# 本文:既婚者に聞く、結婚後の生存戦略
「ボルス、少し聞きたいことがある」
休憩室に入ると、ボルスは茶器を並べているところだった。
大柄な体に、例の不気味なマスク。知らない者が見れば、まず一歩引く。だが手つきは驚くほど丁寧で、湯気の立つ茶をこぼさないよう、慎重に器へ注いでいた。
向かいの席では、ランが資料に目を落としている。
「えっ、私にですか?」
ボルスがこちらを見る。声はいつも通り控えめだった。
「ああ。既婚者としての意見が聞きたい」
茶器の音が止まった。
「既婚者として、ですか?」
ランが資料から顔を上げる。
その目が、少しだけ興味を帯びた。
「それは興味深いですね」
「ラン。その顔はやめろ。観察対象を見る目だ」
「否定はしません」
「否定してくれ」
椅子に座ると、ボルスがそっと茶を置いてくれた。胃に優しそうな香りがする。ありがたい。最近は茶の種類だけで、自分の体調を心配されている気がする。
「それで、結婚について……ということでしょうか?」
「そうだ」
「おめでとうございます!」
「まだ何も決まっていない!」
ボルスが慌てて頭を下げる。
ランは涼しい顔で頷いた。
「ですが、候補は多い」
「候補と言うな。包囲網だ」
「言い換えても状況は変わりません」
「正論で刺すな」
ボルスは困ったように茶を追加した。
「け、結婚生活で大切なのは、相手を思いやることだと思います。疲れている時ほど、きちんと話を聞くこと。無理を隠さないこと。それから……帰る場所を大切にすること、でしょうか」
「帰る場所か」
「はい。私も、妻と娘が待っていてくれるから、戻ろうと思えます。任務で何を背負っていても、あの場所だけは……私にとって、大切なんです」
その言葉は、思ったより静かに胸へ入ってきた。
ボルスの声には、飾りがない。過去を忘れたわけではない。それでも守りたい場所がある。そういう響きだった。
「良い話だな」
「ありがとうございます」
「殿下の場合、帰る場所が複数発生する可能性があります」
「ラン」
「はい」
「せっかくの良い話を、現実で殴るな」
ランは紙を一枚取り出した。
「皇族の婚姻となれば、個人の感情だけでは済みません。席順、警備、派閥、式典後の権力バランス。どれも火種になります」
「結婚式に火種という言葉を使いたくない」
「使いたくなくても、発生します」
「発生するな」
「例えば、誰を上座に置くか」
胃が、きゅっと鳴った気がした。
「やめろ。見える」
百通りの未来が勝手に開く。
白い式場。並ぶ席。静かすぎる視線。料理の量で張り合う影。警護名目で作られる検問所。余興のはずが訓練になる光景。空から危険種で現れる誰か。
目を開けた。
「……結婚式で戦争が起きそうで怖い」
ボルスの手が止まる。
「せ、戦争ですか?」
「百通り中、七十六通りで戦争。残り二十四通りは冷戦だった」
ランが真顔で頷く。
「戦争よりはましですね」
「結婚式の評価として最低だ」
「では、事前に式典管理計画を作りましょう」
「作るな」
「逃走経路も必要です」
「少し欲しい」
「殿下……」
ボルスの声が、心配で湿った。
そんな目で見るな。俺も自分で情けないと思っている。
ランは筆を取り、さらさらと紙に書き始める。
「第一次婚礼安定化計画」
「戦争前夜みたいな名前にするな」
「分かりやすさは重要です」
「柔らかくしろ。結婚式なんだから」
ボルスがおずおずと手を挙げる。
「幸せな結婚式作戦、などは……」
「採用」
「柔らかすぎます」
「柔らかくていいんだ!」
ランは少し考え、紙の端に小さく追記した。
「副題として採用します」
「主題を変えろ!」
ボルスが新しい茶を淹れてくれる。
湯気が、疲れた目にやけに優しい。
「殿下なら、きっと何とかできますよ」
「ボルス」
「はい」
「今の言葉だけが救いだ」
「では、想定される火種を百項目ほど洗い出します」
「救いが消えた」
ランの筆は止まらない。
ボルスは静かに茶菓子を添える。
俺は胃を押さえながら、深く息を吐いた。
「俺は既婚者の話を聞きに来ただけだったはずなんだが」
「その結果、必要な課題が見えました」
「帝国改革より、婚礼改革の方が怖い」
休憩室の外で、誰かの足音が止まった気がした。
机の上には、ランの書いた紙。
**第一次婚礼安定化計画
副題:幸せな結婚式作戦**
嫌な予感がする。
百通り見なくても分かった。
この紙は、絶対に外へ出してはいけない。