の【日の丸の国史上最悪の猟奇殺人事件がきっかけで始まった物語】 作:桃色ぴんく
7月13日午前0時20分
孝行さんは寝室のベッドに寝転んでいた。
ベッドには、白の枕と水色の枕が1つずつ置いてあったのだが、水色の枕はただの抱き枕へと変わってしまったのだ。
「……っ。僕のアリス……」
水色の枕を抱き締めた孝行さんは、ゆうちゃんが8年前に描いたあの絵を涙目で見つめていた。
「ねえ、アリス。これは君が見ていた夢だよね?」
孝行さんは、美由利さんの名前をまた呼べなくなった。
児童文学ゼミの5人が描かれたイラストの可愛らしさが、アリスの世界への片道切符となってしまったのだ。
「あるところに、アリスというとても可愛い女の子がいました。あれ?アリスの目の前を、真っ白なうさぎが走っていました」
涙が消えた孝行さんは、水色の枕を抱き締めたままベッドからサッと降りた。
「……大変!急がなきゃ、急がなきゃ!待って!うさぎさん、どこ行くの?!」
そして、なぜかキッチンへ向かって走りだした。
「遅刻しちゃう!急がなきゃ、急がなきゃ!」
一方その頃……
百乃さんは、リビングの椅子に座ってゆうちゃんのSNSを見返していた。
ゆうちゃんは生前、食べたものだけではなく、お気に入りの洋服やおもちゃなどの写真も投稿していたのだ。
文字だけの投稿には、
今年も大きなわたあめ食べたい♡ピンクのふわふわなやつ♡あ、イチゴのかき氷もいいな♡
おひさまランドで遊んでたら、突然メリーゴーランドの馬が動き出して……そこにあたしの王子様が乗ってたらいいのにな……
こんなこと考えた!缶のオレンジジュースを飲んでいたら、妖精がいきなり出てくるの!そして、あたしに魔法をかけて可愛くしちゃう♡素敵でしょ?
など、ゆうちゃんの夢や妄想がたくさん書かれていた。
「……っ!一緒に行きたかったのに!」
百乃さんは、泣きながらスマホを机に叩きつけてしまった。
7月25日の根ノ江夏祭りに児童文学ゼミの5人で行く夢。それをAに残酷な形で奪われたからだ。
午前0時30分
「ゆうちゃん……今お風呂上がったところかな?」
ゆうちゃんの最新の投稿を見た百乃さんは、スマホを握りしめて洗面所へと向かった。
パジャマどころか下着さえもタンスから取る気力がもうなかったのだ。
「ゆうちゃん、すごく暑かったよね……。あ、美由利ちゃんもだよね……」
百乃さんの目は、いつの間にか完全に焦点が合わなくなっていた。決してエアコンの効果の薄さにやられたからではない。
「あ、ごめん……忘れてた……」
何かを思い出した百乃さんは、洗面所まであと3mほどのところでピタッと立ち止まった。
そして、傍から見ればいつ倒れてもおかしくない足取りで、来た道を引き返した。
一方その頃……
「はぁ……。百乃もそうだけど、みうちゃん本当に大丈夫かな?」
裕香さんは、身体をふらつかせながらパジャマと下着をタンスから取ろうとした。
「……これでいいや」
選ばれたのは、赤ずきん風のパジャマ、紺色のリボンが付いた青いブラジャー、そしてブラジャーと同じリボンが付いた青いパンツ。
今までの裕香さんは、1番お気に入りだったこれらを手に取っただけで満面の笑みを浮かべていた。だが、Aのせいでそれすらもできなくなってしまったのだ。
「やっぱり後にしよ……」
お風呂に入るのを一旦やめた裕香さんは、死んだ目でスマホのロックを解除し、美由利さんのSNSを開いた。
開いたのはアイスクリームワールドの公式SNSアカウントではなく、ゆうちゃん、みうさん、百乃さん、裕香さんだけが閲覧できる本アカという名の鍵アカだった。
そこには、
孝行……ごめん。もう本当に限界、ゆうちゃんに会いたい……
みうちゃん、百乃ちゃん、裕香ちゃんになんて言えばいいの……?ゆうちゃんを食べたのがAだったなんて怖くて言えないよ……
忙しかったけど……お客様の話し声が勝手に聞こえちゃった。Aが亡くなった、ゆうちゃんはAを奪った悪女、ゆうちゃんは痛々しいピンクセーラー芋ブス……酷いよ……
今日めっちゃ忙しかった、疲れた……身体もだけど心はもっと苦しい……
お店を持つ夢……せっかく叶えたのにな……けど、もう無理……閉めよ……
など、本来書くはずのなかった心の叫びが山ほど投稿されていたのだ。
「み、美由利ちゃん……!そんなこと呟いてたの……?」
スマホを持つ裕香さんの手が小刻みに震えていた。
私、お姫様をさらって食べた恐ろしい魔王の歌声を心の支えにしてたの?どうして私じゃなくてゆうちゃんが食べられたの?ねえ……嫌だ……
と書かれた最新の投稿が、裕香さんの胸を強く締めつけてきたのだ。
「ねえ……アカウント間違えてるよ……!」
裕香さんはスマホを顔に強く押し付けた。その画面がどうなったかは、もはや説明するまでもない。
午前0時40分
「よかった……いっぱいあった……。どれにしようかな……」
冷凍庫のドアを開けた百乃さんは、中身をじっと見つめていた。
りんご型のカップのシャーベット1つ、バニラバー3つ、チョコソフト2つ、そして、カップのストロベリーアイスとバニラアイスがそれぞれ1つずつ。
りんご型のカップのシャーベット、バニラバー、チョコソフトはゆうちゃんが働いていたうさぎマーケットで、カップのストロベリーアイスとバニラアイスはアイスクリームワールドで買ったものだ。
百乃さんは、7月3日の午後4時にうさぎマーケットを、ゆうちゃんの命日の午後3時にアイスクリームワールドを訪れていたのだ。
「ゆうちゃん……ゆっくりだけど丁寧にレジ打ってくれてたな……」
りんご型のカップのシャーベットを手に取った百乃さんは、エプロン姿のゆうちゃんを思い出してまた目を潤ませた。
そして、水切りカゴにあった銀のスプーンをりんご柄のタオルで拭かずにそのまま取った。
「ゆうちゃん……!なんでゆうちゃんなの?!なんでゆうちゃんが食べられなきゃいけないの?!酷いよ……」
その時、銀のスプーンの先がさらに濡れてしまった。
「ああああああああああああ!!」
百乃さんは、深夜なのも忘れたような声で叫びながらりんご型のカップのシャーベットを食べた。
どんなに心が傷ついていても、エアコンがあまり効かないリビングの暑さには抗えなかったのだ。
「あ……ああああああああっ!!」
1番お気に入りのシャーベットでさえ、百乃さんの心の傷を埋めることはできなかった。
とうとうりんごの甘みも分からなくなってしまったのだ。
午前0時45分
「そうだ……」
りんご型のカップのシャーベットを食べ終えた百乃さんは、食器棚からまだ使っていない木のスプーンを取り出した。
その後、冷凍庫からカップのストロベリーアイスとバニラアイスを取り出し、そっと赤いトレイに乗せ、また洗面所へと向かった。
「私……泣かない……から……」
百乃さんは、赤いトレイをお風呂の近くの棚にゆっくりと置いた。
「ただいま……」
そして、化粧水が入ったピンクのボトルと乳液が入った白のボトルに蚊の鳴くような声で挨拶した。
目の『光』を失った百乃さんは、化粧水が入ったピンクのボトルにカップのストロベリーアイスを、乳液が入った白のボトルにカップのバニラアイスを食べさせようとした。
「あはは……おいしい?」
午前0時50分
「とにかく判決が先!証拠は後!」
深夜なのも忘れた孝行さんは、乱暴に足踏みしながら冷蔵庫に両手を叩きつけた。
この時の孝行さんには、手の痛みを全く感じられなかったのだ。
「女王の言うことはおかしいわ!順番が違うじゃない!」
アリスと完全に同化してしまった孝行さんは、冷凍庫を力いっぱい殴った。
「生意気な小娘ね!黙らっしゃい!」
ハートの女王とも同化してしまった孝行さんは、大量のアルミホイルの箱を電子レンジに投げつけた。
「そんなの嫌よ!私は黙らないわ!」
その電子レンジは、半年前に美由利さんと一緒におひさまでんきで買ったものだった。
「お黙り!アリスの首をはねよ!」
孝行さんは、電子レンジのコンセントを抜き、電子レンジ本体を狂ったように壁に投げつけた。
当然、2人の思い出は脆くも儚く崩れてしまった。
「あ……!」
飛び散った大量の破片が、孝行さんの頬や腕を真っ赤に染め上げた。
傍から見れば傷だらけなのだが、心以外の痛みはもう感じられなかった。
「アリス、その首は絶対はねさせない……。タルトを盗んだハートのジャックは僕だから……ね……」
孝行さんは、か細い声でそう呟くと、シンクから結婚指輪と同じ色のナイフを取りにいった。
「アリス……逃げて……」
孝行さんは、両手を小刻みに震わせながらナイフで首を刺した。
「……っ!あ……ア……リス……」
孝行さんには、キッチンの床がペンキで赤く染まった白い薔薇に見えていた。
刺したところから噴き出した大量の血は、壊れた電子レンジや床に置かれた水色の枕の色も変えてしまった。
こうして、孝行さんはゆうちゃんと美由利さんがいる世界への切符を手にしたのだ……