拠点の出口を抜けると、少し冷えた夜気が顔を打った。
外界とは違い、こちらの空には星がある。今夜はあいにく曇りのようで、夜空に星は少なかった。
拠点の周囲は運河で囲われている。外灯の乏しい岸壁の下、水面は墨を流したように黒く、揺れるでもなくただ淀んでいた。昼間でも薄暗いこの一帯が、夜になると一層その暗さを深める。
扉が現れる前、この場所が漁港町だった頃の名残はすでになかった。
人は去り、郷愁は消え、しかし辺りを覆う闇だけは残った。
目を向けると、大橋の向こうに街が光っていた。
人口四百万を超え、なおも拡張を続ける大都市の燦然と輝く灯は、周囲の暗い闇の中で一際眩く見えた。
摩天楼が連なり、無数の光が墨色の運河に揺れて映り込んでいる。
あの光の一つ一つに人間がいて、それぞれの生活がある。この拠点との落差が、橋一本を境に存在していた。
俺は少し立ち止まって、それを眺めた。
眺めたところで何かが変わるわけではない。
ただ、帰ってきた、という実感が染み込むように身体に戻ってきた。
同時に、およそ一週間に及ぶ探査活動の疲労が、先ほど獣の体液のように身体にこびり付いているのを自覚した。
安全な休息が必要だった。文明的な食事が必要だった。
なにより今の俺には酒が必要だった。未だに口の中に残るアドレナリンの残滓を洗い流す必要があった。
駐車場に向けて歩き出したところで、声をかけられた。
「あ、あのっ、静間さん、こんばんはっ」
振り返ると、見慣れた顔が立っていた。
篠塚こより。栗色のショートボブ、レディーススーツにタイトスカート。
身なりは一端のOLだが、整ってはいるが若干あどけなさの残る顔立ちと小柄な体格も相まって、どこか就活中の女子大生が背伸びをしているような印象がある。
製薬系企業の営業担当だ。売り込みではなく買い付けと言うべきかもしれない。
フリーの探査員は、回収資源の売却先を比較的自由に選べる。
もっとも、企業所属者の獲得報酬と比較しても相場との差はほぼ無いため、特に利点とは言い辛いが。
希少な資源を回収した際は、企業からの買取交渉が来るのが常だった。
ちょうど今日のように。
篠塚とは一年ほど前から顔を合わせている。他の連中と同じように紋切り型の挨拶から入るかと思いきや、この娘はいきなり用件から切り出してきた。こちらが何も言わないうちから切羽詰まっていた。
顔を合わせると大抵いつもそんな状態である。だが、無意味に美辞麗句を並べることに慣れきった者たちの中で、それは妙に新鮮に映った。
以来、彼女には何度か回収した資源を売却している。
それにしても、この寒空の下でずっと外に立っていたらしい。これは律儀というべきだろうか。
口を開きかけた篠塚の視線が、俺の右腕に向かう。
「あのっ、その怪我————」
包帯のことを忘れていた。医務室で処置を受けてから随分経つ。こちらとしては不本意にも慣れた光景だが、傍目には随分と物々しく見えるのかもしれない。
「大したことはない」
篠塚はまだ俺の腕を見ていた。
俺の返事も耳に入っていないようだった。
右腕を動かし、篠塚の目の前で手を振った。
引き攣るような痛みが走ったが、顔には出さなかった。
「それより、何か用があったんじゃないのか」
どこか茫洋とした篠塚の目が、右腕から俺の顔に移った。
僅かの間、感情の読めない瞳で俺の顔を見つめていたが、やがて我に返ったかのように背筋を伸ばすと用件を話し始めた。
「あ、はい。……あの、今日って——なんかすごい獣、やっつけたって聞いたんですけど。その、部長がうちに売って貰えるようお願いしてこいって」
篠塚は地面にめり込みそうなほど勢いよく頭を下げた。
「お願いします!そのお取引き、ぜひ弊社に!」
新米OLの頭の天辺を眺めながら、俺は返答した。
「もう入札にかけた」
「え」
逆再生のように跳ね上がった篠塚の表情と動きがそのまま固まった。
「さっき手続きをした。悪いな」
「え、あ——もう、ですか? そ、そんなぁ……もう少し待ってくださればよかったのに……わたし、減給されちゃいますよぉ」
最後の一言は完全に余計だった。思ったことが全部口から出てくる。篠塚は俯いて、唇を少し尖らせた。ショックと不満が半々といった顔だった。どう見ても営業向きとは言えなかったが、嘘をつけないのは美点ではある。
俺は少し考えてから、べそをかきそうな篠塚に向けて口を開いた。
「代わりに、今回の探査中に回収した資源がある。たしか皮膚修復の効果が見込めるものだったか。
篠塚が顔を上げた。
表情が一気に明るくなっていた。
「——本当ですか!」
「本当だ」
「欲しいです!絶対欲しいです!お願いします!」
交渉の体をなしていない。それでも目が文字通り輝いていた。こういう顔をする人間を見るのは嫌いではなかった。
「一つ条件がある」
篠塚が小首を傾げた。彼女の容姿も相まって、なにかの小動物を連想させる仕草だった。
「このあと時間あるか。少し付き合ってほしい」
たまには、誰かと食事を共にするのも悪くはないかもしれない。
探査期間中の孤独は慣れきっていたが、どうやら今日の戦闘は思いの外、俺の精神を圧迫していたらしい。
「えっと、それって……」
篠塚は言い淀んだ。落ち着かない様子で目を伏せる。
この寒さの中、外で待っていたせいか耳が赤くなっていた。
「ん、なんだ。嫌か。無理にとは言わないが」
「嫌、というわけでは……ないです、けど。……でも、その、ほら、私、彼氏いますし……」
確かに自分の彼女が知らない男と二人で食事に行ったと聞けば、いい気分はしないだろう。それについて狭量とは言うまい。
「今のは忘れていい。資源についても心配するな」
篠塚は顔をあげた。なぜか妙な決意らしきものが瞳に宿っていた。
「いえ、ご一緒します」
「そうか。なら車を回してくる。待っていてくれ」
篠塚は拠点までタクシーを使ってきていたはずだ。
型落ち品のフェアレディが探査期間中に故障していないか割と真剣に心配しながら、俺は駐車場の方へ歩き出した。
後ろで篠塚が何か呟いたような気がしたが、内容は聞こえなかった。
◆◆◆
大橋を渡り、都市部に入ってしまえば選択肢はいくらでもある。摩天楼の谷間に林立する飲食店の看板は、この街が異常な速度で膨張してきた証拠だ。人が集まれば必要なものが用意される。時には不必要なものですら用意される事もある。
しばらく放っていた割には機嫌のよい車の中、篠塚は助手席に座ったまま妙に背筋を伸ばしていた。
俺はバックミラーに映った黒いセダンを眺めながら篠塚に声をかけた。
「緊張しているのか」
「し、してませんよ」
この娘は本当に顔に出る。
選んだのは大通りから少し外れた小さな店だった。騒がしくなく、しかし暗すぎない。それだけの理由だ。
席に着いてメニューを開き、酒と適当に料理を幾つか頼んだ。ふと気がつくと、篠塚がこちらをじっと見ていた。
「何だ」
「……あの、これって」
「食事だが」
篠塚の表情が、みるみる変わった。安堵とも脱力ともつかない、しかし明らかに別の何かを期待していた顔だ。それが崩れて、やがて唇を少し尖らせた。
「……言ってくださいよ、最初から」
「……そう言わなかったか」
「言ってません!」
「このあと付き合ってくれ、と言った」
「それのどこが食事の誘いですか!」
どこが違うのかわからなかったが、怒らせてしまったらしい。篠塚はむくれたままメニューを手に取り、ぱらぱらとめくった。
それから何かを注文したがずいぶんと品数が多かった。腹が立っているのか、腹が減っているのか、あるいはその両方かも知れない。
店内に二人連れの男が入ってきて、入口近くのボックス席に腰を下ろした。
程なくグラスが運ばれてきて、俺は軽く掲げた。篠塚が慌てて合わせる。まだ少し不満そうな顔をしていた。
「静間さん、お疲れ様です」
「ああ」
一口飲んだが、なかなか悪くなかった。口の中に残っていたものが、少しずつ薄れていく気がした。
交わされた会話は他愛のないものだった。仕事のこと、街のこと。篠塚は最初こそ妙に不機嫌だったが、二杯目に差し掛かる頃には解けてきた。酒が回るのが早い。体が小さいからだろう。
「あの、聞いていいですか」
「何だ」
「なんでわたしと取り引きしてくれたんですか。最初の時」
俺はグラスを置いた。
「覚えているか。初めて会った時、もう一人いただろう」
「網川さん、ですよね」
「名前は覚えていないが。あの手合いは好みじゃない」
「あの手合い、というのは?」
「自分が優れていると思っている人間が、無自覚のまま相手にも同調を求める。交渉の席でやる様な事じゃない」
篠塚は自分のグラスを見つめた。
そこに過去の出来事が映っているかのように。
「……どおりで、途中で席を立たれたんですね」
「ああ」
名前は忘れていたが、営業に来たのか自慢話をしに来たのか分からない女だった事は覚えていた。
篠塚は少し黙った。グラスを両手で包むように持ったまま、テーブルに視線を落としていた。
「わたし、あの時すごく焦ってたんです」
篠塚の視線は、少し遠いところを眺めているようだった。
「網川さんって、自分の顔にすごく自信があって。実際に美人ですし、それで大抵うまくいくんです、営業。でも静間さんに途中で席を立たれて——わたしのせいだって怒りだして、その場で上司に言いつけて。静間さんから契約取るまで戻ってくるなって、上司から言われました」
「それで翌日、一人で来たのか」
「はい。もう必死で。会社にも戻れないし、でも静間さんに会ってもらえる保証もないし。受付で名刺だけ渡して、外で待ってたら——出てきてくれて」
俺はその日のことをぼんやりと思い出した。受付から名刺を渡されて、何となく出てみたのだった。別に大した理由はなかった。
「もう半分やけっぱちで。敬語もめちゃくちゃだったし、言いたいことしか言えなくて。営業として最悪だなって思いながら話してたんですけど」
俺は少し考えてから言った。
「悪い気はしなかった」
「え」──と、篠塚の小さな声が聞こえた。
「言いたいことしか言えないというのは、悪くはない。少なくとも俺にとっては」
篠塚がこちらを見た。目が少し潤んでいるように見えたが、酒のせいかもしれない。
「……また、同じこと言ってくれた」
「宗旨替えはしてないつもりだ」
「ふふっ、なんですかそれ。……わたし、すごくうれしかったです。あの時も、今も」
篠塚がこちらに向けた顔には、静かな微笑みが浮かんでいた。
「わたし、営業向いてないってずっと思ってて」
「向いていないだろうな」
「……そこは否定してくださいよ」
「事実だ。ただ」
俺はグラスの中身を一口分減らした。
「向いていないのと、続けていけないのは別の話だ」
篠塚はしばらく黙っていた。俺の顔をじっと見つめ、それからまた視線をテーブルに落として、小さく言った。
「静間さんには、本当に感謝してるんです。貴方がいてくれたから、わたしは……」
篠塚はそこで言葉を止めた。
少し迷った末に、こちらを伺うようにして問いかけた。
「あの……静間さんは結婚しないんですか。結構モテそうなのに」
篠塚の話を聞きながら、横目で入口付近の様子を確認する。頃合いだった。
「俺がモテるかどうかは知らないが、そうだとしても今日の君ほどじゃない」
俺は携帯を取り出すとカメラを起動した。
篠塚に携帯を向けると彼女は慌てた。
「えっ……ちょっと、静間さんっ、なんですか」
「すぐにわかる」
俺はそのままの姿勢で携帯だけを横に向けると、撮影ボタンを押した。
手元に戻した画面を確認すると、ボックス席に座った男の一人が映っていた。エラの張った四角い顔も、紺色のジャンパーも、ベージュのスラックスも、カメラをこちらに向けた相手の携帯もはっきりと見て取れた。
俺は席を立つと、手櫛で髪を整えている篠塚を置いてボックス席に移動した。
自分達が撮影された事に気付いたのだろう。
「おい、あんた今──」
抗議の声を上げかけた若い男に、俺は自分の携帯画面を見せた。
「無断撮影が良くないという話なら同意しておく」
俺はそのまま男の隣へ腰を下ろした。
対面に座っている年嵩の方はまだ事態が飲み込めていないようだった。相方と俺を交互に眺めて口を開きかけたが、結局言葉は出てこなかった。
「静間さん、どうしたんですか!」
篠塚が慌てて追いかけてきた。
俺は彼女にも腰掛けるように手で示すと、周りの注目が消えるのを見計らって彼らに話しかけた。
「それで。俺たち──いや、彼女に何の用だ」
探査員が尾行について気を払うのは一種の職業病と言っていい。普段の相手は人間ではなかったが、むしろ人間の方が余程分かりやすかった。特に訓練もされてないような手合いなら尚更だ。彼らの尾行技術と観察術は素人同然だった。拠点を出た時からこちらを尾けていた黒いセダン、そして店に入った後の男たちの視線が篠塚に向けられているのはすぐに分かった。
篠塚は最初、自分の事を言っているとは思わなかったらしい。
「え……わたし?」
「どうやら君に気があるらしい。なかなかどうしてモテるじゃないか」
彼らは素早く目配せをし合った。若い方が弁解するように口を開いた。
「あんた勘違いしてるよ。俺はスマホをいじってただけで、カメラがそっちに向いてたのはたまたまだ」
「携帯の中身を見せて貰いたい」
男は若干怯んだ。
「……なんで警察でもないあんたに見せなきゃならない」
「そうか。では、拠点施設の入口から二人組の男が若いOLをつけ回していると通報することにしよう。お望み通り警察が携帯の中身を見てくれるだろうし、拠点前の監視カメラにお宅らの乗っていたセダンが映っていることも確認してくれるはずだ」
男たちは再び顔を見合わせた。
「全て偶然と言い張るなら止めはしない。もっとも、その弁解を聞く事になるのは俺ではないだろうが」
「……わかった。警察は止してくれ」
「代わりにこちらの質問に答えてもらう。断っておくが、誤魔化しや駆け引きは一切無しだ」
男たちは渋々頷いた。
「で、お宅らはどこの誰だ」
「……俺たちはセルリアングループの社員だよ」
「──え」息を飲むような声をあげたのは篠塚だった。
「わたしの会社と同じ……」
「同じじゃない。そっちは下請けだろう」
若い男が吐き捨てるように言った。
年嵩の男がこちらを向いて口を開いた。
「……静間様でしたね。ここまできたら単刀直入に言いましょう。希少な資源の取引先を若輩の女社員一人に任せておくことに、グループ内で疑問の声を上げる者が多いのです」
篠塚は何か言いかけたが、言葉が出ないようだった。
「それで。その若輩の女社員をこそこそ盗撮していた理由と、どう関係する」
「今夜の写真があれば、そこの娘が取引相手の男と二人で飲み食いしているという事実が分かる。……あとは見る者の想像力次第です。具体的には彼女の会社の人間ですがね。そうなれば今の窓口は使えなくなる。代わりに上流にいる我々が担当するというのは、グループ全体で見れば合理的な話でしょう」
小人物が小細工を自慢気に語っていた。若い男も四角い顔を縦に振って相槌を打っていた。
彼らの口調には後ろめたさなど欠片も見えなかった。むしろ自分たちの
拠点都市の企業倫理など、この程度の代物に過ぎなかった。
酷く滑稽な演目を見せられている気分だったが、向かいの席で篠塚の顔が青くなっていくのが分かった。
「ですがまあ、せっかくこうしてお目にかかれたんだ。写真の件は水に流して、直接商談というのはいかがでしょう。我々なら今より条件の良い取引をする事も出来ますし、買い取り額以外に多少の
年嵩の男は懐から名刺を取り出してテーブルに置いた。
俺は名刺に一瞥すら向けず、口を開いた。
「せっかく色々動き回っていたところ気の毒だが、お話にならないな」
「……なぜでしょう。理由をお聞かせ願えますか」
「今の取引相手に不満はないし、お宅のような人物と取引する気もない」
顔を伏せた篠塚が、小さく息を飲む音が聞こえた。
「では、どのような人物なら取引を考えて頂けるので」
「さあ。少なくとも、車でつけ回したり食事中に盗撮してくるような輩ではない事だけは確かだ」
年嵩の男は意味深な笑みを浮かべた。
「我々なら他の融通も利かせられます。もし窓口に女性社員をご所望でしたら、そこにいるのよりもっと──」
「顧客が欲しいものを推察するのが優秀な営業らしいが、それが本当だとするとお宅はあまり向いているとは言えないな」
こちらが応じる気がないのを理解したのだろう。
彼は隣の篠塚に目を向けた。
「末端の君が窓口を独占しているより、我々が対応した方がグループ全体の利益になる。そこまでして自分の成績が欲しいのか」
篠塚は男を正面から見返した。少しだけ肩が震えていたが、先ほどまで見せていた萎縮した気配は消え去っていた。
「わたしの会社での評判はご存知ですよね。ポンコツ営業担当だってみんな言ってます。きっとそれで、お二人もここに来たんでしょう。……別にいいんです。本当のことですし。でも、成績なんて関係ありません」
彼女はこちらに視線を移すと僅かに微笑んだ。
そして、俺の顔を見つめたまま言葉を継いだ。
「わたしは会社命令以外には、静間さんに不要だと言われるまでお付き合いを止めるつもりはありません」
その宣言が誰に向けたものかは、すぐに分かった。俺は苦笑を浮かべ、年嵩の男は渋面を浮かべた。
「君が身体を使って資源を売って貰ってるという噂が流れるかも知れないぞ」
「別に構いません」斬って捨てるような返答だった。
俺は口を出すことにした。
「当事者として、もしそんな噂が耳に届いたら誰が流したか調べてもらう必要がありそうだ。苦情の一つも添えた上で」
男たちは黙り込んだ。
「どうせお宅らの独断という訳ではないだろう。写真を消し、会社に戻って上司に伝えておけ。”静間虎徹は篠塚こより以外の窓口と取引するつもりは無い”と」
若い男に目で促すと、彼は渋々といった表情で携帯を操作した。二人の男は立ち上がり会計を済ますと、黙ったまま店を出て行った。
彼らの背中に向かって舌を出していた篠塚と目が合った。その顔がみるみる赤く染まっていった。
「……えっと……」
「席に戻るとしよう」
元のテーブルに戻ったあと、篠塚は俯いたままだった。
何かを口に出そうとしては、深呼吸を繰り返してる。
視線を窓の外に向けると、闇の中に街の光が広がっていた。
とんだ闖入者に見舞われはしたが、都会の片隅で過ごす夜のささやかな沈黙は、静かに胸に染み込んでいた。
不意に、篠塚がグラスを置く音がした。
「あのっ」
「どうした」
「えっと……私、静間さんが譲ってくれるっていう資源の、お礼をしないといけないって思うんです」
何かに弁解をするような口調で、篠塚はテーブルに視線を落としたまま、話の続きに少し間を置いた。
「どうせ疑われてるなら……いっそ本当にしちゃいませんか?」
少々早口で飛び出した台詞の意味が、頭に届くまでには若干の時間を有した。
俺は篠塚に視線を向けた。篠塚はこちらを見ていなかった。グラスをまた両手で包み、耳まで赤くして、俯いていた。
「彼氏がいると言っていたが、いいのか」
「……今日だけ、ですから」
小さいがはっきりした声だった。
「断る理由はない」
俺はグラスの中身を飲み干すと、伝票を掴んで席を立った。