数十の人間が立ち並ぶにも関わらず、大広間は重苦しい静寂に包まれていた。
顧問官ジオセルが宣誓式の終わりを告げても、継承者たちの誰もが席を立とうとはしなかった。
ある者は競争相手である兄弟たちの様子を伺うように視線を巡らし、ある者は腕を組んで瞑目したまま微動だにしていなかった。
セラフィナは俯いたまま、膝の上で組んだ自分の指を眺めるように視線を落としていた。
壁際の一番奥に並んだ官僚たちの中から、細いメタルフレームの眼鏡を掛けた男が気取った足取りで歩み出た。
耳まで伸ばした髪に、細かい刺繍の入った派手なネクタイと若作りしているようだが、目元に浮かんだ皺から見るに五十代前半といったところだ。
身に着けたチャコールグレーのダブルは、一着の代金で俺の着ているジャケットが百枚は買えるほどに値が張りそうだった。
彼は円卓に向けて一礼すると、白い歯を見せて笑った。
「ロムニエル王家継承者の皆様方、ようこそお越しくださいました。日本政府、経済産業省所属の舵木と申します」
やはり奥の集団は経産省だったらしい。外界に関わらず仕切り屋気質の彼らが、この一大イベントを見逃すはずがなかった。
経産省が宴会を開く場合、いちいち幹事役を探す必要はなさそうだ。集まりに呼ばれてもいないのに手を上げてくれるのだから。
舵木と名乗った男は大仰に両手を広げて見せた。
「皆々様の祖国を想う理念、誠に感服致しました。この国では勝敗は時の運と申しますが、もし次期当主の座を手中に収めた際は当省を通じ──」
「富の再分配。一歩間違えれば社会主義に発展しかねない思想だ。かつて祖国が王制を廃し、共産党が実権を握った後に何が起こったか知らぬわけではあるまい。それとも、今度はお前が『国民の母』になるつもりか、エルネスティーナ」
声高らかにアピールを始めた役人の言葉を断ち切る様に、アダルベルドが低い声で妹に問いかけた。
「そんなつもりはありません。
第一王女も舌戦に応じる構えを見せた。
黙殺される形になった舵木は狼狽える様子を見せたが、黙って元の集団に戻っていった。
対峙する兄妹の間に割って入ったのはボリスだった。
「兄貴もエルネスも仕様もない話ばかりしているな。そもそも王制が廃止されたのも、アカどもに政権を握られたのも、発端は露助の侵略を抑えきれなかったからだろう。力も無いくせに
「ボリス兄様。その力とは、我が国の核武装を指して言っているのですか」
エルネスティーナの問いに対し、第三王子は座ったまま足を組み、肩を
「当然だろう。いいか、『扉』が現れた時点でその国はどうあがこうが資源大国になる事が確定してるんだよ。大国には相応の武装が必要になるのは自明の理というやつだ。狼の群れの中で太っただけの羊が生きていけるかなんぞ、子供でも分かる設問じゃないか」
壁際に並んだ日本政府関係者たちは、名状しがたい表情を浮かべていた。
外界持ち国家が取り得る防衛手段としては予想していたのかもしれない。だが、事もあろうに
しかし、口を挟む者はいなかった。対外的には、王家は復権後も政治的関与は行わないという建前がある。ここで行われているのは、あくまで私人の議論と変わらないと看做す他は無い。
例え王位を継承した誰かの支持者に、それを実現する力があったとしてもだ。
「隣国が資源を持つ事ではなく、自らを滅ぼせる武装を推し進める事こそが、他国にとって新たな軍拡と侵略の口実となります。そこから始まるのは際限なき軍拡競争に他なりません。……もっとも、兄様の支持者たちにとっては歓迎すべき事態なのでしょうが」
皮肉を含んだエルネスティーナの言葉に、ボリスは鼻息だけで答えた。
代わりに言葉を返したのはアダルベルドだった。
「代わりに国際的地位の向上が約束される。何より人口の少ない我が国にとって、大軍を運用するよりも費用対効果が高い防衛手段だ。与党内でも主流は容認派となりつつある」
長子の言葉に、残り二人の王子も賛同の意を示した。
「俺も核武装には賛成だ。武器商人どもを調子づかせるのは癪だが、祖国統一の聖戦とその後の大ルーマニア帝国の威信を保つには、相応しい剣が必要になるだろう」
「僕は心情的には全面的に賛成という訳ではないが、そもそも製造コストも外界資源のおかげで抑えられている訳だしね。現実的な選択肢ではあると思うよ」
同調する王子たちに対しエルネスティーナが口を開きかけた時、小さく細く、だが確かな声が円卓の上を通り抜けた。
「私は反対です」
円卓に座る継承者全員が声の主──セラフィナに視線を向けた。先ほどまで黙って俯いていた少女は、表情に迷いを残しながらも幼顔を上げていた。
身体の奥から生じる震えに耐えている様子の末姫に、冷笑しながら声を投げ掛けたのはボリスだった。
「まさか王族教育を受けていながら、『非人道的だからイヤだ』などと抜かすんじゃないんだろうな」
「いいえ、核武装だけじゃない。兄様たちの考えは、どれも一度踏み出したら後戻りができないわ」
セラフィナ王女は、アダルベルドとクレメンテを視界に収めて声を上げた。
「富を特定の層に集中させれば国家の成長は早いけど、一度定着した力は容易に分散できなくなる。科学の発展は理念を伴わない限りどこへ進むか分からないわ。実際、クレメンテ兄様は核兵器製造の判断基準をコストに置いていた」
長男は顔色ひとつ変えなかったが、眼鏡の王子は痛い所を突かれたかのように眉を歪めた。
幼い王女は、続けてボリスとドルレットに向けて言葉を継いだ。
「軍拡については言うまでもない。悪循環の果てにあるのは偶発を発端とした戦争だけよ。旧領地の奪還についても同じこと。一歩間違えれば……いえ、例え一歩も間違えずとも何かの拍子で破滅を迎えかねない道なのに、進み始めたら決して引き返せない」
軍備拡張路線の二人は、それぞれ異なる反応を見せた。
ボリスは未熟な子供の意見を聞き流すかのように明後日の方を向き、ドルレットは義憤に駆られたかのように妹を睨みつけた。
微かに聞こえる警鐘のような声調を含んだセラフィナの言を止めたのは、アダルベルドの厳かな叱責だった。
「セラフィナ。お前が
「……それは」
親子ほども年の離れた長男の言葉が、諭すような声色を帯びた。
「お前には信念が無いだけだ。我々には思想に共鳴する者たちを背負う覚悟がある。……だが、私はそれでよかったと思っている。まだ11歳のお前に、何の後ろ盾も付かなかったことをな。
僅かに考え込んだセラフィナが再び口を開きかけた時、樫製の扉が開く乾いた音が広間に響いた。
慎ましい歩みで入って来たのは、この貴賓館のスタッフと思われる給仕服を着た青年だった。
「別室にて昼餐をご用意致しました。候補者様方のみにて、ごゆるりとご歓談頂ければと存じます」
継承者たちは顔を見合わせると、それぞれ席を立ち始めた。
ボリスが立ち上がりながら冗談とも本気ともつかない口調で言った。
「せいぜい堪能させてもらうとするか。……兄弟揃って摂る最後の食事になるかも知れないんだからな」
扉の脇に立っていた我々の隣を横切る際に、セラが一瞬だけ俺に目を向けた。
六人の男女は揃って広間を出て行った。
外で待っていた別の従業員に王族たちの案内を任せると、青年は広間に残った人間たちへ向き直った。
「王室の方々は、お食事が終わりましたらロビーまでご案内します。お連れの皆様にも軽食をご用意しましたので、ご希望の方は大食堂室までお越しください」
候補者の側近たちが三々五々と広間を後にするのを横目に、レオンがこちらに声を掛けた。
「僕たちはロビーでセラを待とうと思う。君は……どうする」
彼の言葉は、一緒に待つかどうかだけを聞いている訳では無さそうだった。
「少し考えたい。先に行って待っていて貰えますか」
レオンは黙って頷くと、ルシアを伴って扉を出て行った。
広間に残ったのは純日本人──壁際の政府関係者たちと従業員の青年と俺だけだった。
「『あらゆる妨害と困難』だと。レフォルマトルが襲ってくると言っているようなものだ」
錦辺が吐き捨てるような口調で声を漏らした。誰かに聞かせるという風でもないその声は、静まり返った空間に本人の想像を超えて大きく響いた。
ただでさえ人相の悪い顔面に一層凶悪な表情を浮かべた警察官は、経産省の集団に──正確にはその中のひとりに鋭い視線を向けた。
「舵木さん。今からでも選定を中止すべきです」
錦辺の表情は、相手が官僚でなかったら今すぐにでも拘留してやると言わんばかりだった。
「もう決まった事だ。第一、王室と共和国政府より今回の件についての責任は追及しないとの口上書も受けている。何の問題もあるまい」
舵木の返答はにべもなかった。錦辺を見返す目は、国会前で座り込みをするデモ隊をリムジンの窓から眺めるような無関心さがあった。
「王族たちだけではない。都市の市民にまで被害が及ぶ可能性もあります」
「そうならないよう防ぐのが、君たちの仕事じゃないのかね」
経産省と警察庁の言い合いを、外務省の人間たちは居たたまれない表情をしながら見守っていた。
俺は二人にも聞こえるように心持ち大きな声を出した。
「被害が出ると承知しながら、諸手を上げて国内に招き入れるとは驚きだ。記念すべき外患誘致罪の初適用例になりそうだな」
舵木が電車内で絡んできた泥酔者を見るような目を俺に向けた。
「なんだね君は」
錦辺は、俺が加勢した方がむしろ迷惑だと言わんばかりにこちらを睨みつけていた。加勢したつもりはなかったので、俺は素知らぬ顔のまま立っていた。
舵木の後ろに立っていた取り巻きの一人が彼に耳打ちした。俺のことを知っているらしい。
訝しげにこちらに向けた視線が、不快感から侮蔑へと変化した。
「遠田の飼い犬の探査員か。大方おこぼれに預かろうとウロウロしているんだろう。ここは君のような人間が居ていい場所じゃない。早いうちに引き取りたまえ」
俺は先ほど候補者たちを送り出した従業員に声を掛けた。
「王族の集まりに誰が参加するかを決められるのは王族だけのはずだが、まだここに一人残っていたらしい。案内してやってくれ」
舵木は唖然とした表情でこちらを見詰めたが、その顔はすぐに怒りで赤く染まっていった。
そのまま大股で歩き始めると無言のまま俺の横を通り過ぎ、取り巻きを引き連れて退室して行った。
舵木を通す為に慌てて扉を開いた従業員が一息つく間もなく、今度は錦辺が足音も荒くこちらに詰め寄った。
「おい探査員。俺の忠告を聞いてなかったのか」
「忠告は聞いていた。忠告に従うとは答えていない」
錦辺は怒気を帯びた声で言った。「ただでさえこちらは警備で手一杯なんだ。民間人が気楽に首を突っ込んでくるな」
「警察の介護なら間に合ってる。それより警備局なら国テロ課からレフォルマトルの情報を貰っているだろう。いま分かっている事を聞かせて欲しい」
「うるさい。いいか、セラフィナ王女を説得して今すぐにでも帰国して貰え」
話は終わりとばかりに扉へ歩き出した錦辺の背中に向かって、俺は声を掛けた。
「説得が成功したらお知らせしたい。お宅の連絡先を教えてくれ」
顔だけ振り向いた錦辺は不機嫌な声で11個の数字を吐き捨てると、検挙に向かう途中のような足取りで部下たちと出て行った。
巣穴に籠もって嵐をやり過ごす小動物のように、じっと息を潜めていた外務省の人間たちがようやく動き出した。
「やあ静間君。君もここに来ているとは思わなかった」
困ったように笑いながら近づいてきたのは末廣だった。
俺は挨拶を返すと、先ほどの人物について聞いてみることにした。
「舵木氏とはまた厄介なのに目を付けられたね。通商政策局の主力の一人だよ。選定の儀の受け入れについて、その……強く要望してきたのも彼だ」
末廣は言葉を選びながら続けた。
「異動前は経産政策局に在籍してたんだけど、その時に外界の安全保障を巡る議論で遠田先輩にやり込められて以来、彼を目の敵にしているんだ。遠田さんの方は気にもしてないようだけどね」
俺は常に不機嫌そうな表情をした上司の顔を思い浮かべた。
「情けない話だけど、今回の件については完全に経産省が主導権を持って行ってしまったんだ。私たちにできるのは、無事に終わるのを祈る事だけだよ」
この都市に住んでるなら君も気を付けて、と言い残すと末廣も広間を出て行った。
がらんとした広間に残っているのは、俺と従業員の青年だけになった。
俺は電源を切っていた携帯を取り出して起動させると、先ほど聞いた錦辺の連絡先を登録し始めた。
「あの……」
遠慮がちに声を掛けて来た青年に対し、こちらを気にせず先に出ていいと告げると、彼はほっとした表情を浮かべた。
「俺、王族の人とか初めて見ましたよ。何しに日本に来たんですかね」
「
首を捻った青年は、社交辞令の笑いを浮かべて出て行った。
ついに無人になった広間でひとり、俺は先程の論争について考えていた。
継承者たちの推進する国家論はどれも長所と同じだけの欠陥を兼ね備えているように思えた。一介の探査員ならずとも、この問いに正解を導き出せる人間などこの世にいないのだろう。もし模範解答が存在するのであれば、人類はもう少しマシな世界を造っているはずだった。
国家と思想は勿論同一ではないが、さりとて完全に分けて考えられるものでもない。そしてセラの言うように、一度歩み始めたら大抵は後戻りが出来ないものだった。
──静間くん。万有の原事実とは不可分、不可同、不可逆に他なりません。
俺は頭を振って旧師の言説を追い出した。
弁証法神学を外界に適用した挙句、余人の届かぬ場所へ精神を置いてしまった男の事など、今は考えている場合ではない。
ロビーに出てレオンたちと合流しようと扉の把手に手を伸ばした時、俺が触れる直前に戸が開いた。
インチキ超能力者になった気分で目を上げると、向こう側に立っていたのはネイビーブルーのスーツを身に着けた妙齢のルーマニア女性だった。
彼女は俺の顔を頭の中の記録と照らし合わせるように眺めると「コテツ・シズマ様でしょうか」と問いかけてきた。
俺は頷くと同時に、この女を何処で見たか思い出していた。
第一王女の周りにいた側近の一人だった。
相手は丁寧にお辞儀をしながら切り出した。
「ご同行願います。エルネスティーナ殿下がお呼びです」
◆◆◆
案内された先は、この施設の控室らしき部屋だった。
ロビーに出てすぐに右へ曲がって階段を登り、廊下に並んだ扉のひとつを女性がノックすると、中から透き通る声が入室を促した。
劇場の楽屋を連想させる質素な一室の中央に、エルネスティーナ王女が席を取っていた。腰掛けているのは彼女の気品には余りにも似つかわしくない粗末なパイプ椅子だったが、本人は特に気にした様子もなかった。
彼女の背後には、やはりスーツを身に着けた二人の侍女が左右に控えていた。本国から連れて来た側近だろう。腕の方はルシア程ではなさそうだが、それなりに訓練を受けた者の立ち姿だった。
こちらを確認した王女が居住まいを正すと、折り畳みの椅子が突然降って湧いた大役に耐えかねたかのように小さく鳴き声を立てた。
エルネスティーナは正面を向いたまま、後ろの侍女二人に声を掛けた。
「貴女たちは退がりなさい」
護衛たちは躊躇しているようだった。主の命令に従うべきか判断を迷い、俺の顔と王女の背中を交互に見比べていた。
「この方が本気で
王女が上位者としての視線を向けると二人は揃って一礼し、俺の横を通り抜けて部屋を出て行った。
立ったままの俺はエルネスティーナ王女を見下ろす形となったので、膝を着こうとした所を手で止められた。
「急な呼び立てにお応え頂き、感謝します」
俺は僅かに首を振ってみせた。「いえ。それよりも、昼餐会の最中ではなかったのですか」
「中座してまいりました。すぐに戻らねばなりません」
俺は返事を頷くだけに留め、話の続きを促した。
王女は話を切り出す前に一瞬だけ逡巡したようだが、硬さを含んだ声で問い掛けた。
「セラの護衛兼相談役の報酬に、貴方は如何ほど請求される御積もりですか」
こちらが何かを答える前に、彼女は
「単刀直入に申し上げます。その十倍の金額をお支払いします。あの子の依頼を辞退してください」
彼女の提案は唐突だったが、その意図についてはすぐに理解できた。二日前から今ここに至るまで、俺自身が考え続けていたことだったからだ。
「セラがこの国を離れない理由は、もちろん
エルネスティーナはそこで一度言葉を切った。彼女の視線が俺を通り過ぎ、別の何かを眺めるような眼差しに変わった。
「あの子の気持ちはとても嬉しい。当主候補者としても、ひとりの姉としても。ですが、それ以上に妹には無事でいて欲しいのです。……
最後の一言だけは、自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
彼女は目線を俺の顔に戻すと、話を締めくくった。
「貴方が依頼を断れば、彼女も棄権を選ぶはずです。いえ、
最後の方は、挑むような口調だった。
俺は穏やかに言葉を返した。
「どうやらご希望には添いかねるようです」
エルネスティーナの眉が僅かに動いた。大したもので、見せた反応はその程度だった。
セラといい彼女といい、王族は自分の頼みを断られるとはハナから考えてもいない、という偏見は捨て去るべきかもしれない。
もっとも、この姉妹が特殊なだけかも知れなかった。それを判断できるほど、俺は高貴な人種に詳しい訳ではない。
「足りないと仰るのでしょうか。貴方の望む金額をお聞かせください」
「ゼロには何を掛けてもゼロです、エルネスティーナ王女殿下。依頼を引き受けた場合でも、私は彼女に何かを請求するつもりはありません」
王女は得体の知れない生き物を見るような目を俺に向けた。
「……失礼ですが、とても信じられません。何の見返りもなく命を懸けるというのですか」
「貴女が先ほど円卓で主張していた信条は、誰かから金銭を受け取って口にするように頼まれたのですか」
エルネスティーナ王女はしばらく俺の言葉の意味を考えるかのように黙り込んだ。
しばらく控室を支配した沈黙の後、彼女は椅子の上で背筋を伸ばした。
「コテツ・シズマ様。貴方はセラの無事を約束できますか」
「私に出来るのは依頼人の意向に従う事であって、それ以外の他人に何かを約束する事ではありません。例えそれが肉親であってもです」
俺の答えに王女は俯いた。怒り出すかと思っていたが、意外なことに彼女は笑いを堪えていた。
「……貴方は誠実なのか不親切なのか、良くわからない方ですね」
再びこちらに向けられた彼女の顔には、儀礼用ではない微笑みが浮かんでいた。
「セラが貴方に会いたがっていた理由が、少し分かった気がします」
俺は何も答えなかった。相手も返事を求めてはいなかったようで、しばらくこちらを眺めた後、静かにひとつ頷いた。
「貴方が信頼できるかどうかはまだ分かりませんが、貴方を信頼するセラを信じることにしましょう」
返礼を兼ねて頭を下げ、踵を返そうとしたところで王女が呼び止めるように声を上げた。
「それから、
俺は苦笑しながらもう一度頷いた。この王女様は、俺などよりも余程機転が利くらしい。
最後に一礼して控室を後にする。ドアを閉める瞬間、エルネスティーナの幽かな声が耳に届いた。
「セラを……
◆◆◆
廊下を戻って階段を降り、ロビーへと戻った俺は主の帰りを待っている従者たちの中からレオンとルシアの姿を探した。
二人は最初に居た時と同じ、中央の長椅子の近くで手持ち無沙汰に立っていた。俺が見つけるのと同時に、向こうも俺に気付いたようだった。
こちらに向けて軽く手を振るレオンに歩を進めた俺は、王子と従者から等間隔の距離で足を止めた。
「やあ、遅かったね。知り合いの誰かとでも話してたのかい」
「恩を売ろうとしていた相手から、都合よく金銭贈与の提案を頂きましてね」と、俺は答えた。
レオンはそれだけで理解したようだった。
「エルネスと……」途中まで口にしたところで、彼の視線が隣に立つ従者へ向けられた。
「ルシア、君か」
「はい。私がエルネスティーナ様にお願いしました」
ルシアはいつもと変わらぬ無表情のまま答えた。己の行動を正当化しようとする素振りはなかった。
「差し出がましい真似をしたのは理解しています。後ほど、いかなる叱責も受けるつもりです」
レオンは何かを言いかけたが、結局黙ったまま大きく嘆息した。その様子を眺めながら、俺の頭に浮かんでいたのはただひとつの疑問だった。
この無口な従者が、主の無事を最優先で考えているのは分かっていた。
傍流の青年が、義妹の願いを叶えてやりたいと望んでいることも分かっていた。
だが、二日前まで一度も会った事のないセラフィナが、何故これほどの信頼を俺に置くのかだけは分からなかった。
こちらの内心を読んだかのようにレオンが呟いた。
「彼女も独りだったからだよ」
その言葉の意味を問い質そうとした時、大階段から継承者たちが下りてくるのが見えた。
先導する従業員の後についてロビーの床に降り立った彼らは、待機していた従者たちを連れて次々に自動ドアを出て行った。
セラフィナだけがその場を動かずにこちらを──俺を見詰めていた。
やがて広いロビーから警備以外の人影が消え、我々だけが取り残された後、少女はゆっくりとこちらに歩み寄り始めた。
俺たちの前まで来たセラは、照れたように笑ってみせた。
「さっきはカッコ悪いとこ見せちゃった」
それが彼女の精一杯の虚勢だという事は分かっていた。おそらく本人にも。
セラは小さな手を背中で組んだ。革靴の爪先に視線を落とし、床に描かれた模様を確かめるように僅かに足を動かしてから、ルシアへと顔を向けた。
「昼餐会の途中で、エルネス姉様が出て行ったのは……シズマ様に私の依頼を断る様、お願いしてたのよね」
従者は答えなかったが、普段は微動だにしない顔が僅かに強張った。
「怒ってないわ」セラは先回りするように言った。
「ルシアが私のことを心配してくれてるのは知ってるもの。エルネス姉様も同じ。レオン兄様だって、本当は帰った方がいいと思ってるんでしょう」
妹分の問いに、レオンは目を伏せたまま答えなかった。
幼い王女は寂しそうに笑うと俺を見上げた。
「私ね、この国に来る前からずっと考えてたの。もしかしたら兄様たちの考えは正しいのかもしれない。でも、それは本当に自分たちで選んだ道なのかなって」
継承者たちの国家論は方法も目的もそれぞれ違っていたが、その全ては外界が発端だった。そして結論も外界の運用に帰結していた。
「まるで外界が家族を……国中のみんなを操ってるみたいで……でも、それは仕方のない事で。継承戦が決まっても、誰も私を助けてくれようとする人はいなかった」
セラは唇を結んだ後、自嘲するような笑みを浮かべた。
「当然よね。祖国をどうすればいいのか、いくら考えても私には思いつかなかったんだから。結局、エルネス姉様の考えに頼る事しか出来なかった。みんなのいう通り、大人しくルーマニアに帰った方がいいのかも知れない」
俺は何も言わず、彼女の話を聞いていた。
「それでも、誰に顧みられることがなかったとしても。始まる前から何もかもを諦めることはしたくないの。……私が憧れた探査員みたいに」
先ほどのレオンの言葉が、ようやく俺にも理解できた。
誰にも選ばれなかった王女は、誰にも選ばれなかった探査員に向かって微笑んだ。
「ありがとう、シズマ様。会えてうれしかったわ」
紅い瞳に涙を滲ませ、お辞儀を仕掛けた少女に向かって俺は言った。
「俺が依頼を断ると、いつ言いました」
「──えっ」
セラは間の抜けた声を漏らすと顔を上げて俺を見上げ、大きな目を瞬かせた。
俺は屈んで片膝を床に着けると、視線を彼女の高さに合わせた。
「セラフィナ王女殿下。貴女の依頼を引き受けましょう」
少女の唇が僅かに震えた。
「本当……に?」
背後からは何の言葉も聞こえてこない。レオンもルシアも口を挟まず、俺たちの契約を黙って聞いていた。
「俺に出来ることはそう多くありませんが。誰に操られているわけでもない、俺自身の意思で請け負う事を選びます」
何とか堪えていた涙が、ついにセラの眼から溢れ出した。
紅い瞳の縁から零れた雫が白い頬に細い跡を残し、顎先まで辿り着いて床へ落ちた。
俺は立ち上がり、首を回して背後を振り向いた。
レオンはいつも通り穏やかに微笑んでいた。俺と目が合うと、洗練された仕草で片目を瞑って見せた。
ルシアは何かを諦めたように息を吐き、こちらに一礼して見せた。顔を上げた時、すでに表情に迷いは見えなかった。
肝心の依頼人は、そんな二人の反応すら目に入らないようだった。
服の袖で目を拭うと、勢いよく顔を上げる。
「さっそくホテルに帰って作戦会議よ!エルネス姉様を、絶対に王にしてみせるんだから!」
そう口にするや否や、何かに弾かれたように身を翻した。
「セラ様、お待ちください」
ルシアの制止も聞かず駆けだし始めたセラフィナは、自動ドアの前でこちらを振り向くと、出会ってから一番の笑顔を見せた。
「これからよろしくね──コテツ!」
▼選定の儀(継承戦)参加者とその方針
第一王子アダルベルド :大規模集中投資による国力増強
第二王子クレメンテ :研究開発による技術立国
第三王子ボリス :軍拡による防衛力強化
第一王女エルネスティーナ :国内市場形成による格差の是正
第四王子ドルレット :経済・軍備拡大による大ルーマニア復古
第二王女セラフィナ :エルネスティーナを支持
▼セラフィナ陣営
レオン・ロムニエル:王家の庶子。継承権なし
ルシア・ドラグレスク:セラの侍女兼護衛。旧貴族出身
▼ルーマニア関係者
ジオセル:王室評議会顧問官。選定の儀の進行役
▼日本政府関係者
末廣:外務省欧州局参事官
錦辺:警察庁警備局所属。王族の警備担当
舵木:経済産業省所属。日本側の「選定の儀」推進者