特殊環境資料館は、すでに間近に迫った次世紀の建築物と数百年前の欧州の貴族邸宅を節操なく混ぜ合わせた、一貫性の無い体裁の建造物だった。
全面ガラス張りの現代デザインビルを中央に、東西南北に伸びた連絡通路の先にはメトロポリタン美術館の紛い物のような資料館がそれぞれ連結されている。
歴史が集まり未来を形作る──と、パンフレットに書いてあったので、きっとそう考えて造ったのだろう。
俺に言わせれば、例え風邪を引いた岡本太郎だろうが余程マシなものを仕上げてきそうなガラクタだった。
パルテノン神殿風の正面玄関といい、モールディングで装飾されたボザール様式の壁面といい、成金の感性とやらは一世紀前のバブル期から進歩していないらしい。
もっとも、外界特需で拡大した拠点都市の象徴としては、これ以上相応しいものは無いのかも知れなかった。
経産省が巨額の費用を掛けて建造したこの資料館が竣工したのは、約二年前だったはずだ。
復縁したてのフェアレディを駐車場に乗り入れ、その一角に設けられた即席の
資料館唯一の玄関でもある南館のエントランスには、入館待ちの集団が長蛇の列を作っていた。
行列を横目に入れながら、一軒家がそのまま入りそうなプレハブ・ユニットハウスの扉を開ける。中は70坪程の広間がひとつきりのシンプルな造りだった。
室内の人間が一斉にこちらを振り向く。八日前の宣誓式と同じ光景だったが、今日のセラは平然とその視線を受け止めていた。
まず目に入った広間の奥側には、長子アダルベルドが座っていた。ウィンザーチェアに腰掛けた彼の後ろには黒スーツの護衛が四人、直立不動で控えている。
ルシアを除くと、ロムニエル王家に所属する従者を引き連れているのは次期当主に内定していたアダルベルドだけらしい。
彼は
相争う関係を体現するかのように東西に離れて立っていたボリスとドルレットは、それぞれ温度の異なる視線をこちらに向けた。
昨日対面したばかりの
どうやら引き抜きについては、まだ諦めていないらしい。仕えるにしても相手くらい選ぶ──と考えた所で、セラの小さな後ろ姿が目に入った。俺は理由もなく、幼い王女から視線を外すことにした。
ボリスの連れた取り巻きの中に、昨日は見当たらなかった人物が立っていた。
五十代半ば程の男は、灰色の瞳と鋭い視線をこちらに向けて来た。現役か退役後なのかは分からないが、国防参謀本部出身の補佐役というのはおそらく彼だろう。
三人の従者を引き連れた
敵愾心か危機感か、それとも一種の罪悪感なのか。本人にも良く分かっていないようだった。
彼はこちらに歩み寄ると、思春期の娘に学校の様子を聞く父親のような遠慮がちの声で話しかけた。
「セラフィナ。襲撃されたと聞いたが……息災か」
「ええ。おかげさまで」
澄まし顔で答えたセラに対し、ドルレットは続けて何かを口にしようとしたが、それに口を挟んだのは彼の後ろに控えた従者だった。二日前の支倉ロジスティクスでは見かけなかった顔だ。
荒事向きでない雰囲気から見るに、どうやらドルレットの参謀役は彼のようだった。
「殿下。妹君への挨拶は結構ですが、あまりお気を許しになりませぬよう」
ドルレットは僅かに眉を寄せた。声を掛けた従者は俺たちには一瞥もくれず、主人を冷めた目で見据えていた。
「大ルーマニア復古の御旗を掲げておられるのは殿下御自身のはず。
ドルレットは何か言い返そうと口を開きかけたが、結局それを飲み込んだ。
「……分かっている」
小さく零れたその一言は、出会ってから見せていた高圧的な態度とは似ても似つかない、ただの若い男の声だった。
どうやら王族と言えど、担がれた神輿の上では自由に振る舞えないものらしい。支援者たちが望むのは筋書き通りの旗印であって、妹に配慮するような視線を送る兄ではなかった。
台詞を忘れた役者のように黙り込んだまま元の位置に戻っていくドルレットの背中を、セラは形容しがたい表情で見送っていた。
視線を巡らせると、右奥のソファーに腰を落ち着けているエルネスティーナの姿が目に入った。
こちらのやり取りが終わるのを待っていたのだろう。彼女は手招きの代わりに微笑み、小さく頷いて見せた。
セラが小走りに歩み寄ると、王女は柔らかく目を細めて妹を迎えた。主の後を続いたルシアも一礼し、簡単な挨拶を交わす。
「コテツ・シズマ様」
彼女は立ち上がると、こちらへ向かって深く頭を下げた。彼女の従者たちが動揺したように動きを止めるのが視界の端に映った。
「セラを護ってくださっている事、そして
顔を上げたエルネスは、少し言葉を選ぶように間を置いてから続けた。
「加えて……最初にお会いした際、貴方を侮っておりました事もお詫びしたく存じます」
「いち探査員に対する査定としては妥当でしょう。協力については
「貴方は相変わらずですね」と呟いたエルネスは僅かに口元を緩めると、それ以上は追及せずに微笑んだ。
「言ったでしょ、姉様。私のコテツは頼りになるの!」
得意げに胸を張ったセラだったが、姉が「コテツ、ね」と揶揄うような視線を寄越すと、途端に頬を赤らめて口を噤んだ。
くすりと上品な笑いを挟んでから、エルネスは改めてこちらに向き直った。
「
彼女が片手で優雅に示した先には、控えめな距離を保って立つ三人の女性がいた。
宣誓式で俺を探していた妙齢の女と、控室で王女の背後に控えていた二人だった。
「彼女たちは
継承者たちが本国より連れて来た人員は主に、護衛、参謀、侍従の三種である──とレオンから聞いていた。
エルネスティーナに関して言えば、参謀を必要としなかったらしい。現地採用枠については、日本の中小企業連盟から事務員を五名指定したという話だった。
「交渉は概ねまとまりました。加盟する企業の大部分を引き入れられる見込みです」
今後は連盟公認の事業提案として、使役枠の事務員たちが加盟企業への周知と交渉を進めてくれるはずだ。
国内社団のお墨付きともあれば、王族からの提案を持参したとかいう胡散臭い探査員など比較にならないくらい、話は円滑に進むことだろう。
「レオン様にもご助力頂きました。お姿が見えないようですが」エルネスティーナが周囲を見渡しながら尋ねた。
「合同視察は継承候補者の指名です。護衛の観点からも、今日はホテルに居て頂くようお願いしております」
答えたのはルシアだった。
無論、杞憂で終わるに越したことはありませんが、と赤髪の従者は小さく付け加えた。
得心したように頷いた姉の王女に向かって、セラが携帯の画面を掲げて見せた。
「位置情報はお互い共有してるの。せっかくだから姉様も参加してみない?」
新しいSNSグループへの登録を進めるようなセラの声に、エルネスティーナは柔らかく頷いた。
「ええ、構いませんよ」
妹に横から口を挟まれつつも手早く登録を済ませた第一王女は、優雅な声を優雅に潜めてみせた。
「もう伝わっているとは思いますが、
自由市場が想定し得る最大限の成果を挙げたとしても、アダルベルドの国家事業には届かない──というのがレオンの見立てだった。
話題の第二王子はどこにいるのかと広間に視線を巡らせかけた時、聞き覚えのある声が俺の名前を呼んだ。
「静間」
振り向くと、そこに立っていたのは堂島だった。
護衛ではなく研究者を連れて来たクレメンテが、現地での雇用枠として探査員を融通されたとは聞いていたが、どうやら第二王子が支持を取り付けた認可企業は慶雲カンパニーだったらしい。
堂島の背後にいた角田と安原も、こちらに軽く手を上げた。
「
彼らのやってきた方に目を向けると、部屋の隅に座った眼鏡の王子は資料館のパンフレットを食い入るように読み耽っていた。
「
「それで護衛を引き受けたって訳か。……お前の報酬額が気になるな。こっちは慶雲の連絡係曰く、"通常業務"の範疇だそうだ」
声を潜めつつ不平をこぼした堂島に、俺は意味深な笑みを浮かべて見せた。
「詳細は教えられないが、俺が想定していた金額の十倍を払ってもいいと言われたよ」
素知らぬ顔で聞き耳を立てていたエルネスティーナが小さく俯いた。何とか笑いを堪えた第一王女は、何でもなかったかのように顔を戻した。
こちらの会話を眺めていたセラが、我慢できなくなったかのように前に出た。
「コテツのお友達かしら」
少女が"コテツ"と呼んだ瞬間、堂島たちが一斉に俺の顔に視線を向けるのを感じた。俺は護衛としてセラフィナ王女の周囲に気を配っていた為、彼らの表情までは分からなかった。
この場にレオンがいたら、いつもの揶揄うような視線を向けて来たに違いない。傍系の王子を連れてこなかったことに安堵しつつ、セラたちに慶雲チームの面々を紹介した。
安原は眩しいものでも見るように目を細め、エルネスティーナとルシアの姿をしばらく眺めていたが、やがてぼそりと呟いた。
「堂島さん。俺もこっちの陣営がいいんですけど」
言い終わるより早く、堂島の足が容赦なく安原の脛を蹴りつけた。普段から無口な角田は、やはり黙ったまま知らぬ振りを決め込んでいた。
呻き声を上げる安原を尻目に、図体の大きな男はセラフィナに視線を向けると軽く頭を下げた。
「セラフィナ王女様。少しの間、"貴女のコテツ"をお借りしてもよろしいでしょうか」
冗談めかした堂島の言葉に対して俺が抗議の視線を向ける前に、セラは小さな胸を張った。
「いいわよ。パートナーの友誼に口を出すほど、私は狭量じゃないわ」
仰々しい一礼をして歩き出した男の後に着いて足を進めながら、俺は安原の仇を取るべきかを真剣に考えていた。
どうやら話相手は堂島だけらしく、安原と角田は護衛対象の元に戻っていった。
どの陣営からも離れた壁際で足を止めると、堂島はこちらに向き直った。
「情報交換をしないか。お互いの雇い主の不利益にならない範囲で」
俺は頷いた。こちらがクレメンテとの同盟を検討している件について、雇われたばかりの堂島が把握しているかは分からない。
それよりも、我々護衛役には余程差し迫った問題があった。
「王族合同視察の話は聞いていたが、一般公開をしながらとはな」吐き捨てるような男の声には、呆れと苛立ちが同分量含まれていた。
「ご自慢のコレクションを他国の王族に
「それだけじゃなく、ご自慢のコレクションを他国の王族が見物しに来ている様を、我々一般庶民にも見せつけたかったんだろう」
ありそうな話だ、と堂島は軽く舌打ちをしたが、すぐに話題を切り替えた。
「資料館の警備は良く練られてる。現場の
俺は車を降りてこの待合室へ進む間に、資料館入り口に並んだ長蛇の列を思い返した。一般客に対する所持品検査だろう。事前に武器を隠し置いていないか、広大な館内の調査も数日かけて行っているはずだ。
堂島は懐に手を伸ばして煙草を取り出しかけたが、眉を顰めて元に戻すと言葉を続けた。
「この国の官憲は基本的に優秀だ……元国家公務員としては手前味噌になるがな。だが受け身である以上、限界はある。例えどの国の治安機関だろうが、襲撃を完全に防ぐような真似は不可能だろうよ」
「優秀な元国家公務員としての、本日の
「こいつは勘だが、
この国で最も実戦に近い部隊に所属していた男は、感情を殺した声でそう口にした。
外界探査ならともかく、市街地戦闘訓練を積んだ堂島の奇襲に対する嗅覚は俺よりも余程優れている。
「テロが厄介な理由は、常に相手に優先権がある点だ。これはお前が良く知っている利点でもあるだろう」
外界生物と交戦する際は、戦闘の場所とタイミングを可能な限りこちらで制御する──俺自身が散々に叩き込まれた原則だった。
「相手に絶好の機会を与えない……他の継承者と集団で動くなという事か」俺の問いに対し、堂島は頷いた。
「俺たちは入館後、しばらく南館に留まる積もりだ。……まあ第二王子の様子なら、勝手にそうなるだろうがな」
堂島は肩越しにクレメンテを親指で示した。
堂島たちの護衛対象は、パンフレットを指差しながら早口で角田に何かを問いかけていた。
「あの王子と従者ども、外界の事しか聞いてこねえ。毎日事情聴取を受けてる気分だぜ」
堂島はため息を吐いた。好奇心旺盛な王族に振り回される立場としては、どの陣営の探査員も大して変わらないらしい。
従者の研究者たちについては、護衛の都合で留守番を言い渡したそうだ。猛烈な抗議を受けたが、後日別個に資料館を案内する事で納得させた、と堂島は疲れた顔で口にした。
レフォルマトルについて何か情報を持っていないか聞こうとした時、待合室の扉が開いた。
取り巻きを引き連れて入って来たのは舵木だった。
身に着けたスーツは以前見掛けたものと違っていたが、同じくらい高価そうなワインレッドのダブルだった。
「大変お待たせしました。入御の支度が整いましたので、ご案内いたします」
恭しく頭を下げた彼の言葉と態度は、主にアダルベルドに向けられていた。
他の王族たちにはお義理のように視線を巡らすだけに留め、俺や堂島たちに至ってはこの場に存在しないような扱いだった。
各陣営の従者たちが主の式服や荷物を手に取り始める。ルシアもセラの外套を取り出して袖を通させると、空いた鞄を斜めに掛け直した。
「行くか」と口にした堂島に頷き、俺たちはそれぞれの主の元に戻ると、げに崇高なる大資料館に向かうことにした。
◆◆◆
どこからか管弦楽団の奏でる歓送迎曲でも流れて来そうな、芝居がかった入場式だった。
長蛇の列を作る一般客の横を、従者を引き連れて悠々と進む異国の王族たち。
ルーマニア王室の情報は未だ伏せられたままだが、やんごとなき方々が資料館を視察に来ているという事実は、居並ぶ庶民たちの間にこの上なく伝わるだろう。
入館料一人二千円也というお値段も、"さもありなん"と映るに違いない。
資料館への入場順は年功序列のようだった。
金糸で刺繍の入った外套を羽織ったアダルベルドと、手荷物を下げた従者たちが入館していく。同じく護衛を引き連れたクレメンテ、ボリスがその後に続いた。
絵に描いたような姫君である第一王女の入場は、ある種のどよめきを伴っていた。思わず携帯を向けかけた来場者が、施設警備員のひと睨みに慌てて懐に仕舞う。
エルネスティーナが前に足を運ぶたび、隣で列を成す人々の目がまるで磁力でも帯びたかのようにその背を追っていた。
こちらをかすかに振り返ったドルレットが扉の内側に消えていくのに続き、我々もランウェイを進み始めた。
依頼とあらば多少の視線など甘んじて受ける積もりだったが、すぐに自意識過剰であった事に気が付いた。
居並ぶ民衆は三十前後の冴えない日本人など見向きもせず、ビスクドールのような容姿の末姫と、氷の美貌を持つ赤毛の従者に熱心な視線を注いでいた。
不作法な所持品検査など一切なく、セラフィナ王女一行は全施設のメインエントランスである南館に足を踏み入れた。
外界探索史をテーマにした広間には、十五年前の政府公文書や外界探査当初のマップなど、公開可能な史料が展示されていた。
50メートル四方の南館内は王族とその従者たちを収容するのに十分な広さではあったが、延べ三十名を超える団体を全館まとめて誘導する訳にも行かないだろう。
さりげなく目線を巡らせると、フロアの四隅には警備局のSPたちが配置されていた。
「午後一時になりましたら南館にお戻りください。その後、中央棟最上階のグランメゾンにて昼餐会となります。それまでは館内を自由にご見学下さい」
引率役である舵木の揚々とした声を皮切りに、継承者たちは各人各様に散らばり始めた。
エルネスティーナは三人の護衛を従えて足を止め、こちらを振り返った。セラが手を振り返すと姉は柔らかく微笑み、中央棟へ続く連絡通路の向こうへと消えていった。
南館内に目を遣ると、クレメンテは歴史的緊急事態を記した十五年前の公文書の前に貼り付きながら、安原と角田に何事かを尋ねていた。
視線が合った堂島の目配せを確認した俺は、セラに先に進むよう声を掛けた。
原因はともかくとして今では一端の外界通でもある幼い姫様は、南館からじっくり見て回りたいとばかりに口を尖らせたが、中央棟で見せたいものがあると告げた途端に機嫌を直して、逆にこちらを急かし始めた。
午前中だというのに来館者は多く、喧噪の半分は日本語ではなかった。実際に外国人観光客が目立つというのもあるが、近頃は日本語に聞こえないような日本語が多いせいかもしれない。
雑踏の中、ルシアがセラを庇うように半歩前に出た。常に主の周囲へ向けられている金の瞳は、人の流れの隅々まで撫でるように動いていた。
12階建ての近代ビルである中央棟は各階に売店や飲食店街を収容した複合施設で、ここに保管されている外界展示品は唯一つだった。
ガラス張りの連絡通路を渡り終え、1階フロアに足を踏み入れたセラとルシアの小さく息を飲む音が聞こえた。
ビルの空洞を貫く巨大なアトリウム。5階層を跨いで吊り下げられた外界生物第二種の全身骨格は、来場者に向けてその巨躯を披露していた。
全長凡そ20メートル、上古の肉食大型生物を彷彿させる鋭い牙と角を過剰なほど備えながら、その口蓋は極端なほど細い。
石灰色の硬骨は部分的に枝分かれしては互いに編み込まれ、榕樹のように絡み合った畸形の骨鎧は明らかに既存生物から逸脱していた。
八年前に討伐されたのち、皮膚や血液を余さず剥ぎ取られた異形の生物は、終には資料館に骨を埋めたようだった。
仮に資源転用した場合、展示された骨格部分だけでも継承戦の順位が入れ替わりかねない程の市場価値があるはずだが、経産省は第二種の残骸を戦利品として扱う事にしたらしい。
「──すごい」呆けたように呟いたセラの瞳は、死後も磔刑に処され続ける異界の獣に釘付けになっていた。
「……近代兵器を用いずに、この怪物を倒したのですか」ルシアの声色に含まれた戦慄は、目の前の歪な骨格か、それを打ち倒した人類に向けられているのか判別が付かなかった。
この国の探究者チームは凄腕揃いなのですね──と、続けた彼女の間違いを訂正する気はなかった。
第二種討伐の経緯については一応機密という事になっているというのもあるが、何より眼前の怪物を討ち果たしたのが実質ただ一人の人間という事実は、正気を疑われるような代物だったからだ。一部始終を見ていたはずの俺自身ですらも。
──静間くん。都合がよろしければ、共に祈りに行きませんか。
全てが終わったあと二度と招待は受けないと誓ったが、以後は彼から何かを頼まれることはなかった。
俺は辺りを見回したが、他の継承者たちは見当たらなかった。
すでに各館に足を進めているらしい。継承戦の最中である彼らの興味を惹くのは、資源の実物と産業利用史を展覧している東館だろう。
バッティングをなるべく避け、セラフィナ王女殿下を満足させるには資料館をどう回るべきだろうか。
「コテツ!コテツ! この子、上からも見れるのかしら!」
セラは第二種標本に視線を向けたまま俺の袖を引いた。「この子」という呼称が相応しいかどうかは実際に殺されかけた身としては甚だ疑問だったが、王女様ご所望の行き先は決まったようだ。
フロアの隅にある回り階段に向けて足を進めようとしたが、セラは動かなかった。
頬を染め、こちらに向けて小さな掌を差し出す。
「えっと、ここ人が多いでしょ? だから、その……」
俯いたまま口ごもるセラフィナの掌に、俺は手を伸ばした。
その直後に起こった事は、ほぼ同時だった。
吹き抜けの空間に響いた破裂音が銃声だと気付くと同時に、フロアの隅に立っていたSPが
周囲にいた来場者たちの顔が一斉にそちらに向いたが、俺の目は別の光景を捉えていた。
五メートル程先、足を止めて標本を眺めていた黒革のブルゾン姿の男がこちらに振り向いた。
その手に拳銃が握られていたのを目にするより先に、ルシアはセラを抱き寄せると男に背を向けた。
相手はすぐに発砲しなかった。ルシアの動きを予想していたかのように銃口が僅かに動き、射線が赤髪の後頭部に向けられるのが分かった。
人の命を奪うには余りに軽い乾いたその音は、残響すら残さなかった。
◆◆◆
右肩よりやや下、続けて同じ側の肩甲骨に、金属バットで殴られたような衝撃が伝わった。
防弾コートのアラミド繊維は銃弾の貫通こそ止めていたものの、数百ジュールの運動エネルギーまでは如何ともし難いようだ。
着弾箇所がルシアの頭部と頸を正確に狙っていた事を頭のどこかで考えつつ、俺は赤毛の従者をその主ごと、近くにあった柱の陰に突き飛ばすようにして押し込んだ。
セラは何が起きているのかまだ理解出来ていないようだった。ルシアは自分が庇われたことに気付いたらしく、こちらを見上げる瞳が一瞬揺れた。
彼女はすぐに主を抱き直すと、腰に差していた警棒に片手を伸ばした。
それらを視界の端に入れながら、二人の隠れた柱とは逆方向に身を翻す。半回転して正面を向いた俺は着地と同時に大きく踏み込み、二間半の距離を一息に詰めた。
必殺を確信していた相手は、突然射線に割り込んだ挙句こちらに突進してくる
判断より反射が優先し、咄嗟に銃口をこちらへ向ける。
この時点で男は選択を間違えた。
衝動的に放たれた弾丸は、顔面の前で交差した俺の両腕のどちらかに命中したが、衝撃と鈍痛を与える以上の成果を挙げなかった。
突進の勢いを維持したまま右肘を前に突き出し、鳩尾に向けて体当たりのように激突する。相手が動きを止めたところで足払いを掛けて転倒させると、側頭部をペナルティキックのように蹴り上げた。
男は床を一回転して仰向けになり、電源が切れたかのように動かなくなった。
突然目の前に危機が発生した人間の思考は、停止から恐怖に変わる最中のどこかで混乱が合流するらしい。
周囲にいた来場者のうち、誰かが悲鳴を上げた。最初に倒れ伏した警護員の周辺からも金切り声が聞こえた。
あっという間にフロア全体に伝播した恐慌は、群衆を最も近い通路口へと駆り立てた。
その間にも中央棟のそこかしこから銃声が響いていた。床に伏せるよう叫んでいたSPの一人が肩を撃たれて蹲る。
手早く視認した限り、この階層にいる敵は残り三名程らしい。中央棟一階の警備を無力化した彼らは満を持したようにこちらに銃口を向けたが、逃げ惑う人波が邪魔をしているようだった。
俺は手近な柱の陰に身を隠すと、セラとルシアに顔を向けた。
悠長に打ち合わせをしている暇は無かった。
油断なくお互いをカバーしながら近づいてくる相手は、十数秒もしない間にこちらまで辿り着くだろう。群衆に紛れて逃げ出したとしても、南館に入った辺りで追いつかれるのが関の山だ。
この場における最もマシな選択は、一人が敵を引きつけている間にもう片方がセラを連れて逃げる事だった。
幸いにして役割を選定する必要はない。俺は防弾装備を身に着けており、ルシアは護衛対象を抱えている。
視線を合わせた金の瞳に逡巡の色が過ったが、すぐに消えた。俺の同僚は今この場で何が一番大切かを理解していた。
「任せた」
「任せました」
短く確認を終えた俺は雨を凌ぐように片手でコートを引き上げ、姿勢を低くして柱から飛び出した。
途端、鋼の礫が付近を通り過ぎて行く。同時にセラを抱きかかえたルシアが逃げ惑う群衆に紛れ、駆けていくのが見えた。
「──コテツ!」
叫喚と悲鳴と無数の足音の中、俺の名を呼ぶセラの声だけが何故か鮮明に聞こえた。
相手としてはすぐにでもセラたちを追いたいところだろうが、仲間の一人を無力化したコート男を放置する訳にもいかない筈だ。
手近な柱から柱へと無様に逃げ回りながら、時折わざと姿を晒して相手の注意と銃口をこちらへ引きつける。
退屈とは程遠い状況にもかかわらず、随分と長い時間が経ったように感じた。実際には数分のことだろうが。
南館へ向かった二人の姿はとっくに見えなくなっていた。近場にいた群衆は概ね避難したらしく、フロアの中には逃げ遅れた十数人の来場者が這い蹲っている様が見て取れた。ひとまずは狙い通りになった事に安堵しかけ──ふと、ある疑問が頭を過った。
思索の時間は与えられなかった。柱の角が弾け、大理石の破片が頬を掠めた。
的当ての邪魔者がいなくなった彼らは、俺が隠れた柱を包囲するように散会したらしい。頼みの綱の防弾コートにも限界がある。足を集中的に狙われでもしたら、回避は困難だろう。
必至と言っていい盤面だったが、あいにく白旗の代わりになるようなものは持ち合わせていなかった。
別れの水杯を交わす相手もいないまま腰から警棒を引き抜いた時、南館への通路口の方から銃声が響いた。
顔を向けると、先ほどルシアたちが身を隠していた柱の陰から堂島が半身を覗かせていた。両手で構えた拳銃が立て続けに火を噴き、俺を取り囲んでいた男の一人が脚を押さえてその場に蹲る。
銃撃包囲網に穴が開いた。
「静間、動けるか。さっさとずらかるぞ」
柱を蹴るようにして飛び出し、堂島の援護射撃を背中に受けながら南館への連絡通路へ駆け込む。
置き土産とばかりにフロアに向けて二度発砲すると、堂島も身を翻してこちらに続いた。
連絡通路を駆け抜けながら、俺は堂島の手にした拳銃に目を向けた。
背後を警戒しつつ俺の視線に気づいた男は、走りながら肩を竦めるという器用な真似をして見せた。
「なんだよ。不可抗力だ、不可抗力。そこに落ちてたんだから仕方ないだろう」
最初に俺が倒した相手の銃を拾って使ったらしい。碌な射撃訓練を受けていない俺よりも、堂島が拾い上げたのは僥倖だった。
南館への境目には簡易バリケードが敷かれていた。走り寄る我々に向けてSPたちが銃を構えたが、堂島が大声で名前を告げるとすぐに下した。
外界探索史を展示した館内に残っているのは、出入口や連絡通路を固める緊張した面持ちの警護官たちだけだった。
ここにいた一般客はもちろん、中央棟から逃げ込んできた者たちも既に屋外へと避難したらしい。
ようやく足を緩めた堂島が、拳銃を下げたままこちらを振り返った。
「警備の連中と協力して
周囲の警備局員たちが堂島の下げた拳銃に目を向けたが、本人は気にした様子もなかった。
ホテルの駐車係に車の鍵を放るような風情で近くのSPに銃を手渡すと、何事も無かったかのように入り口に進み始めた。
「大人でも泡食って逃げ出す場面だ。大したもんだぜ、あのお姫様は。……くそ、俺まで鞍替えしたくなってきた」
「入団交渉なら好きにしてくれ。それより、そのお姫様はどこへ行った」
「朝使った待合室が王族専用のセーフルームになっている。俺たちも合流しよう。忘れ物はないか? あっても二度は付き合えんがな」
俺は首を横に振った。
鬼ごっこの最中に浮かんだ疑問を中央棟に置き去りにしていたが、わざわざ取りに戻る気にはならなかった。
パルテノン神殿風の正面入り口を抜け、俺と堂島は屋外へ出た。
資料館の駐車場口は封鎖されており、パーキングエリアには一般来場客が災害避難民のように座り込んでいた。人々の大部分が携帯を操作していた。居並ぶ警察官が不用意に情報を拡散しないよう大声を出していたが、聞く耳を持つ者はいなかった。
未だ続くテロ襲撃も、彼らにとっては話題のネタに過ぎなかった。あるいは一種の現実逃避なのかもしれない。画面の向こう側へ自分たちの置かれた状況を押し込めることで、危機まで遠い場所にあると思い込んでいるようだった。
周囲の人間への気遣いよりも手元の板切れに熱中している群衆を横目に、俺たちはつい先ほどまで滞在していた待合室に向けて足を進めた。
王室待合室の周囲を取り巻く警護官たちの間を通り抜けながら、俺は堂島に声を掛けた。
「今更だが、助けに来てよかったのか。一応、陣営としては敵同士という事になるが」
「雇い主の許可なら貰ってる。お前の陣営は現地雇用枠が空いてるだろう。なんなら臨時雇用とでもしておけばいい」
俺は苦笑した。「二重契約になるが……特に禁止されてなかったな」
「そういう事だ。あの王女様なら、お前の救助に報酬を奮発してくれるだろうからな」
照れ隠しのように早口で言い放った堂島は、待合室の扉を開けた。
広間の内観と同時に、全力でこちらに駆け寄る小さな影が視界に映った。
GPSで俺を追っていたのだろう。セラは手に持った携帯を放り出すと、体当たりのようにして抱き着いてきた。
"公式な場では今まで通り"と言っていたはずだが、俺は少女を窘めようとはしなかった。
周囲は泡沫候補の末姫とその護衛の様子など気にする様子もなかったし、なにより式典の最中とは言え、この状況は平時の公式な場とは言い難かった。
それ以外の有りもしない理由については、有りもしないので考える必要はないだろう。
いつの間にか近づいていたルシアが硬い声を挙げた。「背中を診せてください」
有無を言わさぬ口調だった。大人しくコートを脱いで背を向けると、彼女はシャツの上から手を当てて具合を確かめた。
「よくぞご無事で……」
常に冷静だった赤髪の従者の声は小さく震えていた。こちらが振り返ると、後ろめたいかのように目を伏せた。
負い目を持たれるような事は何もなかったし、彼女自身それを理解しているはずだ。不要な罪悪感を除いてやりたかったが、その前に確認すべきことがあった。
俺は広間の中へ視線を巡らせた。
アダルベルドは椅子に腰掛け、周囲に従者の護衛を侍らせていた。
一見すると朝と何も変わらない絵面だったが、近くの床に座り込む青ざめた舵木が、間違い探しのように映り込んでいた。まっすぐ折り目の付いていたワインレッドのダブルスーツは、着用者の内心を代弁するかのように皺だらけになっていた。
クレメンテは合流した堂島と一言二言何かを交わすと、こちらに眼鏡越しの視線を向けた。紅い瞳と目が合ったので俺は小さく目礼した。彼の思惑がどうあれ、命の恩人には違いない。
セラを含め、広間にいる王族は三人だけだった。
「他の継承者は」と短く聞いた俺に対し、セラは力なく首を振った。
「戻ってきてないの。……きっと、まだ資料館の中にいるんだわ」
ただでさえ重苦しかった空気が、さらに重力を増したように感じられた。
誠に恥ずべき話ではあるが、俺が生還を実感できたのは、未だ終わらぬ他者の窮地を知らされた時が最初だった。
しばらくは不定期更新となりますが、4章終盤からEXにつきましては、原稿をすべて書き上げた上で、完結まで連日投稿する予定です。
引き続きお楽しみいただければ幸いです。