その場にいる誰しもが不安を抱えていたが、口に出した途端に実現するのを恐れるかのように押し黙っていた。
中央棟で最初の銃声を聞いてから、10分が経過しようとしていた。
僅か10分とも言えるし、既に10分経っているとも言える。
もっとも、未だ資料館内部で銃口に晒されているであろう者たちにとっては、安全圏の住人がどう評しようが知った事ではないだろうが。
場所は違えど継承者たちへの襲撃は同時だったと見える。南館から監視と追跡を始め、示し合わせて行動を開始する──と言ったところだろう。
レフォルマトルの計画は、単純なだけに厄介だった。
俺は携帯を取り出すとGPSを起動した。エルネスティーナの居場所くらいは掴める筈だった。──彼女の生死はともかくとしても。
待機室の扉が荒々しく開き、錦辺が部下を伴って入って来た。警備責任者の顔には凶相と言っていいものが浮かんでいた。
「緊急事態につき、失礼致します」
錦辺は広間をひと渡り見回した。床に座り込んだ舵木には一瞥すら向けなかった。
「館内の状況をお聞かせ願いたい。ご覧になった範囲で結構です」
襲撃は予想していたが、あくまで群衆に紛れた暗殺が精々で、まさか資料館を占拠するような規模になるとは想定外だったのだろう。
警備責任者の声は丁重だったが、鋼のような冷たさがあった。怒りを通り越して、逆に無感動になっているようだった。
最初に口を開いたのは俺だった。
「セラフィナ王女を護衛中、中央棟一階で襲撃を受けた。最初に撃ってきた男を無力化したが、警備を襲った三名と合わせて相手は少なくとも四人。他の階からも銃声が続いていたから、それで全部とは思えない」
錦辺は短く頷くと、部下に目配せして耳元で何事かを囁いた。部下の一人が無線を手に部屋の隅へ移動する。
次いで視線を向けられた堂島が、頭を搔きながら続けた。
「もう知ってるだろうが、南館は俺たちが警備と協力して片付けた。SPが一人撃たれたが、護衛対象にもうちの連中にも被害はない。襲撃者は二人でどちらも拘束済みだ」
錦辺は再び頷いた。南館が無事なら、突入口の確保は最低限できている。そもそも位置と入り口の構造からして容易に戦力を送り込める南館を、相手は最初から占拠する気がなかったのだろう。
最後にアダルベルドの背後に控えていた従者の一人が、主に代わって前に出た。当の第一王子は椅子に腰掛けたまま、何かを考え込んでいる様子だった。
「我々はこちらの舵木殿の案内で西館の一階を視察しておりました。中央棟の方角から逃げて来る人々を見かけ、銃撃があったという声を耳にしましたので、非常口から外へ出てこちらへ戻って参りました。西館に襲撃者は見当たりませんでした」
錦辺は相手の顔を数秒だけ眺めてから、「ご協力感謝します」とだけ言った。
突入の予定、相手の規模、武器の搬入経路。聞きたいことはいくらでもあった。だが、聞いたところで答えが返ってくるとは思えなかった。
その答えをなにより必要としているのは、目の前の警察官のはずだった。
襲撃者たちは中央棟を押さえることで、各館から逃げ出そうとする者たちの退路を塞いだのだろうか。
中央棟を経由しなければ他の館へ移動できない構造を考えれば、理に適っている。西館が襲撃の対象から外れていた理由は分からないが、王族が興味を示しそうな展示の多い東館へ手勢を集中させた可能性もあった。
「北館、それと東館との連絡は取れたか」堂島の質問に対し、錦辺は返答を渋った様子を見せたが、クレメンテが口を挟んだ。
「僕の護衛の質問に答えて貰えませんか。継承戦の最中とはいえ、家族の安否につながる情報くらい知る権利はあるでしょう」
錦辺は不承不承といった様子で口を開いた。
「北館での襲撃はなかった。そもそも王族は誰も来なかったそうだ。北館担当の部下たちには中央棟からの侵入を警戒させつつ、突入に合わせて非常口から一般客が避難できるように備えさせている」
続く声からは感情が抜け落ちていた。
「王族にはそれぞれこちらのSPを二名ずつ付けていた。元々の東館担当と合わせて館内は八名がいるはずだが……応答がない」
堂島は唸るような声で言った。「なら、東館も押さえられてると考えた方がよさそうだな」
非常口まで監視の襲撃者が配置されているのなら、館内に取り残された人々は逃げ場を失っていることになる。
中央棟に加え、残りの王族がいるはずの東館は巨大な監禁場所と化しているという訳だ。
携帯の画面に目を遣ると、エルネスティーナ王女らしき光点は東館の上に表示されていた。
錦辺の話に拠れば、この場にいる全員の動向はSPを通じてある程度把握していたはずだ。状況を尋ねた理由は分からないが、何らかの偽証を疑っていたのかもしれない。
優秀な警察官はおしなべて疑り深い警察官だった。
俺の思考が沼に沈みかけた時、再び扉が開いた。押し入るような足取りで室内に入って来たのはボリスだった。
朝方には四人いた従者が、今は二人しかいない。参謀役と思しき男の姿も見当たらなかった。
「ご無事で何よりです、ボリス王子殿下。早速で恐れ入りますが、状況をお聞かせ願えますか」
錦辺の問いに対し、椅子に腰を落ち着けたボリスは鷹揚に頷いた。
「東館の三階を見物中に襲撃を受けた。この国の護衛官はあっという間に殺られたよ。従者二人に
中央棟でもそうだったが、確実に銃で武装しているであろうSPから狙う手口は当然と言えた。どうやらボリスは俺たちと同じく囮役を作り、脱出してきたらしい。
従者の一人──ヴァルクが保冷庫から取り出して来たペットボトルを受け取ると、ボリスはキャップを回しながら続けた。
「一階は酷い有様だったぞ。中央棟へは進めず非常口も押さえられて、逃げ場を失った大衆どもが右往左往していた」
「では、東館にはまだ多数の一般来観客が残されているという事ですね」
「そういうことになる。それとドルレットの奴は二階にいた。護衛官たちと従者が一人殺られていたが、襲ってきたやつらは返り討ちにしたらしい」
そこで言葉を止めたボリスはペットボトルの中身を勢いよく喉に流し込むと、続きを口にした。
「俺の従者が三階で交戦中だと伝えたら、"上階の大衆を避難させつつ、ここで一階に降りる敵を食い止める"などと言い出した。異国なれど王たる者、民のために戦わねばならんとか何とか。こちらに脱出の露払いを押し付けたかっただけかもしれんがな」
ボリスは鼻を鳴らした。弟の王子を馬鹿にしているのか、感心しているのかは判別がつかなかった。
錦辺は表情を変えず、さらに質問を重ねた。「エルネスティーナ王女殿下について、ご存じありませんか」
記憶を探る様に目を細めた第三王子は、やがて小さく首を振りながら言った。
「エルネスなら視察が始まって間もなく、俺たちより先に東館へ入っていくところは見かけた。その後どこへ行ったかまでは知らん。無事かどうかとなれば、なおさら知らん」
ボリスの話には一つだけ確認すべき点があった。
錦辺も同じ疑問を抱いたようで、ペットボトルを呷る第三王子に向かって口を開きかけた時、俺の名を呼ぶ少女の声が聞こえた。
セラが携帯電話の画面をこちらへ向けていた。地図上に表示された光点が、東館の内部をゆっくりと移動している。
第一王女の位置情報だった。光点は一度立ち止まったかと思うと、再び動き始めた。少なくとも携帯を所持している何者かが、今も館内を移動していることになる。
「エルネス姉さま、まだ逃げているんだわ」
俺は錦辺へ顔を向けた。「突入はいつになる」
「
館内に取り残された人間にとっては──特に武装した連中に追われている者にとっては、少々長すぎる。
錦辺の判断は極めて正しいと言えた。相手の人数も装備も把握できていない以上、無闇に警官を突入させたところで犠牲者を増やすだけだ。だが、その正しさが残された者たちの命を保証してくれる訳でもなかった。
セラは俺を見上げていた。何かを言いかけて唇を動かしたが、結局何も口にはしなかった。ただ縋るような紅い瞳だけが、俺の顔から離れなかった。
俺は広間の誰にも気づかれないように、少女の頭を軽く撫でた。
「そろそろテロリストの接待にも飽きた頃だろう。迎えに行ってくる」
そう告げて携帯をポケットへ収めると、錦辺が険しい顔でこちらを睨んだ。
「ふざけるなよ探査員。今の説明が聞こえなかったのか。突入準備が整うまで誰も館内には入れん」
「聞こえていた。
「何を言っているのか分かっているのか。相手は武装した集団だぞ。民間人を勝手に突入させられる訳がないだろう!」
俺は錦辺から視線を外し、床に座り込んだままの舵木へ声を掛けた。
「ひとつ提案がある」
男は顔を上げた。朝方の威勢はすっかり失われ、額には脂汗が浮かんでいた。
「
経済産業省設置法の第3条だか第4条だったかは思い出せなかった。牽強付会もいいところだが、緊急事態の最中に民間人が踏み込む口実としては何でも構わなかった。
ここは法廷ではないし、俺も検察官ではない。
「いくら相手国から責任を問われないとはいえ、他国の王族が人質に取られる──最悪、殺されでもすれば、日本政府の評判は随分と悪くなる。俺が失敗したところで、死ぬのは施設長の飼い犬が一匹だけだ。王族の命に比べれば、どうということもないだろう」
舵木は俺と錦辺を交互に見比べた。警備責任者の方は今にも噛みつきそうな顔をしていたが、口を挟もうとはしなかった。
堂島たちは苦い表情を浮かべていた。彼らはこれ以上動けないだろう。
仮にクレメンテが許可したとしても、堂島たちの所属先はあくまで日本の認可企業だ。警察が封鎖している現場に、勝手に踏み込むような真似を許すはずがなかった。
「舵木さんよ。どっちに転んでも、あんたに取って悪い話じゃないだろう」
代わりに援護射撃を続けてくれるらしい。
経産省の官僚は少し落ち着いたようだった。冷静さを取り戻すのと同時に、持ち株が下落した投資家がどこで損切りするかを考えているような気配を浮かべた。
「……保全は依頼するが、今この場でとは言わない。つまり君個人の帰趨について、私も省庁も責任は持たない。それでいいだろうね」
「誰が責任を持ってくれと言った」
黙ってこちらの話を聞いていたボリスが声を掛けてきた。
「おい探究者。東館へ行くのなら、早いうちに非常口に向かえ」
「非常口は襲撃者に押さえられていると聞いたが」
「さっきまではな。俺たちが脱出する際に、邪魔な連中を制圧しておいた。今ならまだ通れるかもしれんぞ」
ボリスたちはどこから脱出して来たのか──俺と錦辺が先ほど浮かべた疑問への返答だった。
背後に控えていたボリスの従者のうち、ヴァルクでないもう一人の男が口を挟んだ。
「殿下、敵陣営を利するような真似をなさる必要はありません」
ボリスは肩越しに男を振り返ると、露骨に眉を顰めた。
「何を言っている。別に俺は兄弟姉妹に死んでほしい訳じゃないぞ」
「しかし、他の継承者がこのまま脱落すれば、選定の儀において……」
「黙れ」ボリスの声から、それまでの鷹揚さが消えた。
「お前たちは誰の従者だ。支援者どもの意見だからといって、王族の言動に余計な口を挟むな」
従者は口を閉ざし、僅かに頭を下げた。ボリスはそれ以上相手にせず、再び俺へ向き直った。
「ただ逃げるのとは訳が違う。どうやって制圧した」
俺の問いに対し、ボリスは皮肉気な笑みを浮かべた。
「俺がこの国の官憲だけに、自分の安全を任せるとでも思ったか」
手荷物検査がないのを好都合とばかりに、ボリス一派は銃を持ち込んでいたらしい。無論、彼らは銃器携帯まで許されている訳ではない。一般来館者の目を盗んで非常口の襲撃者を排除し、そこから脱出したのだろう。
敵側もまだ非常口が突破されたことに気づいていない可能性があった。仮に異変を察知していたとしても、代わりの監視を配置するには多少時間が掛かるはずだ。
少なくとも正々堂々、中央棟へ突入するよりは見込みがありそうだった。
錦辺は苦虫を噛みつぶしたような表情を浮かべたが、口を開くことは無かった。今は
「ついでに、もし館内で俺の従者たちを見かけたら、とっとと戻ってくるように伝えてくれ。いつまでもテロリスト共と遊んでいる必要はないとな」
俺は頷くと踵を返した。背後から錦辺の不愛想な声が追いかけてきた。
「……潜入と調査に徹しろ。たとえ救助対象を見つけたとしても、絶対に相手と交戦はするな」
「いつもそうしている」
待機室の扉へ向かおうとすると、再び上着の裾が引かれた。
姉を案じる少女を安心させる台詞を頭の中で考えながら振り向くと、コートを掴んでいたのはルシアだった。
「ぁ……」
赤髪の貴族令嬢は、俺の顔と自分の手とを交互に見比べた。自分の行動の理由が、彼女自身にも分かっていないらしい。
数秒の沈黙のあと、彼女は目を伏せると静かに指を離した。
「その……お気をつけて」
「セラを頼む」ルシアに短く告げると、セラに視線を移した。
「俺たちの金看板を連れて戻る。それまでここで待っていてくれ」
銀色の少女が小さく頷くのを見届けると、俺は広間の出口へ向かった。
背後では錦辺が部下に何事かを指示していたが、もう呼び止めるつもりはないようだった。
外へ出ると人々の目がこちらに向いたが、彼らの視線は駅前に放置された自転車を見るように俺の上を通り過ぎて行った。
王族でも襲撃者でもない、草臥れたコートを身に着けただけの男に気を払う者は誰もいなかった。
大衆の興味は常に刺激的な出来事にあるらしい。
それが資料館に入場する美貌の姫君であろうと、それを害そうとするテロリストたちであろうと。
◆◆◆
俺は駐車場を回り込むようにして、東館の裏手へ向かった。
建物の外壁に沿って進むと、やがて一階部分が大きく奥まったピロティ状の空間が見えてきた。
柱の内側には搬入用と思しきトラックが数台停められ、その奥には大型のボイラーや空調設備が並んでいた。配管が複雑に入り組んだ壁際に、緑色の誘導灯を掲げた非常口が設けられている。
灰色のスチールドアの手前に黒っぽい服装の男が倒れており、傍らには拳銃が転がっていた。
衣服には銃創と思しき穴が開いており、周囲の床には血が広がっていた。ボリスたちが制圧したという襲撃者で間違いないだろう。
ピロティの内側に入った瞬間、俺は足を止めた。
スチールドアの向こうから何かがぶつかるような音が聞こえた。続いて慌ただしい足音が近づいてくる。俺は咄嗟に身を翻し、搬入車両の陰へ滑り込んだ。
次の瞬間、鋼板の扉が勢いよく開いた。
飛び出してきたのは、朝方ボリスの傍らに控えていた参謀役らしき従者だった。
彼は背後を振り返ることもなく、転がるようにして駐車場へ駆け出した。ほんの数十分前まで見せていた落ち着いた姿など、微塵も残っていなかった。
開け放たれた扉の内側から乾いた銃声が響いた。
男の身体が前のめりに崩れ、アスファルトの上を滑った。起き上がろうとしたのか片腕が僅かに動いたが、続けざまに響いた銃声と共に動かなくなった。
非常口から、一人の人物が姿を現した。
目深に被った白いフードの下に顔は見えない。迷彩柄の上着を羽織り、片手には拳銃を握っていた。
彼──あるいは彼女は、倒れた参謀へ歩み寄るとその傍らに屈み込んだ。首筋に指を当て、しばらく様子を確かめてから立ち上がる。
フードの奥に隠れた顔が、こちらを向いた。
俺は搬入車両の陰で息を潜めた。相手はこちらが身を隠している車両の辺りに顔を向けたまま、数秒ほど動かなかった。
非常口から、さらに数人が現れた。いずれも襲撃者と似た服装をしており、手には銃を携えている。
フードの人物は彼らに短く何事かを告げると拳銃を下ろした。
それから、周囲を見回しながら歩き始めた。彼らが向かう先は建物の裏手を抜けた北館の駐車場の方だった。
最後の一人が角を曲がり、その足音が聞こえなくなるまで、俺は物陰を動かなかった。
倒れ伏したボリスの参謀から流れる血が、彼らを追いかけるようにアスファルトの上を伸びていた。
フードを被った人物が何者なのかは気になった。襲撃者一味であることは間違いなさそうだが、なぜ集団で出て来たのか、そしてどこへ向かったのかは分からない。
最悪の予想としては彼らがすでに『仕事』を終えた場合だったが、このまま引き返す訳にもいかなかった。
俺は北館へ向かった連中の気配が完全に消えたことを確かめると、ひとりでに閉まっていた非常口へ足を向けた。
鋼扉を静かに押し開け、薄暗い通路へゆっくりと踏み込む。搬入用の台車や清掃用具が壁際に寄せられたモルタルの通路を進むと、その先にも男がうつ伏せに倒れていた。
顔を確認していないが、背恰好と服装からボリスが東館に残してきた、もう一人の従者だと思われた。
胸の下から床に広がった血溜まりは、まだ広がり続けている。彼も先ほど北館へ向かった連中に殺されたと考えるのが自然だろう。
ボリスには"従者を見つけたら戻るよう伝えてくれ"と頼まれていたが、どうやら取次ぎ先はこの世に不在のようだった。
俺は遺体の傍らを通り過ぎ、通路の突き当たりにあるスイング・ドアへ近づいた。向こう側からは大勢の人間の気配と話し声が聞こえてきた。
銀色のドアを僅かに開き、隙間からフロアの様子を窺うと、東館の一階には百人を超える来館者たちが雪隠詰めになっていた。
上階から逃げてきた者たちに加え、襲撃直後に中央棟から流れ込んできた群衆もいるのだろう。ボリスが話した通り、中央棟へ戻ることも非常口から外へ出ることもできず、この場所で立ち往生しているようだった。
携帯電話を耳に押し当て、警察らしき相手に一刻も早く救助に来いと怒鳴り続けている中年の男がいた。壁際には疲弊しきった様子で座り込む人々が並び、膝を抱えて俯いたまま動かない者もいる。周囲の人間を疑うように視線を巡らせている者も少なくなかった。資料館を訪れる人間の国籍は様々だ。誰が襲撃者の仲間なのか分からない以上、見知らぬ人間が近づいてくるだけでも警戒せずにはいられないのだろう。
同じ場所と立場で窮地に追い込まれているにもかかわらず、人々の間に連帯感らしきものは見当たらなかった。誰もが周りを窺いながら、自分だけは次の犠牲者にならずに済むことを願っているようだった。
レフォルマトルがこの襲撃に何人を投入しているのかは知らないが、先ほどの一団が外へ移動した以上、東館は一時的に手薄になっているはずだった。連中が再び人員を送り込んでくる前に、エルネスティーナ王女を見つけ出す必要がある。
俺はフロアに身を滑り込ませると壁際に沿って階段を目指した。各階の状況が分からない以上、エレベーターを使う気はなかった。
人々の隙間を縫うように進み、フロアの奥にある大階段へ向かった。危険地帯へと登り始めた黒コートの男に何人かが目を向けたが、誰も声を掛けてこようとはしなかった。
なるほど、誠に素晴らしき自己責任論である。
踊り場まで上がったところで一度足を止め、二股に分かれた先の上階に耳を澄ませたが、銃声も人の声も聞こえてこなかった。
階段を折り返し、一階に押し込められた人々の目が届かなくなった辺りで腰から特殊警棒を引き抜いた。足音を立てないように気をつけて進み、階段脇の壁から二階フロアを覗き込んだ。
二階には誰もいなかった。正確に言えば、生きている人間の姿は見当たらなかった。
階段とフロアの境目からすぐの場所に、複数の人間が倒れていた。床に敷かれた絨毯には血が染み込み、壁際に置かれた案内板にも赤黒い飛沫が付着している。
ドルレットはそこで死んでいた。
大ルーマニア復古を提唱していた第四王子は仰向けに倒れ、目を見開いたまま天井を見つめていた。側頭部に銃弾を受けており、そこから流れ出した血が絨毯を黒く染めている。
俺は王子の傍らに膝をつき、念のため脈を確かめたが無駄骨だった。
先ほど非常口から出て行った連中の仕業だろうか。想像すれば、ドルレットたちを殺害して二階を突破し、逃走するボリスの側近を追いかけて射殺する──という図式である。順序としては筋が通っていたが、彼らが去っていった理由については未だ不明だった。
俺はドルレットの遺体から視線を外し、周囲を見回した。
近くには第四王子の従者が二名倒れていた。さらに少し離れた場所には、スーツ姿の男とスウェードジャケットの男が合わせて数人転がっている。こちらはSPとレフォルマトルの構成員だろう。
双方の遺体の傍らには銃が落ちていたが、ドルレットの従者も倒れた姿勢のまま拳銃を握っていた。どうやら、武装していたのはボリスの一行だけではなかったらしい。
立ち上がろうとした時、倒れていた構成員の胸元で小さな金属片が光を反射した。
首から紐で下げられた硬貨だった。装飾品にしては随分と無骨な代物だったが、今は詳しく調べている時間もない。
硬貨の形だけを記憶に留め、俺は立ち上がった。
ドルレットの死を錦辺に報告する必要があった。しかし、今ここで電話を掛けたところで死んだ人間が生き返る訳でもない。
俺は上の階を目指すことにした。
探し人の安否を尋ねようにも、この場に返事ができる人間は一人もいなかった。
◆◆◆
東館の三階でも、人の形をしたものは数人の死体以外に見当たらなかった。東館を訪れていた来館者は、ほぼ全員が一階に避難したようだ。
つい先ほどまで大勢の入場者で賑わっていたであろう展示室の床には手荷物が散乱し、逃げ惑う人々の慌ただしさを物語っていた。
血と硝煙の匂いが漂うフロアを見渡してから、俺はさらに上を目指すべく階段へ戻った。
階段を登りきった四階の入り口には、ドルレットが連れていた従者の最後の一人が拳銃を手にしたまま倒れていた。来館者たちを下の階に誘導していたのだろう。
このフロアにもいくつかの屍が転がっていた。この数分間で既に一生分と言っていい数の死体を見てきたが、エルネスティーナとその従者の亡骸はここまで見当たらなかった。
五階への踊り場に差し掛かったところで、蹲る人影があることに気づいた。
宣誓式でエルネスティーナの使いとして俺を呼びに来た護衛役の女性だった。
階段の手摺に背を預けるようにして座り込み、両手で腹部を押さえている。ネイビーブルーのスーツは黒く斑に染まり、指の隙間からも赤いものが滲み出していた。
俺が近づくと、女は薄く目を開いた。
「あなた、は……シズマ、さま」
「喋るな」短く告げると傍らに膝をつき、傷の状態を確かめた。
スーツには丸く焦げた孔があり、押さえている手を僅かに動かしただけで、新しい血が溢れてきた。
その暗い色と量を確認した瞬間、彼女が既に手遅れだと悟った。
「うえに……殿下が、まだ……」
女は激しく咳き込んだ。唇の端から血が流れ落ちる。俺は彼女の肩を支えたが、その身体にはほとんど力が残っていなかった。
「エルネスさま……お願い」
絞り出すような声だった。
俺は女の顔を見た。焦点の定まらない瞳が、それでも必死にこちらを捉えようとしていた。
「引き受けた。後は任せろ」
女は僅かに頷いた。指から力が抜け、血に濡れた手が膝の上へ落ちた。その顔からは生気が急速に失われつつあった。
死にゆく者を看取るのは、別に初めてという訳でもない。だが、何度経験しても慣れるものでもなかった。
俺は立ち上がり、最上階へ続く階段を見上げた。女の血が指先にまだ温かく残っていた。
東館の五階に足を踏み入れると人の声が聞こえてきた。俺は壁に身を寄せてフロアを覗き込んだ。
無意味なほど広い展示フロアの奥に人影があった。
一人はエルネスティーナだった。壁際に追い詰められ、こちらに背を向けた男から拳銃を突きつけられている。銀色の髪は乱れていたが、少なくとも目立った外傷は見当たらなかった。
階段から王女のいる場所までの間には、二人の人間が倒れていた。朝方からエルネスティーナに付き従っていた女護衛たちだ。
彼女たちはすでに事切れている様子だった。
襲撃者は一人らしかった。赤いジャンパーを着た男は片手に拳銃を握ったまま、もう一方の手で無線機を口元へ運んだ。
「こちら東館五階。第一王女を確保しているが仲間に繋がらない。誰か手を寄越してくれ」
通訳イヤホンを通して俺の耳に入ってきたのは、焦りが浮かんだ早口のルーマニア語だった。
男はしばらく応答を待っていたが、返事がないらしい。苛立たしげに無線機を振ると、再び口元へ近づけた。
「おい、聞こえているのか。こっちは一人だ。至急応援を頼む」
今度は何か返答があったようだった。男は短く言葉を交わすと無線機を腰に戻し、エルネスティーナへ向き直った。
「王女殿下。これから我々についてきてもらう。抵抗すれば、仲間がこの国の民衆を殺すことになっている」
第一王女は答えなかった。目の前で従者を殺され、銃口を突きつけられても、その紅い瞳には毅然とした色があった。
俺は姿勢を低くしたままフロアに踏み込んだ。展示物の陰を渡って距離を詰める間にも、襲撃者の演説は続いていた。
「お前たち王家は国家の進むべき道を誤らせようとしている。得体の知れない異世界が齎す利益に目を奪われ、国民は自分たちが何を失っているのかさえ分からなくなっている」
男は拳銃を突きつけたまま、一歩前へ進んだ。
「我々は民衆の目を覚まさせなければならない。外界の妖しい力から祖国を解放するのだ。そのために、貴女には犠牲となってもらう」
随分と大層な御高説だった。もっとも、銃を持った男が丸腰の女に向かって語る理想など、どんな名論卓説であっても感心できなかった。
俺は物陰から男の位置を確かめた。相手との距離は八メートルほど。男の注意は王女の挙動へ向けられているが、こちらから不用意に近づけば気づかれる可能性があった。
エルネスティーナが顔を上げ、男の肩越しに彼女と目が合った。
俺の姿を認めた第一王女は、ほんの僅かに視線を動かしただけで、再び目の前の男へ向き直った。
「それでは、
問いかけられた赤ジャンパーは返答に詰まった。
「……何?」
「あなた方の目的は、王が外界の富を利用することを阻止することなのでしょう。ならば
エルネスティーナは静かな声で続けた。男は困惑しているようだった。
「それは……俺が決められることではない」
「では、どなたにお尋ねすればよろしいのですか」
「黙れ。余計なことを喋るな」
男は威嚇するように銃口を持ち上げたが、先ほどまでの気勢は失われていた。上層部の意向を確認せずに返答するわけにはいかないらしい。あるいは、単に指示されたこと以外は判断できない人間なのかもしれなかった。
テロリストの中にも、サラリーマン根性の持ち主はいるようだ。
エルネスティーナは動じず、穏やかな表情を保ったまま小首を傾げた。
「この場で評議会に連絡をすればよろしいのですか。王家の一人を翻意させたとあれば、貴方は祖国で英雄と呼ばれるかもしれませんね」
エルネスティーナはごく自然な動作で携帯を取り出した。
男は反応しかけたが、結局見送った。王女の口にした『英雄』という言葉に気を惹かれているようだった。
彼女の意図を察した俺は、手にしていた警棒を静かに畳んで腰に戻した。
「……助けを呼ぶつもりではないだろうな」
「今この場で助けを呼んだ所でどうにもならないでしょう。もし心配なら画面をご覧になりますか」
王女が携帯を操作しながら画面を向けると、男はそれを覗き込むように身を寄せた。
俺は物陰から身を引き出すと重心を落とし、無音の狐走りで距離を詰めた。男の後頭部越しに、何かの動物らしき画面背景が目に入る。
「ご存じですか。
「おい、無駄話はそのくらいに──」
警告の声を出し切る前に、俺は背後から男の拳銃を握った腕を掴んで銃口をエルネスティーナから逸らした。 同時にもう一方の腕を首に回し、身体を引き寄せる。抵抗する間も与えず、そのまま力を込めて締め落とした。
英雄になり損ねた男を仰向けに寝かせると、エルネスティーナは微笑を浮かべた。
「来てくれたのですね。セラフィナの
怪我はありませんか──王女に問いかけようとした時、男の襟元から細い紐が覗いていることに気づいた。
引き出してみると、先ほど二階で見かけたものとよく似た硬貨が下げられていた。
「我が国のバニ硬貨ですね」前屈みになったエルネスティーナが声を掛けてきた。
俺は硬貨を指先で裏返した。「何か心当たりはありますか」
「いいえ。硬貨をお守りにする事は珍しくないと思いますが……」
二階の死体も同じような硬貨を身に着けていた。偶然というには少々出来すぎているが、今はそれを調べている場合ではなかった。
俺はこの資料館内で生存している唯一の王族に顔を向けた。
「外までお送りします」
エルネスティーナは床に倒れ伏した従者たちへ視線を向けると静かに目を閉じ、胸の前で両手を重ねた。
短い黙祷を終えた彼女は再び目を開き、俺に向かって黙って頷いた。
階段脇にあるエレベーターのボタンを押したが、反応がなかった。
俺は王女を連れて階段へ進んだ。一段踏み降り掛けたところで、下から複数の足音が微かに聞こえてきた。手摺越しに階下を窺う。靴音の間隔からすると少なくとも三人以上はいるようだった。
先ほどの男が無線で呼んでいた応援だろう。
「シズマ様、どうなさいました?」
「助けが来たようです。生憎、『我々の』ではありませんが」
聡明な王女は、すぐに事情を察したようだった。
このまま下りれば鉢合わせになる。相手が複数の銃器を持っている以上、彼女を庇いながら突破するのは分が悪かった。
「失礼」と一言断った俺は、エルネスティーナの華奢な手を引いて屋上への狭い階段を駆け上がった。連中は五階にたどり着いた後、逃げ出した第一王女を探して展示物の陰を確認するはずだ。
それで稼げるのは大した時間ではないだろうが。
階段を登り切り、屋上へ続く鉄扉を押し開けると強い風が吹きつけてきた。
東館の屋上は思っていた以上に広かった。周囲を腰の高さほどの手摺が囲み、辺りに空調設備の室外機や排気ダクトが点在しているが、どれも身を隠すには今ひとつだった。
エルネスティーナを階段室の陰に待たせ、俺は欄干へ近づいた。
グラスウォールの中央棟は目の前に聳えていたが、その間には数十メートルの空間が広がっていた。連絡通路は遥か下にあり、こちらの屋上から飛び移れるような距離ではない。
駐車場側へと回り、身を乗り出して地上を見下ろした。
高さは三十メートルほどだろうか。砂岩の外壁には資料館らしく凝った装飾が施されていたが、足場にできそうな部分は見当たらなかった。壁面に並ぶ窓も採光用に設けられた腕ほどの幅しかない細長いものばかりで、当然ながらバルコニーもない。
少なくとも淑女をエスコートしながら下りられるような場所ではなかった。
「……随分と高いのですね」
いつの間にか傍らに来ていたエルネスティーナが、俺と並んで手摺の向こうを覗き込んでいた。
俺は屋上を見回した。空調設備の脇にカラーコーンが幾つか積み重ねられていた。その傍らには工事用らしいファイバーロープが数本、無造作に置かれている。
一本を拾い上げてみたが、長さは数メートルしかなかった。ここにある分を繋いだところで到底地上まで届かないが、使い道がないわけではない。
俺はロープを二本手に取ると、階段室へ戻った。
屋上へ通じる鉄扉を閉め、ドアノブにロープの一端を結び付けた。もう一方の端を引き伸ばし、階段室の外壁から突き出している金属製のボルトに固定する。
扉を開こうとすれば、ロープが突っ張る仕組みだった。ドアノブ自体も頑丈とは言い難く、本気で破ろうと思えば簡単に突破されるだろう。それでも多少の足止め程度にはなるはずだった。
俺は結び目を確かめてから、残ったロープを持って中央棟側の手摺へ向かった。こちらにも一本を結び付け、余った部分を手摺の外側へ垂らしておく。
エルネスティーナは俺の作業を不思議そうに眺めていたが、口を挟むことは無かった。
階段室の扉を塞いだところで、追っ手が諦めてくれるとは思えない。ロープの小細工も、せいぜい数分の猶予を作れれば上出来と言ったところだろう。
問題は、その数分で何をすべきかだった。
「シズマ様」
厳かな声に振り返ると、第一王女は真剣な表情で俺を見つめていた。
「
棚引く風に銀の髪を揺らめかせながら、彼女はこの窮地にあっても穏やかな微笑を浮かべて見せた。
「ですが、貴方は違います。
つい先日、どこかで聞いたような台詞だった。おそらく続く先も同じような台詞なのだろう。
「先ほどの男は、
階段室の向こうから、何人かの足音が聞こえてきた。どうやら五階の探索は終わったらしい。
エルネスティーナは密やかに声を落として続けた。
「貴方の存在はまだ気づかれていないはずです。
俺は彼女に近づくと、その端麗な顔を眺めた。目の前の王女は本気でそう考えているようだった。
「命を捨てる覚悟があると仰いましたね」
エルネスティーナは迷わず頷いた。「その言葉に偽りはありません」
「それは結構」俺は残っていたロープを拾い上げた。
「では、少しばかりお付き合い願います」
俺は彼女に背を向け、その場に屈み込んで背中に乗るように促した。
淑やかなエルネスティーナは男に身体を預けるのを一瞬躊躇ったようだが、そんな事を気にする状況ではないと思い直したのだろう。おずおずと両腕を肩に回してきた。膝の裏に手を入れて立ち上がると、思っていたよりも軽い身体が背中に収まった。
俺はファイバーロープを王女と自分の胴に回し、互いが離れないように結び付けた。彼女が腕の力を緩めても、簡単には滑り落ちない程度には固定できたはずだった。
背後で金属の軋む音が響いた。階段室の扉を、連中が無理やり開けようとしているらしい。続いて鈍い衝撃音が二度、三度と聞こえた。ロープがいつまでも持ち堪えてくれるとは思えなかった。
俺は駐車場側の欄干に足を掛け、そのまま外側へ乗り越えた。
背中でエルネスティーナの柔らかな身体が強張った。
無理もなかった。ステンレスで出来た境界の向こう側には何もなく、遥か眼下にコンクリートの地面が広がっているだけだった。
「あの……何をなさる積もりか、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
階段室からひときわ大きな衝撃音が響いた。金属の擦れる音が続き、男たちの怒鳴り声が聞こえてくる。
どうやら、そろそろ時間切れらしい。
「ところで王女殿下」俺は屋上の縁に立ったまま、背中の王女へ顔を向けた。
「資料館巡りの後は、アトラクションというのはどうです」
◆◆◆
俺は虚空に背を向けると屈み込んで、屋上の縁に手を掛けた。
外壁には各階を区切るように飾り縁が施されていた。幅はせいぜい十センチほどで、人間が立てるような代物ではない。
階段室の方からドアの軋む音、続いて何かが弾け飛ぶような音が聞こえた。扉を固定していたロープが切れたのか、ドアノブが壊れたのかは分からない。
もはやどちらでも構わなかった。
「しっかり掴まっていてください」
返事を待たず、俺は宙空に両足を降ろすと、縁から手を離した。
万歳のように両腕を伸ばした身体が虚空を急降下し、目の前の壁面が高速で上へと流れていく。
屋上から約五メートル真下、僅かに張り出した飾り縁が鼻先を通り過ぎた瞬間、両の指に全神経を集中させた。
指先に硬い感触が触れるのと同時に力を入れ、そのまま約十センチの出っ張りを掴むと、落下の勢いが一気に両腕へと集約した。
昨日外したばかりの左肩に激痛が走った。さらに銃弾を受けた背中が引き攣れ、思わず噛み締めた奥歯が軋むような音を立てた。エルネスティーナと俺を結ぶロープも腹部を強く圧迫したが、腕に掛かる圧力に比べればどうということは無かった。
指先から肩までが千切れそうなほどの衝撃を受けながらも、どうにか身体を支えることができた。
地上二十五メートルの高さに両腕だけでぶら下がる俺は、遠目には資料館の外壁に張り付く虫のようにも見えるだろう。
背中の王女は悲鳴すら上げられなかったらしい。全身でこちらに抱きつく彼女の荒い息遣いが伝わってきた。
頭上では何事かを叫ぶ声が聞こえた。どうやら追手が屋上へ出てきたらしいが、こちらを見つけた様子はない。
もっとも、今の俺にはそんなことを気にしている余裕などなかった。クライムダウンは探査員の試験範囲だったが、人ひとりを背負ったまま連続で落下する事例など含まれていない。
呼吸を整えながら、俺は次のホールドへと視線を落とした。
「次です」短く告げると、エルネスティーナは俺の首に回した細腕にささやかな力を込めた。
両手を離し、再び自由落下に身を委ねる。ほんの一秒程度に過ぎない墜落時間は、やけに長く感じられた。
四階部分のモールディングを掴むと、先ほどと同じ衝撃が指先から腕を経由し、背中へと突き抜けた。右の指が滑りかけ、慌てて握り直す。
どうやら皮膚が破れたらしい。指の腹に生温かいものが滲む感触があったが、確認する手段は無かった。
エルネスティーナは俺に固くしがみつき、必死に声を殺していた。
五メートルのフリーフォールから急停止する度に、彼女にも相当な衝撃が加わっているはずだったが、第一王女は弱音ひとつ吐かなかった。その余裕すら無いのかもしれない。
頭上から微かに届く声からすると、追手たちは中央棟の方を調べているらしかった。手摺に結び付けておいた囮のロープが役に立っているようだ。
俺は血に濡れた指を一度握り直した。落ち着いて呼吸を整えたいのは山々だったが、俺の腕力がいつまで持つかも怪しかった。
エルネスティーナに小さく合図をすると、
落下する身体を三階の張り出しで受け止めた瞬間、視界が白く弾けた。
指先の感覚はとっくに消失し、手首から肩にかけて熱い鉄の棒でも押し込まれたような痛みが暴れている。
身体自体は殆ど動かしていないにもかかわらず、全力疾走しているかのような動悸が頭蓋の中で反響していた。
「シズマ様……」
荒い息遣いを繰り返す俺の耳元で、控えめな声がした。
「何か、
命綱なしの墜落に付き合わされている姫君が口にしたのは、随分と健気な申し出だった。
俺は考え込む振りをしながら、無様に乱れた呼吸を数息観で整えた。
ようやく息を落ち着けた俺は、近くの採光窓を横目で眺めた。彼女に出来る事など殆どなかったが、名実ともに
「では、次に落ちたら俺の手を上から押さえてください」
「手を、ですか?」
玉を転がすような疑問の声が、吐息と共に俺の耳をくすぐった。
「落下の衝撃が落ち着いてから結構です。それまでは首に掴まっていてください」
「分かりました」背後で頷く気配がした。
俺は深呼吸をしてから、三階から二階へ向けて身体を落とした。
何度かのクライムダウンを繰り返すうちに、痛覚すらも呆れて
鈍い痺れだけが残った両腕で吊り下がる俺は、そこにあるはずの指先に力を込め続けていた。
首に回されていた王女の片手が離れ、白い指が俺の右手に触れた。続いて左手にも、彼女の繊手が添えられた。
腕の長さが足りないようで、懸命に伸ばしたエルネスティーナの指先は、せいぜいが俺の手首を覆う程度までしか届いていなかった。
実際のところ、どれほどの助けになっているのかは怪しいものだ。仮に上から俺の手を押さえつけたところで、大した効果などない筈だった。
それでも、少しだけ両手に力が戻ったような気がした。今の俺にとっては、それで充分だった。
たとえ気休めだろうが思い込みだろうが、頼れるならば何だろうと構わない。
「助かります」俺は短く告げた。正確に言えば、長い言葉を口にする余力がなかった。
「それは
裂けた皮から滲み続ける俺の血が手首を伝い、王女の白い指先を汚していた。
彼女は無言のまま、俺の手に重ねた指に力を込めた。
俺は次の移動先を見下ろした。
地上までは十メートル程まで近づいていたが、落ちればまず助からないという意味では、屋上にいた時と大して変わりは無かった。
「次も同じように願いたい」指先の血を砂岩に擦り付けつつ、俺は背後に声を掛けた。
「はい」王女はこちらの首に両腕を回した。
ストライキを訴える全身を宥めすかしてから、俺は次の張り出しへと身体を投げ出した。
接触と把持。幾度目かの衝撃が両腕を震わせる。全身の揺れが収まるのと同時に、王女の華奢な手が重ねられた。
白い指の下で二人分の体重を支えながら、俺は自らの不明を恥じていた。
その辺りの女だったら最初の落下で失神してもおかしくない。深窓の令嬢、その代名詞のような王女殿下なら尚更だ。
だが、エルネスティーナは窮地にあっても出来る事を探し、あまつさえこちらを気遣っていた。
「お見それしました」
「……お褒めいただいても、あまり嬉しくありません」
どうやら手助けに対して、お世辞を言われたと受け取ったらしい。
俺は小さく笑い、最後の落下の確認を始めた。地上までは約六メートル。これまでより少しばかり距離があった。
下に芝生でも広がっていればありがたかったが、そう都合良くは行かないようだ。眼下にあるのは、灰色のコンクリートで舗装された駐車場だけだった。
「最後です。今度は手を離さないでください」
「はい……!」
エルネスティーナがこちらの首を強く抱き締めるのを確認し、俺は最後の落下に身を委ねた。
壁のような灰色の地面が、瞬く間に眼前へと迫る。
足の裏に硬い感触が伝わるのと同時に膝を深く曲げ、腰を落とす。足首から膝、腰へと衝撃を逃がしながら身体を前へ倒し、最後は両手を地面について勢いを殺した。
コンクリートに叩きつけられた果物のように、掌が爆ぜるような衝撃があった。
下半身の痛みも相当なものだったが、少なくとも骨が折れたような感触はなかった。
背中の使用を封じられた不完全な多点着地法だったが、三十メートル近い高さから下りて手の皮が破ける程度で済んだのだから、上出来と言っていいだろう。
俺はしばらく地に伏せた姿勢で呼吸を整え、それからゆっくりと顔を上げた。
背中では、エルネスティーナがまだ俺の首にしがみついていた。
◆◆◆
俺は立ち上がると、エルネスティーナと結んでいたファイバーロープを解いた。
屋上を見上げたが、こちらを覗き込んでいる人影は見当たらなかった。
半ば放心気味の王女を促すと、東館の外壁に身を寄せた。真下にいる人間を見つけるには、手摺から相当身を乗り出す必要がある。
垂直の逃避行に費やした時間は数分程度だが、連中はまだ屋上の物陰か中央棟の方を調べているのかもしれない。
ともあれ、ひとまず追跡を振り切ることには成功したようだ。
これ以上移動はせず、ここで救助を待つべきだろう。
エルネスティーナを脅していた男の呼んだ増援が、全員屋上にいるとも限らなかった。
携帯を取り出して錦辺に掛けると、最初のコール音が終わる前に相手が出た。
「俺だ。エルネスティーナ王女を館外までご案内した。今は東館の駐車場にいる。応援を寄越して欲しい」
錦辺は小さく息を吐いた。「すぐに手配する。館内の状況は分かるか」
「東館の五階まで一通り確認した。中央棟から応援に来た襲撃者がまだ複数残っている。それと……館内に生きている王族関係者は一人もいない」
ドルレットとその従者三名。
ボリスを逃がした従者二名。
エルネスティーナの従者三名。
──すでに全員、この世から去っていた。
こちらの口にした言葉の意味を理解したのだろう。
錦辺は「……わかった」とだけ答えた。
「お宅らが来るまで、どこか適当な場所に隠れている。詳しい座標ならセラ──フィナ王女か、護衛の女性に聞けば分かるはずだ」
「こっちは機動隊が突入準備を進めている。東館の担当から何人か回そう」
錦辺は、これ以上余計なことはせず、おとなしくしていろと言って電話を切った。俺としても望むところだった。
通話を終えてエルネスティーナに目を遣ると、彼女はこちらを眺めていた。
正確に言えば、携帯を掴んでいる皮膚の剥がれた俺の掌を、眉尻を下げたまま見つめていた。
俺は携帯を収めるついでに、手のひらもポケットに押し込んだ。
周囲を見回すと、駐車場には搬入用のトラックが数台停められていた。そのうち一台は荷台に大き目の幌を掛けた平トラックで、後部の留め具も外されている。
「朝の待機室とまでは参りませんが、こちらで休みましょう」
エルネスティーナを荷台へ上がらせると、俺も後に続いた。
幌の内側には折り畳まれた養生シートや空の樹脂ケースが積まれていた。俺は丁度いい高さの容器に自分のコートを敷いて王女に座るよう促すと、後部の幌を元に戻した。
続いて彼女の向かいに腰を下ろすと、ぼろ雑巾のようになった掌を確かめた。両腕には未だに痺れが残っている。背中の傷も痛んだが、今のところ動けなくなるほどではなかった。
ふと、目の前に白い布が差し出された。エルネスティーナが捧げ持つように手にしたハンカチだった。
「お使いください。……その、処置のお手伝いもできれば良かったのですが」
包帯の巻き方は、さすがに王族教育とやらの範囲外らしい。俺は礼を言ってエルメスの逸品を手のひらに巻き付けた。
なにか引っ掛かる感覚を覚えたが、おそらく疲労のせいだろう。
応急処置を終えると、しばらく俺たちは座ったまま無言で向かい合っていた。
幌の中は薄暗く、隙間から洩れる冬日差しの中に光る埃が舞っているのが見て取れた。
遠くどこからかサイレンの細い音が聞こえてくる以外、辺りは静寂に包まれていた。
「シズマ様」
エルネスティーナが厳かに口を開いた。
「
「仕事です。礼には及びません。それより、あの場で何があったか教えていただけませんか」
第一王女は頷いた。
最初に襲撃を受けてからまだ三十分も経っていないはずだが、間に凄烈な体験が挟まり過ぎたせいだろう。思い出すような調子で話し始めた。
「
階段で倒れていた従者の行く末について、覚悟はしていたのだろう。
あるいは聡明な彼女なら、俺と錦辺の通話を聞いて察していたのかもしれない。
「シズマ様、彼女がどうなったかはご存じですか」
それでも、どこか縋るような口調は隠せなかった。
「最後まで貴女を案じていました」
「……そう、ですか」
彼女は膝の上で両手を重ね、しばらくその指先を見つめていた。
顔を上げると、静かな声で話を続けた。
「五階に上がり、そこにいた来館者の皆様に逃げるように伝えました。うまく伝わったかどうかは分かりませんが、皆様は下に避難して行きました。その後、追いついてきた一人のレフォルマトル──先ほどの赤い上着を着た者に、残りの従者たちも……」
表情は努めて冷静だったが、彼女は自らの礼服を指先が白くなるほど強く握っていた。
「彼は
四階の死体の数を鑑みるに、エルネスティーナを襲ったレフォルマトルは三人だったはずだ。
おそらく残ったSPが交戦している間に、民衆へ避難勧告をしていたドルレットの従者が上ってきて加勢した。
戦闘の末、一人生き残った襲撃者が逃げた
エルネスティーナの従者たちは銃器を所持していなかった。身を盾にして
従者たちの働きが無ければ、ほぼ間違いなく俺は間に合わなかったはずだ。
だが、それならば東館から出て行った襲撃者の一団は、第一王女を追い詰めた絶好のタイミングでその場を離れた事になる。
掌の鈍い痛みが、俺を思索から現実に引き戻した。
いま俺の為すべきことはテロリストの意図を追うことではなく、彼らの探知を警戒することだった。
「仕事と仰いましたが、シズマ様は外界の探査以外でも命を懸けるのですか」
「一度引き受けた依頼について、手は抜かない主義です。それに探査員でなくとも、世の中に命懸けの仕事など珍しくもない。警察官や護衛。テロリストに狙われる王女なんてモノもありますね」
エルネスティーナは少しだけ笑ってみせた。
「……彼女たちが身を挺してくれたのも、それが仕事だったからなのでしょうか」
彼女は独り言のように口にした。その問いへの返事を求めている相手は、どうやら俺ではないようだった。
「
俺は黙ったまま、彼女の独白の続きを待った。
「みな
エルネスティーナは彼女たちとの日々を思い返すかのように微笑んだ。
「子供のいる者もおりました。シズマ様は、ルーマニアの治安についての悪評はご存じですか?
「自由市場が実現したら、資源関連の会社を興したいと話していた者もおりました。外界から持ち帰った資源を一部の特権階級だけでなく、国民の誰もが扱えるようになれば、きっと新しい産業が生まれるはずだと」
エルネスティーナはそこで一度言葉を切った。
「もう一人は……
口元に浮かんだ微笑みが、ゆっくりと消えていった。
「皆、祖国を良くしたいと願っていたのです。
王女は自分の肩を抱くような仕草を見せた。
寒さだけのせいでは無いようだった。
「その三人が、
エルネスティーナは俯いた。続いて端正な唇から、独り言ちる様に声音が洩れ始めた。
「彼女たちの死を無駄にすることなど、
王女の独白が途切れた。
彼女は顔を上げようとしたが、どうやら上手くいかなかったらしい。
俺はしばらくその様子を眺めてから、口を開いた。
「王女殿下」
「……はい」応えの声は震えていた。
彼女が求めているのは同情ではなく、今も続く王位継承戦を戦い抜くための後押しであることは分かっていた。
「今この場に、貴女に王たる強さを求める国民の目はありません」
だからと言って、応援演説をぶつ必要はなかった。俺がその意向に従うのは依頼人だけ……という理由にしておく。
それ以上何も言わず、俺は手のひらに負った傷の検分を再開した。
目を上げると、王女が眼の前に立っていた。エルネスティーナはそのまま俺の方へ身を寄せてきた。
胸元に額が触れる。ミドルノートの香水が鼻先を掠めた。
次の瞬間、彼女は俺のジャケットを両手で掴んで顔を埋めた。
「……ごめんなさい」
それが俺に向けているのか、他の誰かへの言葉なのかは分からなかった。
彼女の肩が小さく震え始め、やがて堪えきれなくなったように嗚咽が漏れた。
エルネスティーナは三人の名を一人ずつ呼んだ。
それぞれの名前を口にする度に声が上ずった。もう返事をする者はいないと分かっていながら、彼女たちの名前を繰り返していた。
俺は彼女を抱きしめるというより、細い背中に手を添えただけの姿勢でいた。
残された者がどれほど悔やもうが、失われた命の分までと理想を掲げようが、死んだ人間は戻らないという事実に変わりはない。
他に出来る事は何もなかったので、俺は黙ったまま胸を貸し続けていた。
やがて嗚咽が小さくなり、ジャケットを掴んでいた指から力が抜けた。
エルネスティーナはゆっくりと身体を離した。目元が赤くなっていたが、既にいつもの落ち着いた表情を取り戻していた。
「その……恥ずかしいところをお見せしました」
俺は首を振った。「死者を悼む事を恥ずかしいとは思いません。それに──」
「それに?」
「他人の死を悼まない王族は、ただの暴君です」
エルネスティーナは目を丸くしたが、やがて微笑んだ。
次の瞬間、背筋を伸ばした彼女の姿には、先ほど嗚咽を漏らしていた女性の弱々しさなどまるで残っていなかった。
目の前に佇んでいるのは、ルーマニアの王位継承者である第一王女だった。
「そろそろ迎賓の時間です。準備はよろしいですか、エルネスティーナ王女殿下」
「
エルネスティーナは俺の顔を正面から見つめた。
「今後は私のことをエルネスとお呼びください。それと公の場以外では、言葉遣いも改めていただかなくて結構です」
彼女はそう口にすると、ふと視線を逸らした。
「……今後、似たようなことが無いとも限りませんから。円滑な情報共有のためにも、過度な謙譲は無用です」
今回のような襲撃事件など、そうそう起こって欲しくなどなかった。だが誠に遺憾ながら、それを決めるのは俺ではない。
俺は僅かに紅潮した王女の頬に目を向けながら答えた。
「王女に相応しいエスコート方法が次回までに思いつきそうにない。次が無いよう祈っていてくれ、エルネス」
エルネスは少女のように笑い声を上げると、今度は俺の隣に腰掛けた。
肩に預けられた頭の微かな重みと、銀の糸が首筋をくすぐるのを感じながら、俺は遠くかすかな機動隊の警報に耳を傾けていた。
警報は、俺の内側から聞こえていたのかも知れなかった。
◆◆◆
駐車場の固いアスファルトを叩く、複数の靴音が近づいてきた。
俺はエルネスに目配せをすると、立ち上がって荷台の後部へと移動した。
「こちらは日本の警察だ。中に誰かいるのか」外から男の声がした。
錦辺から俺たちの話は聞いているだろうが、レフォルマトルの待ち伏せも警戒しているのだろう。
幌の隙間から顔を覗かせると、ヘルメットと防弾ベストを装備した機動隊員が五人、幌トラックを取り囲んでいた。先頭の男は俺を確認すると、安堵したように息を吐いた。
「静間虎徹さんですね。静岡県警から応援に来ました。ルーマニアの王女殿下もご一緒ですか」
俺は返事の代わりに、幌を大きく持ち上げて見せた。
隊員たちの何名かがため息を吐いた。護送対象の無事に安心した様子だった。あるいは、王女の美しさに感心したのかも知れない。
「我々が待機室まで護衛します。どうぞこちらへ」
俺は先に荷台から下り、エルネスに手を貸した。
機動隊員は通訳イヤホンは持ち合わせていないようだったが、王女は彼らに丁寧に礼を述べると毅然とした足取りで歩き始めた。
エルネスを中心に隊列を組んだ隊員たちに囲まれながら、俺たちはようやく南館へと戻って来た。
資料館前の道路には警察車両が何台も停められ、規制線の外側には報道関係者と思しき人間が集まっている。無線機を手にした警察官たちが慌ただしく行き交い、救急隊員が担架を運ぶ姿も見えた。
南館の入口付近では、盾を構えた数十人の機動隊員たちが隊列を組んでいた。制圧作戦の号令待ちといったところだろう。
もはやこの場で俺に出来る事など、何もなかった。
俺が視認した限りでも、現時点でこの襲撃による死者は二十名を超えている。単純な数だけで言えば、前世紀の化学テロ事件の死亡数を上回っていた。負傷者数はあちらの方が桁違いに多かったが。
この国では異例と言っていい大惨事を受け、日本の、そしてルーマニア本国の世論がどう動くかなど、いち探査員ごときの想像の及ぶところではない。
神ならぬこの身に叶うのは、せいぜいが人間ひとりを連れ帰ることぐらいだった。
待機室の重厚な扉を開いた途端、銀色の軌跡を残しながらセラフィナが駆け寄って来た。
「エルネス姉様! コテツ!」
エルネスが両腕を広げると、セラはその胸に飛び込んだ。二人は互いの身体を抱き締め、しばらく言葉もなく再会を喜び合っていた。
少し遅れて、ルシアがこちらへ歩いてきた。
「ご無事でしたか」
俺はエルネスに片手を向けた。「見ての通りだ。目立った外傷はない」
「貴方の話をしています」
彼女の視線が、卸し金に掛けたかのような俺の掌へ向いた。
「……貴方は、いつもそうやって」
ルシアは金の瞳を伏せ、それ以上は何も言わなかった。
周囲に目を向けると、無言でこちらを眺めるボリスと視線が合った。
俺は首を横に振った。相手は何かを諦めたかのように小さく舌打ちすると、生き残った二名の従者を引き連れて外へと出て行った。
その背を見送ったルシアが、ルーマニア王族一行には避難許可が下りていることを告げてきた。
一般入場者については襲撃者が紛れ込んでいる可能性を考慮し、全員の身元確認が終わるまで施設外への移動を制限するらしい。一方、身元の明らかな王族とその関係者については、警察の護衛を受けたうえで帰還して構わないとのことだった。
すでに室内にアダルベルドとクレメンテ、そしてその従者たちの姿はなかった。機動隊が突入した後も、危険性がゼロどころか大いにあることを考えれば当然と言える。
舵木は勿論、錦辺も居なくなっていた。おそらく突入作戦の全体指揮を執りに行ったのだろう。
我々四人と警備の警官を数名残すだけになった王族待機室は、その広さを少々持て余し気味だった。
堂島たちに礼を言いそびれたことを思い返しつつ、俺は銀色の王女姉妹へ目を戻した。
セラフィナはまだエルネスの背中に小さな手を回したままだった。
「本当に、よかった……」
姉の無事に涙ぐむ少女は、まだエルネスの従者たちと自らの兄の死を知らない様子だった。
俺がエルネスだけを連れ帰って来たことから、ルシアも薄々察しているようだったが、何も口にしなかった。
歩み寄りの姿勢を垣間見せたドルレットの死は、幼い少女の心に影を落とすだろう。
いずれ知る事になるにせよ、今この場で伝えるべきだとは思わなかった。
俺は二人の姿を眺めながら、これまでに見聞きしたことを思い返していた。
レフォルマトルの襲撃には、不可解な点が幾つもあった。
連中は王族そのものよりも、その従者たちを優先して襲っていたように思えた。
中央棟での襲撃を思い出しても、最初からセラフィナではなくルシアを狙っているような動きだった。俺が囮になった時など、襲撃者たちは全員揃ってこちらを殺しに来ていた。
王族はその場で殺さず、生きたまま確保する方針だったのだろうか。
実際エルネスを捕らえていた男も、彼女を連れ去って犠牲にすると話していた。国民の目を覚まさせるという言葉から察するに、捕らえた後に何らかの形で見せしめにするつもりだったのだろう。
しかし、そうだとすればドルレットの死が説明できなかった。
第四王子は二階で射殺されていた。彼の従者たちも銃を持って応戦していた以上、戦闘の末に巻き込まれて殺された可能性はあったが、どこか違和感は拭えなかった。
ボリスの参謀役を射殺した連中の行動も奇妙だった。
東館にはまだ標的の第一王女も仲間の襲撃者も残っていた。にもかかわらず、フードの人物は数人の取り巻きを引き連れ、人気のない北館の駐車場へ向かっている。
俺は頭を軽く振って、益体の無い思案を追い出した。
制圧した襲撃者から事情聴取をすれば、ある程度作戦の全容が見えてくるだろう。彼らを拘束するのも、取り調べを行うのも、警察の仕事であって俺の役目ではない。
「ね、エルネス姉様。私が言った通り、コテツ……シズマ様は頼りになるでしょ!」
いつも通り小さく胸を張ったセラフィナに対し、エルネスは「ええ、そうですね」と穏やかに頷くとこちらを向いた。
「ところで、コテツ様」
目を丸くしたセラが、コテツ様?と呟いたが、姉の方は気にする様子もなかった。
「すべてが終わったら、
「……エルネス姉様?」セラフィナは姉に愕然とした目を向けた。
「外界へ赴かれるのでしたら、ロムニエル王家が全面的に支援いたします。たとえ探査を続けなくとも、生活は保障いたします。探究者向けの講習くらいは務めていただくことになりますけれど」
「ちょ、ちょっと待って姉様!」
セラは慌てた様子で、かつて自分が口にした勧誘を繰り返す姉の衣装を掴んだ。
「コテツは私のよ!私だけに誓いを立ててくれたパートナーなんだから!」
「あら」エルネスは不思議そうに首を傾げた。
「セラの協力者ということは、
「それは私がお願いしたからよ!」
両手を振り回して憤る妹姫に、エルネスは微笑んだ。
従者を亡くした姉への気遣いをさせない、あるいは気付かせないように敢えて軽く振舞っているらしかった。
おそらく、それだけのはずだった。
「それに……」エルネスは片手を頬に当て、僅かに俯いた。
「コテツ様には、
セラの動きがぴたりと止まった。
「……コテツ?」
少女はゆっくりとこちらを振り向いた。紅い瞳が、俺の顔をじっと見つめていた。
俺は助けを求めてルシアへ目を向けたが、彼女は若干不機嫌そうに視線を逸らした。
いつも鉄面皮な従者が、初めて見せる表情だった。
部屋の中に残った警備たちの視線に居たたまれないものを感じながら、俺は姉妹の小競り合いが収まるのを黙って待っていた。
エルネスが今後は我々のホテルに同居すると宣言し、セラは歓喜と警戒を混ぜ合わせたような複雑な表情を浮かべていた。
他の王族と従者たち、ついでにレオンがこの場にいない幸運には、おそらく感謝すべきなのだろう。
世にも高貴な王女姉妹と旧貴族令嬢の心情など、俺にとってはテロリストの意図よりも、よほど理解が及ばない代物だった。
次話はえっち断章です