俺は執務室に戻らなかった。
戻れば机の上に胃薬が置かれている。
その胃薬の横には、誰が置いたのか分からない朝食と、誰が書いたのか分からない警護計画と、誰が見ていたのか分からない短い手紙が並んでいる未来が見えた。
百通り中、七十二通りでそうなった。
残り二十八通りは、もっと悪かった。
「……というわけで、資料室だ」
城の奥にある古い資料室は、湿った紙と埃の匂いがする。大臣が失脚してから、誰も近づかなくなった場所だ。棚には古い税制記録、地方官の報告書、過去の粛清命令が並んでいる。帝国の悪癖を煮詰めて紙に染み込ませたような部屋だった。
だが、少なくとも静かだ。
俺は奥の机に腰を下ろし、持ち込んだ書類を広げた。
隠れるために来たのに仕事をしているあたり、我ながら救いがない。
羽ペンを取ろうとした時、机の端に湯気の立つ茶が置かれた。
「……」
置いた覚えはない。
扉は閉まっている。窓もない。
俺は目を閉じる。百通りの未来が開く前に、棚の陰から軽い声がした。
「今さら驚くの?」
本棚の隙間から、地味な侍女服の少女が出てくる。
次の瞬間、姿がほどけるように変わった。
チェルシーが、棒つきの飴を片手に立っていた。
「君は、せめて入室の気配くらい残してくれ」
「残したわよ。あなたが気づかなかっただけ」
「それは残していないのと同じだ」
チェルシーは笑わず、俺の机をのぞき込んだ。
広げた書類の順番を一目で見て、黙って二枚を入れ替える。
「そっちが先。地方官の罷免案は、軍の再配置と一緒に見ないと穴が出る」
「……助かる」
「素直ね。昨日、男だけで逃げ回った人とは思えない」
羽ペンの先が止まった。
「誰から聞いた」
「胃薬」
「胃薬は喋らない」
「置き忘れた場所が喋るのよ。会議室。窓の傷。ラバックの糸の跡。あと、あなたの字で書かれた『避難』の二文字」
「消したはずだ」
「消し方が下手」
チェルシーは飴を口に入れ、棚にもたれた。
からかう声なのに、目は机の上を見ている。散らばった書類、減ったインク、俺の指先。何も言わずとも、こちらの疲れを拾っていく。
そういうところが厄介だった。
エスデスの観察は氷の刃に似ている。正面から肌に触れ、逃げ場を削る。
チェルシーのそれは針だ。服の縫い目から入ってきて、気づいた時には奥まで届いている。
「逃げ場所を探すのはいいけど」
チェルシーは机の上に、小さな包みを置いた。
中には、焼き菓子が二つ。甘い匂いが、古い紙の湿り気を少しだけ押し退ける。
「逃げた先で倒れたら、意味ないでしょ」
「……君も追加で食わせる側か」
「違うわ。これは二つだけ。人間用」
「その分類はありがたい」
思わず口元が緩む。
チェルシーはそれを見て、ほんの少し目を細めた。
「そういう顔、他の人の前でもすればいいのに」
「すれば包囲が強くなる」
「しなくても強くなってるわ」
「救いがない」
「あるわよ」
チェルシーは扉へ向かう。
鍵はかかっていたはずなのに、彼女の手が触れると音もなく開いた。
「今日の昼までは、ここを誰にも言わない」
「昼まで?」
「午後は知らない。私も暇じゃないし」
「味方なのか敵なのか、はっきりしてくれ」
扉の向こうで、チェルシーが振り返る。
飴の棒が、唇の端で小さく揺れた。
「どっちでもないわ」
少し間が空く。
「あなたが潰れたら、つまらないだけ」
扉が閉まる。
足音はすぐに消えた。
俺は机の上の焼き菓子を見下ろした。
包み紙の端に、小さく文字がある。
午後は、別の場所に逃げなさい。
俺は天井を仰いだ。
「……本当に、逃げ道を塞ぐのが上手い」
茶は、まだ温かかった。
「楽にしてあげようか」
甘く囁く声。普段の茶化すような響きは薄れ、耳元に吐息がかかるだけで背筋が震えた。
俺が返事をするより早く、チェルシーの手が俺のズボンの上から股間に触れた。
「……予想以上に硬くなってる」
くすくす笑いながら、その掌で形をなぞる。
布越しでも伝わる熱と圧力。彼女の指先は、針で急所を狙う時と同じほど正確に、俺の弱みを捉えていた。
「チェルシー……」
「ん? なに? 『やめて』とか言っちゃう?」
言えるわけがない。
俺の視線が答えだったのか、彼女は満足げに目を細めた。
「素直でよろしい」
チャックが下ろされる音が、静かな資料室にやけに大きく響いた。
下着の中に手が滑り込み、熱い肉茎を直接握り込む。
「っ……!」
「冷たい? それとも気持ちいい?」
指先が亀頭の溝をなぞり、裏筋を上下する。
暗殺者として鍛えた指の動きは、残酷なほど心地よかった。彼女は俺の反応を楽しむように、先端を親指の腹で擦り、溢れた先走りを塗り広げる。
「はぁ……っ」
「顔に出すぎ。こんなことされてるのに、必死に耐えようとするところが……いじらしいね」
手首を返し、竿をしごき上げる。
ねっとりとした水音が立ち込め、理性的な思考を溶かしていく。
俺は椅子の背もたれに頭を預け、荒い息を吐いた。
彼女の手が止まる。
「……ここまで?」
目を開けると、チェルシーが俺を見下ろしていた。
頬は薄っすらと紅潮し、普段の余裕とは違う熱がその瞳に宿っている。
彼女自身も、ただの奉仕では済まない熱を持っているようだった。
「……足りない」
俺は彼女の手首を掴み、引き寄せた。
バランスを崩したチェルシーが、俺の膝の上に倒れ込む。
スカートの生地が捲れ上がり、太股の柔らかな感触が直接伝わってくる。
「急がないでよ。……でも、まあいいか」
彼女は俺の首に腕を回し、唇を重ねてきた。
飴の甘い味がする。舌を絡め合い、互いの口腔を貪る。
その間にも、俺の手は彼女のブラウスのボタンを外し、下着ごと胸を露わにした。
「んっ……」
控えめだが形の良い乳房を掌で包み込み、乳首を指で弾く。
チェルシーの口から甘い喘ぎが漏れ、俺の首に回した腕に力がこもる。
「入るよ」
俺は彼女の下着を横にずらし、濡れそぼった秘所に屹立した先端を押し当てた。
彼女は小さく頷く。
「来て」
腰を引き寄せると、ずぶりと肉が沈んでいく。
「あぁっ……!」
きつい。狭い通路が俺を飲み込み、締め付ける。
だが、拒絶の痛みではない。歓喜の証のような熱と湿り気だ。
「くっ……すごい締まりだ」
「言わないでよ……恥ずかしい……」
だが、彼女の腰は自ら動き始めた。
椅子の上で体を上下させ、俺自身を奥深くまで飲み込んでいく。
対面の体勢。互いの顔が近く、表情の変化まで鮮明に見えてしまう。
「はぁっ、あぁっ……! んっ……!」
チェルシーの声がだんだん高くなる。
目尻に涙が滲み、軽口を叩く余裕はもうないようだった。
彼女の内部が蠕動し、俺を搾り取ろうとする。
「チェルシー……」
「んっ……あぅっ……! もっと……奥…っ!」
俺は彼女の腰を抱え、下から激しく突き上げた。
パンッ、パンッ、と肉がぶつかる音が響く。
彼女の細い体が跳ねるたび、赤茶けた髪が揺れる。
汗ばんだ肌が擦れ合い、体温が混ざり合う。
「私……っ、イく……っ!」
「俺も……!」
最奥を何度も打ち据え、互いに絶頂へと駆け上がる。
体が硬直し、体内が痙攣した瞬間、俺は彼女の子宫に向けて欲望を迸らせた。
「あぁぁっ……!!」
ドクドクと注がれる熱。
長い絶頂の後、俺たちは崩れ落ちるように抱き合った。
荒い息遣いだけが、空気を震わせていた。
「……はぁ、はぁ……」
チェルシーが俺の胸に顔を埋めたまま、ぽつりと呟く。
「……午後も、ここにいようかな」
その声は、いつもの軽口ではなく、少しだけ甘えているように聞こえた。
俺は彼女の髪を撫でながら、天井の染みを見上げた。