※この作品はR-18です。

暴虎は外界を馮る   作:義山硝子

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二章 休暇と奪還③

 

 リリカに渡された住所は、拠点都市の再開発区域から西に外れた、古い住宅街の中にあった。

 幹線道路から一本入るごとに景色は古びていき、舗装の割れた道の脇には、手入れの行き届かない家々が肩を寄せ合うように並んでいる。

 

 目的の場所についた時、すでに日は沈みかけていた。

 酷く古い平屋だった。

 夕陽の差した外壁は色褪せ、軒先の雨樋は一部が歪んでいる。小さな庭先には冬枯れの雑草が残り、端には子供用の赤いボールがひとつ転がっていた。

 慎ましいというより、逼迫している家の佇まいだった。

 

 車を停めようとしたところで、ウィンドウ越しでも届く怒鳴り声が聞こえた。

 

「だから、いつ返すんだって聞いてるんだよ」

 

 他人を脅すことに慣れている、腹の底に響くような男の声だった。

 家の前には黒いワンボックスが停まっていた。お定まりのスーツ姿の男が二人。

 片方は四十代半ば、肥えた身体にスキンヘッド。もう片方は若く、派手な金色に染めた髪をオールバックに撫でつけていた。

 

 玄関先にはマリアが立っていた。

 顔色は蒼白だった。両手を胸の前で重ねるように握り締め、肩が小さく震えていた。

 

「ですから……もう少しだけ待ってください……」

 

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「待った結果が今だろうがよ」

 

 若い男が一歩踏み込む。

 マリアが反射的に半歩下がった。

 

 開け放たれた玄関の奥に、二つの影が見えた。

 アリスが不安そうに母の様子を見ていた。リリカがその肩を抱き寄せるようにして、自分の後ろへ隠している。

 

 俺が車を降りると、ドアを閉める音に全員の視線がこちらへ向いた。

 

 最初に反応したのはリリカだった。

 僅かに強張っていた目元から力が抜けた。

 こちらに向かい、目線のみで軽く礼をした。

 

 次いで、彼女の後ろに隠れていたアリスがこちらを見た。

 大きな瞳は涙で溢れていた。おじさま、と口だけが動いた。声を出して、この男たちに怒鳴られた事があるのだろう。

 

 マリアも気づいたらしく、青い瞳を見開いた。

 唇が僅かに震え、掠れた声が零れる。

 

「……虎徹さん、どうして」

 

 向けられたのは、安堵と困惑が半分ずつ混ざった顔だった。

 来て欲しかったのか、見て欲しくなかったのか、自分でも分かっていないように見えた。

 

 若い男が顎をしゃくった。

 

「誰だ、お前」

 

「こちらが聞きたい」

 

 短く答えて、そのままマリアの隣まで歩く。

 近くで見ると、彼女の頬には薄く涙の跡が見えた。 

 マリアは口を開きかけ、だが言葉が出てこなかった。

 代わりにリリカが玄関先まで歩み出た。

 

「──叔父さん」

 

 その一言で十分だった。

 

 スキンヘッドが鼻で笑った。

 

「なんだ奥さん。新しい財布でも見つけたのか」

 

 俺はスキンヘッドに話しかけた。

 

「借用書を見せてくれ」

 

「あ?」

 

「借入の経緯、残額の内訳、返済条件。せっかく支払いの話をするんだ。当然、中身くらいは確認させてくれるんだろうな」

 

 スキンヘッドは一瞬だけ面食らった顔をしたが、すぐに下卑た笑みに戻った。

 

「へえ。兄ちゃんが払ってくれるってか」

 

 肩越しにマリアを見た。

 彼女はうつむいて唇を噛んでいた。細い肩が、何かの感情で押し潰されているように震えていた。

 

「ここで立ち話もなんだ」

 

 スキンヘッドがワンボックスを親指で示した。

 

「事務所で話そうや。書類もある」

 

 他人を威圧して反応を愉しむ人種が好む仕草だった。

 

「ちょうどよかった。お宅らのせいで近所迷惑になってないか、気が引けてたところだ」

 

 彼らの車に向かい、二人の間を横切ろうとした時、俺を止めるものがあった。

 

「……虎徹さん、だめです」

 

 マリアが俺の袖を掴んでいた。

 白く細い指先が震えていた。

 

「私のせいで、これ以上……」

 

「兄の家族の話なら、俺にも関係があるはずです」

 

 青い瞳が揺れた。

 今にも泣きそうな目だった。

 

「でも……」

 

「大丈夫、話をしてくるだけですから」

 

 不慣れなりに努力し、できるだけ安心させるような口調で言うと、マリアの指先から力が抜けた。

 代わりにリリカが前へ出た。

 

「叔父さん」

 

「なんだ」

 

「お任せします」

 

 リリカらしく、余計な言葉はなかった。

 だが、その短い一言の中に、十三歳の少女が抱え込める限界までの祈りが詰まっているのが聞き取れた。

 

「引き受けると言ったはずだ」

 

 リリカにそう言い残し、ワンボックスへ向かう。

 後部座席に乗り込み車が走り出す直前、玄関先でこちらを見ている三人の姿が目に入った。

 

 今にも泣き出しそうなアリス。

 唇を真一文字に結んだリリカ。

 そして、祈るように胸の前で両手を握るマリア。

 

 兄はずいぶんと重いものを残していったらしい。

 

 彼女たちを残し、車は静かに走り出した。

 

 

 ◆◆◆

 

 

 

 ワンボックスの車内は妙に静かだった。

 行きがけの駄賃とばかりに脅し文句の一つも飛んでくるかと思ったが、そういう類の軽薄さはないらしい。

 少なくとも、金の話をするといった相手に無駄な波風を立てるほど愚かではないようだった。

 

 窓の外を流れる夕暮れの景色が、住宅街から雑居ビルの並ぶ一角へと変わっていく。

 

 しばらくすると車が停まった。

 

 古びた三階建ての雑居ビルだった。

 二階の窓ガラスには「ピースフルファイナンス」という間抜けな黄色の文字が踊っていた。入口脇の壁には、何かを剥がした跡だけが残っていた。

 

 狭い階段を上がり、薄手のドアを開けるとその中が事務所のようだった。

 部屋に入ると、煙草と古い紙の匂いが鼻についた。

 事務机が三つ並んだ向こう、奥のデスクに座った痩せた中年男が、吸いかけの煙草を指に挟んだままこちらを見た。

 

「こいつは誰だ」

 

「静間のトコの身内らしいです。話をつけに来たそうで」

 

 スキンヘッドがそう言うと痩せた男は椅子に深く座り直し、ついでに手に持った煙草でデスクの前の丸椅子を指した。

 

「まあ、座ってくれ」

 

「間に合ってる」

 

「そうか」

 

 男はそれ以上気にした様子もなく、吸い差しの煙草をデスクの上の灰皿に投げ捨てた。

 

「で、どういう話をつけに来たんだ」

 

「ここじゃ金を借りるか、金を返すかの話しかしないんだろう。俺が金を借りに来たように見えるか」

 

 こちらの返答を理解したのか、男の目が細くなった。

 

「あんたが返すつもりか。いくら払える」

 

「お宅らに毎度ご足労頂くのも忍びない。全額払う」

 

「……金額は知ってるのか」

 

「知っている」

 

 言い切ると、男たちの雰囲気が僅かに変わった。

 驚きというより、俺を値踏みしている空気だった。

 

 スキンヘッドが鼻を鳴らした。

 

「兄ちゃん、ずいぶん景気がいいんだな。フカシだったら……分かってるよな」

 

 痩せた男は何か考えているようだったが、立ち上がると窓際へ歩いた。

 こちらに背中を向けたまま携帯を取り出し、やがて小さく話し始めた。

 声は小さく、内容は聞き取れなかった。

 

 二分ほどすると、話し終えたらしい男がデスクに戻った。

 

「分かった」

 

 椅子に座り直し、事務的な口調で言った。

 

「一括で払うならこちらとしても文句はない。長引かせたい話じゃないしな」

 

 デスクに書類が並べられる。

 

 借入証書。債権譲渡の覚書。返済確認の念書。

 形式だけは一通り揃っていた。

 もっとも、書類があることと中身が正しいことは別の話ではあったが。

 

 男は腕時計を確認した。意外なことにロレックスではなく、国産のメーカーだった。

 

「明日中に振り込めるか?」

 

「ああ」

 

「確認が取れ次第、この件は終わりだ。以後こちらからお邪魔することもない」

 

「そうしてくれ」

 

 それだけだった。

 拍子抜けするほど、何事もなく話はまとまった。

 結局、最後まで腰を下ろさずに控えを受け取る。

 

「車を出そうか」

 

 男がぞんざいに口を開いた。

 

「遠慮しておく」

 

 俺もぞんざいに返事をした。

 

 ドアに向かう間際、背中に絡みつくような視線を感じた。

 

 振り返らずそのまま歩いて部屋を後にし、階段を降りてビルの外に出た。

 すでに空は暗くなっていた。

 冬の空気は冷たかったが、暖房の効いた事務所の中より気分はずっとマシだった。

 

 俺はマリアの家までどうやって帰るかを考えながら歩き始めた。

 

 この時、俺がもう少し深く考えていれば、後の事態は防げたのかもしれない。──もっとも、確かなことは言えないが。

 

 

 ◆◆◆

 

 

 マリアの家に戻ってきたのは、夕食時を少し過ぎた頃だった。

 冬の夜空に星は少なく、住宅街は薄闇に沈んでいた。

 玄関先の小さな灯りだけが、灯台のように淡く光っていた。

 

 俺が近づくと引き戸が開き、マリアが姿を見せた。

 

「……虎徹さん」

 

 漏れるように口から出た言葉と、青い瞳に浮かんだ感情は、一言では言い表せないものだった。

 

 俺が口を開くより先に、マリアが続けた。

 

「外、寒いでしょう。まずは中へお入りください」

 

 有無を言わせない口調ではなかったが、拒否をしづらい声音だった。

 

 中は八畳ほどの一部屋だけだった。

 上がり口に入ると、部屋の中にいた二人がこちらに気づいた。

 

「おじさまっ!」

 

 弾かれたように顔を上げ、勢いよく抱きついてきたのはアリスだった。

 華奢な体から小さな震えが伝わってきた。

 こちらを見たリリカは、この少女にしては珍しく明らかな安堵の仕草を見せた。

 

「叔父さん、お帰りなさい」

 

「ああ」

 

 靴を脱いで部屋に上がり、表面に傷のついた木製の座卓の前に腰を据えた。

 その間、アリスは俺から離れようとしなかった。

 

 マリアが隅にあるキッチンスペースに向かう。

 戻ってきて俺の前に湯気の立つ湯呑みを置くと、正面に座った。

 

「……どう、でしたか」

 

「明日こちらから振り込む。それで終わりです」

 

 誰かが息を飲むような気配がした。

 

 アリスが顔を上げてこちらを見た。

 

「あの人たち、もうこない?」

 

「ああ」

 

 俺が頷くと安心したように目を閉じ、膝に頭を預けた。

 

 マリアは口元を押さえ、こちらを見つめていた。

 言葉は理解しているものの、まだ実感が追い付いていないようだった。

 リリカが目を伏せ、小さく息を吐いた。

 次に口から出た言葉には、拭い切れない罪悪感が滲んでいた。

 

「叔父さん、そのお金ですが──」

 

 娘の言葉に気づいたマリアが、勢いよく言葉を重ねた。

 

「虎徹さん、いけません!そんな大きなお金、払って頂くわけには──」

 

 軽く手のひらを向け彼女を止めると、今度は俺が口を挟んだ。

 

「先程も言いましたが、兄の家族の問題です。俺に出来ることはさせて欲しい。それに」

 

 マリアがこちらを見つめた。

 

「それに?」

 

「まだ香典を渡していなかった」

 

 数秒間、呆気にとられていたマリアは、やがて堪えきれなくなったように小さく笑った。

 

「……貰い過ぎです」

 

 目には涙が滲んでいたが、その笑みは一周忌で見たものよりずっと自然だった。

 

 

 ◆◆◆

 

 

 それからしばらくは、誰も言葉を発さなかった。

 俺は空になった湯呑みを置き、丸めて置いたままだったジャケットへ手を伸ばした。

 

「では、このあたりで」

 

 その言葉に、最初に反応したのはアリスだった。

 膝の上で小さな身体が跳ね起きた。

 

「もう帰っちゃうの?」

 

 アリスの表情が目に見えて曇っていった。

 マリアが何かを考えるように視線を伏せた後、こちらを向いた。

 

「あの…もしご迷惑でなければ、今夜は泊まっていかれませんか」

 

 静かな声だった。

 

「今日は、その……いてくださると、安心できますから」

 

「泊まって行ってください。アリスも喜びます」横からリリカが加勢した。

 

 俺は断る理由を探したが、思いつかなかった。

 

「では、厄介になります」

 

 はしゃぎだしたアリスをリリカが窘めた。

 そのやり取りを見ながら、マリアが小さく笑っていた。

 

 家族の様子を見ながら、俺は兄の事を思い出していた。

 

 

 夕食に用意されたのは簡素な鍋だった。

 育ち盛りの子供がいる家としては、決して余裕のある食卓ではなかった。

 それでも、空腹以外に満たされていくものがあった。

 

 アリスは普段はいない同卓者に興奮した様子で、学校であったことを途切れなく喋り続けていた。

 リリカが少し呆れたように相槌を打ち、マリアはそんな二人を見ながら時折こちらへ視線を向けた。

 

 昨日までの話をする者は誰もいなかった。

 

 

 食後、マリアの案内で近所の銭湯を訪れた。

 古びた暖簾の掛かった昔ながらの浴場だった。

 身体を洗い、熱い湯に浸かると、疲労が骨の奥から浮いてくるようだった。

 自分でも気づかなかったが、外界とはまた違う疲れ方をしていたらしい。

 

 先に出て外で待っていると、子供たちを後ろに連れたマリアが暖簾を潜って出て来た。

 

 薄いベージュのニットにロングスカートという簡素な格好だったが、

 湯上がりの熱を帯びた白い肌と、濡れた白金髪が妙に目を引いた。

 首筋にはまだ薄く水滴が残っていた。

 

「あ……お待たせしました」

 

「いえ」

 

 家に帰る間、俺たちのやり取りはそれだけだった。

 

 

 家に着いた頃には、アリスは半分眠りかけていた。

 この家に布団は二組だけしかなかった。

 アリスが当然のように俺と一緒の布団を主張した。

 大抵の家庭では末っ子の意向が尊重されるものだが、ここも例外ではないらしい。

 

「おじさま、あったかい……」

 

 眠そうな声でそう呟くと、アリスはすぐに寝息を立て始めた。

 こちらへ小さな身体を預けて眠る様子を見た後、俺は暗い天井を見上げた。

 

 八畳一間の借家に暖房はなく、壁際からは時折、隙間風が入り込む。

 それでも、不思議と寒さを感じなかった。

 

 子供たちの寝息を聞きながら、俺は今日あった出来事を思い返していた。

 微かな胸騒ぎが、剝がし損ねたシールの跡のように心に残っていた。

 

「……起きてますか」

 

 囁くような声に目を向けると、マリアの顔がこちらを向いていた。

 布団の間隔が狭いせいで、お互いの吐息が触れる程の距離だった。

 

「今日のご恩は忘れません」

 

「偶然、懐に余裕があった。それだけです」

 

 マリアは小さく首を振った。

 

「例えそうであっても、虎徹さんが助けてくださったことを、私は忘れません」

 

 青い瞳が静かに俺を映していた。

 

 沈黙が落ちる。やがて彼女はどこか迷うように言葉を続けた。

 

「……その、不躾なお願いになってしまうのですけど」

 

「なんでしょうか」

 

「また、来ていただけませんか」

 

 マリアは少しだけ目を伏せた。

 

「子供たちも喜びますから。……その、私も」

 

「また来ます」俺は短く返答した。

 

 彼女は小さく微笑んだ。

 暗闇の中のせいか、それはひどく眩しく見えた。

 

【挿絵表示】

 

 ささやかな約束を交わした後、おやすみなさいと言ってマリアは目を閉じた。

 程なくして、部屋の中に寝息が一つ増えた。

 

 その柔らかな音に耳を傾けながら、静かに目を閉じた。

 

 これだけ安らかな気持ちで眠りを迎える記憶は、どうやっても思い出せなかった。

 

 

 

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