次の日の朝、俺は不機嫌なフェアレディを宥めすかしてエンジンを掛けると、メールに書かれていた場所へと走らせた。
目的地へと続く道路は車が少なく、冬の鈍い陽光がアスファルトを照らしていた。
静間龍一は俺より五つ上だった。穏やかで真面目な男だった。少々真面目すぎると言ってもよかった。
兄が二十歳で輸入商を始めたのは、俺たちの両親が死んだすぐ後だった。
残された資産は、
その三年後、俺は探査員の資格試験に合格した。
まだ兄と話す時間があった当時、俺は探査員としては駆け出しだった。基本報酬すらない身の上では、その日の食費も稼げないような日々だった。
だが、俺は家族の誰にも話さなかった。
探査員としてやっていけるようになると、連絡する時間自体が減っていった。
皮肉なことに、俺が探査員として使い道もない金を積み上げ始めたのと同じ時期に、兄の事業は傾き始めたらしい。
だが、兄は家族の誰にも話さなかった。
全て後から聞いた話だ。
人を頼ることは苦手だったが、家庭を路頭に迷わせるような選択をする男ではなかった。
事業についても、もう少し耐えれば好転する見込みがあったのだろう。
その矢先の交通事故だった。
交差点での出会い頭の衝突。兄は即死。三十四歳だった。
兄が死んだ時、俺は外界にいた。
戻ってきた時、すでに兄は灰になっていた。
◆◆◆
指定された場所は、拠点都市の外れにある小さな寺だった。
大通りから一本入るだけで、街の喧騒は幾分遠くなる。
冬枯れの木々に囲まれた境内に人影はなく、砂利を踏む靴音だけが静かな空気の中に沈んでいった。
黒いジャケットの襟元を軽く整えて本堂へ向かう。引き戸を開けると、中の視線が俺に向いた。
最初に目に入ったのは、祭壇の前に並んで座る亡き兄の家族だった。
喪服姿のマリアは背筋を伸ばして座っていた。
青い瞳が俺を捉えると僅かに頭を下げる。プラチナブロンドの長い髪が、それに追従するように揺れた。前より少しだけ白く見える顔には、薄く疲労の影が差していたが、それでも美しさは損なわれていない。
目の縁を飾る泣きぼくろと、喪服越しにも分かる豊かな身体の起伏が、静かな佇まいの中に艶を残していた。
確か生まれはロシアだったはずだ。輸入商の兄と出会った経緯は詳しく知らなかった。
その隣に座る制服姿の
肩口で揃えた髪には艶があり、伏せた睫毛の長さが横顔をいっそう端正に見せている。
まだ十三の少女だったはずだが、こちらに向けた視線の中には妙に達観した色があった。
対照的に、九歳の
こちらを見つけると、花が咲いたような笑顔を見せた。
明るい金色の柔らかな髪、大きくよく動く瞳、人形のような愛らしい顔立ち。
表情がころころと変わり、足先を小さく揺らしている様子まで含めて、生き物としての温度がそのまま表に出ていた。
少し離れた席には妹の
長い黒髪に、綺麗なアーモンド型の目。
昔から兄の贔屓目を引いても目鼻立ちのよい美形ではあったが、女性的な輪郭がその魅力に拍車を掛けていた。
芯の強さが真っ直ぐに伸ばした背筋に表れている。そういえば昔から泣いている姿を数えるほどしか見なかったことを思い出した。
その隣には秋月慎司が座っている。狼那の夫で、中肉中背の気弱そうな青年だった。狼那より一つ年下で、もともとは会社の後輩だったらしい。柔和そうな顔立ちをしているが、どこか常に周囲へ気を遣っているような落ち着かなさがある。直接顔を合わせるのは、狼那の結婚式以来だった。
俺に気付いた狼那が、僅かに眉を上げた。
「虎兄さん、来たのね」
「呼ばれたからな」
「なによ、それ」
狼那は呆れたように少し笑った。
昔から変わらない物言いに少しだけ肩の力が抜けた。祭壇の前へ進むと、遺影の中の兄は生前と変わらない穏やかな顔で笑っていた。
鼻を抜ける線香の香りの中で手を合わせたが、何を思うべきかは一年前からよく分からないままだった。
悔いる資格があるのかすらも分からなかった。
顔を上げると、少し離れた場所のマリアと目が合った。以前より少し痩せたように見えた。
頬の線は細く、指先も白い。見えない何かに削られた痕のようなものが、僅かな所作の端々に残っていた。
一瞬、瞳の奥に陰が差した気がしたが、彼女はそのまま無言で目を伏せた。
ほどなくして、身内だけの小さな法要が始まった。
読経の声が静かに流れる中、俺は誰にも頼らず、一人で抱え、一人で終わった兄の生き方を考えた。
不意に、この場にいる誰よりも俺は兄のことを知らなかったのではないかという考えが頭をよぎった。
確かめる方法はもうなかった。
◆◆◆
短い法要が終わると、身内だけの小さな会食になった。
仕出しの弁当に吸い物が添えられている程度の、慎ましい席だった。
「虎徹さん、今回はご参加頂いてありがとうございます」
隣にやってきたマリアが深く頭を下げた。
「いえ、葬儀には出られなかったものですから」
「こうして来て頂けただけでも十分です」
マリアは記憶を辿るように目を伏せ、それから顔を上げた。
「虎徹さんは、たしか……外界関係のお仕事でしたよね。やはりお忙しいんですか?」
俺が探査員である事は兄と妹以外は知らないはずだった。
「ええ、毎日
マリアは心配と笑いを半分ずつ表情に浮かべた。
形骸化しかけた守秘義務を遵守するつもりはなかったが、明日消えてもおかしくない相手と話す場合、人間は無意識に哀れみを抱く。
特に今この場では、あまり望ましいとは言えなかった。
「お仕事は大切ですけど、ご無理はなさらないでくださいね」
「はい。義姉さんもお大事に」
去っていくマリアの先、席の上座に据えられた兄の遺影が目に入った。
葬儀に出られなかった代わりときた。ずいぶんと都合のいい事を言うじゃないか探査員。
一周忌のメールすら見落としかけていた分際で。
先程まで慎司と喋っていたアリスがこちらにやってきた。
にこやかな顔が俺を見た途端、夏の俄雨のように曇っていった。
「おじさま、どこか痛いの?アリスが撫でてあげる」
「大丈夫だ。ありがとう」
アリスは安心したように笑うと、母のところへ駆けていった。
俺は右腕の負傷を忘れていたことに気付いた。
だが、アリスの心配について、右腕以外の理由は考えないことにした。
アリスとの会話が、誰にも聞かれていなかったのは幸運だったのかも知れない。
アリスの向かった先では大人たちが会話をしていた。
視線を外す気にもなれず、そのまま様子を眺めていた。
会話が続くうちに、自然と話題は夫のいなくなった妻の生活になっていた。
「ほら、狼那も知ってるだろう。経理の清瀬さん。悠々自適だ、なんて言ってたじゃないか」
「あのね。貴方には分からないかも知れないけど、女が一人で生きていくって大変なんだから」
慎司に眇めた目を寄越した狼那は、マリアに向き直った。
「どう、マリアさん。何か困ってる事はない?」
不意に沈黙が降りた。
狼那からは見えない角度で俯いた彼女の表情に、何かを耐えるような色が混ざった。
これ以上の沈黙は不自然になる直前で、マリアが口を開いた。
「ええ、大丈夫よ狼那さん。気にかけてくれてありがとう」
すでに表情は元に戻っていた。
狼那も違和感を覚えたようだが、結局「何かあったら言ってね」とだけ返し、何もなかったように会話が再開した。
ふと視線を感じ、気配を辿ると向かいの席のリリカと目が合った。
紫水晶のような瞳は静かだったが、同時に何かを推し測るような気配を含んでいた。
彼女はほんの僅かに視線を横へ流した。
「お手洗いに」
リリカは席を立つと誰にともなくそう言い残し、静かに本堂を出ていった。マリアもアリスも特に気にした様子はない。
狼那だけが一度こちらを見たが、何も言わずに会話に戻った。
少し間を置いて、俺も席を立った。
「兄さん」
案の定、狼那の声が飛んだ。
「どこ行くの」
「部屋の外だ」
狼那が思わずといった様子でため息をついた。
「……虎兄さんって、昔からそういうところあるわよね」
大きな瞳が、こちらを見透かすように見ていた。
「すぐに戻る」
「はいはい。いってらっしゃい」
狼那がぞんざいに手を振るのを横目に、俺は部屋を後にした。
本堂の裏手へ回ると、冬の冷たい空気が頬を撫でた。庭先に面した古びた廊下の端に、制服姿のリリカが立っていた。
こちらに気付くと、小さく頭を下げた。
「ありがとうございます、叔父さん。来てくれると思っていました」
「買い被りだ。偶然気がついた」
「これでも人を見る目には、少し自信がありますので」
年相応の生意気さの中に、妙な確信が滲んでいた。
リリカは落ち葉だらけの庭へ一度目を向け、こちらに視線を戻してから口を開いた。
「叔父さん、お願いがあります」
「内容による。大人にも約束できないことはある」
「そうですね。では相談にしましょう。どうするかは話を聞いた後、叔父さんが決めてください」
俺は苦笑した。見た目の印象以上に頭が回る娘だった。
リリカは目線を少し下げた。
どう切り出そうかを考えているようだったが、言葉を飾るのは無駄だと判断したのだろう。
次に口を開いた時、前置きはなかった。
「母のことです。もう限界です」
俺は黙ったまま視線で続きを促した。義姉の様子がおかしいことは気がついていた。
「父の事業が傾いた時の借入が残ってます。本来なら父が返すはずだったものですが、その前に亡くなった。最近、それが債権譲渡されたようです。二か月くらい前から、家に取り立ての人たちが来るようになりました。もちろん警察にも相談しましたが、解決していません」
事実だけを並べるような淡々とした口調だった。
「母は誰にも相談しませんでした。叔父さんにも、狼那さんにも。理由は…叔父さんなら分かりますよね」
兄が死んだ今、俺たちは彼女にとって他人に近い。こちらに迷惑を掛けられない──彼女が考えそうなことではあった。
誰にも頼らないという悪癖は、どうやら兄弟の特権という訳でもなかったらしい。
俺はリリカに向き直った。
「いくつか確認したい」
「どうぞ」
「君の母親が隠そうとしていた事をなぜ俺に教えた」
「これ以上、母を見ていられなくなったからです」
こちらの質問を予想していたのか、返答は早かった。
「叔父さんから見ても、母は綺麗ですよね」
同意を求めるというより、確認するような口調だった。俺の返答を待たずにリリカは続けた。
「取り立てにくる度に、あの人たちが母に何と言って返済を迫っているか。言わなくても男の人なら想像がつきますよね。私は口に出したくありませんので」
表情こそ変わらなかったが、語気には押し殺し切れない、僅かな怒りが覗いていた。
「まだ何も起きてはいませんが、それもいつまで持つか分かりません。おそらくその前に母の心が壊れます。ですが、母は最後まで自分だけで抱えるでしょう」
リリカの目が静かに閉じた。
「──私とアリスを守るために」
事態は想像していたより悪かった。
いや、悪いなどという段階は、とうに過ぎていた。
「次だ。借りた額は分かるか」
「取り立ての人たちが言ってたのを聞きましたが、今請求されているのは三千万円です。本当はもっと少なかったようですが、今の私たちでは証明できません」
世の中で一番信じられないのは自分自身、と宣う平和な連中がいるようだが、おそらく彼らはヤクザが語る「正当な金額」を請求されたことがないに違いない。
「私でもこの金額が、途方もないものだというのは分かります。母が叔父さんや狼那さんに相談できない理由には、これもあります」
解決できる見通しがつかないなら、相談する事自体がただの負担になる。下手をすれば巻き込むかもしれない。義姉ならそう考えてもおかしくはなかった。
俺はリリカを正面から見つめた。
「最後だ。俺にどうして欲しい」
子供に向けるような問いではなかった。
だがリリカは怯まなかった。真っ直ぐに俺の目を見て言った。
「叔父さんの出来る範囲で構いません。私たちを助けてください」
「引き受けた」
即答は予想していなかったのだろう。リリカの目が丸くなった。
理知的な色を宿していた紫水晶の瞳が、年相応の戸惑いに揺れていた。
「もっと、考えるものだと思っていました」
「決めるために理由を考える──それはいい。ただこういう場合、先に決めてから理由を考えることがあってもいい」
少なくとも俺は、そうしてこなければ生き残れはしなかった。
リリカは、ただ俺をじっと見つめていた。
俺の言葉の意味を考えているようだった。
「住所を教えてくれ。まだ義姉さんには気付かれないように」
リリカは小さく頷くと、制服のポケットから折り畳まれた紙片を差し出した。準備のいいことだ。
「今の家の住所です──以前の家は、もうありません」
感情のない口調に、かえって失ったものの重さが滲んでいた。
「近いうちに訪ねる」
少しの沈黙の後、リリカが静かに口を開く。
「叔父さん」
「どうした」
「えっと……その、ありがとうございます」
その声音は、十三の少女のものだった。
俺は答えず、代わりに一つだけ告げた。
「君は母親に似ているな」
リリカが目を瞬かせる。
「どこがですか」
「自分一人で抱え込むところだ」
ほんの僅か、口元が拗ねたように尖る。
そして、今日顔を合わせてから初めて微笑みを見せた。
「そうかもしれませんね……不本意ですが」
俺は笑わなかったが、似たような表情を見せたらしい。彼女の笑みが深まった。
「先に戻れ」
一礼して本堂へ戻っていくリリカの背中を見送った後、俺は壁に背を預け、庭の朽ちかけた樹に目を向けた。
周囲から一本だけ取り残されたように佇むその樹から、乾いた葉が一枚、静かに落ちていった。
兄が選んだ女は、美しく、律儀で、どうしようもなく一人で抱え込む性質らしかった。