国だ。一定の期間内に独自の折衝を行い、より多くの成果を獲得したものが次代を率いる資格のある勝者と見なされる」
つまり希少資源の買付、認可企業とのコネクション、優秀な探査員の引き抜きといったあたりか。
確かにどれか一つでさえも持ち帰る事が出来れば、『扉』持ち国家として相当な利益が見込める成果とも言える。
「この要求に対し、ついには当主アルマンドも検証を認めざるを得なかった。この都市に全員を集めた理由はひとつ。同じ条件で成果を競わせる事で周囲を納得させるという、ただそれだけだよ」
俺は再び首を振った。今度は疑問ではなく呆れからだった。
「他国の一都市で、しかも一族郎党が武装集団に狙われている状況でお家騒動に精を出すという事ですか。大変無礼な言い方で恐縮だが……正気の沙汰とは思えない」
レオンの表情はすでに嘲笑と呼べるものに変わっていた。満面に浮かべた嘲弄のなかに、僅かな憐みが混じっているようにも見えた。
「無論、正気の沙汰ではないよ。君自身も言っていただろう──この都市では金銭こそが唯一の神だと。まさに信仰は狂気と紙一重というやつさ。外界市場は、関連産業まで含めれば全世界ですでに五十兆ドルを突破した。新たな黄金郷を前にした人間が、多少の犠牲など一顧だにしないのは歴史が証明しているだろう」
自嘲の裏に隠された彼の憤りにも似た感情は、自国の人間のみならず全人類の
「この話を持ちかけた時、当初日本の外務省は断ったらしい。まあ当然と言えば当然だと思う。けれど、この国で起きた事象の一切について責任を追及しないというこちらの追加条件で受け入れる事になった。……どうやら別の行政機関の強い後押しがあったらしい。はは、どうやら拝金主義の徒は人種を問わないらしいね」
そんな決裁を行い、外務省に圧力を掛けそうな連中の見当ならすぐについた。
まだ手付かずに近い鉱山の所有者に貸しという名の繋がりを作ることができれば、この国の外界産業はさらに飛躍することになるだろう。
例え、対価として誰かの血が流れようとも。
「期間は開始から一か月間。その間に最も成果を示した人間が次期当主の座を継承する。これは次期ルーマニア王位の争奪戦だよ。最初の問いに戻るけど、競争相手を直接排除しようと考える人間がいてもおかしくない。例え継承者本人がそう考えていなかったとしても、周囲がどう動くかはわからない」
俺は大きく嘆息した。錦辺の忠告とやらは、この事だったのだろう。
セラフィナ王女に視線を向けると、彼女は眉根を寄せて頬を膨らませていた。
俺との会話をレオンに持っていかれた事にご立腹らしい。俺はむくれた王女に問いを投げかけた。
「依頼内容には護衛の他にもう一つありましたね。俺に一体何をしろというのです」
少女は少しだけ瞬きした後、紅玉の瞳で俺を見詰め、厳粛さを感じるほど静かに宣言した。
「お願いします、コテツ・シズマ様。貴方には私たちの陣営として、この継承戦に協力して欲しいの」