――カビ臭い空気が漂う、街外れの潰れた廃ホテル。
薄汚れたキングサイズのベッドの上で、一人の可憐な少女が震えていた。
透き通るような白い肌に、華やかな黒髪のツインテール。
身に纏った豪奢なゴスロリドレスは、暴力的な力によって無惨にはだけさせられ、その内側に秘められた豊満で未成熟な果実を惜しげもなく晒している。
「ひ、ひぁ……っ、や、やめて……っ」
恐怖と羞恥に涙を浮かべ、ベッドの上で後ずさる少女。
だが、その逃げ道を塞ぐように、一人の男が覆い被さってきた。
派手に染めた髪と、両耳でジャラジャラと揺れる牙のピアス。いかにも夜の街を遊び歩いていそうな、ガラの悪いチャラい外見の男だった。
「うぇーい、オタク君見てるぅ?」
チャラ男は、ベッドの足元に備え付けられたビデオカメラに向かって、片手で下品なラブサインを作りながら、下卑た笑顔を向けた。
「今からこの子、俺がドロドロにぶち犯しちゃうからさぁ。てめぇはこのビデオでも見て、指くわえてシコっててヨ。ギャハハハッ!」
カメラ越しの『誰か』への悪辣な挑発。
それを見届けたチャラ男は、下劣な舌なめずりをしながら再び少女へと向き直る。
そして、抵抗する少女の胸ぐらを乱暴に掴み、残っていたドレスの胸元を一息に引き裂いた。
「ぅああっ!? や、乱暴に、しないでっ……!」
「おいおいぃ、これは撮影だぜぇ? 激しくしてなんぼだろうよぉ」
露わになった豊満な胸元。それを必死に両手で隠そうとする少女だったが、チャラ男の強い力にあっけなく振り払われてしまう。
無防備になった柔らかな双丘を、男の無骨な手が容赦なく、生々しい音を立てて乱暴に揉みしだいた。
「ぅあ、はぁ……っん! あっ、だめぇっ……!」
少女の口から、苦痛と、それ以上に『感じてしまっている』甘い嬌声が漏れる。
涙を浮かべた少女の頬をねっとりと嘗め回しながら、チャラ男は獣のような荒い声色で耳元に囁いた。
「本当に、顔は良いよなぁお前……っひひっ。オタク君にはもったいねぇ極上の身体だぜぇ」
「ひあぁぁっ、そこ、駄目……で、んぁっ!」
チャラ男は少女の上に完全に跨り、逃げられないようにその細い両足を自身の太ももで押さえつけた。
そして、自らも服を脱ぎ捨てようと胸元を大きく開ける。
このままでは、愛する人を遠くに想う可憐な少女が、下劣な男に無惨に蹂躙され、身も心もドロドロの肉便器へと堕とされてしまう。
誰もが絶望する、完璧な胸糞悪いNTR(寝取られ)の悲劇が完成しようとしていた。
――しかし。
この部屋において、悲劇はさらに『上塗り』される運命にあった。
「……んあ?」
突如として、廃ホテルの部屋の空気が、一瞬にして冷凍庫のように冷え切った。
カビ臭かった空気が、泥水が腐ったような悍ましい死臭へと変わり、怨念のような『エラーコード』のノイズが、周囲の壁や天井から薄っすらと響き始める。
だが、少女の柔肌を貪ることに夢中になっているチャラ男は、背後の異変に全く気づいていない。
『 > STATUS: 恐怖症テクスチャ『NTRニヨル脳破壊』ニ抵触シマシタ 』
『 > EXECUTING: 殺害、及ビ捕食優先度ヲ『男性個体』ニ設定 』
『 > 殺害後、女性体ヘノ受胎加工プロセスヲ開始シマス…… 』
それは、世の『寝取られ』という悲劇のシチュエーションに対する、人々の根源的な恐怖と憎しみをテクスチャとして顕現した『外なる霊』だった。
藻掻く少女を覆い隠すように愛撫するチャラ男の背後。空間が黒く歪み、そこから無数の粘着質な触手の塊が音もなく湧き出した。
獲物は、己の欲望に忠実な愚かな男と、抵抗する力を持たない雌。
外なる霊は、まずは男の首を捻り殺そうと、鋭く尖った一本の細い触手を、チャラ男の無防備な後頭部へと音もなく迫らせた。
その、触手の先端が男の肌に触れるか触れないかという、まさにその刹那だった。
「ひぁっ……んんっ……」
怯え、乱暴な愛撫に甘く喘いでいた少女の悲鳴が。
突如として、ピタリと止んだ。
「……ん?」
ぬ、と。
チャラ男に押し倒されていたはずの少女の腕が、不自然な軌道で持ち上がった。
その華奢な手には、ゴスロリドレスにはおよそ似つかわしくない、無骨で巨大な大口径の『重厚な拳銃』が握り込まれていた。
銃口は、チャラ男の肩越しに真っ直ぐ伸び、背後から迫っていた触手の根本にピタリと狙いを定めている。
「んっふ、楽しんでるのに、無粋でござるよ?」
少女の唇から紡がれたのは、怯えた可憐な声ではなく。
酷く落ち着き払った、どこかネットスラングめいた奇妙な口調だった。
ズドォォォォォンッ!!
大口径の銀弾が発射された轟音が、狭い廃ホテルを物理的に激しく揺るがした。
『ぎいぃぃぃ―――!!?』
触手の根本を正確にブチ抜かれた外なる霊が、システムエラーのノイズを撒き散らしながら、苦悶に身をよじって壁際へと退避する。
「あー、クソッ!」
チャラ男は少女の上から退き、キ―――ンと激しく耳鳴りがする両耳を塞ぎながら、盛大に顔を顰めた。
「み、耳がぶっ壊れるからさぁ! もうちょっと早く知らせるとかにしてくんねぇかなぁ!?」
さっきまでの下劣なレイプ魔の演技はどこへやら、チャラ男は心底嫌そうに文句を垂れる。
そんな男を尻目に、ベッドの上に起き上がったゴスロリ少女は、先程までの涙目とは打って変わった余裕の表情で、砲身から煙を吹く愛銃にチュッ、と口づけをした。
彼女のお尻からシーツを持ち上げながら、狸の尻尾がひらひらよ揺れる
「むほほほ。拙者、エイムはガバガバゆえ、近い方が助かるでござるよ」
パチリ、と男に向かってあざとくウィンクをする美少女。
「それに、雄々しく拙者を揉みしだく雷太殿も……なかなか見応えがあって、素敵でござったよ? ふひひっ」
「うっせぇ!! つーか普通に揉んでてすんませんでしたね!」
からかうような少女のオタク口調に、チャラ男は本気で嫌そうな顔をして舌打ちをした。
「ったく、こんな『NTRの現場』なんて限定的な出現条件の変態霊、とっとと祓うぞ! ぁーあ、お前の元の姿がああで無けりゃあ、俺だって喜んで抱いてやんのによぉ、オタク君!」
「きゃっ、拙者より強くなってから言うでござるぅ☆」
嬉しそうに、ベッドの上でポンと弾むように立ち上がるゴスロリ少女。
チャラ男――矢落 雷太(やおち らいた)は、ため息をつきながら、両耳で揺れていた牙のようなピアスに手をかけた。手慣れた手つきでそれを外すと、両手にしっかりと握り込む。
それは単なるアクセサリーではない。退魔師が振るう『咒具』だ。
少女もまた、重厚な拳銃をクルリと回して構え直した。
「「装来(そうらい)ッ!!」」
二人の声が重なった瞬間、眩い霊力の光が廃ホテルの部屋を包み込む。
光が弾け飛んだ後、そこに立っていたのは、チャラ男とゴスロリ少女ではなかった。
「っしゃあ、行くぜオタク君!」
チャラ男であったはずの雷太は、一対のコンバットナイフを逆手に構え、ハイレグの白いレオタードに、金色に輝く花魁のような和風の上着を羽織った『和バニーの金髪ギャル』といった装いへと変貌していた。
咒具の代償である『女性化』。元がチャラ男だっただけに、その金髪に派手なメイクのギャル姿は、悔しいほどに堂に入っている。
「でゅふふ、援護は任せるでござるよ、雷太殿」
そして、先程までゴスロリ姿だった少女は、落ち着いた抹茶色の和風ドレスに身を包み狸の耳尻尾を生やした、凛とした大和撫子のような『銃使いの美少女』へと変身を遂げていた。
彼女――いや、彼こそが、この街を護るベテラン退魔師、乙太 公彦(おった きみひこ)。中身は雷太と同い年のオタク男子である。
運命のいたずらによって退魔師の運命に巻き込まれてしまった元一般人のチャラ男・雷太を、歴戦のオタク男子にしてベテラン退魔師・公彦が導き、共に戦う。
剛と蓮とはまた違う、最高に歪で、そして少しだけ愉快な『別の街の守護者』たちの物語が、ここにも確かに存在していた。
彼らの物語の始まりは、此処から半年ほど前に遡る。
* * *
——小学校の頃、俺は取り返しのつかない過ちを犯した。 些細なからかいのつもりだったそれは、いつしか明確な『いじめ』へと形を変え、ひとりの幼馴染との関係を壊してしまった。
それ以来だ。俺の人生に『不良』という拭い去れないレッテルがベッタリと貼り付いたのは。
「あーあ、だりぃ……」
親に無理やり通わされた高校の制服は、入学式の日以来、ろくに袖を通していない。
今日も昼間から薄暗い高架下の裏路地にたむろし、くだらない連中と、くだらない会話をして、時間をすり減らすだけの無軌道な生活。
紫煙を吐き出しながら、雷太はぼんやりとコンクリートの壁を見つめていた。
(……俺、こんなんでいいのかよ)
心の底で、ずっと燻っている思いがある。
やり直したい。まともになりたい。
けれど、一度踏み外した道からどうやって戻ればいいのかわからず、惰性でクズの真似事を続けている自分が、最高にダサくて嫌いだった。
「おらおら、ちょっと付き合えって言ってんだろ?」
「なんだよ、ツンツンしてんじゃねえよ。顔見せろって」
少し離れた場所から、下品な笑い声が聞こえてきた。
視線をやると、いつもつるんでいるグループの連中が、壁際で見知らぬ少女を円陣のように囲み込んでいるところだった。
またか、と雷太は舌打ちをする。どうせ他校の女子でもナンパして、しつこく絡んでいるのだろう。
関わり合いになるのも面倒だ。無視して帰ろう。そう思い、踵を返そうとした――その時だった。
「や、やめて……っ」
無理やり腕を掴まれたらしい少女の、小さく、怯えたような悲鳴。
それが、雷太の鼓膜を妙に鋭く叩いた。
昔、自分が誰かにこんな声を出させた記憶がフラッシュバックする。
胃の腑が嫌な熱を持ち、気がつけば、雷太の口は勝手に動いていた。
「……おい。だせえことしてんじゃねえぞ、お前ら」
自分でも驚くほど、低く冷たい声が出た。
仲間たちが「あ?」と不満げに振り返る。
しかし、それ以上に雷太の視線を釘付けにしたのは、連中の隙間からこちらを見つめ返してきた少女の顔だった。
「……っ!?」
息を呑んだ。
艶やかな黒髪ロングに、和装をアレンジしたような清楚かつ可憐な出で立ち。大きく見開かれた瞳は、驚きに丸くなっている。
なんだ、こいつ。
めちゃくちゃ、可愛いじゃねえか――。
一目で心を射抜かれ、柄にもなく心臓を跳ねさせた雷太の目の前で、事態は唐突に、そして異常な方向へ急転直下した。
少女の手元で、何かが鈍く光った。
チャカッ、と金属が擦れるような硬質な音が響く。
見れば、少女の両手には、彼女の華奢な腕にはおよそ似つかわしくない、無骨で巨大な大口径のリボルバーが握られ、指を軸にしてクルクルと軽快に回されていた。
「「……え?」」
雷太を含め、その場にいた全員の間の抜けた声が重なる。
次の瞬間。
ダァンッ! ダダァンッ!!
耳をつんざくような激しい発砲音が、高架下に連続して轟いた。
少女が迷いなく引き金を引いたのだ。
銃口から放たれた弾丸は、囲んでいた不良たちの頭部を次々と正確に射抜いていく。
「なっ……!?」
人が死ぬ。
そう確信して雷太は顔を青ざめさせたが、奇妙なことに、彼らの頭から血や脳漿が吹き飛ぶことはなかった。
代わりに、弾丸が命中した額には漫画のような巨大なたんこぶがポコンと膨れ上がり、傷口からは血の代わりに、キラキラと光り輝く謎の飛沫が噴出している。
「あばばばばばっ」
撃たれた連中は一様に白目を剥き、口から泡を吹いてその場にバタバタと倒れ伏してしまった。
(は、はぁぁっ!? 何だ今の!? モデルガン!? いや音が本物だったろ!?)
パニックに陥る雷太。
しかし、思考を整理する暇は与えられない。ガチン、と。
硝煙を上げる凶悪な銃口が、今度は真っ直ぐに雷太の眉間へと向けられたからだ。
「ヒッ……!」
本能的な死の恐怖。雷太は情けなく腰を抜かし、慌てて身を翻して後退りする。
「わ、わぁぁぁっ! ち、違います俺はあいつらとは別で、ごめんなさい撃たないでっ!!」
ズドォォォォォンッ!!!
命乞いも虚しく、容赦のない銃声が轟いた。
終わった。そう思って雷太は目を固く瞑ったが、痛みは一向にやってこない。
ただ、頬のすぐ横をすさまじい熱風が通り過ぎていっただけだ。
恐る恐る振り返った雷太は、そこに『絶対にあってはならないもの』を見た。
いつの間に背後に迫っていたのか。
人間の身体を無造作に繋ぎ合わせたような、どろどろの肉塊の化け物。そいつの肩口に、今放たれた銀色の弾丸が巨大な風穴を開けていたのだ。
『ギャアアァァァァァァァァッッ!!』
耳障りなノイズのような悲鳴を上げ、化け物は路地の奥へと無様に逃げ去っていく。
雷太は完全に腰を抜かしたまま、呆然とその後ろ姿を見つめることしかできなかった。
「――雷太殿、ナイスリアクションでござる。次同じ状況になったら、即座に伏せるのを奨めるでござるよ?」
不意に肩にポン、と軽い手が置かれ、頭上から声が降ってきた。
見上げると、先ほどの美少女が、重たい拳銃を肩に担ぎながら人懐っこい笑みを浮かべて見下ろしていた。
……ん? でござる?
「え、なんで俺の名前……ていうか、ござる?」
「しっかし、丈夫でござるな」
混乱する雷太の疑問をスルーして、少女は感心したように雷太をまじまじと見つめる。
「ただの盆暗であったなら、あそこで伸びてる坊主どもみたいに、奴の引き寄せた雑霊に毒されて人に乱暴を働くところでござる。お主、もしや『退魔師』の才能あるでござるな?」
「たい、まし……? ざつれい……? 何言ってんだお前……」
全く要領を得ない言葉の羅列に、雷太は目を白黒させる。
少女はふふっ、と楽しげに笑うと、雷太に向かってパチンと可愛らしくウィンクを飛ばした。
「ちゃんと、授業に出たほうがいいでござる。折角同じクラスになったからあったら一言謝ろうって思ってたのに……一度も会わないから、心配したでござるよ?」
「は……? 同じ、クラス……?」
言葉の意味を問い詰めようと雷太が口を開きかけた瞬間。
少女はトン、と軽く地面を蹴った。
それだけで、彼女の身体はまるで重力を無視したかのように遥か上空へと跳ね上がり、高架下のコンクリートの壁を人ならざる膂力で蹴り渡り、あっという間にビルの隙間へと消えてしまった。
「…………は?」
残されたのは、意識を失った不良たちと、硝煙の匂い。
そして、尻餅をついたまま口をポカンと開けている、間抜けな自分の姿だけ。
「なんだったんだよ、今の……」
雷太は呆然と、少女が消えた空を見上げることしかできなかった。
この日を境に、雷太のくだらなくも平穏だった日常は、跡形もなく崩れ去ることになる。
* * *
小学校五年生の秋。
当時の雷太は、クラスで一番幅を利かせている、いわゆる『悪ガキのグループ』に何となく属していた。
力自慢のガキ大将を頂点とした、スクールカーストの最上位。
しかし、雷太自身に彼らへの忠誠心などなく、ただ波風を立てず、適当に話を合わせてやり過ごしているだけだった。
本当の意味で気が合うのは、グループの外にいる、どんくさくて太り気味のオタクの親友――乙太公彦だけだった。
あの日、放課後の教室に忘れ物を取りに戻った雷太は、見てしまった。
グループのリーダー格の連中が、雷太の二つ下の妹のランドセルをゴミ箱に突っ込み、中身をぶちまけてゲラゲラと笑っているのを。
『こいつ、ちょっと生意気なんだよなー』
『明日、靴の中にカエル入れとこうぜ。泣くかな?』
心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。
カーストの頂点にいる彼らにとって、それは単なる『遊び』の延長だったのだろう。だが、標的にされた側にとっては地獄だ。
雷太は血の気が引くのを感じた。妹が標的にされている。いじめの矛先が、自分の大切な家族に向かっている。
(やめろっ……! ふざけんな、ぶっ飛ばしてやる……っ!)
拳を握りしめ、教室に飛び込もうとした。しかし、雷太の足は鉛のように重く、動かなかった。
小学生の教室という閉鎖空間は、残酷な生態系だ。
ここで自分が飛び出して力でねじ伏せたところで、連中は反省などしない。表立ってやらなくなるだけで、教師や雷太の目の届かない陰湿な場所で、妹へのいじめは確実にエスカレートする。
そして、グループに逆らった雷太自身も、村八分にされて終わる。自分がいじめられるのは構わないが、妹を守り切る自信はなかった。
(どうする……どうすればいい? どうすれば、あいつらの気を妹から完全に逸らせる……!?)
冷や汗を流しながら、必死に頭を回転させる。
連中が求めているのは、泣いて痛がる『おもちゃ』だ。妹よりもずっと面白い、格好の標的を、連中の目の前に差し出すしかない。
反抗してこなくて、反応が面白くて、連中が見下して優越感に浸れるような、そんな都合のいい『生贄』。
(――……っ)
雷太の脳裏に、最悪の、そして最も確実な人物の顔が浮かんだ。
駄目だ。あいつだけは。あいつは俺の親友だ。
心の中で叫んだが、もう連中が教室から出てきそうになっている。時間がない。妹を守るには、これしかない。
『おーい、雷太ぁ』
最悪のタイミングだった。
廊下の向こうから、いつものように無邪気な笑顔で、ふくよかな少年が小走りで近づいてきたのだ。
公彦だった。手には、雷太に貸す約束をしていた新作のゲームソフトが握られている。
『雷太殿、遅いでござるよ! 早く帰って一緒に通信対戦するで……』
「あ……? なんだよ、デブ」
教室から出てきた悪ガキ連中が、ピタリと足を止めてこちらを見た。
雷太は、心を鬼にして、自らの魂を泥に沈める覚悟で、公彦を冷たく睨みつけた。
『え……雷太、殿……?』
突然の冷たい態度に、公彦が戸惑ったように足を止める。
その顔を見た瞬間、雷太は胸が張り裂けそうになった。ごめん。ごめん、公彦。
「キモいんだよ、お前。馴れ馴れしく話しかけてくんな」
『え……』
雷太は、わざと連中に聞こえるように、大きな声で嘲笑した。
「いっつも『でござる』とか言って、変なアニメのTシャツ着て、汗臭えんだよ。お前みたいなキモオタと一緒に歩いてると、俺までバカにされるだろうが」
言いながら、雷太はドンッ! と公彦の胸を強く突き飛ばした。
どんくさい公彦は抵抗することもなく、無様に廊下に尻餅をついた。手からこぼれ落ちたゲームソフトが、虚しい音を立てて床を滑っていく。
『おいおい、雷太。どうしたんだよ?』
『ウケる、キモオタ仲間割れかよ!』
教室から出てきた悪ガキたちが、面白そうな匂いを嗅ぎつけて雷太たちの周りに集まってきた。
彼らの視線が、妹のランドセルから、完全に公彦へと移った瞬間だった。雷太の最悪の作戦は、まんまと成功してしまったのだ。
「あー、こいつマジでキモくてさ。前からウザかったんだよ。なぁ?」
雷太は顔を引き攣らせながら、連中に同意を求めた。
悪ガキたちはゲラゲラと笑い、公彦を取り囲んで囃し立て始めた。
『おらデブ、なんか言ってみろよ!』
『でござるって言えよ! ほら!』
蹴られ、小突かれながら。
床に座り込んだ公彦は、信じられないものを見るような目で、雷太を見上げていた。
その瞳には、恐怖よりも、明確な『悲しみ』が浮かんでいた。
(やめてくれ。そんな目で俺を見るな。……ごめん、ごめんなさい……っ!)
雷太は心の中で土下座して泣き叫んでいた。
しかし、公彦は。
痛みに顔を歪めながらも、雷太の視線に気づくと、へにゃり、と。いつものような、人懐っこい、しかしどこかひどく引き攣った笑顔を作ってみせたのだ。
『や、やめるでござるよ、雷太殿ぉ……ふへへ……』
いじめを長引かせないためか、それとも雷太がグループ内で立場を悪くしないように気を遣ったのか。
公彦は、ヘラヘラと笑って、バカにされるピエロの役を自ら演じ切った。
その歪んだ笑顔が、雷太の心を完全にへし折った。
妹は守れた。だが、その代償として、自分は世界で一番優しくて、一番仲の良かった親友の心を、自らの手で殺してしまったのだ。
* * *
市立継嗣松(けいしまつ)高校。
市内でも底辺中の底辺と名高いこの学校は、行き場のない不良生徒たちを掃き溜めのように収容する、治安の悪さで有名な吹き溜まりだった。
コンクリート打ちっぱなしの無機質な廊下を、雷太は不機嫌に眉間に皺を寄せながら歩いていた。
壁にはスプレーペンキで描かれた時代錯誤な落書きが踊り、窓ガラスは所々ひび割れている。
リノリウムの床には、無数のタバコの焦げ跡と、吐き気を催すような安い香水の匂いが染み付いていた。
(……マジで、来るとこじゃねえな)
入学式以来、数ヶ月ぶりに足を踏み入れた校舎の惨状に、雷太はうんざりと息を吐いた。
小学校時代のいじめ問題が発覚して以来、両親はとっくに雷太を見限っている。
家庭内は冷え切り、会話らしい会話もない。
この高校も、『こんな高校でも、一応高卒の学歴にはなるから』と、まるで汚物でも処理するような慈悲の顔で勧められたものだ。
雷太自身、こんな底辺校をまともに卒業する気など毛頭なかった。
適当に退学になって、適当にその辺で野垂れ死ぬんだろうと、自分の人生を半ば投げ出していた。
だというのに。
なぜ今日に限って、制服のシャツに袖を通し、重い足を引きずって登校などしているのか。
(……馬鹿だろ、俺)
理由は明白だった。
どうしても、気になってしまったのだ。
『同じクラスになっても一度も会わないから、心配したでござるよ?』
昨日の夕暮れ。高架下で出会った、あの謎めいた美少女の言葉が、耳から離れなかった。
化け物を大口径の拳銃で吹き飛ばし、人間離れした跳躍力でビルの谷間へ消えていった、清楚で可憐で、頭のおかしい女。
あんな非日常の塊みたいな美少女が、本当にこんな『終わっている』学校の、ましてや自分のクラスにいるはずがない。
そう頭ではわかっているのに、雷太は確かめずにはいられなかったのだ。
目的の教室――1年D組の札が斜めにぶら下がったスライドドアの前に立つ。
中からは、机を蹴り飛ばすような乱暴な音と、下品で馬鹿げた笑い声が漏れ聞こえていた。
雷太は小さく舌打ちをすると、躊躇いなくその戸を乱暴にガラァッ! と開け放った。
「…………」
瞬間、教室内の騒騒しい空気がピタリと止まった。
机の上に胡座をかいていた金髪の男も、窓枠に座って煙草をふかしていた女も、一斉に教室の入り口へ視線を向ける。
滅多に顔を見せない、界隈ではそれなりに名の知れた不良である雷太の唐突な登場。
数十人分の値踏みするような、あるいは敵意を含んだ視線が雷太を容赦なく貫く。自分がこの場においてひどく場違いな異物であることは、肌がヒリつくほど理解できた。
だが、そんなものはどうでもよかった。
雷太は刺さる視線を完全に無視し、険しい目つきのまま教室内へ視線を泳がせた。
金髪、ピアス、改造制服、奇抜なメイク。どこを見渡しても掃き溜めにふさわしい連中ばかりだ。やはり、あんな美少女がいるはずが――。
「――おや」
不意に、騒音の消えた教室の奥から、鈴を転がすような澄んだ声が響いた。
雷太の肩が、ビクンと跳ねる。
「昨日ぶりですな」
教卓の横。黒板の前に、彼女はいた。
荒廃した教室の風景から、そこだけが切り取られたように異質だった。
艶やかな黒髪ロングはそのままに、学校指定の、しかし彼女が着るとひどく上品に見える黒いセーラー服に身を包んでいる。
彼女は、手に持った黒板消しをクリーナーにかけながら、パタパタとチョークの粉を払い、ゆっくりと雷太の方へ振り返った。
「まさか本当に来るとは。……感心、感心でござるよ」
周囲の不良たちが発する殺伐とした空気など全く意に介していない様子で、少女は昨日の高架下と同じ、へにゃりとした人懐っこい笑みを浮かべた。
静まり返った教室の沈黙を破ったのは、窓際に座っていたケバいメイクの女子生徒だった。
「なになにー? 矢落クン、まさかウチらのオタクちゃんに告りでもしたのぉ?」
下品にマニキュアの爪を弄りながら放たれたそのからかいの声に、張り詰めていた空気が緩み、教室中に下卑た失笑がさざ波のように広がっていく。
「オタク……?」
その聞き覚えのある単語に、雷太の心臓がドクン、と大きく嫌な音を立てた。
嘲笑交じりのざわめきの中で、「確かに一緒にいるとこ見たことねぇ」「そもそもどっちも、ほぼ不登校じゃん」という無責任な声がちらほらと耳に届く。
どういうことだ。この場違いなまでに清楚で可憐な美少女が、『オタク』と呼ばれている?
戸惑い、視線を彷徨わせる雷太の前で、少女はポリポリと困ったように頬を掻いた。
「いやー、今年は拙者も頑張って出席日数稼いでるんでござるけどなぁ。まだまだ影が薄いようでござる」
へにゃり。
少女が浮かべた、その力なくも人懐っこい、へにゃりとした愛想笑い。
――ズキリと、雷太の脳裏に過去の光景がフラッシュバックした。
『や、やめるでござるよ雷太殿ぉ……ふへへ』
いつだったか。自分がまだ取り返しのつかない一線を越える前。
一緒にゲームをして、馬鹿なアニメの話をして笑い合っていた、あのふくよかで鈍臭い、オタクの少年の笑顔。
目の前の美少女の笑い方は、あの頃の『アイツ』に、あまりにもそっくりだったのだ。
「お前……」
雷太の口から、乾いた声が漏れた。嫌な汗が背中を伝う。
「お前……乙太の、妹か何かか?」
その言葉が落ちた瞬間。
教室中の空気が、文字通り『凍りついた』。
いや、数人の生徒はまだヘラヘラと笑っている。彼らは恐らく、雷太の中学時代までの悪評を知らない、他校出身の無知な連中だ。
だが、雷太と『乙太公彦』という少年の間にある、陰惨ないじめの過去。その噂を伝え聞いている地元の連中たちの表情は、一斉に能面のような真顔へと変わっていた。
「……は? こいつ、まじで言ってる?」
「うっわ、どんだけ薄情なんだよ。怖え……」
「自分のやったこと棚に上げて、人の心ないのー?」
四方八方から突き刺さる、侮蔑と嫌悪を含んだひそひそ声。
想定外の反応に、雷太は背筋に冷たいものを感じた。
「な、何だよお前ら! 俺が変なこと言ったかよ!」
得体の知れない恐怖を振り払うように、雷太は周囲を威嚇するように吠える。
すると、一番前の席に座っていた気弱そうな男子生徒が、信じられないものを見るような目で雷太を見上げ、ポツリと告げた。
「本人だよ。乙太公彦だよ。その子が」
「…………は?」
雷太の思考が、完全に停止した。
その言葉を聞いて、目の前の美少女――乙太公彦(?)は、不思議そうにコテリと小首を傾げる。
「よもや……雷太殿には『認識阻害』も効いてないでござるか?」
「はぁ!?」
阻害? 何を言っている?
雷太は数秒かけて、かろうじて脳の処理を再起動させた。
「いや、何言ってんだよお前ら! 乙太は男だろ!? ていうか『公彦』なんて、どう考えても明らかに男の名前だろうが!!」
雷太の悲痛な叫びに、今度は周囲の生徒たちにどよめきが走った。
女子たちは「何言ってんのコイツ、頭おかしいんじゃない?」とさらに冷ややかな目を向け、男子たちは顔を見合わせてヒソヒソと話し始める。
「まぁ、確かに『公彦』とか、女にしては変な名前だよな〜」
「親が男欲しかったんじゃね? 可哀想に」
「でもオタクちゃん可愛いから、俺は全然アリだけどね」
呑気に、そして妙に納得した様子で頷き合うクラスメイトたち。
おかしい。狂っている。
目の前にいるのは、どう見ても清楚な黒髪の美少女だ。胸だってちゃんとあるし、いい匂いまでしている。それなのに、こいつらはこの美少女を『乙太公彦』という名前のまま、何の疑問も抱かずに受け入れている。
その圧倒的な『認知の歪み』が、雷太にはとてつもなくグロテスクで、気持ち悪く見えた。
「おい、ふざけんなよ……お前、本当に……?」
雷太が後ずさりしたその時。
その気味の悪い空気を物理的に断ち切るように、乙太公彦と呼ばれた少女はパンッと黒板消しを教卓に置いた。
そして、ずんっ、と距離を詰め、雷太の腕をガシッと掴む。
「まぁまぁまぁ! これで拙者等、数年ぶりの感動の再会ですゆえ! 積もる話も山ほどございますれば、これにて少し『どろん』させて頂くでござるよ!」
「は!? ちょま、待てお前! 痛ぇ、手首折れる! 結局何なんだよお前は!!」
抗議の声を上げる間もなく、雷太は驚くほどの力でズルズルと廊下へ引きずり出されていく。
相手が女子だからと手加減して踏ん張っていないわけではない。信じられないことに、見た目通りの可憐な少女の膂力では到底あり得ない馬鹿力なのだ。抵抗する腕の骨がミシミシと悲鳴を上げている。
「お? 修羅場か修羅場かー?」 「乱暴されたらすぐ言うんだよオタクちゃん! 全員でそいつボコりにいくから!」
背後から飛んでくるクラスメイトたちの声援は、完全に美少女(公彦)の味方だった。
底辺校の不良たちからすら謎の庇護欲と好意を集めている『乙太公彦』に引きずられながら、雷太の混乱はついに限界点へと達していた。
* * *
乱暴に引きずり込まれたのは、旧校舎の使われていない空き教室だった。
カチャリと金属的な音を立てて内側から鍵を閉めると、公彦と名乗る少女は「ほい、ほいっと」と軽い口調で、ポケットから取り出した十面体ダイスのような奇妙な小石を教室の四隅に向かって放り投げた。
コロコロと転がったダイスが止まると同時に、空気がふっと重くなる。
まるで、この教室だけが世界から切り離されたような、奇妙な静寂が鼓膜を覆った。
「さて、雷太殿。今、この教室から『無性に出ていきたい』と感じたりとかしますかな?」
くるりと振り返り、少女は悪戯っぽく小首を傾げて訊ねてきた。
「ぜぇ、ぜぇ……っ! 出来るならやってるわ! 腕ちぎれるかと思ったぞクソ馬鹿力女!」
息を切らしながら手首をさすり、雷太は壁際まで後退って少女を睨みつける。
「っていうか、何なんださっきから! 認識阻害だの、出ていきたいだの……まるでお前が、さっきの教室の連中みたいに皆の記憶とか認識を操れるみたいな言い方……」
「まぁ、ある程度は出来るでござるよん?」
しれっと。
なんでもないことのように返答してきた少女に、雷太は息を詰まらせた。
そして、ギリッと奥歯を噛み締め、喉の奥から絞り出すように言葉を叩きつける。
「……そいつを使って、皆にお前を『乙太公彦』だって思わせてんのかよ。……良い趣味してやがるな、テメェ」
「ぁー、それは逆でござるが。いかんせんこの呪いは流石に自分の意思じゃどうにもできぬでござるし、そもそも自分から周囲を騙そうなんてしようとも思ってないでござるからして……」
少女は困ったように眉を下げ、ゆっくりと雷太に近づいてくる。
「そこまで信じられぬでござるかぁ? 拙者が、あの乙太公彦だということが」
「――っざけんな!!」
我慢の限界だった。
雷太の怒声が、静まり返った空き教室にビリビリと反響する。少女の足がピタリと止まった。
「あのオタク君が! 公彦が! そんなチャラチャラした女の見た目なわけがねえだろうが!!」
雷太の胸を渦巻いていたのは、教室で感じた『認識の歪み』への不気味さや恐怖ではない。
自分の中にある『乙太公彦』という一人の人間に対する、決定的な侮辱を感じたからこその怒りだった。
「あいつは……公彦は、『人は見た目より中身でござる』ってのが口癖で! 俺が……俺がどれだけ酷い言葉で容姿をバカにしても、ヘラヘラ笑ってゲームの話をしてたんだよ! あいつが、そんな上辺だけの見た目に拘って、女の姿に化けるわけがねえだろうが!!」
肩で息をしながら、雷太は吠え続けた。
いじめの加害者である自分が言う資格などないことは分かっている。それでも、あいつはそんな薄っぺらい奴じゃない。雷太の魂がそう叫んでいた。
怒気を孕んだ雷太の言葉に、一転して壁際まで気圧された少女は、丸い伊達眼鏡を指先でクイッとずらしながら、目を丸くして雷太を見つめ返した。
そして、なぜかぽっ、と頬を赤く染めると。
「お、おぉ……」
と、感心したような、嬉しさを隠しきれないような、妙な声を上げた。
「な、なんだよ……っ」
「ま、まぁ……そこまで拙者の信条を覚えててくれたのなら、それはちょっと……いや、かなり嬉しいのでござるが。……じゃあ、これならどうでござるか?」
えへん、とわざとらしく胸を張り、少女はセーラー服のポケットから『ある物』を取り出して、雷太の目の前で揺らした。
「それ……っ」
雷太は、大きく目を見開いた。
古びた紐の先に付いていたのは、すっかり毛羽立って色褪せた『兎の足』のキーホルダーだった。
「……二人で遠足の帰りに、お土産屋でこれ買ったでござろう? それから拙者が何を思ってか、『お守りのために足を切り取られるなんて、兎さんがかわいそうでござる……!』なんて想像して泣き出したら、雷太殿もつられて一緒に泣いたでござろう?」
「お、おまっ……なんで、それ……!」
「かなり昔の、誰にも言っていない二人きりの秘密ですゆえ。これなら、拙者が公彦だという証明になりますかな?」
恥ずかしそうに伏し目がちになりながら、少女は『んふふ』と楽しそうに含み笑いをこぼした。
その仕草と、へにゃりとした笑顔。
そして何より、誰も知るはずのない、あの日の情けない思い出。
「…………はぁーっ」
雷太の中から、急速に怒りの熱が引いていく。
代わりに押し寄せてきたのは、どうしようもないほどの脱力感と、微かな安堵だった。
なんだかもう、意地を張って怒るのも馬鹿らしく思えてきて、雷太は埃っぽい床にどっかと胡座をかいた。
「……まぁ、まだ百パー信じ切るとは言えねえが?」
雷太は膝に肘をつき、乱暴に頭を掻き毟る。
そして、目の前で嬉しそうに兎の足を握りしめている、どう見ても可憐な美少女に向かって、深くため息をつきながら言った。
「話してみろよ。お前の言う認識どうこうとか、呪いとか、そのふざけた女の姿とか。……俺が納得いくようにさ」
雷太の言葉に、少女――公彦は、昔と少しも変わらない、へにゃりとした柔らかい笑顔を浮かべて、静かに頷いた。
埃っぽい空き教室の床。
雷太が胡座をかいて腰を下ろすと、向かい合った公彦もまた、床に膝をついて正座の姿勢をとった。
そして次の瞬間。
「――すまぬ!!」
公彦は両手をつき、フローリングの床に勢いよく額を擦り付けた。見事なまでの土下座だった。
「ぅ、うわっ!? いきなりなんだよ!」
全く予想していなかった唐突な謝罪に、雷太は素頓狂な声を上げて尻餅をつきそうになる。
公彦は頭を下げたまま、絞り出すような声で言った。
「まず、何よりも先に謝らねばならぬのでござる。……拙者、乙太公彦が引っ越ししたのは、いじめを苦にしてのことではござらん」
「……え?」
「あれは家の……『家庭の事情』でござった。どうしても秘密にしておかねばならぬことで、雷太殿に本当の理由を伝えることも、誤解を解くこともできず……結果として、雷太殿に『いじめっ子』の十字架を背負わせ、多大な迷惑をかけたでござる……っ!」
ギリッ、と公彦が拳を握りしめる音が聞こえた。
その言葉に、雷太はハンマーで頭を殴られたような衝撃を受ける。
(……いじめが原因じゃ、なかった……?)
自分はずっと、あいつを追い詰めて、町から追い出してしまったのだと思っていた。その罪悪感から自暴自棄になり、不良という生き方に逃げ込んでいたのだ。
だが、同時に。雷太の心の奥底で、奇妙なほどにスッと腑に落ちるものがあった。
「……そう、だよな」
雷太は息を吐き出し、天井を仰ぎ見た。
「でなきゃ、お前はとっくに俺に復讐してるか、昨日の時点でどうにかなっちまってるよな。化け物をワンパンでミンチにするような奴が、ちょっとからかわれたくらいで泣き寝入りするわけねえし」
「うっ……それは、否定できぬでござるな」
最悪の想像に、公彦は顔を上げて苦しげな表情で頷いた。
「拙者、こう見えて古い血筋の家系でござってな。世間一般に言うところの『退魔に……』ごほんっ、えへん、『退魔師』なのでござる」
「おい。一瞬、台無しな言い間違いしそうになっただろ」
感動の種明かしの最中にぶっ込まれた不穏な単語に、雷太はジト目を向けた。
「嫌だぞ。そんな、すぐに感度3000倍にされたり、すぐオホ声出したりするような『家庭の事情』……」
呆れ半分でそう呟いた雷太だったが、公彦が「さぁ、どうでござろうなぁ……」と少し心当たりがあるようにスッと目を逸らしたのを見て、ドッと嫌な汗が吹き出した。
なんだその反応は。エロゲの世界観で生きてるのかお前の一族は。
「ま、まぁ! 要はこの世ならざる化け物――『外なる霊』を退治する一族総出の公務に、拙者も参加を余儀なくされたでござるよ。……この『咒具(じゅぐ)』を使って」
気まずい空気を誤魔化すように、公彦はセーラー服のスカートのベルトから、じゃらりとぶら下がったキーホルダーのようなものを外した。
それは、手のひらに収まるほどの、精巧な拳銃のミニチュア玩具のように見えた。
しかし、公彦がそれに手を添え、ふっと気を込めた瞬間。
――ガシャガチャギャコチャキッ、ジャコォォンッ!!
内側から機械的な駆動音が鳴り響き、玩具のような小物が自律的に展開を始めた。
質量保存の法則など完全に無視して金属のパーツが次々とせり出し、組み替わり、一瞬にして雷太の顔の半分ほどもある大口径の重厚なリボルバーへと変貌を遂げたのだ。
「な、何だこれ……凄ぇ……っ!」
「ふふん、かの有名な都市伝説『リンフォン』と同じ理屈で、割と無法に変形するでござるよ。玩具として売ったら大受け間違いなしでしょうなぁ」
知る人が聞けば洒落にならないと応えそうなマニアックな冗談を交えながら、公彦は手慣れた手つきで、その巨大な拳銃をクルリと指先で回して見せる。
「装来(ソウライ)」
短く鋭い呼称。
直後、公彦の身体を眩い霊力の光が包み込んだ。
光の粒子が弾け飛ぶと、そこには黒いセーラー服ではなく、昨日高架下で見たのと同じ、抹茶色を基調としたフリルたっぷりの和風ドレスを纏った公彦の姿があった。
「うおっ、また……」
雷太は目をパチクリとさせる。
昨日は暗くて、しかも命の危機だったからよく見えなかったが、明るい教室で改めて見ると、その姿はあまりにも『あざとかった』。
艶やかな黒髪の頭には、ふさふさとしたタヌキの耳が生え、スカートの裾からは太くて立派なタヌキの尻尾が揺れている。
昔、公彦の家に遊びに行った時に見せられた、深夜アニメの魔法少女そのものだった。
付き合いでオタク知識をそこそこ植え付けられていた雷太の目には、その完成度の高さと、計算し尽くされたような『萌え要素』の詰め合わせが、なんとも言えず破壊力抜群に映る。
(……くそっ、中身はあのふくよかオタクだっていうのに、普通にドキッとした俺がムカつく……!)
変な動悸を誤魔化すように顔をしかめる雷太の前で、狸耳の美少女は重たい拳銃を肩に担ぎ、ウインクを決めた。
「まぁ、呪いの具足――『咒具』という名の通り、これを……それも強力な『原典』の咒具を使うと、もれなく『一日中、身体が女の子になっちゃう呪い』がついてくるでござるよ」
「……は?」
「それが、拙者がこの姿でいる理由の、その一でござる」
さらりと爆弾発言を落とし、公彦はタヌキの尻尾をパタパタと揺らした。
「……にわかには、信じられねえけど。納得はいった、気がする」
自分でも煮え切らないと思いながら、雷太は複雑な心境を吐き出した。
目の前で非常識な魔法のステッキ(大口径リボルバー)を見せられ、一瞬で着替える魔法少女(タヌキ耳の和風ドレス)を見せつけられた後では、もはやオカルトを否定する気にもなれなかった。
「ていうか、そんな姿になる呪いを持った奴らがあちこちに居たら、普通は大混乱だろ。さっきお前が『認識がどうの』って言ってたのは、それの対策で、周りの人間に正体がバレないようになってるって事か」
「おぉっ!?」
雷太の余りにも鋭い洞察に、公彦はタヌキの耳をピンと立てて驚きの声を上げた。
「わかるでござるか! 雷太殿、意外と察しが良いでござるな!?」
「誰かさんのせいでな。昔、そういう漫画やらラノベやらを嫌ってほど読まされたからだよ」
「でゅふふ、それは重畳でござる」
雷太がため息混じりに返すと、公彦は嬉しそうに笑い、「解除(リリース)」と短く呟いて装備を解いた。光が収まると、そこにはまた黒いセーラー服を着た清楚な黒髪の美少女が座っていた。
「まぁ、そんな訳で。元々どんくさかった拙者は、死ぬ気で戦うための特訓を重ねたせいで勉強の方がおろそかになり、こんな底辺校にしか入れなくなってしまいましてな。したらば、そこで入学名簿に雷太殿の名前を見つけたって事なのでござるよぉ」
「……なるほどな。でも、俺にはお前が公彦だって分かったぞ。その『認識阻害』とやらは効いてないのか?」
「多分、最初の一年やこれまではちゃんと効いてたんだと思うでござる。今、雷太殿に認識阻害や『雑霊汚染』への異常な耐性ができているのは、おそらく昨日、至近距離で拙者や『外なる霊』の霊力にあてられた結果でござろうなぁ」
ふむふむ、と自己完結するように頷く公彦。
少しずつ空気が和み、会話のテンポが昔の二人に戻っていく中で、雷太はふと気になっていたことを尋ねた。
「そういやお前、女の格好をしてる理由、『その一』って言ってたな。……その二は、なんだよ」
その問いに。
公彦はピタリと動きを止め、少しだけ言葉を濁らせた。
「もう一つは……これは、先程拙者の口癖に対して熱く語ってくれた雷太殿には、少し言いづらいのでござるが。……買い被り過ぎ、なのでござる」
自嘲するように目を伏せて放たれた言葉に、雷太はピクリと反応した。
「いじめのせいではない、と先ほど言ったでござるな。……しかし、拙者もあの後、退魔師として色々な人に会い、色々な目に遭ったでござる。そして、思い知ったでござるよ。……人は見た目だけじゃない。でも、『どんなに努力して外見を変えても、最初についたレッテルだけで中身まで否定し、切り捨てる人間』も確かにいるのだと」
公彦の脳裏をよぎったのは、かつて慕い、彼女に見合う男になろうと死に物狂いで努力した末に告白した女性退魔師から投げつけられた、残酷な全否定の言葉だった。
『ごめんなさい、公彦くん。私、普通の人と結婚して引退するの』
『……いい加減わかってよ。私に合わせて無理して変わろうって?その女の子の身体で?ずっと思ってた、すごく痛々しくて重いのよ貴方』
『貴方の本質は、あの時の気味の悪いオタクのままじゃない。私、そういうの大っ嫌いなの。ずっと気持ち悪いって思ってたのよ!』
自分を磨き、彼女を守れる強い男になろうとした一途な想いは、『重い』『気味が悪い』という冷酷な拒絶と共に、元のオタクとしての自分ごと木端微塵に打ち砕かれたのだ。
「拙者は、そういう言葉に……精神的に、酷く追い詰められたでござる。だから……最近はずっと、自ら進んでこの姿を維持しているんでござるよ」
そう言いながら、公彦は日の差す窓際へ向けて、白く細い、傷一つない綺麗な手を翳して見せた。
「この姿なら、誰も否定してこない。……誰も拙者の趣味に文句を言わないし、キモいと石を投げる者もいない。誰も拙者を『乙太公彦』だとは思わない。……だから、拙者はこの姿に依存しているんでござる。これが、決して褒められたものではない理由……その二でござる」
恥ずかしそうに、自らの弱さを曝け出すようにはにかむ公彦の横顔を見て、雷太は胸を激しく締め付けられた。
いじめのせいではない。あいつはそう言ってくれたし、実際、公彦の中では雷太からのいじめは決定的な傷にはなっていなかったのだろう。
しかし。彼を取り巻く環境は、周囲の人間は、彼の趣味に、どんくさそうな見た目に、彼という人間の在り方に、少しも耳を傾けてはくれなかったのではないか。
だから、あの優しくて芯の強かった公彦の心はポッキリと折れて、こんな『無害で愛される美少女の姿』に逃げ込み、成り果ててしまったのではないか――と。
「…………公彦」
絞り出すように掛けられた声に、公彦の肩がビクリと跳ねた。
「それでも、すまなかった」
「え……雷太殿?」
「あの時……いじめの矛先を逸らすために、お前を……お前を身代わりに使った事は、どんな理由があろうと、絶対に許されることじゃなかった」
雷太の告白に、公彦は大きく目を見開いた。
小学生の残酷なカースト。標的になりかけていた妹を守るため、雷太は一番仲の良かった『どんくさいオタク』の幼馴染を、自らの手で生贄に差し出したのだ。
それが、雷太の背負い続けてきた罪の正体だった。
「あの後、俺が辿った底辺の人生は、全部自業自得だ。……でも、お前は違う。お前は、化け物から皆を護るために、そんな過酷な運命を背負って……こんなに傷ついてるじゃねえか」
ぽたり、と。
埃っぽい床に、染みができた。
「凄えよ、お前……本当に……っ」
気がつけば、雷太の目からボロボロと涙がこぼれ落ちていた。
自分の保身のために友を売り、いじけて荒んでいった情けない自分と違って。
傷つき、変な方向に拗らせてはいても、公彦の魂はあまりにも真っ直ぐで、気高く、輝いて見えていたのだ。
「雷太、殿……」
嗚咽を漏らし、両手で顔を覆う雷太。
そんな彼の肩を、細く柔らかい腕が、ふわりと優しく包み込んだ。
「……気づいてたでござるよ、それにもとっくに。
拙者も、ご家族や関係者に弁明して回るでござる。雷太殿がご家族と和解できるよう、必ず力になるでござるよ」
背中をトントンと、昔と同じような不器用な手つきで叩きながら、公彦は雷太の耳元で囁いた。
「ありがとう、雷太殿……本当に。助けようとしてくれて、嬉しかったでござるよ」
その温もりは、間違いなく女の子のものだったけれど。
それは、性別や、費やしてしまった長い時間を越えて。二人の少年が、本当の意味で『友達』として再会を果たした瞬間だった。