「あ、が……あ、あ、あああああああッッ!!」
何度目になるかもわからない、脳漿が沸騰するような絶熱。ナツキ・スバルの意識が覚醒した瞬間、最初に世界を満たしたのは、視界を塞ぐ暗黒と、肺腑をどろりと汚す濃密な瘴気の臭いだった。
「キュ、キュルル……ッ」
すぐ傍らで、愛竜であるパトラッシュが狂乱の一歩手前のような悲痛な声を漏らし、地面を爪で掻き毟っている。
「……う、あ……頭が、割れる、わ……ッ」
ラムが己の額を両手で強く押さえ、美しい桃色の髪を振り乱しながら地べたに蹲っていた。そのすぐ隣では、アナスタシアの肉体を借りた人工精霊───────襟ドナが、荒い呼吸を繰り返しながら壁に背を預けている。
(また、ここだ。また、この場所だ……!)
スバルは自分の頭を両手で殴りつけ、迫り来る発狂の衝動を物理的な痛みでせき止めようとした。だが、無駄だった。
脳の奥底から染み出してくる、理由なき全能感と、それと表裏一体のどす黒い猜疑心。視界の端が赤黒く染まり、仲間の呼吸音すら自分を呪う詠唱のように聞こえ始める。
この場所は、プレアデス監視塔へと至るアウグリア砂丘の地下。
左右の分岐点で、スバルが自らの判断で「右」を選択し、進んでしまった通路の途中だった。
ここが、新たな『死に戻り』のセーブポイントだった。
そしてそれは、完全なる「詰み」を意味していた。
これまでのループで、スバルはありとあらゆる方法を試した。
このまま前へ進めば、さらに濃くなる瘴気に全員の精神が耐えきれず、ラムが錯乱して風刃を放ち、パトラッシュが敵味方の区別を失ってスバルの喉笛を噛みちぎる。
ならばと、死に戻った瞬間に「引き返せ!」と叫んで元来た道を逆走しようとしても、分岐点に辿り着くより前に瘴気の侵食速度が勝り、互いに疑心暗鬼に陥った泥沼の殺し合いへと発展する。
進むことも、退くこともできない。
発狂までの猶予は、わずか一、二分。
「なんで……なんでだよぉッ! クソが、クソが、クソがぁ!!」
スバルは暗闇の壁に何度も額を叩きつけた。
鈍い音が響き、額から温かい血が流れ落ちるが、狂気の霧は晴れない。
何十回、何百回と繰り返した自慢の『死に戻り』が、今回は完全にスバルを裏切り、逃げ場のない監獄へと彼を閉じ込めていた。
「もう嫌だ…… どうしろってんだよ、エミリア……レム……俺は、ここで終わりなのか……?」
度重なる死と、脳をダイレクトに汚染する瘴気のデバフにより、スバルの心は完全にへし折られた。涙と血にまみれ、ただその場にへたり込んでガタガタと震え始める。あらゆる思考を放棄し、次の「確実な死」が訪れるのを待つだけの、死んだ魚の目。
突如として豹変し、一切の足掻きを止めて蹲ったスバルの姿に、いち早く反応したのはラムだった。
「……バルス?」
ラムの『千里眼』と、長年培われた鋭い直感が、スバルの異常性を捉えていた。今さっき絶望した人間の目ではない。何千、何万もの絶望を、その狭い双眸に溜め込んだ者だけが至る、完全な虚無だった。
「何を隠しているの。その目は……何を見ているの、バルス」
「無駄なんだよ、ラム……」
スバルは乾いた声で笑った。
脳内を侵食する狂気が、彼の舌を滑らせる。
「右を選んだ時点で、俺たちは全員詰んでるんだ。前に進んでも、後ろに戻っても、この瘴気のせいで仲間割れして、狂って、死ぬんだよ!!」
スバルの口から飛び出した、本来なら理解し得ないはずの言葉。だが、ラムはスバルの精神が、もはや限界を迎えていることを悟った。
何故ならば、ラムもまた自身の精神の限界が迫っていることに気づいていたからだ。
「……チッ、本当に使えない男」
ラムは忌々しそうに舌を打ち、しかしその瞳には、冷徹な覚悟の光が灯っていた。
「バルス、ラムがこの体内の瘴気を減らす、最悪最低の方法を教えてあげるわ」
その言葉に、息を荒くしていたアナスタシア(襟ドナ)も、微かに目を見開いて頷いた。古い禁忌の魔導知識を持つ者だけが知る、魂の救済処置である。
「瘴気による
ラムの感情の失せた解説が暗闇に響く。
それは、あまりにもおぞましく、理不尽で、しかし、だからこそ、このようなおぞましく理不尽な状況をなんとかできそうな方法であった。
「───────な、何を言って……」
スバルの折れかけた心が、別の意味での戦慄に震えた。
だが、ラムとアナスタシアには、躊躇している時間など一秒もない。あと数十秒もすれば、全員の脳が完全に狂気に乗っ取られ、理性的会話など不可能な獣へと成り下がるのだ。
「四の五の言っている暇はないわ。バルス、衣服を脱ぎなさい。……ラムとアナスタシア様は、すでにその最悪を受け入れる覚悟を決めているわ」
ラムの手が、迷いなく己の首元へと伸びる。
パサリ、と重苦しい布の擦れる音が暗闇に響いた。
続いて、アナスタシアの身体を操る襟ドナもまた、一切の迷いを排した手つきで上着のボタンを外していく。
暗闇に目が慣れてきたスバルの視界に、白く浮かび上がったのは、下着姿になった二人の女性の輪郭だった。
ルグニカ王選の候補者であるアナスタシア・ホーシンの肉体と、ロズワールに全てを捧げた少女、ラム。
二人の、この世の何よりも美しいはずの肢体が、いまや生存のための「道具」として、剥き出しにされようとしていた。
スバルはごくり、と息を呑んだ。胸の奥を焦がすのは、エミリアへの誓い、そして己の内に眠るレムへの不義理。こんな不潔な方法で命を繋ぐことへの、強烈な拒絶反応。
「───────な、なぁ……どうしてもしなきゃなんねぇのか……?」
情けない、震えた声がスバルの口から漏れる。
その甘えを、ラムの冷酷な、しかしどこか必死な声が切り裂いた。
「バルス、いい加減覚悟を決めないと、その粗末な棒を焼き切るわよ」
「そ、粗末じゃねぇしっ! ヒィヒィ言っても知らんぞ!」
「いやらしい」
即座に返ってきたラムの辛辣な言葉に、スバルは思わず虚勢を張る。しかし、ラムの視線はどこまでも冷ややかだった。
そこに、衣服を完全に脱ぎ去り、一糸纏わぬ全裸となったアナスタシア(襟ドナ)が、静かに歩み寄ってくる。
「まぁまぁ、ラムさん。焼き切るのはここを抜けてからにしよ。ナツキくん、虚勢を貼るのも大概にしとき。どんなにちっちゃくてもうちは笑わへんよ」
その声はアナスタシアのものだが、中身は怜悧な人工精霊だ。彼女はスバルの全裸の身体を見据え、淡々と促す。
「はよ脱ごか。うちら女の子だけに恥をかかせるのは、紳士やない」
「バルス、見損なったわ」
ラムも気づけば一糸纏わぬ姿となっていた。
二人の女性の、圧倒的な生存への意志。
スバルは己の胸に手を当て、自嘲気味に笑った。そうだ、かっこつけている場合じゃない。ここで死ねば、エミリアを救うことも、レムを目覚めさせることも、全てが水泡に帰すのだ。
何より、スバルのせいで、2人の少女が全てをさらけ出しているのだ。
それこそ、ここで怖気付いては、裸一貫で異世界転移してきた、無知蒙昧にして天下不滅の無一文、ナツキ・スバルの名折れだ。
「……あぁ、クソ。分かったよ、分かった。やりゃあいいんだろ、やりゃあ!」
スバルは覚悟を決め、自らの衣服を乱暴に剥ぎ取った。
暗闇の中、完全に裸となった三人の人間が、濃厚な瘴気の立ち込める通路の中心で対峙する。
「キュルルゥ……」
周囲の暗闇から、パトラッシュが低く、切なげな鳴き声をあげた。
それは、主人の苦渋の決断を責めるものではなかった。むしろ、瘴気によって狂いかけている己を、そして主人を、この最悪の儀式が終わるまで周囲の脅威から守り抜くという、地竜としての忠義の咆哮だった。
冷たい地下の地面に、三人の肉体が重なり合う。
スバルの肌に触れる、ラムの硬質な、しかし確かに女性である柔らかな質感。そしてアナスタシアの、小さくも滑らかな肌の熱。
本来であれば、男として理性を狂わせるに十分すぎるシチュエーションだが、スバルの脳内を占めていたのは、甘やかな快楽などでは断じてなかった。
(これは作業だ。ただの作業だ。生き残るための、泥臭い、最低最悪の作業だ……!)
スバルは必死に目を閉じ、心の焦点を無へと合わせた。ここで僅かでも快楽に溺れれば、それはただの醜悪な密通に成り下がる。
エミリアの笑顔を、レムの温もりを、必死に脳裏に焼き付け、己の欲望を完全に殺害する。
ラムもまた、その心を主であるロズワールに捧げたまま、実利主義的な冷徹さでスバルの肉体を受け入れた。その瞳には、感情の機微など一切存在しない。
アナスタシアの肉体を操る襟ドナも、人工精霊としての計算高い目で、スバルのオド(精)の流入をじっと待っている。
暗闇の中に響くのは、瘴気による荒い呼吸と、肉体がぶつかり合う鈍い音。そして、極限状態のストレスがもたらす、乾いた喘ぎだけ。
「く、あ……ッ、あがぁッ!」
スバルは、己の
そして───────限界を迎えた歪んだオドを、スバルはラムの奥へと、文字通り「吐き出す」ように放った。
こうして、スバルにとって、そして、驚くべきことにラムにとっても、初めての行為を終えたのもつかの間、スバルは童貞喪失の余韻に浸るとなく、間髪入れず、アナスタシアの身体にも、その生命の雛形たる精(オドの塊)を注ぎ込んだ。
さらに、スバルは手を伸ばし、瘴気の影響で今にも暴れ出しそうになっていたパトラッシュの首筋に触れ……
「パトラッシュ……お前も、受け取れ……ッ!」
───────人間の倫理を遥かに超えた、生存への執念。スバルは自身の精を愛竜の胎へと分け与える。それは、種族を超えた生物としての原始的なオドの分配であった。
その瞬間、スバルの脳内を埋め尽くしていた赤黒い狂気の霧が、嘘のように、劇的に引いていった。
「……ふぅ、本当に最悪最低の味ね、バルス。おぞましすぎて反吐が出るわ」
最初に声をあげたのは、ラムだった。
彼女は衣服を素早く拾い上げ、一切の無駄のない動作で身に纏いながら、いつもの冷徹な表情に戻っていた。その瞳からは、先ほどまでの瘴気による濁りは完全に消え去っている。
「これで瘴気によるオドの汚染は一旦解除されたようやね。……はよ衣服を着よ。ここにおったら、また瘴気が溜まるわ」
アナスタシア(襟ドナ)もまた、冷静に自身のオドが正常化したことを確認し、素早く服を着直していく。
スバルもまた、劇的にクリアになった脳で、即座に状況を把握した。
『死に戻り』のセーブポイントが最悪な場所だったとしても、オドの正常化により、発狂までの猶予時間は「数分」から「数十分」へと大幅に延長されたのだ。今なら、完全に正気を保ったまま行動できる。
「二人とも、服は着たな! パトラッシュ、いけるか!?」
「キュルルゥッ!」
スバルの精(オド)を分け与えられたパトラッシュが、力強い咆哮をあげて立ち上がった。その瞳には、主人への絶対の信頼と、確固たる理性がみなぎっている。
「行くわよ、バルス。この効果が切れる前に、分岐点まで引き返すわ。ラムが風刃で道を切り開くから、あんたはその地竜を御しなさい」
「応よ……ッ! 戻るぞ、あの分岐点まで全力逆走だ!!」
正気に戻った一同の連携は、完璧だった。
パトラッシュの爆発的な脚力が地下の硬い地面を蹴り、猛スピードで通路を逆走し始める。前方から迫り来る濃密な瘴気の塊に対し、ラムが放つ無数の風刃がそれを強引に切り裂き、道を切り開く。
さらに、襟ドナがマナの乱れを的確に感知し、「右、3歩寄って!」「次、頭上注意!」と的確なナビゲーションを行う。
かつては、進んでも戻っても相打ちと発狂のデスゲームだった魔の通路。
それを、彼らは圧倒的な速度と完璧な呼吸で、文字通り蹂躙するように突き進んでいった。
暗闇を駆け抜け、背後から追いすがる瘴気の腕を振り切り───────ついに一行は、空気が僅かに澄んだ、あの「分岐点」へと飛び出すことに成功した。
「はぁ、はぁ、はぁ……ッ!」
パトラッシュの背から転がり落ちるようにして、スバルは地面に膝をついた。激しく呼吸を繰り返し、生き延びた実感を噛み締める。ラムもアナスタシアも、一様に荒い息を吐きながら、元来た通路を見つめていた。
命からがら、窮地を脱した。
詰みセーブを、文字通り人間の枠を超えた方法で突破したのだ。
しかし───────安全な場所に辿り着いた一同の間に、奇妙な沈黙が流れた。
衣服は完全に整えられ、先ほどまでの全裸の姿など、どこにも残っていない。
だが、スバルとラム、そしてアナスタシアの間には、エミリアたちには絶対に明かせない、昏く、重く、そして決して消えることのない【共犯者】としての濃厚な空気が漂っていた。
互いに目を合わせることを避け、強烈な気まずさを押し殺しながら、スバルは静かに立ち上がる。
生存のための「作業」が残した、魂の傷痕。
それは、これからの過酷な砂丘攻略の旅に、決して消えない昏い影を落とすのだった……
続く……