目が覚めた時、そこは極彩色の地獄から一転して、清廉潔白な白亜の牢獄だった。
窓から差し込む陽光が、埃を舞わせる保健室の空気。鼻腔をくすぐるのは、消毒液の匂いと、どこかから漂ってくる百合の芳香。俺はかつて、欲望の赴くままにカネを稼ぎ、女を漁り、裏社会と表社会の境界線で好き放題に生きていた。それがどういうわけか、死の淵で目を覚ますと、俺は「佐藤 零(さとう れい)」という名の新任保健医として、この『マリア様がみてる』の世界に放り込まれていた。
脳内には、いわゆる転生特典として格闘術、医学知識、経済戦略、そして絶品の料理技術が完璧にインストールされている。まさにチートだ。さらにスマホには、この世界の理を歪めるための遺品――『万能催眠アプリ:イリュージョン・マスター』が入っていた。
感度調整、認識変更、幻覚……。このアプリがあれば、この学園に君臨する高嶺の花たちを、俺の所有物にするのは造作もないことだ。原作知識など不要。俺がこの学園の新しいルールになり、この退屈な聖域を俺だけのハーレムへと作り変えてやる。
まずは、学園の最高位。薔薇の館に君臨する「紅薔薇のつぼみ」、小笠原祥子だ。
リリアン女学園の保健室に、その高貴なる影は現れた。
長い黒髪を揺らし、非の打ち所のない美貌と気品を纏った、全生徒の憧れ。だが、その瞳には凍てつくような冷たさが宿っていた。彼女は極度の男嫌いであり、家庭環境が原因で男性という存在を「汚らわしい獣」としてしか見ていない。
「……失礼いたします。佐藤先生」
低く、しかし凛とした声。俺は白衣を羽織り、デスクの背もたれに深く寄りかかって彼女を値踏みした。噂通り、絵に描いたようなお姫様だ。だが、その鎧は極めて脆い。男性恐怖症という、彼女にとっての最大の弱点。それを知れば、崩すのは簡単だ。
「どうした、紅薔薇のつぼみ。気分でも悪いのか?」
俺は優しく、しかしどこか悪戯っぽい笑みを浮かべて尋ねた。彼女は保健室の空気に馴染めないのか、極度に緊張した面持ちで、俺から視線を逸らしている。この徹底的な「男嫌い」の仕草、かえって燃えるな。
「……いえ。少し、目眩がしただけです。すぐに戻ります」
「待てよ。……仕事柄、お嬢様の顔色くらいはわかる。無理をするな」
俺は立ち上がり、彼女に近づいた。彼女がわずかに後ずさりするのを、計算された立ち位置で阻む。至近距離。彼女の鼻先を掠めるように、高級な石鹸の香りが漂う。俺は密かにスマホで『認識変更』を適用した。
『この男は、自分を害さない無害な存在である』
アプリを実行した瞬間、彼女の瞳から殺気のような緊張感が少しずつ剥がれ落ちていく。俺は彼女の肩にそっと手を置いた。本来なら彼女が最も嫌うはずの身体接触。しかし、俺の手から伝わる「優しさ」の演技を、アプリが彼女の脳内で「安心感」へと変換する。
「っ……」
祥子は目を見開いた。彼女の表情が、驚愕と混乱で揺らぐ。今まで男という男を、父親や祖父という名の「汚らわしい獣」としてしか見てこなかった彼女にとって、俺の「不純な意図を感じさせない手つき」は、未知の体験だったはずだ。
「一人で背負い込むな。俺はただの保健医だ。……君の、隠された苦しみを少しだけ、聞かせてくれないか?」
俺の言葉は、完璧な調律で奏でられた甘い罠だ。彼女の硬い表情が、初めて崩れた。
「……あなたは、他の方と少し違うのですね」
その一言で確信した。チョロい。彼女の内面はただの傷ついた少女だ。男の情欲と、計算された優しさのサンドイッチ。これに耐えられる女は、そう多くない。俺は彼女の顎を指先で軽く持ち上げ、真っ直ぐにその瞳を見つめた。
その日以来、俺は祥子の「隠れ家」としての保健室の役割を確固たるものにしていった。
彼女は薔薇の館での激務、あるいは婚約者との冷え切った関係に疲弊しては、保健室を訪れるようになった。俺はあえて、深い踏み込みはせず、ただ穏やかな音楽を流し、自家製のハーブティーを振る舞った。
「……美味しいですわね。こんな味、初めてかもしれません」
祥子が、ふと顔をほころばせた。俺の料理技術が生み出す、安らぎの味。彼女にとって、俺の淹れるティーは、小笠原家にはない「ぬくもり」の象徴だった。
「僕にとって、君はただの紅薔薇のつぼみじゃない。一人の、少しだけ頑張りすぎている女の子だよ」
俺は囁く。彼女は赤面し、視線を落とした。彼女のプライドが高い分、こうして「弱さを認めさせる」行為は劇薬になる。
ある日のこと。祥子が珍しく激しい動揺を見せた。婚約者である柏木優に関する噂が、学園を駆け巡った直後だった。彼女は泣くのをこらえ、震える手で机を掴んでいる。
「……あの方も、わたくしのことなど、何も分かってくださらない。家、名誉、義務……わたくしは、ただの飾りですの?」
俺は彼女の背中を、そっと抱き寄せるのではなく、ただ隣に座って肩を並べた。今、抱きしめるのは早すぎる。彼女が自分から俺を求めるように仕向けなければならない。
「祥子さん。君は飾りの薔薇じゃない。誰よりも美しく、誰よりも意志の強い、一人の人間だ」
俺の言葉に、彼女の目から一筋の涙が零れ落ちた。彼女は初めて、俺の肩に頭を預けた。それは、男性恐怖症の彼女が、歴史上初めて「男」に心を開いた瞬間だった。
「……先生。わたくし、先生がいてくださって……本当によかった」
彼女の細い指が、俺の白衣の袖を掴む。それは拒絶ではなく、縋るような懇願だった。
俺は彼女の髪を慈しむように撫でた。これでいい。まずは「信頼」という名の鎖で、彼女を俺に繋ぎ止める。
外はもう、すっかり夜になっていた。
学園の静寂の中で、二人の呼吸が重なる。それは、幸福な愛の語らいなどではなく、一人の女が破滅へと堕ちていく、静かなるカウントダウンだった。
彼女の瞳に、俺以外の存在が映らなくなるまで、あと少し。
薔薇の館の女王は、俺の温もりに毒され、誰にも解けない依存の淵へと着実に歩みを進めている。焦る必要はない。この聖女が完全に俺のモノになる時を、じっくりと味わわせてもらうとしようか。