「緊急任務……じゃないんだよな?」
タツミが扉を閉めながら、妙に低い声で聞いた。
帝都城内の小会議室。壁には警備図、机には暗部任務の報告書。大臣が失脚してから、ナイトレイドは表に出ない刃として扱われている。
本来なら、血の匂いがする話をする場所だ。
だが今日、俺の前に置かれているのは胃薬の小瓶だった。
「ある意味では緊急だ」
「暗殺か? 潜入か? まさか貴族の残党が暴れたとか?」
ラバックが椅子を引きながら身を乗り出す。隣ではブラートが腕を組み、面白そうに笑っていた。
俺は深く息を吐いた。
「女性陣からの避難だ」
空気が止まった。
タツミの目が丸くなる。ブラートの口元が持ち上がる。ラバックだけは、世界の裏切りを見た顔になった。
「ハハハ! 色恋沙汰か。若いな!」
「笑うな、ブラート。俺はかなり真剣だ」
「女に追われて疲れたって話を、男三人に聞かせる気かよ」
ラバックの声が震えていた。怒りか、嫉妬か。たぶん両方だ。
タツミは俺の顔を見て、すぐ表情を変えた。目の下、乱れた髪、半分減った胃薬。冗談で済ませるには、少し材料が揃いすぎていたらしい。
「……本当にきつそうだな」
「分かってくれるか、タツミ」
「いや、最初はちょっと羨ましいと思ったけど」
「正直でよろしい」
俺は小瓶を指で転がした。机の上で、軽い音が二度鳴る。
「まず朝食が増えた」
「朝食?」
「最初は弁当だった。次の日は二段。その次は討伐任務前の兵士用になった」
ブラートが腹の底から笑う。
「よく食うのはいいことだ!」
「俺は危険種ではない」
「心配されてるだけじゃねえか」
ラバックが吐き捨てるように言う。目は笑っていない。
「断る未来を見た。八十六通りで、無言のまま追加された。残り十四通りは、俺が罪悪感に負けて完食した」
「それはあんたが弱い」
タツミの言葉が刺さった。正論は刃より痛い。
「次に距離が近い。肩を組む。背中を叩く。酒に誘う。逃げ道に、先にいる」
「……誰か分かる気がする」
タツミが苦笑した。
「未来の一つでは窓枠が壊れた」
「比喩だよな?」
「たぶん」
ラバックが頭を抱える。ブラートはまだ笑っている。頼もしいが、少し腹が立つ。
「さらに厄介なのが、こちらの逃げ癖を見抜く相手だ。隠した疲労を当てる。言われたくないことだけを正確に言う。花瓶だと思って愚痴を言ったら、中身が本人だった」
「怖っ」
「花瓶に愚痴る方もどうなんだ……」
タツミの視線が痛い。
「そして警護だ。名前は警護だが、内容は検問だった。接近者の身元確認、目的確認、危険性確認、正義適性確認」
ブラートの眉が動いた。
「最後が独特だな!」
「止めた。小規模なら、と言われた。さらに止めた」
「善意で包囲してくるタイプか」
ラバックが急に真顔になる。嫉妬で濁っていた目に、妙な光が戻った。
「それから、場を爆発させる相手がいる。何もしない顔で火薬庫に火を近づける。困った顔をすると、少し嬉しそうにする」
「皇子さん、それもう戦場じゃねえか」
「最後が一番ひどい」
小瓶の蓋を開けかけて、やめた。飲めば負けた気がした。
「弱いが退屈ではない、らしい」
ブラートの笑いが少し収まる。
「エスデスか」
「恋愛というより災害だ。拒否すると、勝手についてくる未来が九十九通り。残り一つは首根っこを掴まれて運ばれた」
「逃げ道ねえじゃねえか」
「だから愚痴っている」
ラバックの頬が引きつった。次の瞬間、目元から赤いものが一筋落ちた。
「俺なら……一つでいい」
「ラバック、目から血が出てるぞ」
「これは血じゃねえ。男の夢が破れた跡だ」
「医学的には血だ」
「うるせえ!」
机を叩いたラバックは、そのまま身を乗り出した。
「いいか、皇子さん。お前はもう包囲されてる。飯、休憩、逃げ道、警備線、混乱要因、外周の災害。しかも反撃禁止。相手を傷つけられないからな」
否定できなかった。
ブラートが肩を叩く。重い手だった。
「逃げるだけでは勝てんぞ」
「勝ちたいわけじゃない。生き延びたい」
「なら、腹を括る時も必要だ」
聞きたくない正論が、今日も増えた。
その時、背中に冷たいものが走った。
目を閉じる。百通りの未来が開く。扉の外の気配。廊下の影。窓の向こうの揺れ。天井の微かな音。
顔から血の気が引いた。
「まずい」
タツミが剣に手をかける。
「何が見えた?」
「百通り中、九十八通りでこの部屋が見つかる」
ラバックが立ち上がった。
「残り二つは?」
「一つは、お前が天井に吊るされる」
「何で俺だけ具体的なんだよ!」
「もう一つは、今すぐ全員で逃げる」
ブラートが笑った。
「なら決まりだ!」
ラバックの糸が窓へ走る。タツミが俺の腕を掴み、ブラートが扉側に立つ。廊下の向こうで足音が止まった。
「走れ」
「女の子から逃げるのに生存率とか言うなよ!」
「言ってない。まだな」
四人で窓から飛び出す。風が顔を叩き、帝都の朝が一気に遠ざかった。背後の会議室には、飲みかけの茶と、置き忘れた胃薬だけが残る。
城壁の外を走りながら、タツミが叫んだ。
「これ、本当に必要だったのか!?」
「必要だった。少なくとも俺の胃には」
「くそっ、羨ましいのに全然羨ましくねえ!」
ラバックの悲鳴に、ブラートの笑い声が重なる。
「ハハハ! 男同士の撤退戦も悪くない!」
「悪い。かなり悪い」
背後から、誰かの足音が聞こえた気がした。
俺たちは、そろって速度を上げた。
帝国改革より難しい戦いが、今日も始まっている。