※この作品はR-18です。

暴虎は外界を馮る   作:義山硝子

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四章 継承と弔鐘⑦

 

 勘違いされがちだが、護衛の仕事とは襲い来る刺客を颯爽と返り討ちにする事ではない。

 

 移動経路の安全を確保し、襲撃への抑止力となり、万が一の時はその身を盾として警護対象を保護する。

 求められるものは戦闘力よりも観察力であり、自制心であり、なにより防御の為の手段だった。

 

 ホテルのフロントから荷物を受け取った俺は、自分の部屋に戻ると中身を取り出して確認し始めた。

 ダンボールの中で最も体積を占めていたのは、アラミド繊維をベースとした防弾仕様のコートだった。

 外界探査で身に着けている戦闘服も同じ素材で作られているが、コートならいざという場合にセラを覆う事が出来る。普段から身に着けているものとデザインが全く変わらないのは、採寸代わりに送り付けたヴ(・)ィ(・)ン(・)テ(・)ー(・)ジ(・)品(・)を森國が参考にした結果だろう。

 それがこちらへの気遣いなのか、単に考えるのが面倒だっただけなのかは分からないが。

 

 次いで折り畳み式の特殊警棒が三本。そのうちの一つを伸ばして、軽く振ってみた。

『錐』に長さを合わせているおかげで、取り回しの違和感は少なかった。

 一応この国には銃刀法が存在しており、ひとまずそれは順守すべきという事になっている。ルシアを始めとした継承者の護衛達ですら、銃器の携帯は許可されていなかった。

 

 最後に箱の底に残っていた小さなケースを手に取った。

 中に入っていた代物は、機能はともかくとして予想外の形状だった。心の中で森國への悪態を一通り並べた後、ケースを机の引き出しに仕舞った。

 追跡を避ける為、車(あし)は数日ごとに乗り換える事にした。フェアレディがヘソを曲げないように、後日ご機嫌を取る必要があるだろう。

 

「ぶき」と「ぼうぐ」を身につけた俺はセラフィナの部屋に入り、朝の挨拶を交わしながら定位置となったソファーの一角に腰を下ろした。

 

「とりあえず今日で一週間。ここまでは順調だったが──」

 

 レオンの台詞のその先は、部屋にいる全員が知るところだった。

 

「問題はレフォルマトルの脅迫ですね。協力企業の離脱状況はどうなのですか」

 

「今のところ大したことはないよ……だが、脅迫がこれで終わるとは思えない。彼らの取る手段がさらに深刻化すれば、エルネスの交渉にも影響を及ぼしかねない」

 

 セラが怒り心頭といった表情で口を尖らせた。

 

「この国に来てまで私たちの邪魔をするなんて。テロリストの条件って、暇を持て余してる人種である事に違いないわ──って、どうしたの?レオン兄様」

 

 先ほどまで眉間に皺を寄せていたレオンは、憤慨する妹分に微笑ましいものを見るような視線を向けていた。

 

「いや、シズマが言いそうな台詞だと思ってね」

 

 セラは虚を突かれたように背筋を伸ばすと、こちらを伺うような素振りを見せた。

 この件に関しては余り話題を拡げない方がいいだろう。他国の王族に悪影響を与えたなどという風聞は、例え濡れ衣であったとしても御免被る。

 

「他陣営の状況について説明してくれ」

 

 あからさまに話題を逸らしに掛かった俺に対し、レオンは笑いを嚙み殺してから頷いた。

 

「明日は日本政府が企画した合同視察だけど、その最中に大きな変化はない筈だ。つまり第一会合では、現時点での戦績がそのまま指標になるだろうね」

 

 レオンはノートパソコンの画面をこちらに向けた。

 画面に表示されていたのは、継承者たちの名前が記されたシンプルな図表だった。

 

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「これは各陣営が支持を得た企業の事業規模を強引に合算した数字だ。あくまで参考値として見て欲しい」

 

「私たちが首位ですか」

 

「今のところはね。でもゴールはここじゃない。問題になるのは継承者たちの構想による、最終的な経済効果だ」

 

 レオンは手元を操作すると、別のグラフを呼び出した。

 

「仮に各陣営が企業の協力を最大限取り付けたとして、ルーマニア本国の事業展開と合わせた場合、予測はこうなる」

 

 表示された各陣営の予測値には大きな隔たりがあったが、アブラハムの七人息子のように長男のグラフだけが一人だけ飛び抜けた高さを誇っていた。

 

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「……予想はしていましたが、厳しい戦いになりそうですね。アダルベルド様の構想はそれほど大きなものなのですか」

 

「ほぼ整備が完成されたこの日本ですら、総合建設に関する年間投資額は3兆レウ……100兆円に近い。一国の近代化ともなれば、十数年単位で続く300兆円以上の市場が誕生してもおかしくないね」

 

 レオンの言葉を最後に、作戦本部は重苦しい雰囲気に包まれた。

 既存事業の拡大ではなく国家そのものを事業とする構想はドルレットも同じだったが、奪還という余剰を挟まない分だけ蓋然性は高い。なにより選ばれた企業のみという合意形成の容易さも、審査上での強みになるはずだった。

 

「それだけじゃない。アダルベルドはこの国の外界政策(れきし)を再現する気だろう」と、俺は言った。

 

 個人的な感想はさて置き、認可制度による大企業参入が日本経済を急成長させたのは事実だ。その恩恵は、社会の均衡が崩れたと訴える声さえ押し流して余りある。

 具体的な成果を上げたモデルケースがあるのだから、それを自国で再現しようと考えるのは必然とも言えた。

 ただひとつ決定的に違う点を挙げるとすれば、制度として王家は外界へ向かう探査員を独占している。

 資源の提供を受けた企業が巨大化したところで、その供給を握られている限り決して王家から離れることは出来ない。むしろ成長するほどに、その首輪は締め付けを強めるはずだった。

 王家は政治に関与しない──そんな建前も、いずれ意味を失うだろう。政府も企業も、全ての国民がパトロンの顔色を窺わざるを得なくなる。

 

 そしてロムニエル家は、名実ともにルーマニアの王へ返り咲く。

 

 与党も企業も、例え傀儡の未来を予感していようが受け入れる他はない。外界の恩恵を拒否するという選択は、自らの衰退と他者の隆盛を意味する。

 おそらくアダルベルドが現当主(アルマンド)から受け継いだ構想そのものが、最初からそこまでを見据えて造られていた。

 既にある種の威厳を帯びた長男の言葉を思い出した。

 

 ──王家は外界を司り、国家に富と繁栄を齎す

 

 成る程、富と繁栄を享受するのは国家そのものと化した王家という訳だ。

 経産省が取り入ろうとするのも当然の話だった。

 

「勝てるでしょうか……私たちは」

 

 独り言のようなルシアの呟きに、レオンとセラは同時に頷いた。

 

「エルネスが中小企業連盟との合意を取れてもアダルベルドには及ばないかもしれない。ただ、日本以外にも参入を希望する国家はあるだろうから、将来性を審査員に訴える手もある」

 

 審査基準について『契約金額や企業数の多寡だけではない』と、ジオセルが口にしていたことを思い出した。

 

「勝てないかもしれない、なんて国を出る時にとっくに覚悟してきたわ。今さら思い悩む余力があったら、状況の打開に使いましょう」

 

 どこかで聞き覚えのある台詞を口にした幼い主に対し、赤髪の従者は静かに頷き返した。

 

「序盤戦が終わったところで次の方針が決まった──クレメンテだ」

 

 空気を切り替えるように、レオンが声を上げた。

 

「学士院も彼自身も、回収した資源の全てを研究に回せるとは考えてないだろう。研究用として十分な枠さえ用意すれば、連合が成立する公算は高い」

 

 エルネスティーナの構想に資源活用技術の育成を加えれば、研究開発に力を入れている企業も交渉対象として視野に入る。

 

「もともと合同研究には積極的な企業が多いんだ。資源と外界生物のサンプルは多い方がいいからね。なにより──」

 

「他の後継者の構想は国家の在り方に直結する。責任を避けたいという消極的な企業は、彼に賛同するだろうな」

 

 単なる技術発展への協力なら公的な説明も容易い。ある意味この国らしい、無選択の選択という奴だった。

 

「クレメンテ様の構想だけが独立しているなら、他の継承者たちも連合を持ちかけているのでは」

 

「それがそうでもないんだ。まずアダルベルドに関しては、資源の用途がきっちり決まり過ぎている……そこが彼の強みでもあるんだけどね。ドルレットも、そもそも足りない復興用物資を日本(ヤポニア)から買い付けようという構えだ。とてもじゃないが、研究に回してる余剰資源なんて無い」

 

「となると、後はボリス兄様ね」

 

 セラがボリスの名前を出した途端、ルシアが僅かに眉を顰めたのが横目に入った。

 

「軍事産業に優先して資源を渡すとしても、防衛目的なら余力があるはずだ。日本からも軍備品を調達する目算だろうしね。なにより研究のメインを軍事転用目的とすれば、彼の構想とも一致する」

 

「ボリスに先んじて、クレメンテの協力を取り付けるのが当面の目標か」

 

 レオンは大きく頷いた。「エルネスからも了承を得ている。とは言え、実際の交渉は第一会合が終わった後になるだろうけどね」

 

「じゃあ、今日も企業を回るの?」セラが首を傾げると義兄は微笑んで見せた。

 

「今日のアポイントは無しだ。知識階級(インテリ)の気を惹くような誘い文句を考えつつ、明日に備えて休養して欲しい」

 

 我々が揃って首を縦に振ると、レオンは立ち上がった。

 

「僕はエルネスから呼ばれている。各陣営の情報共有と、今後の方針についての擦り合わせをしたいらしい」

 

 護衛として同行しよう──俺が口に出しかけた時、ローテーブルに置いてあったレオンの携帯が震え出した。

 拾い上げて画面を見た王子は、眉を顰めた。「ボリスからだ」

 

 レオンは通話を押すとしばらく電話の向こうと話していた。主にレオンが聞き役だった。

 やがて話を終えると俺たちに向かって言った。

 

「僕たちと交渉したいらしい。……どうする」

 

 部屋にいた全員がセラの顔を見た。

 

「とりあえず話を聞いてみましょう。逃げてたって始まらないわ」

 

 レオンが僅かに目を見開いた。義妹の横顔をしばらく眺めていたが、何かを口にする代わりに小さく頷いた。

 

「シズマとルシアも、セラに付いて行ってくれ。エルネスの護衛に迎えに来てもらうから、僕の方は心配ないよ」

 

 俺はソファから立ち上がった。ルシアは衣装棚から主のコートを手に取ると、セラへと羽織らせた。

 

「くれぐれも気を付けて」

 

 いつも通り飄々とした中に、どこか緊迫の色を含んだレオンの声を背に受け、俺たちは作戦本部を後にした。

 

 

 ◆◆◆

 

 

 代車として手配した赤いアルファロメオの運転は、腹が立つほど快適だった。

 俺はどこか後ろめたさを感じながら、真新しい革張りのシートに背を預け、目的地へ浮気相手を走らせた。

 

 指定された場所は、車で三十分ほど離れた北区の一角にあった。

 建設途中で放棄されたような六階建ての雑居ビルは、建物というより巨大なコンクリートの箱に近かった。外壁は打ち放しのままで、窓にはガラスさえ入っていない。

 

「かつて見た中で最低の建物、といったところか」

 

 俺の問いかけにセラは小さな肩を竦めて見せた。

 

「これが建物のつもりだったらね」

 

 俺は苦笑しながら中へ入り、セラを挟んでルシアが続いた。

 

 床も壁も灰色のモルタルが剥き出しで、天井には配管と配線が這っている。広いフロアには最低限の照明しかなく、奥へ行くほど薄暗い。

 フロアの中央で、三人の護衛を従えたボリスが待っていた。

 

「てっきり拒絶するかと思っていたが、臆さず来たか」

 

 こちらの姿を認めたボリスは、むしろ感心するかのように口元を歪めた。

 俺たちは相手から数メートル離れた場所で足を止めた。相手の護衛はいずれも軍人上がりと思わしき、体格のいい男たちだった。

 

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 前置きを一切挟まず、ボリスは本題を口にした。

 

「お前たちの目論みなら解ってる。クレメンテと連合を組むつもりだろう」

 

 相手もこちらと同じ結論に達していたらしい。はぐらかす意味はないと見たのか、セラは小さく首肯した。

 

「それはボリス兄様も一緒でしょ。肉体派の兄様に、説得なんて真似ができるかは知らないけど」

 

「いちいち奴にプレゼンをするのは面倒だ。お前らと天秤に掛けられた挙句、いつ答えが返ってくるかもわからん。そうでなくても、学者ってのは答えを出すのに無駄に時間が掛かるモンだしな」

 

 鼻息を鳴らしたボリスは腕を組んだ。王族の紅い眼が、同じ瞳を持つ妹を見下ろすように細まった。

 

「セラフィナ。お前ドルレットに勝負を挑んだらしいな。俺からのゲームを受ける気はあるか。お前らが勝ったら、こっちはクレメンテへ干渉しない。連合でもなんでも好きにしろ」

 

「それで兄様が勝ったら、私たちが手を引けってこと?」セラの問いに、ボリスは首を横に振った。

 

「俺が勝ったらそこの女──ルシア・ドラグレスクを貰う」

 

 フロアにいる者がみなルシアに視線を注いだ。当人と言えば、眉一つ動かさなかった。まるで予想していたかのように。

 

「ドラグレスク家のセキュリティグループは、俺が輸入する軍事品の使い道を増やしてくれる。つまり、この国でより支持を集めやすくなるって訳だ。ついでに言えば、その顔と身体は女としても使い出がある」

 

「ふざけないで。ルシアは私の大切な従者よ」

 

 押し殺すようなセラの声には、俺が初めて聞く怒りの響きがあった。

 

「元々その女は俺に差し出されたモノだったんだ。ドラグレスクの当主が、俺を通して防衛産業との結びつきを強める為にな。それを親父(アルマンド)がお前付きに任命しやがった。育児放棄している罪滅ぼしの心算(つもり)かどうかは知らんが、余計な真似をしやがって」

 

 ルシアが小さく目を伏せるのが視界の隅に映った。

 

「多少デカい程度の警備グループなど、わざわざ奪い返す意味もないと放置していたが、継承戦となれば話は別だ。実家へのツテから夜の相手まで、存分に俺が役立ててやる。そいつの家もそれを望んでいる」

 

「兄様に女性のエスコートができるとは思えないわね」

 

 棘を隠そうともしない末妹の言葉に、薄笑いを浮かべたボリスは視線を俺へと向けた。

 

「ずいぶんと威勢がいいじゃないか。憧れの探究者とやらの隣で気が大きくなっているのかも知れんが、そんなものは勇敢とは呼べんぞ」

 

 俺も負けじと笑みを浮かべて相手を見返した。表情の品格まで合わせるのは、中々に骨が折れたので諦めた。

 

「俺がどうこうするまでもなく、セラは最初から勇敢だった。お宅の見る目がないだけだ」

 

 兄弟たちの争いに、武装集団の襲撃に、恐怖を感じていなかった訳では無い。

 それでも未だ不確かな理想の為、この地に留まる事を選んだ11歳の少女を言い表す言葉を、俺は他に知らなかった。

 

 セラは驚いたように俺を見上げたが、すぐに表情を引き締めると今度は隣に控えるルシアへと顔を向けた。

 

「ルシア。貴女が決めなさい。例え拒否しても気にしないわ。私もコテツもレオン兄様も、エルネス姉様だってね」

 

 ルシアは一瞬だけ目を見開き、主人へ頷いて見せた。続けて彼女が上げたのは、普段と変わらない冷静な声だった。

 

「勝負の内容はなんでしょうか」

 

「まだるっこしいのは無しだ。俺の護衛と、そこの探究者が一対一で勝負をする。武器は無し、先に相手を伸(ノ)した方が勝ち……分かり易いだろう」

 

 継承者同士が互いに危害を加えることは禁止されているが、双方の合意による勝負まで禁じられてはいない。

 "競争の末に生じた、結果的な妨害"とやらの範疇だろう。

 

 黄金の瞳と視線が合った。俺が何か口にするより先に、ルシアはボリスへ向き直った。

 

「勝負を受けます。シズマ様が敗北した場合は、この身を好きにお使いください」

 

 ボリスは、対戦相手がオールインを受けた時のような笑みを浮かべた。よほどの最強札(ナット・ハンド)を手にしているらしい。

 

「どうする日本人。女子供が受けるといってるんだ。まさか尻尾を巻いて逃げるとは言わんだろうな」

 

 俺は一歩前へ出ると、右手をポケットから抜いて手のひらを上に向けた。

 

「条件が釣り合ってない。こちらが勝ってもクレメンテが同盟を受けるかどうかは分からない。引き換え、そちらは支持の確実な材料と並み外れた美人を手に入れるという訳だ。彼女の価値に比べたら、お宅らの手仕舞い程度では到底足りないな」

 

「ちゃっかりしてやがるな。……いいぜ、賭け金を上乗せしてやろう。俺の護衛にお前が勝ったら、自由市場にも色目を使っていた企業どもをくれてやる」

 

 ボリスがあっさりと俺の提案を呑んだのは、自身の勝利を確信しているからだろう。

 条件はこんなものでいいか、と問いかけようと振り返った俺の目に入ったのは、俯いたルシアと何故か頬を膨らませたセラの顔だった。

 

「ルシアが決めた事だからどんな結果になっても文句を言ったりしないわ。ただひとつ、ひどい怪我だけはしないでね」

 

 そう言ってセラは真っ直ぐに俺を見上げた。紅い瞳には不安の色と、それ以上の信頼が浮かんでいた。

 妹の心情に気付いたのか、ボリスの口元に嘲るような笑みが浮かんだ。

 

「跳ねっ返りの原因の日本人が散々打ちのめされるところを見れば、お前も少しは大人しくなるだろう」

 

 ヴァルク、という主の呼びかけに答え、控えていた護衛のうちの一人が前に進み出た。

 年齢は40手前といったところか。身長は俺よりも高く、190をゆうに超えている。ダークスーツの上からでも見て取れる筋骨は鋼線を束ねたように分厚い。

 後ろに撫でつけた黒褐色の髪の下にある眼光の鋭さは、刃物というより岩石の破片を連想させた。

 

「この男が相手だ。今は俺の護衛だが、普段は陸軍で格闘指導官を務めている」

 

 身体能力は体格の分だけ相手が多少上といったところだろう。しかし、格闘技術には多少どころではない開きがあった。

 こちらに向けて歩み寄る姿に体軸の揺れは無く、この男が弛まぬ修練を積んできた過去を無言のうちに示していた。

 ルーマニアで盛んな格闘技と言えばキックボクシングだが、折れた耳と低く置いた重心から察するに男の専門は組技に近しいようだ。

 ルシアが俺に身を寄せて囁いた。

 

「サンボの国際大会、超重量級で優勝経験もある高名な格闘家です。……気を付けてください」

 

 真っ向からの立ち合いでは、俺の勝ち目などほぼ無い事に気付いているだろう。

 だが、その勝負に自らの命運が懸かっているはずのルシアは、それ以上何も言わなかった。

 

 彼女はこちらから身を離すと、セラの肩に手を添えてフロアの端へと下がっていった。

 

 俺は前に歩み出て、格闘指導官と対峙した。相手も技量の差を察知していただろうが、プロらしくこちらを侮る様子は一切見せなかった。

 準備はいいな──と、問う第三王子の声には、愉悦にも似た絶対的な自信が滲んでいた。

 

「ひとつ確認したい」

 

 俺は待(・)っ(・)た(・)をするようにボリスに右手を向けた。

 

「一般的に武器と呼べないようなモノなら、使ってもいいという事だな」

 

 俺の念押しに対し、第三王子は閉口したように顔を顰めた。

 

「好きにしろ。御託はいい。勝負を受けたならさっさと始めようぜ」

 

 俺はポケットに入れたままだった左手を握ると引き抜いて、ヴァルクに頷いて見せた。

 

 それが開始の合図となった。

 

 探査員に必要なものは対人戦闘技術ではない。その点、相手は生涯を懸けてそれを追及してきた人間だ。

 双方素手という条件に加え、お互い向かい合って開始する試合形式は、格闘家が自らの技量を最大限に生かせる条件だった。

 

 ヴァルクは腰を落とし、両手を前に出して構えた。打撃も認められたコンバット・サンボの使い手らしい。

 こちらは左手で拳を握ったまま、右の掌を前に伸ばして攻防の起点とする。

 

 突如、巨体をまるで感じさせない動きで相手が間合いを詰めて来た。

 顔面を狙って突き出された右拳を、こちらも右掌で払って軌道を逸らす。前蹴りで距離を離したいという衝動を堪えた。サンボ使い相手に安定を欠く姿勢を見せることは、即ち敗北に直結する。

 

 予想通り、俺は防戦一方だった。徒手空拳の専門家であるヴァルクの動きは速く、重く、そのうえ的確だった。

 

 何度目かに繰り出された拳を捌き切れず、顔面を陥没させるかのような強打が俺の右頬に直撃した。

 脳が揺さぶられる感覚を存分に満喫しながら、俺は引き戻される相手の腕に合わせて懐に飛び込んだ。

 

 立ち合いの開始から握り続けていた左拳を、ヴァルクの正中線に向かって突き出す。

 男は全てを予見していたかのようにそれを躱し、伸びきった俺の左腕を自らの腋で固く挟み込んで引き寄せた。

 脇固めと呼ばれるその関節技は、試合ならその場で審判が止めるほど鮮やかに決まっていた。

 

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 ここまでの流れは当然の帰結と言えた。対戦相手の挙動を甘く見積もるような人間をプロとは呼ばない。

 開始前からポケットで何かを握るような仕草をし、始まってからも一度も左手は使わなかった。加えて、立ち合い前に武器の定義まで確認するような言動もして見せた。

 ヴァルクが対人戦闘を極めているならば、俺の一連の動きは警戒されて然るべきだった。そして同時に、想定した脅威を完膚なきまでに封殺する技量も備えているはずだった。

 

 そうでなくては困る。

 

 中(・)に(・)何(・)も(・)入(・)っ(・)て(・)い(・)な(・)い(・)左(・)拳(・)を握りしめると、俺は肩を極められたまま外側に向けて強引に全身を捻った。

 重い弾発音が身体の内側で響き、少し遅れて激痛が左肩を突き刺した。

 

 サンボの立ち関節技は、極めたまま相手を地面に引き倒すパターンが一つの完成形となる。ヴァルクも俺を組み伏せた後、降参を迫るか、肩の一つくらいは外すつもりだったのかも知れない。

 だが極めの姿勢に入った瞬間、関節の方から勝手に外れに来るとは思っていなかっただろう。

 

 相手の両腕はこちらの左腕を抑えていた。

 こちらの左腕は相手に抑えられていた。

 この場で唯一自由に動かせるのは、片腕を切り捨てて可動域を確保した俺の右腕だけだった。

 

 捻った身体の勢いを殺さず上躯を半回転させ、相手の無防備な後頭部に右肘を叩き込んだ。

 右の肩まで外れるほどの衝撃が肘から腕全体に拡がり、俺の左腕を抱え込んだヴァルクの全身から力が抜ける。

 腕(かいな)を震わす振動の最後の一片が消え去るのと同時に、相手は冷たく固い床に崩れ落ちた。

 

 

 ◆◆◆

 

 

 静寂の中、五秒間の残心を終えた俺は構えを解いてボリスに向き直った。

 

「散々確認しておいてなんだが、どうやら持ってくるのを忘れたらしい」

 

 ボリスはうつ伏せに倒れたままの側近に目を向け、次いで肩からぶら下がっているだけとなった俺の左腕に視線を移した。

 

「……マジかよ。素手同士なら国内最強と呼ばれた男だぞ」

 

 コテツ!と、悲鳴を上げて駆け寄って来たセラを右腕で抱きとめる。

 

「肩が外れただけだ。嵌め直せば治る」

 

 涙を浮かべた少女、その銀髪を撫でたくなる衝動を押し殺し、俺は左腕を掴んで真っ直ぐに伸ばすと床に押し当てた。

 全身を使って地面を押すように力を込めると、左肩から骨の嵌まる間の抜けた音がした。

 関節は外れる時よりも嵌める時の方が痛いという通説は真実だったが、どうやら虚勢には成功したらしい。

 セラに向けて左手を軽く振って見せると、少女は小さな胸を撫で下ろした。

 

「……最初から左腕を極めさせるのが狙いだったな。仕掛けを匂わせたのもその為か」

 

 ボリスが呆れたような声を出した。恐らく呆れているのだろう。

 

「御託はいい。勝負が決まったならさっさと認めてくれないか」

 

「言うじゃないか。まあ、仕掛けたのはこちらだしな。クレメンテとの交渉は好きにしろ。企業は後で一覧を親戚(レオン)に送っておく」

 

 そう言うとボリスは生物学者が珍しい昆虫を見つけた時のような顔で俺を眺めた。

 

「探究者だったな……ルシアもそうだが、お前も欲しくなった。おいセラフィナ。エルネスに手を貸してやる代わりに、こいつらを俺に譲る気は無いか」

 

 セラは俺とルシアを順番に見た後、両手を小さく広げて答えた。

 

「いいわよ。二人が首を縦に振るならね。兄様もそこまで人を見る目が無いという訳でもないでしょ」

 

「王族が従者の意思なぞいちいち気にするものかよ……まあいい、どうせ最後には全て俺が手に入れる」

 

「どこかの王子が言ってたけど『し(・)た(・)り(・)顔(・)で夢を語って許されるのは無責任な大衆だけ』らしいわよ」

 

 ボリスの顔から薄笑いが消えた。

 見知らぬ他人を見るような戸惑いの目を妹に向け、探るような声で問いかけた。

 

「……お前、本当にセラフィナか?」

 

「他の誰に見えるのかしら」

 

 ボリスはしばらく黙っていたが、やがて鼻を鳴らして踵を返した。

 

「帰るぞ」

 

 主の一言で護衛たちも動き出した。ふらつくヴァルクに肩を貸し、ボリスの後を追って薄暗いフロアの奥へ消えていく。

 

「用件は済んだ。俺たちも戻ろう」

 

 この肩でハンドルを握れるかどうかを考えながら、俺は二人を先導しつつ殺風景な空間を後にした。

 

 

 ◆◆◆

 

 

 俺の負傷を理由に運転を申し出たルシアにハンドルを任せ、セラと共にアルファロメオの後部座席に腰を下ろした。

 最初の赤信号で車が停まると、隣に座っていたセラが小さく息を吐き出した。

 

「……本当によかった。ルシアが取られなくて」

 

「シズマ様のおかげです。許しを頂いたとはいえ、ご心配をおかけしました」

 

「まったくよ。私、ルシアがいなくなったら困るもの」

 

 ルームミラーに映った従者の口元が僅かに緩んだように見えた。だが、それは一瞬の事だった。

 

「今回の件がなくとも、いずれは家の都合でどこかの旧貴族家へ嫁ぐことになるでしょう」

 

 まるで業務予定を確認しているような口調だった。

 セラは納得がいかない表情でしばらく赤髪の後頭部を見つめていたが、やがて何かを思いついたようにこちらを向いた。

 

「だったら、コテツに嫁げばいいんじゃない?」

 

 流れ弾に撃たれた俺は、窓の外へ向けていた視線を動かすのをなんとか堪えた。

 ついでに、こういう場合に口を開くと碌なことにならないという経験則に従うことにした。

 

「コテツにはいつか私の探究者としてルーマニアに来てもらうんだし。それにほら、コテツもルシアを美人って言ってたでしょ」

 

 まあルシアなら特別にいいわ、と王女様は訳知り顔で腕を組んだまま何度も小さく頷いていた。

 都市内を循環する高速道路に入り、車が緩やかに速度を上げていく。

 沈黙を続けていたルシアは、前を向いたまま小さく返答した。

 

「……セラ様。シズマ様にも、この国での生活がおありでしょうから」

 

 高架道路の防音壁が途切れ、窓の向こうに林立するビル群が姿を現した。大小の看板やガラス張りの壁面が後方へ流れていく。

 

「という事は、別にイヤって訳じゃないのね」

 

 揶揄うようなセラの言葉は、俺の頭まで届いていなかった。

 サイドミラーに等間隔で並ぶヘッドライト。その隙間を縫うように迫り来る二台のバイクがいた。

 どちらも二人乗りで、全員がフルフェイスのヘルメットにライダースーツというお揃いのカルテットだった。

 

「ルシア」名前を呼ぶと、バックミラーの中で金の瞳が僅かに動いた。

 

「今気付きました。速度を上げます、セラ様を──」

 

 突如バイクの片方が急加速し、露骨に距離を詰め始めた。エキゾーストノートの咆哮が、ルシアの声を掻き消すかのように車内にまで響く。背後に目を向けると、運転手の背後から後部座席の男が上半身を外側へ傾けた。

 ライダースーツの脇から覗いた黒い物体を見る前に、俺はセラの頭を押さえ込んでいた。

 

「伏せていろ」

 

 少女の身体を引き寄せるようにして座席に倒し、コートを脱いで覆い被せる。柔らかな感触が掌の下で強張るのが分かった。

 ほぼ同時に乾いた破裂音がした。リアウィンドウが耳障りな音を立てて砕け散る。右手を翳し、降り注ぐ細かな破片のうち目に入りそうなものだけ防いだ。遮るものの無くなった窓から逆巻く風が唸りを上げて吹き込んでくる。

 アルファロメオが大きく蛇行した。タイヤの悲鳴が途切れながら響き、遠心力が身体を左右に持っていく。

 

「アクセルから足を離すな。接近されたら終わりだ」

 

「承知しました」ルシアは短く答えると、ハンドルを切り戻して車体を立て直した。彼女が前傾姿勢を取ると同時に、速度計の針が一気に百五十を超えるのが見えた。

 

【挿絵表示】

 

 

 セラをコートの下に押さえ付けるようにしたまま、俺は姿勢を低くして携帯を取り出した。呼出音を数える間にも、風とエンジンの唸り声が頭蓋の奥で反響していた。

 三度目の呼出音が鳴る前に通話が繋がった。

 

「誰だ」受話口の向こうから錦辺の不機嫌な怒鳴り声が聞こえた。

 

「俺だ」こちらも怒鳴り声で応酬したが、風に消されない為だった。

 

「何の用だ探査員。こっちは明日の準備で──」

 

「都市環状線を走行中に襲撃を受けている。二人乗りのバイクが二台。少なくとも一人は拳銃を持っている」

 

 錦辺の判断は速かった。

 

「今どこを走ってる」

 

 俺が現在地を告げると、誰かへ何かを指示する声が聞こえた。

 十秒もしないうちに、錦辺の声が通話口に戻って来た。

 

「二十キロ先のパーキングエリアに遊撃車を向かわせる。そこまで持たせろ」

 

 こちらが返答を口にする前に、割れた窓の向こうから騒々しいマフラー音が近付いてきた。

 俺は通話を切ると、腰に差していた警棒を引き抜いた。

 

「二十キロ先のパーキングが王族保護区らしい。出来るだけ右車線を維持してくれ」

 

「何をするおつもりですか」やはり姿勢を低くしたまま、ルシアが問い返して来た。

 

「数を減らす」

 

 俺はセラを覆っているコートを確かめた。少女の身体が完全に隠れているのを確認してから頭を持ち上げて周囲を伺う。

 左側から追ってきたバイクがアルファロメオに並走し掛けているのを横目に、サイドウィンドウを降ろした。

 どのみち銃弾の前では、脆いガラス一枚など有っても無くても同じことだった。

 

 後部座席の男が銃口をこちらに構えるのが見えた。

 

「シズマ様!」

 

 ルシアの叫び声を聞きながら、警棒を握った手首を軽く振って重心を確かめる。狙うべきは人間ではなかった。

 並走するバイクとの距離が縮まり、相手の前輪がアルファロメオのリアフェンダーより僅かに後ろへ来た瞬間、俺は窓から身を乗り出すと警棒を低い軌道で投げた。

 47センチのチタンで出来た棒切れは、回転しながらバイクの足元へ吸い込まれていった。

 

 次の瞬間、甲高い金属音が響いた。

 バイクが倒立するようにして後輪を跳ね上げ、転倒する。投げ出され回転しながら道路の上を滑っていく二人の乗員ごと、視界の外へと流れていった。

 

 俺は身体を車内へ戻した。「一台減った」

 

 ステアリングを操りながら、ルシアが呆れたような声を上げた。「警棒を投げる護衛を初めて見ました」

 

 バックミラーの向こうでは、もう一台のバイクが尚もこちらを追っていた。

 仲間が脱落したことで慎重になったのか、一定の距離を保ったまま近づく様子は見せなかった。

 

「大丈夫か」俺は伏せたままのセラに声を掛けた。

 

「うん」コートの下で銀色の頭が小さく動いた。

 

 ルシアは速度を落とさなかった。前方の車を掠めるように追い越し、時には路肩ぎりぎりまで寄せながらアルファロメオを走らせる。

 後部の窓はとっくに原形を留めておらず、車内を掻き回す暴風が彼女の赤髪を巻き上げていた。

 

 やがて前方に赤色灯が明滅するのが見えた。

 パーキングへの進入路には数台の警察車両が並んでいた。一般車両を奥へ退避させたらしく、警察官がこちらへ大きく腕を振っている。

 

「急止します。セラ様を支えてください」ルシアの声に応え、俺はコートの上からセラの小さな体を抱きかかえた。

 

 手負いのアルファロメオは減速を最小限に抑えたまま進入路へ飛び込み、スキール音を鳴らしながら駐車場へ滑り込んだ。

 三台の遊撃車が中央を空けるようにして配置されていた。ルシアは即席のバリケードの内側へアルファロメオを乗り入れ、そこで急制動を掛けた。

 車体が完全に停止するより早く、周囲の警察官たちが警戒態勢を取るのが見えた。

 

 俺は割れたリアガラス越しに後方を確認した。

 残ったバイクはパーキングへ入ってこなかった。進入路を素通りし、二人の人影を乗せた車体は本線を走り去っていく。

 

 やがて幾つものサイレンが、その背中を追い始めた。

 

 

 ◆◆◆

 

 

 果てが無いと思われた取り調べを終え、ようやくホテルに帰って来たのは深夜になってからだった。

 

 セラとルシアを警護車で先に帰し一人残った俺は、警察車両(セドリック)の中で警官三人がかりの事情聴取に応じる事になった。

 選定の儀については警察内でも周知されているらしく、こちらの背景への理解は早かった。もっとも映画顔負けの追走劇までやらかしては、すんなり釈放とは行かないらしい。

 俺が転倒させた二人組も、既に逃走していたそうだ。バイクのナンバーはNシステムに残っているだろうが、恐らく盗難車だろう。

 錦辺は最後まで姿を見せなかった。

 

 俺は送迎の警察車両から超過勤務で死体のように強張った身体を引きずり出し、ロビーを通り抜けて一番奥のエレベーターに乗り込んだ。

 上昇する鉄の箱と一緒に浮かび上がってきたのは、襲撃者についての疑念だった。

 走行車両への銃撃は、例え射撃のプロでも難易度が高い。本気でこちらを害する気なら、環状道路に入る前にいくらでも機会はあったはずだ。彼らの目的はあくまで警告と考えるのが自然だった。

 それよりも最大の疑問は、どうやって俺たちの車を特定したのかという事だ。

 ホテル自体が監視下に置かれているとすれば、地下駐車場から出てくる車の乗客を全て視認してまわる事も不可能ではない。だが、頭のどこかにこびり付いた違和感は拭えなかった。

 

 いくつか考えは浮かんだが、すべては当て推量に過ぎなかった。

 

 最上階に着いた箱の中に思案を置き去りにし、俺は臙脂色の絨毯の上を進んだ。

 やっと帰り着いた自分の部屋の前で、ルシアが俺を待っていた。

 

「お帰りなさいませ、シズマ様」

 

 彼女は壁から背を離すと、こちらに軽く頭を下げた。

 

「わざわざ待っていたのか」

 

「貴方なら間違いはないと思いますが。念の為です」

 

 それだけ言い残すと、ルシアは踵を返して去っていった。揺れる赤髪と後ろ姿を見送った後、俺は扉を開けて中に入った。

 コートを脱いで椅子に掛け、ついでに左肩の調子を検分する。多少熱感が残っていたが、明日の視察に支障はなさそうだ。

 

 寝室に人の気配を感じるのと、その寝室のドアが開いたのは同時だった。

 

「────あ」

 

 着替えの最中だったらしいセラは、俺の顔を見た途端に動きを止めた。

 

【挿絵表示】

 

 

 俺は携帯を取り出すと、受信メールを確認し始めた。先程の襲撃について、何か重要な知らせが来ているかもしれない。

 画面に目を落としたまま、硬直したままの少女に声を掛けた。

 

「とりあえずドアを閉めたらどうだ」

 

 ……うん、という小さな声と共にセラは扉を閉じた。

 件名の再チェックを行いながら、俺は今見たものを頭から追い出すことにした。

 

 並んだ表題の十五件目まで暗記した時、再度寝室のドアが開く音がした。

 樫製の板から半分だけ覗かせたセラの顔は、まだ紅潮を残していた。

 

「えっと……ごめんね、勝手に入って」

 

「宿泊料を払っているのは俺じゃない。不法侵入には当たらないな。だが、こんな夜更けにひとりで男の部屋に来るのは感心しない」

 

「その……今日いろいろあったじゃない?それで、眠れなくって……」

 

 セラは言い訳をするように呟くと、寝室の扉を挟んだままこちらを見上げた。

 今日一日だけで、目の前で人間同士の格闘戦を見せられた挙句、帰り道では銃を持った連中に襲われ、映画のようなカーチェイスまで経験している。

 例え王位を争う継承者の一人であろうと、セラはまだ十一歳の少女だった。

 

「明け方には自分の部屋に戻れ。それまでならここにいていい」

 

 半分だけ覗いていた顔が、今度は全部扉の向こうから現れた。

 

「いいの?」

 

「明日の合同視察中、寝不足で倒れられたらこちらが困る」

 

 セラは嬉しそうに頷くと、ようやく寝室から出てきた。

 

「うん!ルシアに気付かれないうちに部屋に戻るから!」

 

 どうやら本人は上手く忍び込んだつもりらしい。

 赤髪の護衛が部屋の前で立っていた件については、王女の名誉のために黙っておくことにした。

 

「シャワーを浴びてくる。先にベッドに入ってろ」

 

 その間に寝付いてくれるのが一番面倒が少ない。

 寝室へ戻っていく小さな背中を横目に、なるべく時間を掛けようと考えながら俺は浴室へ向かった。

 

 

 ◆◆◆

 

 

 タオルで髪の水気を拭いながら寝室の扉を開けると、セラは既にベッドの中にいた。枕元の照明だけが点いており、白い掛け布団から銀色の頭だけを覗かせている。

 こちらに気付いた紅玉の瞳が、所在なさげに何度か瞬いた。

 

「男の人のお風呂って、早いのね」

 

「王女様に比べたら、そこらの人間の身支度なぞ早いに決まってる」

 

「そうなんだ。私、いつもルシアに洗って貰ってるの」

 

 俺は照明を落としてベッドの反対側に入り、仰向けになった。普段なら一人で使うには持て余すほど広い寝台だったが、今夜ばかりは妙に狭い。

 セラの身体から発せられる熱が、冷たい掛け布団の中を温めてくれていた。

 しばらくして、シーツが微かに擦れる音がした。

 横を向くと暗がりの中でセラがこちらを見ていた。視線が合った途端、恥ずかしそうに目を伏せる。それでも離れる気はないらしく、少しずつ身体を寄せてくる。

 やがて小さな腕が、おそるおそる俺の身体に回された。

 

 静けさの中で、セラの確かな鼓動が薄い布越しに伝わってきた。

 

「コテツも……ドキドキしてる?」

 

「ああ」俺は短く答えた。

 年端も行かない王女と同衾していると知れば、ルーマニア国民が俺の首に賞金を懸けかねない。

 動悸を早めるには十分過ぎる理由だった。

 

 そうなんだ、と嬉しそうに呟いたセラは、俺の腕に銀の頭を預けた。

 

「……ルシアから私の話、聞いたでしょ」

 

 俺は返事代わりに銀の糸を撫でた。セラが小さく目を細める。

 

「宮殿の部屋にひとりでいる時間は、ずっとコテツのこと考えてた。私と同じでひとりきりなのに、外界にも負けない探求者は一体どんな人なんだろうって……えへへ、なんか恥ずかしいね」

 

「実際に会って幻滅したか」

 

 芋粥も飽きるほど喰えば虚しくなるものだ。

 

「ううん全然。逆にますます好──ましく、思うようになったわ」

 

 セラはそのまま俺の左肩に手を当て、労わるように撫で始めた。

 

「今日戦った人……強かった?」

 

 俺は天井を向いたまま頷いた。「俺より余程強かった」

 

「どうして勝てたの?」

 

 俺はしばらく考えた。

 単一性能を極めることも、個人が戦闘技術に優れることも、目的を達成する能力と同義ではない。

 戦闘技能を突き詰めるという趣(・)味(・)は、生命が保証されている人間だけに許された贅沢だった。

 それを、あの男はなんと言っていただろうか。

 

「"個として優越したいという本能を克服しろ”……だそうだ」

 

 口にしてから思わず笑いだしたくなる衝動を堪えた。

 師の教えを忠実に守った結果、俺は単独で外界に潜り続けている。傍からすれば、酷く矛盾して見えるに違いない。

 

 セラは言葉の意味を考えるように黙り込んでいた。

 やがて肩を撫でていた手を止めると、俺の腕に頬を寄せたまま小さく口を開いた。

 

「今日はね、嬉しかった。ルシアを守ってくれたことだけじゃなくて、私たちの選択を何も言わずに見守ってくれたこと」

 

 ルシアが賭けることを選び、セラはその意志を受け入れた。俺は横から口を挟まなかっただけだ。

 どうやらセラにとっては、それも護衛の仕事に含まれているらしい。

 

「コテツは大切なことはいつも自分で決める。そして、誰かが自身で決めたことにも敬意を払ってる」

 

 よもや十一歳の少女に人生観を評される日が来るとは思わなかった。

 遺憾ながら否定する理由もなかったので、俺は黙っていた。

 

「私の依頼を引き受けてくれたのは、私が自分自身でこの国に残ると決めたからでしょう?」

 

 薄暗闇の中、紅玉の瞳が穏やかに俺を見つめていた。

 

「コテツが護ってくれてるのは危険からだけじゃない。きっと、私自身の意志なの」

 

 俺は答える代わりに別の事を口にした。ある種の気恥ずかしさを隠すためだったのかも知れない。

 

「明日は早い。もう寝よう」

 

「うん」

 

 俺は通訳イヤホンを外すと、同じく外したセラからも受け取り、サイドテーブルに置いた充電ケースに放り込んだ。

 厚いカーテンの隙間から入り込む街の灯だけが、天井に淡い筋を描いている。

 静かでおだやかな時間だった。

 荒涼とした眠らない街も、物騒な王位継承戦も、この瞬間だけは遠い世界の出来事のように思えた。

 

「Noapte bună, scumpule」

 

 こちらに身を寄せたセラの小さな呟きを聴きながら、俺は静かに目を閉じた。

 

【挿絵表示】

 

 

 





いつもお読み頂きありがとうございます。

四章「継承と弔鐘」ですが、一度通しで書いてチェックしたいと思います。
しばらく時間が空いてしまいますが、えっちパート含めてご満足頂けるように頑張りますので、気長にお待ちいただければと思います。

引き続き「暴虎は外界を馮る」にお付き合い頂ければ幸甚です。
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