※この作品はR-18です。

墜ちたま外伝:壊れた狸とやさぐれ兎   作:EMM@苗床星人

2 / 5
Log1-2『咒具の呪い』

 あの日、空き教室での対話を経て、雷太と公彦はまるで失われた時間を取り戻すかのように、急速に親交を深めていった。

 

「いやー、マジで良かったじゃん矢落! オタクちゃんと仲直りできて!」

「ほんとほんと! ウチらもずっと気になってたんだからねー」

 

 ある日の昼休み。雷太と公彦の席の周りには、いつの間にかクラスの連中が集まっていた。

 底辺校の不良たちとはいえ、根は単純で気の良い連中ばかりだ。彼らは二人の和解を自分のことのように喜び、机をくっつけてワイワイと騒いでいた。

 

「ていうかさー、オタクちゃん、いっつも矢落クンの話ばっかしてたんだよ?」

 

 ケバいメイクのギャルが、ニヤニヤしながら爆弾を投下した。

 

「『昔の雷太殿はもっと優しかったでござるよ』とか、『きっと何か理由があってグレちゃったんでござる』とかさー。どんだけ矢落クンのこと好きなのって感じー!」

 

「ぶっ!?」

 

 飲んでいたパックのコーヒーを吹き出しそうになり、雷太は盛大に咽せた。

 

「お、おい! お前、そんなこと周りに言って回ってたのかよ!?」

 

「でゅふふ……事実でござるからなぁ。雷太殿の本来の優しさを、皆にも知ってほしかったのでござるよ」

 

「ばっ、馬鹿野郎! 恥ずかしいこと言うな!」

 

 顔を真っ赤にして怒鳴る雷太をよそに、公彦はへにゃりと嬉しそうに笑っている。周囲からはヒューヒューと冷やかしの口笛が飛び交い、雷太は居心地の悪さに身悶えするしかなかった。

 

 

 放課後になれば、今度は二人きりでオタク談義に花を咲かせる。

 

「雷太殿、今季の『魔法少女マジカル・ルミナス』第4話は見たでござるか!? あの作画の神がかり具合、まさしく覇権……!」

 

「ああ、見た見た。けど俺は『機動機兵ヴァルストライク』の方が好きだな。あの泥臭い戦闘シーンがたまんねぇんだよ」

 

「むむっ、あのロボットアニメも確かに熱いでござるが、ルミナスの変身バンクの芸術性を前にしては……」

 

 昔のように、いや、昔以上にマニアックな話題で熱く語り合う。

 公彦の口調は相変わらず「でござる」のオタク全開だが、その姿は誰もが振り返るほどの可憐な美少女だ。

 一緒に歩いていると周囲の視線が突き刺さり、雷太は優越感と同時に「中身は男の幼馴染なんだけどな……」という謎の背徳感に苛まれることになった。

 

 

 

 そして、雷太の理性が最大の危機を迎えたのは、夏休みに入ってすぐの『市民プール』でのことだった。

 

「お待たせしたでござる、雷太殿!」

 

 更衣室から現れた公彦の姿を見た瞬間、雷太の思考は完全にフリーズした。

 普段のダボっとしたセーラー服や和装に隠されていて分からなかったが、公彦の身体は、同年代の女子と比べても明らかに『規格外』の暴力的なプロポーションを誇っていた。

 色白の肌に映える、黒のビキニ。こぼれ落ちんばかりの豊かな双眸に、きゅっと引き締まった細い腰。そして、スラリと伸びた足。

 

「ど、どうでござるかな……? ちょっと、布面積が少なすぎたでござろうか……」

 

 恥ずかしそうに身をよじり、上目遣いで尋ねてくる公彦。その破壊力たるや、核弾頭クラスである。

 

(あいつは男だあいつは男だあいつは公彦だ幼馴染だ中身はオタクだあいつは男だ――ッ!!)

 

 雷太は視線のやり場に困り、あらぬ方向を向きながら、心の中で般若心経のように必死に念仏を唱え続けていた。

 プールの水は冷たいはずなのに、雷太の身体は変な熱を帯びて火照りっぱなしだ。スライダーで密着するたびに、柔らかな感触が腕に押し付けられ、その度に雷太の寿命と理性がゴリゴリと削られていく。

 

「雷太殿? なんだか顔が真っ赤でござるよ? もしかして、のぼせてしまったでござるか?」

 

「だ、誰のせいだと思ってんだ!! くっつくな!! 離れろ!!」

 

「むふぅ……照れ隠しが激しいでござるなぁ」

 

 必死に自分を律しようと距離を取る雷太の姿を、公彦はからかうように、しかしどこか嬉しそうに微笑ましく眺めていた。

 

 

 

 ――そんな風に、二人の関係は歪ながらも、確かな絆を取り戻しつつあった。

 このまま平穏で、少しだけ刺激的な日常が続いていくのだと、雷太は疑っていなかった。

 

 二人に予想外のハプニングが起きたのは、お盆のビッグイベント――『夏コミ』の準備を手伝うため、雷太が初めて『乙太家』の敷居を跨いだ時のことだった。

 

 

     * * *

 

 

 蝉時雨が遠く聞こえる中、カコォン、と涼やかな鹿威しの音が響いた。

 

 広大な塀で仕切られた、時代劇にでも出てきそうな純和風の広い屋敷。美しく手入れされた庭には、見事な枯山水が広がっている。

 そんな庭を一望できる、およそ客室とは(ましてや高校生を通す部屋とは)思えないほど広大で荘厳な和室。

 その中央にポツンと置かれた高級そうな座布団の上に正座しながら、雷太はヒリヒリとした場違い感に苛まれていた。

 

(なんだよ、この家……ヤクザの組長でも住んでんのか……)

 

 額に滲む汗を拭いながら、屋敷の主人が戻ってくるのを待つ。

 小学生の頃、公彦が引っ越す前に住んでいたのは、どこにでもある普通のごくありふれた一軒家だったはずだ。それがどうしてこんな豪邸に変わっているのか。

 

「退魔師ってのは、そんなに儲かるのかねぇ……」

 

 誰にともなく、ぽつりとこぼした時だった。

 スーッ、と。よく手入れされているであろう襖が、滑るように軽い音を立てて開いた。

 

「おまぁ〜たせでござるっ☆」

 

 格式高い和室の空気を木端微塵にぶち壊す、能天気な声。

 そこに姿を現したのは、この厳かな屋敷以上に場違いな代物だった。

 

「ぶっ……! ゲホッ、ゴホッ! お前、なんだその格好……!?」

 

 思わずむせて咳き込む雷太の視線の先。

 お盆に乗せた冷たい麦茶を運んできたのは、露出度が無駄に高く、防御力など皆無に等しい『ハイレグ女騎士』のコスプレ衣装に身を包んだ公彦だった。

 

 二人の共通の趣味である大人気ソーシャルゲームのキャラクターだ。

 しかし、二次元のイラストを三次元に持ってきたとは思えないほどの完成度。

 呪いによって形作られたその『わがまますぎるボディ』は、布面積の極端に少ない衣装を完璧に着こなしており、動くたびに豊満な胸と太ももがこれでもかと主張してくる。

 

「でゅふふ! このキャラ、雷太殿も好きでござろう? 装飾が多くて、衣装を作るのにはかなり苦労したでござるぅ」

 

 ウインクを飛ばしながら、公彦はニヤニヤと悪戯っぽい笑みを浮かべて雷太の前に麦茶を置いた。

 雷太は真っ赤になった顔を手で覆い、指の隙間から半眼でそのあられもない格好をジロジロと睨みつける。

 

「心臓に悪いっての! というか、コスプレもすんのかよ。……いよいよ無敵だな、お前」

 

「ふふん、コミケでは同人誌の作者兼売り子として、中々ウケが良いのでござるよ? この身体の体型維持にも、かなり気を使ってるでござるからな。元の身体と同様、気を抜くと太りやすい体質でござるからして」

 

「お前、本当にそれでいいのかよ……中身男だぞ……」

 

 もはやツッコむ気力も失せ、雷太はため息混じりに麦茶を煽った。

 冷たいお茶で少しだけ頭を冷やした雷太は、ふと気になっていた疑問を口にする。

 

「お前さ。……いつから、ずっとその姿なのさ」

 

「ん?」

 

「あの『咒具』ってやつの呪い、一日で元に戻るんだろ? なら、毎日毎日わざわざ変身し直してるってことか?」

 

 雷太の問いに、公彦はハイレグ姿のまま「うーん」と少し考え込むように天井を見上げた。

 

「ぁー、正確には覚えてないでござるなぁ。……おおよそ、四年間は戻っておらぬでござる」

 

「……は? よ、四年!?」

 

「左様でござる。そのうちの最初の二年は、拙者の猛修行と、外なる霊の『大規模侵攻』が重なった故、そもそも呪いを解いて休む暇がなかったでござるが。……その後の二年は、まぁ、この前申した通りの理由にござる」

 

 たはは、と。

 照れ隠しのように笑いながら公彦がこぼしたその事実に、雷太は言葉を失った。

 

 二年間の、猛修行と大規模侵攻。

 自分が不良ごっこに現を抜かして燻っていたあの時間に、公彦は文字通り血反吐を吐くような特訓を積み、そして、戻る暇もないほどの過酷な死線をくぐり抜けてきたのだ。

 

(本当に、俺の知らない戦いを、たった一人で生き抜いてきたんだなぁ……)

 

 目の前で揺れるふざけた女騎士の衣装の下に、どれほどの重圧と覚悟が隠されているのか。雷太には想像もつかなかった。

 

「……そんだけ、退魔師ってのも人材不足なのか? そんなガキまで駆り出されるくらいに」

 

「まぁ、戦力はあるに越したことはないって所でしょうな」

 

 公彦は座布団の端にちょこんと座り、自分の分のお茶を啜った。

 

「ただ、『犠牲者』は出ても、『死人』は意外なくらいに出ていないんでござるよ。むしろ、嫌になって辞めていった人材の方が多すぎて、家には強力な咒具が余りまくっている有様でござるからして」

 

「……犠牲者は出るのに、死人は出ない? なんだそりゃ」

 

 雷太は怪訝な顔をした。

 普通、化け物との戦いで犠牲になるといえば『死』を意味するはずだ。

 死人は出ないのに、辞めていく人間が後を絶たない。その矛盾した言葉の意味が、雷太には全く理解できなかった。

 

「はっはっは! 雷太殿には分からなくて良い世界でござるよ! さぁさぁ、新刊の脱稿に向けて、トーン貼りを手伝ってもらうでござる!」

 

 愉快そうにカラカラと笑う公彦の含みのある言葉。

 雷太は首を傾げながらも、公彦のペースに巻き込まれるように原稿用紙の束を押し付けられるのだった。

 

 

     * * *

 

 

 庭から聞こえていた蝉時雨も、奥の部屋へ移ると遠い波音のように小さくなった。

 

 広大な屋敷の一室。二人が作業する部屋は、ひどく静かだった。

 両親や他の家族がいる気配もないし、公彦が以前自慢していた「お手伝いさん」たちの気配すらない。広すぎる空間に、カリカリとペンが走る音と、カッターでトーンを切り抜く僅かな摩擦音だけが響いている。

 おそらくは、雷太が居心地悪くならないよう、二人きりになるために公彦自身が気を遣って人払いをしたのだろう。

 

(……それなら、夏コミの準備ごと誰かに頼めばいいのに)

 

 そんな無粋なツッコミは、喉の奥に飲み込んだ。

 実際、雷太自身もこの静かな時間が嫌いではなかったし、何より公彦が描き上げた同人誌の原稿の出来栄えに、素直に感心させられていたからだ。

 指定された箇所にスクリーントーンを貼りながら、雷太はチラリと、向かいでペンを握るハイレグ女騎士(公彦)の真剣な横顔を見た。

 

「――そうだ。見てみるでござるか、雷太殿。『咒具』を」

 

 ふとペンを止め、公彦が唐突に切り出した。

 

「えっ……見ていいもんなの?」

 

 雷太は弾かれたように顔を上げ、目を輝かせた。

 本音を言えば、あの日高架下で見せられた大口径リボルバーの自律変形ギミックは、雷太の奥底で燻っていた少年心を鷲掴みにしていたのだ。

 現代兵器の常識を覆す、化け物と戦うための未知の武器。興味がないわけがなかった。

 

「でゅふふ、少しなら構わぬでござるよ。案内するでござる」

 

 立ち上がった公彦に連れられ、雷太は屋敷のさらに奥深くへと足を踏み入れていく。

 純和風の廊下を進むにつれ、周囲の様子は徐々に異質なものへと変わっていった。

 隠し扉のような分厚い金属の壁が現れ、公彦がパネルに手をかざすたびに、霊的スキャンや静脈認証らしき重々しいセキュリティシステムが次々と解除されていく。

 

「な、なぁ……いくらなんでも、勝手に入って大丈夫なのか? ご両親に相談とかしなくて……」

 

 あまりの厳重さに恐れをなし、雷太が小声で尋ねる。

 すると、公彦は振り返り、悪戯っぽく、しかしどこか凄みのある笑みを浮かべた。

 

「むふ。拙者、この乙太家で最強の『当主』ですゆえ、ご安心召されよ。そこらの咒具が発する悪影響も、拙者が完璧にシャットアウトするでござる」

 

「当主……最強?お前が……?」

 

 その事実の重さに雷太が息を呑んだ直後、ピーッという短い電子音とともに、最後の分厚い隔壁が「シュゥゥッ」と鋭い排気音を立てて左右に開いた。

 

「――っ」

 

 扉の向こうに広がっていた光景に、雷太は言葉を失った。

 

 一面白い特殊な壁材に覆われた、無機質でひんやりとした長い通路。

 その両脇には、等間隔に円柱形の白い土台がズラリと並んでいる。

 そして、それぞれの土台の上には、淡く発光する球状のエネルギーフィールドが展開されており、その中に古今東西の様々な『武具』が浮かび、緩やかに回転していた。

 

 日本刀、西洋剣、槍、弓、奇妙な形をした銃器、そして用途すら不明な装身具の数々。

 

 それは、古い『呪いの具足の倉庫』と呼ぶには、あまりにも近未来的で、システマチックな空間だった。

 血生臭さやオカルトじみたおどろおどろしさは微塵もない。

 むしろ、その冷徹なまでの機能美は、公彦が身を投じている世界が『おとぎ話のファンタジー』などではなく、『どこまでも合理的でなければ生き残れない、リアルの戦場』であるという圧倒的な説得力を放っていた。

 

「凄え……」

 

 雷太は呆然と呟きながら、陳列された武具の間をゆっくりと歩いた。

 

「これら一つ一つが、退魔師の歴史を記憶する特殊な霊的コンピューターであり、我らの武器なんでござる。そして、それぞれが強い意思を持ち、自らに相応しい『主』を待ち構えているのでござるよ」

 

 公彦が背後から説明を添える。

 

「……もしかしたら、雷太殿もこの中に合う子がいたりして、ござってな」

 

 公彦は冗談めかしてカラカラと笑いながらそう言った。

 だが、その声のトーンには、雷太を『一般人』として線引きし、この過酷な世界には関わらせまいとする、どこか突き放したような響きが含まれていた。

 

 雷太はピタリと足を止め、ムッとして振り返った。

 

「なんだよそれ。俺が最初から蚊帳の外で、絶対に選ばれねえみたいに言うなよ」

 

「あぁっ、失敬! そういうつもりで言ったんじゃなかったでござる! ただ、ここの武器たちはどいつもこいつも、そう簡単には使用者に心を開かないじゃじゃ馬ばかりなのでござるよ。だから、見るだけなら安全に……」

 

 慌てて弁解しようと、公彦が口を動かし続ける。

 だが。

 

「――――?」

 

 不意に。

 目の前で話す公彦の声が、ぐにゃり、と水中に潜ったように遠く、不明瞭になった。

 

(……え?)

 

 耳鳴りかと思った。しかし違う。

 周囲の音が急速にフェードアウトしていく中、自分の心臓の鼓動だけが、やけに大きく、ゆっくりと耳の奥で鳴り響き始める。

 

 ドクン。

 

 ドクン。

 

『――――』

 

 声にならない、音波ですらない『何か』が、雷太の脳のど真ん中を直接撫でた。

 

(呼ばれて、る……?)

 

 直感だった。

 背中を粟立たせるような、強烈な引力。

 公彦の静止の声も、警告も、もはや雷太の意識には届いていない。

 

 雷太は、まるで何かに操られるように、ゆっくりと、極めてゆっくりと。

 スローモーションのような時間の中で、背後の列の、さらに奥の土台へと首を巡らせた。

 

 視線の先。

 淡いエネルギーフィールドの中に浮かんでいたのは、巨大な剣でも、凶悪な銃でもなかった。

 

 それは。

 あの日、空き教室で公彦が見せてくれた『兎の足』のキーホルダーによく似た。

 

 鋭く湾曲した、一対の獣の『牙』のようなアクセサリーだった。

 

 

 

 

(――しまった)

 

 乙太公彦は、血の気が引く思いだった。

 しかし、手を伸ばすのも、声を上げるのも、何もかもが遅すぎた。

 

 前例のないことだった。

 意志を持つとはいえ、あくまで道具である『咒具』の方から、人間の方に直接語りかけ、魅入るなんて事例は、退魔師の長い歴史の中でも聞いたことがない。

 止めようと雷太の肩へ伸ばした手が、永遠にも等しいほど無限に遠く感じられる。それは強大な咒具が発する空間干渉の能力か、それとも極限の焦燥が生み出した公彦の感覚の加速なのか。

 

 そもそも、雷太をこの武器庫に連れてくるべきではなかったのだ。

 公彦は決して、彼をこちらの『血生臭い世界』へ引きずり込みたかったわけではない。

 むしろ、逆だ。こんなにも冷酷で、人間離れした兵器が並ぶ現実を見せつけることで、暗に「お前が踏み込んでいい領域ではない」と線引きをするために此処へ呼んだのだ。

 手を出せない、到底手の届かない世界があることを知って、ただの一般人である彼には、彼が本来生きるべき世界で、もっと自分の可能性を拡げてほしかった。

 

 しかし、コンマ数秒のうちにどれだけ言い訳を思考しようとも、最早それは無意味だった。

 公彦の静止の声が届かぬまま。

 吸い寄せられるように土台の前に立った雷太は、虚ろな目をして、その『決定的な言葉』を口にしてしまったのだから。

 

「――装、来(ソウライ)」

 

 パリンッ!!!

 

 一対の獣の牙を包み込んでいた球状のエネルギーフィールドが、ガラスのようにひび割れ、けたたましい音を立てて砕け散った。

 

 直後、解放された莫大な霊力が、荒れ狂う雷のようなエネルギーとなって雷太の身体を包み込む。

 黄金色の奔流が、無機質な巨大倉庫を真昼のように染め上げた。

 

「雷太ど……っ!? ぅあっ、風圧が……! そ、装来!!」

 

 爆発的な霊力の突風に吹き飛ばされそうになり、公彦は咄嗟に防衛本能を働かせた。

 光に包まれ、自らも戦闘形態――ハイレグ女騎士から、抹茶色の和風ドレスへと瞬時に『装来』し直し、タヌキの尻尾でバランスを取りながら床に両足を踏ん張る。

 

 もはや雷太の姿は、黄金の雷光の渦の中に呑み込まれて見えない。

 公彦の胸の中で、罪悪感が早鐘のように暴れ回る。

 いけない。早く止めないと。このままでは、一般人である雷太の精神が原典クラスの強大な咒具に耐えきれず、完全に焼き切れてしまう。

 

「雷太殿! 待って、待ってくだされ! そんなつもりじゃ……止まって!!」

 

 公彦は掌に自らの霊力を乗せ、嵐の中へ飛び込もうとする。

 暴走する咒具と、それに呼応して吹き上がる雷太の潜在霊力を外側から力ずくで抑え込もうとした。

 しかし、押し返される!驚くべきことに、その霊的資質はベテランである公彦の干渉すら弾き返すほどの凄まじい密度だった。

 

(まさか、本当に……雷太殿はこれほどの『才能の原石』でござったか!?)

 

 バチンッ!!!

 

「うぁっ!?」

 

 強烈な静電気のような衝撃に弾かれ、半歩ほど吹き飛ばされそうになった公彦は、たまらずのけ反った。

 そして。

 バチバチと音を立てて弾け飛んだ雷の霊力が晴れた後。公彦がそこで目にしたのは――。

 

「…………へ?」

 

 それは、見事なまでの『変身(TS)』の完了だった。

 

 元の褐色の肌とは相反する、透き通るような色白の柔肌。

 身体のラインを極限まで強調する、露出度の高い純白のハイレグレオタード。

 その上には、くノ一か花魁を思わせるような、豪奢な刺繍の施された和装の上着を肩まではだけて羽織っている。

 頭には、色素の薄いサラサラの金髪と、『兎の足』を連想させる、長い兎の耳。

 

 華奢な体型でありながら、どこか得も言われぬ妖艶な色気を纏った『金髪のバニーギャル』の姿。

 そして彼女(彼)の眼前の空中には、あの獣の牙が、獰猛なコンバットナイフのような形状に変形した咒具として、静かに二振り浮かんでいた。

 

 それが、雷太の――自らの因果によって引き寄せてしまった、呪われた姿だった。

 

「――はれ?」

 

 ふと。

 先ほどまで何かに取り憑かれたように虚ろだった顔が、パチ、と瞬きをした。

 そして、まるで昼寝から覚めたような、間抜けな声が漏れる。

 

「ら、雷太、殿……?」

 

 呆気にとられた公彦が恐る恐る声をかけると、ふわりと宙に浮いていた雷太(少女)の身体は、突然重力に従ってガクンと落ち、慌てて「うわっ、とと……」とよろけながら床に踏ん張った。

 

「えっ……なんだこれ、視界が低い……ていうか公彦、お前なんかデカくなってね?」

 

 自分の身体に起きている異常にまだ全く気づいていない様子で、雷太は自分の喉をさすりながら首を傾げる。

 

「ていうか、俺……なんか、声が高ぇ……?」

 

「…………はぁぁぁぁぁっ」

 

 呆然としていた公彦は、すべての緊張の糸が切れ、深々と特大のため息をつきながら頭を抱えてしゃがみ込んだ。

 最悪の事態(廃人化)を免れた安堵と、この取り返しのつかない状況への頭痛が入り混じる。

 

「そうくるでござるか……そう来たでござるか、雷太殿……」

 

「お、おい公彦? どうしたんだよお前、タヌキの姿に戻って」

 

「バニーでギャルかぁ……雷太殿のイメージが具現化した結果とはいえ、めちゃくちゃ似合うと思うのが口惜しいでござるっ……!」

 

 悔しそうに、しかしオタクの悲しい性として『非常にクオリティが高い』と素直な感想をこぼしながら、公彦は近くのコンソールパネルを操作した。

 ウィーン、と音を立てて壁の一部が展開し、雷太の目の前に、大きな姿見の鏡が現れる。

 

「……ん?」

 

 雷太はそっちへ振り返り。

 鏡に映った『色白金髪のえっちな和風バニーギャル』と、バッチリ目が合った。

 

「……………………」

 

 雷太は、完全に固まった。

 そのまま微動だにせず。数秒の沈黙の後――さーっ、と潮が引くように、その端正なギャルの顔が真っ青に染まっていった。

 

 

 

「こっ、これっ……俺、これ、俺ぇ!?」

 

 鏡の中の『色白金髪バニーギャル』が、雷太と全く同じように口をパクパクと動かしているのを見て、ついに雷太の口から言葉にならない悲鳴が弾け飛んだ。

 ポロポロと、大粒の涙が金髪の睫毛を濡らしてこぼれ落ちる。

 

「う、うわぁぁぁん! なんだよこれぇ、俺、男なのにぃ……っ!」

 

 呪いの影響による『女体化』は、身体だけでなく自律神経やホルモンバランスにまで急激な変化をもたらす。

 そのため、変身直後は感情の起伏が激しくなり、涙腺がバカになってしまう退魔師も一定数いるのだ。

 雷太もその例に漏れず、悲しくもないのに勝手に溢れてくる涙に、さらなる戸惑いとパニックを加速させていた。

 

「お、おおお落ち着くでござる雷太殿! こういう時は深呼吸して、落ち着いて素数を数えるでござるよ! 2、3、5、7……」

 

「孤独な数字でも癒せないもんはあるだろこれぇ! ひっく、なん、なんでこんな格好……っ」

 

 わたわたと手を振り回して宥めようとする公彦に、雷太は泣きそうな顔(というか完全に泣いている顔)で縋り付くように見上げた。

 その時だった。

 

『ウゥゥゥゥ――――ン……ウゥゥゥゥ――――ン……』

 

 遠くから、地の底を這うような不気味なサイレンの音が響いてきた。

 

「うわぁっ!? こんな時にやめてほしいでござる!?」

 

「な、何だよこの音……ひっ、聞いたことねぇ……」

 

 市役所の防災無線のチャイムとも、パトカーや救急車のサイレンとも違う、耳の奥に直接こびりつくような奇妙な音。

 雷太は咄嗟に両手で耳を塞ごうとしたが、側頭部にある人間の耳に手を当てた後、頭頂部に生えている長い『兎の耳』の方にも慌てて手を伸ばす。

 

「……どっちも聞こえるぅ……っ」

 

「えーと、あれは退魔師にだけ聞こえる、外なる霊が人を襲って暴れてる合図でぇ……」

 

 公彦は気まずそうに視線を泳がせ、腰に提げたスマホのような通信端末をチラリと見た。

 

「拙者、ちょっと行って祓ってこなきゃいけないでござるが……雷太殿! とにかく、今のその状態では絶対にこの家から出ちゃだめでござるよ!?」

 

「えっ……」

 

「二次性徴期を過ぎた退魔師――つまり、今の雷太殿のように『完成された女体』を持つ者は、奴らにとって極上の獲物なのでござる! 外に出れば滅茶苦茶に狙われるでござるからな! 絶対、絶対に敷地の外に出ちゃだめでござるよ!?」

 

「そ、そんな事言われても……どのみちこんな、股の切れ込みがヤバい格好じゃ、外なんか出られねぇよぉ……っ」

 

 うるうると涙を浮かべ、内股になって太ももを隠そうとするバニーギャル雷太。

 そのあまりにも無防備で可憐な泣き声と仕草に、公彦は理外の庇護欲を滅茶苦茶に刺激され、「うぐぅっ」と謎の呻き声を上げて胸を押さえた。中身が幼馴染の男だと分かっていても、呪いが作り出したこの造形美はあまりにも危険すぎる。

 

 しかし、再び鳴り響くサイレンの音が、公彦に無情にも出撃を促した。

 

「くっ……『解除(リリース)』って、戻れと強く念じながら言えば、服装だけでも元に戻るでござるから! ここで待ってるでござるよぉ!?」

 

「ぇぇぇ……やだ、一人にすんなよぉ……っ」

 

 そう言い残し、公彦は後ろ髪を引かれるように、ちょくちょく不安そうな雷太の方を振り返っては、ええいと未練を振り払うようにバタバタと武器庫を飛び出していった。

 

 玄関の引き戸が、がラララ、パタン、と無慈悲な音を立てて閉まる。

 近未来的な静寂の空間に、露出度の高いバニー姿のまま、ぽつんと一人取り残された雷太。

 

「…………公彦ぉ」

 

 雷太の心細げな呟きだけが、冷たい壁に虚しく吸い込まれていった。

 

 

     * * *

 

 

 公彦が去った後の巨大な武器庫。

 無機質な静寂に包まれた乙太亭の地下で、一人取り残された雷太は、とりあえず公彦に教えられたキーワードを、強く念じながら口にした。

 

「……っ、解除(リリース)!」

 

 ぱぁっ、と。

 雷太の華奢なギャルボディを黄金色の光が包み込み、パキンッ、と薄氷が割れるかのような甲高い音と共に、露出度の高かったバニースーツが砕け散った。

 

 光が収まると、雷太の身体には、今日ここへ来る時に着ていた自分の服――ダボっとしたTシャツと、ゆったりとしたカーゴパンツが戻ってきていた。

 耳と尻尾はまた違う扱いなのかそのままである。

 

「……はぁ。とりあえず、あのケツ丸出しの格好からは解放されたか……」

 

 ホッと息を吐き出す雷太。しかし、すぐに猛烈な違和感に襲われた。

 ぶかぶかなのだ。

 元の雷太は、不良としてそれなりにガタイも良く、背も高かった。

 しかし、今の彼の身体は、線が細く小柄な美少女のそれである。

 

 Tシャツの襟ぐりからは華奢な白い肩が完全に露出してしまっているし、カーゴパンツに至っては骨盤のサイズが全く合っておらず、手で押さえていないと足首までストンとずり落ちてしまう。

 

「マジかよ……。一日、このまんまかよぉ……っ」

 

 こんな時ばかりは、無駄にデカく育っていた元の自分の身体を初めて恨めしく思い、そして、今やひどく懐かしくも思った。

 裾を引きずりながら、なんとか武器庫を出て廊下を歩き出す。

 

「公彦の奴、よく四年間もこんなの耐えて……っ!」

 

 ぶるっ! と。

 不意に、雷太の身体が大きく震えた。

 

 当たり前の帰結である。退魔師の戦闘衣装――『装来』状態のスーツは、霊的スキャンによって装着者の体調を完全に管理し、極限状態から身を護るための防具だ。

 当然、完璧な体温調節機能も備わっていた。

 しかし、それが解除され、隙間だらけのダボダボの服で冷房の効いた広い屋敷の廊下に立ち尽くしている現状。

 

 急速にお腹は冷え、代謝は変化し、自律神経が乱れた結果、必然的にやって来るのは――『強烈な尿意』だ。

 

「うっそだろオイ、嘘だろ!? このタイミングでかよ……っ!」

 

 雷太は顔を青ざめさせ、内股になってモジモジと身をよじった。

 しかも、元の男の身体の時とは勝手が違い、膀胱の容量が小さくなっているのか、それとも感覚が過敏になっているのか、我慢できる限界値が異常に低い気がする。

 

「やばい、漏れる、漏れるって……! 洋式! 洋式なら何とか……っ!」

 

 ズボンを手で必死に押さえながら、バタバタと乙太亭の広い廊下を走り回る雷太。

 幸運なことに、広大な屋敷にはトイレはいくつも設置されており、そのいずれもが最新設備の立派な洋式トイレだった。

 

「あったぁぁぁぁっ!!」

 

 砂漠のど真ん中でオアシスを見つけたような、歓喜に満ちた顔で嬉々として個室へ駆け込む雷太。

 便座のフタが自動でウィーンと開く最新設備に感動すら覚えながら、急いでぶかぶかのズボンと下着を下ろした。

 

 しかし。

 彼は知る由もなかったのだ。

 

 用を足すというごく当たり前の日常行為自体が、今の己の現状――『自分が完全に女になっている』という事実を、鏡を見るよりも遥かに生々しく、ショッキングな現実として脳に刻み込む儀式なのだという事を。

 

「あ……」

 

 便座に腰を下ろそうとして、雷太の動きがピタリと止まった。

 視線を落とした先。

 あるべきものが、ない。代わりに、見慣れない、そして絶対に見えてはいけない構造の柔らかな秘部が存在している。

 

「ど、どうやるんだよぉぉぉぉぉーーーー!!?」

 

 絶望に満ちた乙女の悲鳴が、無人の乙太亭に虚しく響き渡った。

 

 

 

     * * *

 

 

 

 数分後。

 息も絶え絶えになりながら、雷太は震える足を引きずって、公彦の作業部屋へとなんとか帰り着いていた。

 初めての経験による精神的・肉体的な疲労は凄まじく、雷太はフラフラと畳の上を歩き、そのままうつ伏せにバタンッと倒れ込んだ。

 

「…………っ」

 

 静かな和室。

 目の前の文机には、先ほどまで公彦が一生懸命にトーンを貼っていた、書きかけの同人誌の原稿が並べられている。

 丁寧に描かれたキャラクターたちの笑顔。それを描いていた、タヌキ耳の美少女のへにゃりとした笑顔が脳裏に浮かんだ。

 

「ぐすっ……ひっく……っ」

 

 またしても、雷太の目から大粒の涙が溢れ出し、畳にぽたぽたと染みを作っていく。

 

(なんだよこれ……めちゃくちゃ不便じゃねえか……)

 

 情緒は勝手に乱れるし、力は出ないし、服は合わないし、トイレに行くのすら一苦労で、自分の身体なのに全く自分のものじゃないみたいに気味が悪い。

 雷太は今日たった一日、いや、ほんの数十分この姿になっただけで、心が折れそうになるほどの強烈なストレスと違和感を感じていた。

 

「……公彦、お前……」

 

 雷太は、ギュッと拳を握りしめた。

 これは、自らの変わり果てた女体を嘆く涙ではなかった。

 

「お前……ずっと、こんな身体に縋って、生きて来たのかよぉ……っ」

 

 雷太の脳裏に、あの「どんなに努力しても中身を否定された」という公彦の凄絶なトラウマの告白がフラッシュバックする。

 こんなにも不便で、心が不安定になって、自分のアイデンティティが崩壊しそうになる『呪い』の姿。

 それでも公彦は、あの冷酷な拒絶の言葉から身を守るために、この姿に逃げ込み、縋り付き、雷太の前ではあんな風に明るく笑って見せていたのだ。

 

 その心の傷の深さと、絶望の重さ。

 それを今、身をもって知ってしまったからこそ。

 

「うっ、うぅぅ……っ、公彦ぉ……っ」

 

 雷太は、幼馴染の痛みを自分のことのように想い、ダボダボのTシャツの袖で顔を覆いながら、誰もいない部屋で声を出して泣きじゃくった。

 

 

 

     * * *

 

 

「ほいほい、ほいっと!」

 

 薄暗い路地裏。化け物の張った結界に閉鎖された空間を、抹茶色の和風ドレスが軽やかに舞っていた。

 壁や電柱にびっしりと根を張り巡らせた、巨大な粘菌型の『外なる霊』。

 そこから全方位に向けて放たれる無数の触手の猛攻を、乙太公彦はまるで児戯でもあしらうかのように、ふわり、ふわりと最小限の動きで掻い潜っていく。

 ただの退魔師であったのなら、瞬く間にからめとられ窮地に陥っているであろうそれを、公彦は余裕で躱していた。

 タヌキの尻尾で空中のバランスを取りながら、壁を蹴って高く跳躍する。

 指先でクルリと大口径のリボルバーを回転させ、一瞬の隙を突いて銃口を向けた。

 

「そこっ!」

 

 ダァンッ! という轟音と共に放たれた銀弾が、粘菌の網目を縫うように真っ直ぐに突き進む。

 敵の展開したあらゆる防御障壁を紙のように打ち破り、その奥深く、脈動する『核』のあるべき場所を見事にえぐり出した。

 

 バキンッ! と。

 硬質な何かが砕け散る音が路地裏に響く。直後、巨大な粘菌の化け物は動きを止め、ボロボロと崩れ落ち始めた。

 

「…………む?」

 

 さらさらと、まるで乾燥した砂のように崩れていく粘菌の残骸。

 しかし、その光景を見て、公彦の足は着地と同時にピタリと止まった。

 

 外なる霊の汚染された飛沫を吸い込まないよう、和服の長い袖で口元を覆いながら、公彦はたった今一瞬だけ見えた光景に思案を巡らせる。

 手応えが、軽すぎた。

 それに、霊の死骸が溶けて消えるのではなく、ただの物質的な『砂』になって崩れ落ちたのだ。

 

(あれは、核じゃなかったでござる。……自らの『脱皮した抜け殻』に、そう見せかけた簡単なエラープログラムを打ち込んで、自律駆動させていただけの囮でござるな?)

 

 背筋に、冷たい汗が伝った。

 囮を使ってまで、ベテランである公彦の足止めをしたかったのだとしたら。

 では、知能を持ったこの『本体』は、一体何処へ向かったというのか。

 

(……しまった)

 

 強烈な、吐き気を催すほどの嫌な予感が公彦の脳天を突き抜けた。

 今、あの広大な乙太亭には、誰の庇護も受けられない、生まれたてで無防備な『極上の獲物』がたった一人で取り残されている。

 

「――雷太殿!!」

 

 公彦の焦燥に満ちた叫び声が、路地裏に虚しく響いた。

 

 

     * * *

 

 

 一方、その頃。

 乙太亭の姿見の前に立つ雷太は、公彦の危機感など露知らず、現状の『物理的な問題』と格闘していた。

 

「よいしょ……っと……。よし、こんなもんか。これでずり下がらねえだろ」

 

 ぶかぶかだったTシャツの裾をギュッと絞って腰の横で固く結び、カーゴパンツはベルトを限界までキツく締めて、余った裾をロールアップする。

 結果として、雷太の格好は『お腹周りを大胆に露出した、ストリート系のヘソ出しルック』のようになっていた。

 色白の肌に、キュッと引き締まった細いウエスト。金髪とウサギ耳という奇抜な容姿も相まって、いかにも『ちょっと派手でえっちなギャル』という見事なファッションとして成立してしまっている。

 

 雷太は姿見の前で、右を向いたり、左を向いたりして、自らの身体のラインを確認した。

 腰に手を当てて、少しお尻を突き出すようなポーズなんかをとってみたりする。

 

(……意外と、悪くねえじゃん)

 

 まんざらでもない顔で、鏡の向こうの自分に見惚れていた雷太だったが――数秒後。

 

「――って、いや何やってんだ俺!? 馬鹿か! 気持ち悪りぃっ!!」

 

 ハッと我に返り、耳の先まで真っ赤にしてブンブンと首を振った。

 呪いのせいか、それとも元の容姿へのコンプレックスの裏返しか。順応が早すぎる自分に寒気を覚え、雷太が両手で顔を覆ってしゃがみ込んだ、その時だった。

 

『えーん……えーーん……っ』

 

 夜の静寂を切り裂いて。

 子供の、幼い女の子の泣き声が、乙太亭の立派な塀の向こうから聞こえて来た。

 

「……え?」

 

『怖いよぉ、オバケが……オバケが襲ってきたよぉ……誰か、誰か助けてぇ……ぇーーーん……っ』

 

 悲痛で、恐怖に震えながら、誰かに助けを求めるような弱々しい声。

 オバケ。その言葉を聞いて、雷太の脳裏に先程の公彦の切羽詰まった言葉がフラッシュバックした。

 

『完成された女体を持つ者は、奴らにとって極上の獲物なのでござる!』

 

(……意味はよく分かんねえけど、あの化け物は『女』を襲うのか……?)

 

 塀の向こうの声は、どう聞いてもまだ幼い子供だ。

 しかし、『女』という条件には矛盾していない。もしかしたら、あの子もあの気持ちの悪い化け物に狙われて、逃げ惑っているのではないか。

 

 助けなきゃ。

 雷太の身体が、本能的に玄関の方へと向き直る。しかし、踏み出そうとした足がピタリと止まった。

 

『絶対に敷地の外に出ちゃだめでござるよ!?』

 

 釘を刺すような、公彦の真剣な警告。

 それに、自分は今、武器も持っていない、ただの無力な『女の子』だ。出て行ったところで、足手まといになるだけかもしれない。

 

「……そうだ。公彦だったら、そんなにかかんねえだろ。最強の当主って言ってたし……。なら、俺が行く必要なんて……」

 

 自分に言い聞かせるように呟き、雷太は拳を固く握りしめた。

 それでも。

 

『助けてよぉ……パパぁ、ママぁ……おにいちゃん……っ』

 

 微かに震えるその懇願の声が、雷太の鼓膜を、そして心の一番柔らかい部分を無慈悲に抉った。

 かつて、自分が身代わりにした幼馴染。

 そして、庇えなかったかもしれない自分の妹。

 弱者が理不尽に虐げられ、泣いている。

 その状況を前にして、安全な場所で耳を塞いで震えているなんて、そんな『だせえこと』は――今の雷太には、絶対にできなかった。

 

「…………ああ、もうっ!!」

 

 雷太は乱暴に頭を掻き毟った。

 

 ほんの少しだけ。

 あの子の手を引いて、この結界の張られた屋敷の敷地内へ避難させたら、絶対にすぐ戻る。

 それだけだ。

 雷太はそう心に決めて、玄関の重い引き戸に手をかけ、勢いよく外の世界へと開け放った。

 

「いざとなれば……俺だって、行けるのか?」

 

 人間としての耳に揺れる、ピアスに変えた牙の咒具にそっと触れながら、雷太は恐る恐る門扉の隙間から外へ顔を出した。

 そこには、立派な塀のすぐ外側の路上で、膝を抱えて泣きじゃくる赤いワンピースの女の子の姿があった。

 

「ぇーーーん、ぇーーーん……っ」

 

「お嬢ちゃん! そこに居ちゃだめだ、こっちへ……こっち来い! ここは安全だから!」

 

 手を伸ばし、必死に呼びかける雷太。

 

(って、これ、金髪バニーギャルの俺が言っても、やべえ奴にしか聞こえねえか……?)

 

 一瞬の自問自答。すると、女の子の方が膝に顔を埋めたまま、ポツリと声を出した。

 

「……泥で、汚してて動けないの。……おねえちゃん、おぶって?」

 

 その幼く可哀想な言葉に、雷太は頭を抱えて深いため息をついた。

 

「お姉ちゃんじゃ……いや、今はそうか。……ったくよぉ、仕方ねえな」

 

 警戒心を解き、雷太が門扉から完全に身を乗り出し、女の子へと手を伸ばそうとした、その瞬間だった。

 

『クススッ……』

 

 突如として、膝を抱えていた女の子の肩が揺れ、嗤い声を上げた。

 

――直後。

 

『――System Alert.  Phobia_Texture_Archive [Pedophobia.zip] ... Unpacking.  Virtual_Entity_Drive [Konaki-Jiji] ... Booting.』

 

 幼かった女の子の声が、突如として壊れたレコードのような、ノイズ交じりの無感情な機械音声へと変貌した。

 瞬間。

 雷太の身体が、一気に深海に沈められたかのような、息が詰まるほどの強烈な寒さと重圧に包まれる。

 

「―――っ!? そ、そうらい!?」

 

 裏返った声で、雷太は半ば反射的に叫んでいた。

 主の危機に呼応するように、耳元のピアスが黄金の雷速でコンバットナイフへと変形し、雷太の両手に収まる。

 だが、遅すぎた。

 ナイフを構えるよりも早く、赤いワンピースの裾から爆発的に伸びた無数の触手が、雷太の両手首を既にきつく絡め取っていた。

 

「ひっ!?」

 

 ぬぢゅり、と。  粘液に塗れた嫌な感触に両手を締め上げられ、雷太は悲鳴を上げようとする。

 だが、それより先に、大きく跳びかかってきた女の子の『顔』が雷太の眼前に迫っていた。

 顔など、無い。

 そこにあるのは、底知れぬ真っ暗な『孔(あな)』だけだった。

 その孔の中から、ピンク色のナメクジのような滑りを帯びた触手が無数に這い出してくる。

 その一本一本が、雷太の細い首、腰、肩、そして膨らみかけの胸を乱暴に掴み、そのまま石畳の上へと押し倒した。

 

「ひっ!? うぁ、あっ……!?」

 

 背中と後頭部を打ち付け、押し倒された雷太の口から、か弱い女の子のような悲鳴が漏れる。

 

「痛つつ……っひ、や、やめ……っ」

 

 涙目で目を見開いた先には、粘液を垂らす巨大な孔の顔が、雷太の鼻の先まで迫って見下ろしていた。

 顔はない。無いはずなのに、それは確かに『嗤った』と、雷太の脳は直感的に理解してしまった。

 

『めんこいのう、めんこいのう……。極上の良い苗床が、手に入るわい』

 

 それは、先程までの女の子の機械音声でもない。地底から響くような、しゃがれた老人の悍ましい声だった。

 ぞるっ、と。

 蠢く触手の束が孔から這い出し、悲鳴を上げようとした雷太の顔を隙間なく覆い尽くした。

 

「んむぐっ!? むぐ、ぶっ……んん゛っ……っ!」

 

 息ができない。

 鼻腔と口腔を塞がれる苦しさと、生温かい粘液の悍ましさに、雷太はパニックになり足をばたつかせる。

 しかし、吸盤のような触手に押さえつけられた華奢な身体は、ピクリとも動かせない。

 

(あ、やばい、これ、死ぬ!? いや、コイツ今、苗床とか言ったか!? おい、嘘だろ!?)

 

 ずりゅ、ずりゅ、と。

 触手が、雷太の全身を這い回る。胸を包む触手が絶妙な強さで双眸をこね回し、その敏感な先端をぬちゃりと這わせた。

 

「んん゛んっ~~~~~!!?!?(やめろっ、そこっ、ああっ!)」

 

 強制的な快感と悍ましい感覚に、雷太の腰がビクンッと跳ね、塞がれた口からくぐもった嬌声が漏れる。

 

『けへひゃはは……! 無駄じゃ、無駄じゃ! こんな極上の、それもなりたての柔い雌肉、手離すものか! 持ち帰る愚も犯さぬ。あの上級退魔師に狩られる前に、種だけでも残させてもらうわい!』

 

(……それって、おい、冗談だろう!? 俺、男だぞ!? どうなるんだそれ……いや、やめろぉ!!)

 

 中身は男だという叫びも虚しく。

 恐怖と凌辱に藻掻き、涙を流す雷太の股の間に、一際太く脈打つ触手が潜り込もうとした――その絶体絶命の、瞬間だった。

 

 ダァァァァァァァァァンッ!!!!

 

 銀色の閃光が、夜の闇を切り裂いた。  放たれた大口径の銀弾が、女の子の姿をした外なる霊の背中を、肉ごと大きく抉り飛ばしたのだ。

 

『ぎぃぇええええああああああっ!?』

 

 外なる霊は耳障りな悍ましい悲鳴を上げながら、ぐったりとした雷太を拘束から放り出し、大きく跳び退いて距離をとった。

 手負いの獣となった霊が、憎悪を込めて睨みつけたその視線の先。

 月明かりを背に、ゆっくりと歩み寄ってくる抹茶色の和風ドレスの影があった。  しかし、その纏う雰囲気は、先ほどまでのそれとは全く違っていた。

 

「げほっ……! えふっ、はぁ、はぁ……ぅ、きみ、ひ、こ……?」

 

 粘液塗れにされた顔でむせ返りながら、雷太は薄れゆく意識の中でその姿を見上げた。  そこに立っていた公彦の表情からは、いつものへにゃりとした人懐っこい笑顔は完全に消え失せていた。

 氷のように冷たい瞳が、鋭く敵を刺し貫いている。

 

 そして、その華奢な全身からは、雷太がこれまで感じたこともないほどの、圧倒的で純粋な『殺気』が立ち昇っていた。

 

「……覚悟は、いいな?」

 

 絶対零度の、冷え込むような声。

 その瞬間、公彦の姿がブレてかき消えた。

 一瞬にして外なる霊の至近距離へと間合いを詰めた公彦は、そのまま流れるような動作で、その悍ましい巨体をサッカーボールのように容赦なく上空へと蹴り上げたのだった。

 

 

『――かぁっ!!』

 

 

 しかし、敵もまた高度かつ陰湿に進化を遂げた外なる霊である。

 無様に空中に蹴り上げられながらも、無数の触手をパラシュートのように展開して姿勢制御を行い、底知れぬ孔の視界を地表の公彦へと向かわせた。

 そして、狙いを澄まし、槍のように硬質化させた数本の触手を、弾丸のごとき速度で撃ち下ろしてくる。

 

「シッ!」

 

 公彦は間髪入れずに放つ銀弾でそれらを幾つか撃ち落とすものの、だまし討ちと一瞬の攻防に特化した敵の悪あがきは鋭かった。

 封じきれなかった二本の触手が、鞭のようにしなって公彦の両手の甲を強かに弾き打つ。

 

「くっ……!」

 

 バチィッ! と火花が散り、強烈なしびれと共に公彦の握っていた二丁のリボルバー――咒具が弾き飛ばされ、夜の闇の中へ放り投げられた。

 相手は一瞬の隙を突いて捕食する化け物だ。武器の喪失は、文字通り致命的な隙となる。

 

「公彦ぉっ!!」

 

 地べたに倒れたまま、雷太が絶望の声を上げた。

 しかし、武器を手放した公彦の表情には、焦りも恐怖も一切なかった。

 雷太の悲鳴に構うことすらなく、公彦は静かに、ただ一言、凍りつくような声で囁いた。

 

「――来い」

 

 ギンッ!!!

 

 空間そのものを金槌で叩き割ったような、甲高く異質な金属音が響き渡る。

 次の瞬間、物理法則も因果律も完全に無視して、放り出されたはずの二丁の拳銃が一瞬にして公彦の両手の中に『戻って』いた。

 

『――!? なんて、卑怯な……っ』

 

 絶対の隙を作ったはずが、手品のように武器を取り戻した公彦を見下ろし、上空の外なる霊が唖然とノイズを漏らす。

 

 ダァン! ダンダンダンッ、ダァン!!

 

 宣告と共に、公彦の身体が独楽のように、あるいは演舞のように美しく回転する。

 踊るように乱射される銀の弾丸が、空中の外なる霊を容赦なく撃ち抜き、その悍ましい肉体を少しずつ、確実に削り取っていく。

 

『ギィィァァァァァァッッ!!?』

 

 空間に響き渡る、外なる霊の断末魔のような悲鳴。

 公彦は冷酷な眼差しのまま、両手に持った拳銃をカキンッ! と鋭く中折れさせ、空になった弾倉を一瞬でパージした。

 

「咒名、第一・第二開放。『贖い』『潰せ』」

 

 詠唱の言葉とともに、腰に備えた予備弾倉へと拳銃のシリンダーを直接ぶつけるようにして、神速のリロードを行う。

 その言葉に応え、主の怒りに呼応するように、二丁の拳銃は歓喜の唸り声を上げ、刀身のラインに禍々しいほどの紫色の光を灯した。

 

 ダッ、ダンッ!!

 

 放たれたのは、たった二発の弾丸。

 しかし、その内の一発は銃口から飛び出した瞬間に空間へと溶け込むようにかき消え――次の瞬間、外なる霊の『背後』の空間から、物理法則を無視して出現し、手前へと向かって飛んできた。

 

 そして正面から放たれたもう一発の弾丸。

 前後から迫る紫色の弾丸は、ただの『点』の攻撃ではなかった。

 それぞれが、目に見えない巨大な『平面状の力場』を形成しながら、外なる霊を完全に挟み込んだのだ。

 

『待っ――!!』

 

 迫る死の壁に、化け物が命乞いのノイズを発しようとした。

 だが、冷徹なる平面は止まらない。

 前後から莫大な運動エネルギーをそのまま叩きつけられ、二つの見えない壁に挟まれた外なる霊は。

 

 パァンッ!!!

 

 まるで風船が弾けるような乾いた音とともに、紙きれのように薄い平面の肉塊へと圧縮され、完全に叩き潰されたのだった。

 

 

     * * *

 

 

 ザーーーッ……。

 

 シャワーの音が、乙太亭の高級ホテルのように広い浴室に反響し続けている。

 流れ落ちる温かいお湯に身を任せて目を閉じながら、雷太は先ほどの、あまりにも一方的だった戦闘の顛末を思い返していた。

 

(……俺、何もできねえでやられて、公彦に助けられてばっかりじゃねえか)

 

 いや、今は女の子の身体になっているのだから、そうやって別の思考を巡らせでもして、現状から少しでも意識を逸らしていないと、恥ずかしくてしょうがないというのもある。

 しかし、それでも彼をこうして一目散にシャワーへと駆り立てたのは――顔面から全身の際どい部分までを穢された、あの悍ましい触手による蹂躙の嫌悪感から来るものだと、雷太は嫌でも自覚していた。

 

 洗っても洗っても、あの生温かい粘液の感触と、強制的に引き出されそうになった悍ましい快感の記憶が肌にへばりついて離れない。

 恐怖で涙を流し、ただ悲鳴を上げることしかできなかった自分が情けなかった。

 

「……はは、姿が女になったら、中身まで女々しくなるのか? この呪いは……いや、違うか」

 

 あの時、自分を助けるために見せた、公彦の氷のように冷たく、圧倒的に強かった横顔を思い出し、雷太はすぐに自らの呟きを否定した。

 女の姿だから弱いわけじゃない。公彦は、あんなにも強い。

 

「女々しいのは、身体じゃねえ。……俺自身か」

 

 そう自嘲して、シャワーの中で雷太が深く俯いた、その時だった。

 

「むぎゅっ」

 

 突如として。

 雷太の無防備な背中に、もにゅんっ! と、ひたすらにでっかくて、暴力的なまでに柔らかい感触が押し付けられた。

 

「ひうえ!?」

 

 変なところから出た間抜けな声とともに、雷太の顔がまたしても茹でダコのように真っ赤に染まった。

 

「おらおら〜、言いつけを護れない悪い子は此処でござるかぁ? 一人で落ち込んで、メンタル削がれてるんじゃないでござるよ、雷太殿ぉ〜」

 

「お、おわぁぁぁ!? な、なにをしちゅ、ぶわっ、むがっ、もがっ!?」

 

 人懐っこい声で言いながら、雷太の身体を背後から思い切り羽交い絞めにしてきたのは、いつものオタク女子の空気に戻った公彦だった。

 驚いて振り返ろうとした雷太の顔面に、容赦なく押し付けられたのは、公彦のあまりにも規格外な『お胸様』である。

 

 豊満すぎる果実に顔面をすっぽりと埋められ、息も絶え絶えになる。

 先程までの触手の悍ましい感触が、極上の柔らかさといい匂いによる幸せ(と致死量の恥ずかしさ)に瞬く間に塗りつぶされていきながら、雷太は湯気の中でくぐもった悲鳴を上げた。

 

「ぷはっ! おま、お前っ! いきなり風呂に入ってくんな! これは流石にライン越えじゃねえのか!?」

 

「何を言いますかな雷太殿。今はお互い、立派な『女』でござるよ? むしろこれで漸く、昔と同じように、同性の幼馴染として、今だけでも一緒にお風呂に入れるようになったんでござるからして。裸の付き合いと洒落込もうではごっざらっぬかぁ♡」

 

 今だけ。

 

 その言葉に、雷太の頭に生えた長いウサギ耳が、ピクン、と敏感に反応した。

 

「……まぁ、もう見れないのは惜しいところでござるが、その姿は退魔師だけが持つべき業でござる。その『咒具』を再封印する準備ももう整ったでござるよ。今日一日だけこの姿を耐えれば、もうあんな怖い目には遭わずに済むでござるからな」

 

「……え?」

 

 へにゃり、としたいつもの笑顔で告げられた言葉に、雷太は目を見開いた。

 しかし、言い返す言葉がすぐには思いつかなかった。

 厄介事を起こした子どもを安全な場所へ帰すような、子ども扱いの響き。

 だが、それはあの化け物の脅威を知る公彦としては、極めて当たり前の、純粋な優しさからの線引きだと、今の雷太には痛いほど分かってしまったからだ。

 

「……いや、それでもとりあえず放せっての! その、胸が当たって……苦しいから……っ」

 

「んふふ〜、やはり子兎雷太殿は素直でかわいいでござるぅ。よしよしでござる」

 

「子ども扱いすんなっ!」

 

 ニヤニヤとからかってくる公彦の反応がむかついたのか、雷太は照れ隠しにその腕を振り払うと、逃げるように先に広い湯船へとドボンと浸かった。

 公彦も「やれやれ」といった風に苦笑し、今度は適切な距離感を保って湯船に浸かる。

 ザバーッと溢れたお湯の音と、高級そうな入浴剤の甘い香りが鼻をついた。

 

 

 少しの沈黙の後、お湯に口元まで沈んでいた雷太が、ポツリと尋ねる。

 

 

「……なぁ。やっぱり退魔師って、その……『そういう目的』で、狙われやすいのか?」

 

 先ほどの、外なる霊の『苗床』という言葉が、まだ雷太の心に重くのしかかっていた。

 

「左様でござるな。外なる霊の最終的な目的は、この世界への『完全受肉』でござる」

 

 公彦は湯船の縁に腕を乗せ、少しだけ真面目なトーンになった。

 

「陵(みささぎ)……即ち、古代の古墳の向きが決まっているのは知っているでござるか? あれの本来の機能は、正しき霊場において、北から南へ、『女陰を通して受肉し直す』ための巨大な咒的装置だったとする説があるんでござるよ」

 

「女陰を通して、受肉……」

 

「そう。同様に、且つもっと手っ取り早い話……奴らが現世に受肉し、強力な力を持つためには、強い霊力を持った『女性の肉体(胎)』が最適なのでござる。ある意味、強い霊力を持つ我ら退魔師と、外なる霊は、お互いが『天敵』であり『極上の獲物』なのでござるよ」

 

 だから、公彦は雷太をこの厳重な結界の張られた家に留めようとしたのだ。

 いや、そんな重い真実を知らなかったとしても、軽はずみに同情して自ら外へ出てしまった自分が悪いのだが。雷太は自分の迂闊さを恥じ入り、ますますお湯の中に身を縮こまらせた。

 

「そして。我らが使うこの咒具の呪いには……さらに、続きがあるでござる」

 

 不意に落とされた公彦の真剣な声色に、口元まで湯に沈んでぶくぶくと泡を立てていた雷太は、ハッとして顔を上げた。

 

「もし、呪いによって女の身体になっている間に――相手が化け物であろうと、人間であろうと……『子を孕んだ』場合。その退魔師は、呪いが固定化され、一生を『女』として生きることになるんでござるよ」

 

「…………っ!!」

 

 雷太は、息を呑んだ。

 

「……なるほど、な」

 

 嫌になって辞めていく退魔師が多い、と公彦が昼間に語っていた言葉の真意が、ここへ来てようやく雷太の腑に落ちた。

 そういう事だ。

 大半の退魔師は、戦うために女の身体になる。

 それ故に、もし化け物に敗北しても、すぐには殺されることはなく、代わりに『苗床』として凌辱される。

 それで連れ去られて使い潰されるにしても、仮に生還できたとしても。

 化け物に犯され、孕まされ、二度と元の男の身体に戻れなくなってしまった人間の正気がどうなっているかなんて、想像したくもなかった。

 

 現に、ほんの数十分前、自分自身がそうなりかけたのだ。

 その恐怖の鮮明さに、雷太は湯船の底でガタガタと震えそうになるのを必死に堪えた。

 

「……それでも、女でいるのって……凄い、大変なことなんじゃねえのかよ」

 

 雷太が震える声でそう問うと。

 公彦は、あっけらかんとした顔で、豊かな胸をこれ見よがしに張ってみせた。

 

「拙者は良いんでござるよ。だって、強いもん」

 

 ふふん、と。

 大きな胸を張って、微塵の迷いもないその誇らしげな笑顔を見せてから。

 公彦は、雷太の瞳を真っ直ぐに見据え、静かに、しかし強い意志を込めて言った。

 

「だから、雷太殿はもうこれ以上……この狂った世界に居ちゃダメなのでござる」

 

 ――ズキリと。

 その優しくも拒絶を含んだ言葉が、雷太の心の一番柔らかい場所を深く突き刺した。

 

 チカッ、チカッ……。

 

 雷太の不安や葛藤に呼応するように、両耳から下がる牙のピアスが、再封印を嫌がるかのように微かに瞬いた。

 

 しかし、その日の夜のうちに。

 雷太を選んだはずの牙のピアスは、公彦の手によって、あの巨大な地下武器庫の、より頑丈になったフォースフィールドの中へ、厳重に再封印されることになったのであった。

 

 

 

     * * *

 

 

 乙太亭の静かな夜。

 庭の枯山水に面した縁側で、雷太は自分のスマートフォンを耳に当てていた。

 

『――あぁ、わかった。公彦くんの家なら安心だろう。今日はゆっくり泊めてもらいなさい』

 

「おう、わりぃな急に。じゃあな」

 

『あぁ、それと雷太。……女の子同士なんだから、くれぐれも変な間違いは起こすなよ? ……あれ? なんだ私、今変なこと言ったか……?』

 

 電話の向こうで首を傾げる父親の困惑した声を背に、雷太は「ぷっ」と吹き出しそうになるのを堪え、通話終了のボタンを押した。

 

(……『女の子同士』、ねえ)

 

 いじめ問題の発覚以降、完全に冷え切っていた両親との関係は、公彦が間に入って誤解を解き、弁明してくれたおかげで、良好とまでは言えないまでも少しだけ改善しつつあった。

 しかし、呪いによる『認識阻害』は、電話越しの家族の認識にまで及んでいるらしい。

 息子が急に『女の子』として扱われているというおかしな事態に、雷太は自嘲気味に失笑するしかなかった。

 

「……さてと」

 

 深呼吸をして、雷太は案内された寝室の襖を開けた。

 そこには、綺麗に敷かれた客用の高級な布団が二つ並べられていた。……のだが。

 

「うっ……」

 

 雷太は顔をしかめ、その場に立ち尽くした。

 布団の脇の畳の上に、ピンクのネグリジェやら、モコモコのルームウェアやら、シルクのキャミソールやら。

 ありとあらゆるデザインの『女物のパジャマの群れ』が、まるでブティックの展示のようにずらりと並べられていたのだ。

 しかも、ご丁寧にサイズ展開のバリエーションまで無駄に豊富に揃っている。

 

「いやぁ、他所の退魔師がうちに泊まることもあるでござるからなぁ。こういう準備は常に豊富にしてあるのでござるよ」

 

 背後から現れた公彦が、得意げにふんすっと鼻を鳴らした。

 

(……他所の退魔師って、こんな際どいパジャマ着るのかよ)

 

 選びたくはない。絶対に選びたくはないが、昼間に応急処置としてTシャツの裾を固く結んだままでは、結び目が背中やお腹に当たって絶対に寝苦しい。

 仕方がないので、雷太は並べられた中から一番装飾が少なく、地味で無難な水色のパジャマ(それでもフリルは少しついている)を引っ張り出し、渋々袖を通した。

 

「んふふ〜……似合うでござるよ、雷太殿」

 

 すでに自分の布団に潜り込んでいた公彦が、ぽんぽん、と隣の空いたスペース(自分の布団の中)を叩いて見せた。

 

「今はせっかく『女の子同士』でござるし、一緒に寝るのはどうでござるか? ガールズトークというやつでござる!」

 

「絶対ヤダ!!」

 

 雷太は毛を逆立てた猫のように、シャーッと全力で威嚇した。

 

「いけずでござるぅ……」

 

 本気で残念そうに唇を尖らせる公彦を尻目に、雷太はさっさと自分の布団に潜り込み、首までしっかりと掛け布団を被った。

 

 パチン、と。

 部屋の電気が消され、完全な静寂と暗闇が訪れる。

 

 しかし、目を閉じても、雷太の脳は覚醒しきっていた。

 今日は、あまりにも色々なことがあり過ぎた。突然の化け物との遭遇、自分のバニーギャルへの変身、恐ろしい触手の記憶、そして公彦の圧倒的な強さ。

 情報量がキャパシティをとうに超えており、とてもじゃないが眠りにつけそうにない。

 

 隣の布団からは、規則正しい、少し高めの可愛らしい寝息が聞こえ始めている。

 雷太は天井の木目をぼんやりと見つめながら、暗闇の中でポツリと、ずっと気になっていたことを尋ねた。

 

「……なぁ、公彦」

 

「んん……むにゃ……?」

 

「お前……いつまで、その『女の姿』でいるつもりなんだよ」

 

 雷太の問いに、公彦はもう夢と現実の境目を漂っているのか、むにゃむにゃと寝言のように口を動かしながら応えた。

 

「……わかんない、でござるぅ……」

 

「……」

 

「でも……『乙太の家』の血は……絶やすわけには、いかないでござるからなぁ……」

 

 すぅ、すぅ、と。

 そのまま完全に寝入ってしまった公彦の寝息が、静かな和室に響く。

 しかし、雷太の心臓は、まるで氷水をぶっかけられたかのように冷たく縮み上がった。

 

 

「…………っ!」

 

 

 ――家の血は、絶やすわけにはいかない。

 

 その言葉の真意を正しく理解した瞬間。

 雷太は布団の中で、今すぐにでも狂ったように暴れ出し、叫びたい衝動に駆られた。

 しかし、それを押し殺すために、自らの両拳を爪が食い込むほど強く、強く握りしめて誤魔化すしかなかった。

 

 いつかあのトラウマを乗り越え、呪いを解いて『男』に戻って跡継ぎを残す、というのならまだいい。

 だが、その返答の意味は、真逆だ。

 

 公彦は、『女として』一族を残すための選択肢を選ぶつもりなのだ。

 誰か見知らぬ強い男に抱かれ、その胎に子を宿し、一生を『女』として生きる。当主として、退魔師の血を絶やさないために。

 それが、公彦の未来の選択肢の中に、すでに当たり前のように組み込まれてしまっているのだ。

 

 自分には、絶対に触れられないことだと、雷太は嫌というほど理解してしまった。

 今の自分は、ただ呪いに巻き込まれただけのイレギュラーな『女』だ。男に戻れたとしても、ただの一般人でしかない自分に、退魔師の当主として生きる公彦の隣に並び立つ資格など、どこにもない。

 

(……ここで、また……俺は挫折するのかよ……っ)

 

 不良という底辺の生き方から抜け出し、ようやく親友と仲直りして、やり直せたと思っていたのに。

 自分の心の中に芽生え始めていた、名前のない巨大な感情。それを自覚するよりも早く、絶対に越えられない『現実の壁』が立ちはだかっていた。

 

 胸の奥が、ギリギリと締め付けられるように痛い。

 結局その日、雷太は一睡もすることができなかった。

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。