地に足をつけねば、と矢落雷太は思ったのだ。
乙太の屋敷での長く短い一夜が明け、性転換の呪いが解けて元の『男の身体』に戻った雷太が、真っ先に行ったのは、ある意味で非常に堅実で、現実的な行動だった。
当主として一族の血を『女として』残す。
あの夜、寝言のように語られた公彦の悲壮な決意。それに具体的にどう対処すればいいのか、そもそも部外者である自分が説得していい問題なのか、雷太にはまだ分からなかった。
だが、確かなことが一つだけある。
もし、あいつの背負う理不尽な運命に口出しをして、隣に並び立とうと望むのであれば。今のままの、いい歳して不良を気取り、将来から目を背けて燻っているだけの『ガキ』のままでは、絶対に届かない。
あいつに顔向けできるだけの、自分の足で立てる『何者か』にならなければならないと、雷太は心の底から痛感したのだ。
* * *
翌日の夕方。
自分の家へと帰るなり、雷太は居間の畳に両手をつき、父親に向かって深々と頭を下げた。
「……お願いがあるんだ。俺を、専門のスクールに通わせてほしい」
張り詰めた空気の中、雷太は絞り出すような声で嘆願した。
それは、以前から雷太がうすうす考えていた、美容系の専門職――ヘアメイクや美容師を養成する塾(スクール)に通わせてほしいという頼みだった。
元々、他人の髪をいじったり、ファッションに気を遣ったりすることには興味があった。不良の真似事をして奇抜な格好をしていたのも、根底にはそういう『自分や誰かを飾る』ことへの強い関心があったからだ。
しかし、いじめの加害者というレッテルを貼られ、両親からも見放されていると感じていた雷太は、「自分なんかが何か夢を目指すなんて馬鹿ばかしい」と、最初から諦めていた。
どうせこんな頼みをしたところで、親の助力も理解も得られないと高を括っていたのだ。
けれど。
公彦との再会を経て、彼の強さと弱さに触れ、昨晩の電話で家族との間にほんの少しだけ『和解』の兆しが見えた今なら。
(見栄張って、逃げてる場合じゃねえ……!)
一歩を踏み出す勇気は、自分でも驚くほど簡単に湧いて出た。
どんなに怒鳴られても、呆れられても、絶対に引かない。そう決意して床を睨みつけていた雷太の頭上に、不意に、静かな声が降ってきた。
「――いいぞ」
雷太は、弾かれたように顔を上げた。
父親は怒るでもなく、ため息をつくでもなく。
ただ、湯呑みのお茶をすすりながら、どこか肩の荷が下りたような、穏やかな表情で雷太を見つめていた。
「え……親父……?」
「費用は出してやる。その代わり、高校の方はなんとか赤点回避して、ちゃんと卒業しろ。それくらいの条件、飲めるな?」
「あ……ああ、当たり前だ! でも、なんでそんなにあっさり……」
雷太が戸惑いながら尋ねると、父親は少しだけ照れくさそうに目尻のシワを下げた。
「お前が『やりたいこと』が、やっとわかってきた気がするよ」
「え……?」
「昨日の電話でも思ったが……お前、そういう『女の子みたいなこと』にずっと興味があったんだろう? 不良の真似事をして突っ張ってたのも、本当の自分を隠すためだったんじゃないのか」
父親の言葉に、雷太はポカンと口を開けた。
どうやら昨日の「認識阻害」の電話での『女の子同士』という発言と、今回の『美容系への進路』が、父親の中で妙な化学反応を起こし、斜め上の方向で納得されてしまったらしい。
(いや、親父……俺は心までオネエになったわけじゃ……)
そう訂正しようと口を開きかけたが、父親の顔に浮かんだ、長年の心配から解放されたような『安堵』の色を見て、雷太は言葉を飲み込んだ。
「……遅くなって、悪かった。俺、本気で頑張るから」
勘違いが含まれているとはいえ、父親が自分のために歩み寄り、背中を押してくれたことは紛れもない事実だった。
「ああ。応援してるぞ、雷太」
その温かい言葉に、雷太の視界がふわりと滲んだ。
長年、家庭内に漂っていた冷たい空気が、完全に溶けて消え去っていくのを感じた。
「……っ、ありがとうございます……!」
雷太は、再び深く頭を下げた。
畳に落ちそうになる涙を必死にこらえながら。
自分の不器用な過去との決別と、これから始まる新しい未来への感謝を込めて、雷太は強く唇を噛み締めた。
* * *
あの日、父親に頭を下げてから。
矢落雷太の人生の歯車は、驚くほどに好転し始めていた。
夢――美容系の専門職に就くという明確な目標を見定めた雷太は、持ち前の不器用な真面目さを発揮し、これまでサボっていた学校の勉強にも死に物狂いで食らいついた。
結果として、見る見るうちに成績は赤点ギリギリから「人並み程度」にまで伸びていった。
同時に通うようになった、隣町の駅前にある美容師専門塾。そこでの日々も充実していた。
ハサミの持ち方からメイクの基礎まで、塾の講師である美人で優しげな先生の丁寧な指導の甲斐もあって、雷太はめきめきとその才能の片鱗を伸ばしていったのだ。
「おぉ〜、矢落クンすげぇ! 次アタシの髪も巻いてよー!」
「お前、マジで美容師になるのかよ。すげえじゃん」
底辺校の吹き溜まりだった教室のクラスメイトたちも、ひたむきに変わっていく雷太の姿に感化され始めていた。
元々、退魔師の激務で勉強がおろそかになっていただけの公彦の知力は高く、彼が勉強を教え始めたことも手伝って、色々と終わっていた教室の連中は、雷太や公彦を見習って少しずつ真面目に更生していくという、奇跡のような連鎖が起きていた。
誰もが彼らを、生温かく、しかし確かな好意を持って応援していた。
すべてが、うまくいっていたのだ。
公彦と遊ぶ約束をして、雷太が通う塾の最寄り駅で待ち合わせをした、その日までは。
* * *
「……あっ! 雷太殿ぉ!」
駅前のロータリー。
そわそわと周囲を見回しながら待っていた公彦は、雑居ビルから出てきた塾生たちの集団の中に雷太の姿を見つけるなり、パァッと顔を輝かせて大きく手を振り、小走りで駆け寄ってきた。
今日の公彦は、淡いピンクのブラウスにプリーツスカートという、いつにも増して可憐で女の子らしい私服姿だ。
「おわっ。なんだよ、もう待ってたのかよ。わりぃな」
「いひひ。気にしないでござる、今来たとこでござるぅ!」
心底嬉しそうに、そうでもないくせにデートの待ち合わせの常套句を口にする公彦。
雷太は少しだけ顔を赤くして、「ばか、言うな」と照れ隠しに公彦の広いおでこにパチンと軽いデコピンを見舞った。
「あうっ。ひどいでござるぅ」
「へへっ。さぁて、今日は何食いに行くか! 俺の奢りでいいぞ」
涙目になっておでこをさする美少女と、優しく笑いかける金髪ピアスの青年。
周囲の歩行者から見れば、それはどこにでもいる、少し目立つが微笑ましい恋人同士の光景だっただろう。
しかし。
そんなほほえましい空気を、鋭いガラスの破片のような声が切り裂いた。
「ちょっと……。何してんのよ、こんな所で」
背後から掛けられた、女性の、低く震える声。
その声が鼓膜を貫いた瞬間。
「……ぇ」
雷太の目の前で、公彦の嬉しそうに綻んでいた笑顔が、唐突に、文字通り『凍りついた』。
パカッと開いたままの口。瞳孔が見開かれ、呼吸すら止まっている。
公彦は、まるで錆びついた機械のように、ギギギ、と非常に緩慢な動きで声のした方へと振り返った。
そこに立っていたのは、雷太の通う美容師専門塾の講師――水澄 華澄(みすみ かすみ)だった。
いつも塾で見せる優しげな笑顔は欠片もなく、彼女の顔は幽霊でも見たかのように青ざめ、そして微かな嫌悪に歪んでいた。
そして、彼女が口元を覆うように震わせている左手の薬指には、キラリと輝く銀の指輪がはめられている。
「華澄……ど、の……」
公彦の口から、掠れた、信じられないほど小さな声が漏れた。
それは恐怖に怯える子供のような、痛切な響きだった。
「水澄先生?」
雷太は目を丸くした。どうして自分の塾の講師が、公彦の名前を知っているのか。
「公彦? 先生と、知り合いなのか……どぁっ!?」
事情を尋ねようと公彦の肩に手を伸ばした、その瞬間。
ドンッ! と。
公彦は、雷太の胸を激しく突き飛ばした。
「……っ!!」
声にならない悲鳴を上げ、公彦は弾かれたようにその場から逃げ出した。
咒具による『装来』すらしていない。身体能力を強化することもなく、ただの『女の子としての全速力』で、人混みを掻き分けて無様に走り去っていく。
何か残酷な言葉をぶつけられる前に。あの冷たい視線から逃れるように。その乱れた吐息と後ろ姿には、尋常ではない恐怖とトラウマがはっきりと見て取れた。
「き、公彦っ!?」
突然突き飛ばされて尻餅をついた雷太は、慌てて立ち上がり、親友の背中を追いかけようと踏み出した。
「……雷太君、気を付けなよ」
その時。
華澄の、ひどく冷め切った声が、雷太の背中を呼び止めた。
「あいつの『本性』は、君が思っているより……ずっと、気持ち悪いよ」
それは、塾生に向ける温かい声ではない。
かつて、純粋な好意を向けてきたどんくさいオタクの少年を、『気味が悪い』という一言で木端微塵に切り捨てた、冷酷な女の顔だった。
その言葉の意味を、雷太は一瞬で理解した。
――こいつが。この女が、公彦の心を殺して、あの女の姿に逃げ込ませた元凶(トラウマ)か。
雷太は、華澄の方へ振り返ることはなかった。
ただ、足を止めたまま、顔だけを少し背後に向けて、はっきりと告げた。
「――知ってるよ。あいつがどんくさくて、変な奴だってことくらい」
雷太の言葉に、華澄の息を呑む気配がした。
「でも。あいつは俺の、たった一人の『友達』なんでね!」
迷いのない、力強い宣言。
雷太はそれだけを言い残すと、今度こそ全速力で、公彦が消えた雑踏の向こうへと駆け出していった。
取り残された駅前のロータリー。
華澄は、逃げていった『女の子』の姿と、それを追う教え子の背中を見送りながら、自らの左手の薬指を見つめていた。
キラリと光る結婚指輪。
それは、かつて公彦を残酷な言葉で突き放し、退魔師という血生臭い世界から逃げ出して『普通の幸せ』を手に入れた、彼女なりの呪いであり、証明だった。
「ひゅっ……っひ、ひっ……ひぁ……」
肺が焼き切れそうなほど息を吸い込みながら、公彦はただ無我夢中で走り続けていた。
駅前の人混みを強引にかき分け、華やかな都市部から逃げるように抜け出し、乙太亭へと続く人気のない長い一本道へと転がり込む。
――気持ち悪い。
ヒールのないローファーでアスファルトを蹴るたびに、あの日投げつけられた言葉が、そしてたった今突き刺さった冷酷な視線が、頭の中でリフレインする。
――情けない。
――男らしくない。
――女々しい。
――弱い。どんくさい。醜い。
その間ずっと、公彦の脳裏に浮かぶ言葉は、自らを強烈に拒絶し、徹底的に否定する言葉ばかりだった。
自分自身をズタズタに傷つける、呪いの言葉の羅列。
華澄の声ではない、自分の声で、ずっと、ずっと。
「わかってる……っ、わかってるでござるよ……っ」
涙でぐちゃぐちゃになった顔を両手で覆いながら、公彦はふらつく足で一本道をよろめき歩く。
「わかってるから……だから、拙者は……僕は……ぅあ、あああっ!」
退魔師の当主として、恐るべき外なる霊を圧倒し、容易く粉砕するほどの無双の力を持ちながら。
女の姿に隠れれば、誰もが優しく接してくれて、温かい居場所に囲まれながら。
そして何より、ありのままのオタクとしての自分を理解し、すべてを知った上で「友達だ」と言い切ってくれる、雷太という得難い友を持ちながら。
それでも。
公彦は、自分の事が、どうしても嫌いだった。
自分を守るために被っている、『愛される女の子』という化けた狸の薄皮。
それを一枚ペロリと剥がしてしまえば、そこにあるのは、これほどまでに脆く、かつての脂肪のように重く柔らかく、ただひたすらに醜くて情けない『自分』なのだ。
そんな惨めな中身が、公彦は、その身を八つ裂きにしてこの世から消し去りたくなるほどに、憎くて嫌いだった。
どうしようもない嘆きが、堰を切ったように口から溢れ出した。
「ぁぁぁあぁぁああああぁああっ!!」
夕暮れの長い一本道に、痛切な叫びが木霊する。
それは、か弱くて可愛い女の子の悲鳴などでは決してなかった。
かつて真っ直ぐに恋をして、真っ直ぐに拒絶された、『男』としての乙太公彦の。
あの時からずっと胸の奥底で血を流し続け叫んでいる、精神的な断末魔の叫びだった。
* * *
「ぜっ……はっ……ふぅ、よしっ」
駅前からずっと全力で走り続け、乙太亭の立派な門をくぐり抜けた矢落雷太は、玄関の引き戸の前で大きく肩を上下させていた。
肺が焼けるように痛く、心臓は早鐘を打っている。しかし、雷太は両手で膝に手をつき、何度か深呼吸をして強引に呼吸を整えた。
中にいる親友に、これ以上余計な心配をかけまいとする彼なりの気遣いだった。
荒い息が収まったのを確認し、雷太は重厚な木製の引き戸をコンコン、と優しくノックした。
「……公彦。俺だ、開けてくれ」
静寂。
庭の鹿威しの音が一度だけ響いた後、引き戸の向こうから、か細く、今にも消え入りそうな声が聞こえてきた。
「……らいた……? ごめん、今は……帰って、ほしい……っ」
「おい」
「ごめん、せっかく……遊ぶ約束、したのに……ごめんね……」
その声には、いつもの『でござる』という特徴的な語尾が完全に抜け落ちていた。
恐怖と自己嫌悪で押し潰されそうになっている、ただの『乙太公彦』という一人の少年の、ひどく余裕のない声。
その痛々しい響きに、雷太は小さく、しかし呆れたようなため息をついた。
そして。
「――おいおいおい、オタク君よぉ」
はっ、と。
あえて鼻で笑い、チンピラのように挑発するような声色を作って、雷太は扉越しに言い放った。
「いつもの、無駄にテンションの高い『オタク言葉』はどうしたんだよ。俺、あの『でござる』のノリ、結構好きなんだけど?」
扉の向こうから、息を呑む気配がした。
「……」
数秒の重い沈黙の後。
ガラッ、と。ゆっくりと重い引き戸が開き、その隙間から公彦が姿を現した。
「っ……」
その姿を見た瞬間、雷太は思わずギョッとして息を詰まらせた。
泣きはらした――いや、今この瞬間も大粒の涙をボロボロとこぼしながら泣きじゃくっているその顔。
そして何より、雷太の目を引いたのは彼女(彼)の服装だった。
待ち合わせの時にはあんなにも綺麗で可憐だった、淡いピンクのブラウスとプリーツスカート。それが今や、無残なほどに泥だらけになっていたのだ。
膝には擦りむいたような跡があり、ストッキングも破れている。
(あいつ……転んだのか)
なりふり構わず駅前から走り続け、この旧家を改装した敷地内の、未舗装の獣道がそのまま剥き出しになっているような土地で、足をもつれさせて派手にすっ転んだのだろう。
容易に想像がつく惨状だった。
圧倒的な身体能力と霊力で、化け物のような外なる霊を華麗に宙で翻弄し、容易くミンチに変えてみせた『最強の退魔師』。
しかし、精神的に追い詰められ、パニックになった時に露呈する、その『素のどんくささ』は。小学生の頃、雷太に突き飛ばされて尻餅をついたあの日のオタクの少年から、何一つ変わっていないことの証明だったのかもしれない。
ボロボロになって、泣きながら俯く公彦。
そんな親友の痛々しい姿を前にして、雷太は気まずそうに頭を掻いた。
同情して優しい言葉をかけるのは簡単だ。しかし、それでは公彦はますます殻に閉じこもってしまうだろう。
だから、雷太は、努めて軽薄に、チャラチャラとした笑みを浮かべて言った。
「……どしたん、話聞こか?」
それは、本来ならチャラい男が適当に病んでいる女を誑かすために使う、インターネット上の常套句にしてスラングだ。
あえてそんなふざけた言葉を使うことで、雷太は『俺はお前を可哀想な悲劇のヒロイン扱いなんかしないぞ』というスタンスを示し、同時に『絶対に引かずに、お前の心に踏み込むぞ』という強い意志を突きつけたのだ。
雷太のその不器用で真っ直ぐな言葉に。
公彦はビクッと肩を震わせた後、袖で乱暴に涙を拭った。
そして、何も言わず。ただ『ついてきて』と言わんばかりに背中を向け、泥だらけのローファーを引きずりながら、屋敷の薄暗い奥へと歩を進め始めたのだった。
* * *
屋敷の奥へと進む廊下で、バタバタと慌ただしい足音が近づいてきた。
「当主様! お召し物が……お怪我はございませんか!?」
「そ、そちらのお客様は……?」
駆け寄ってきたのは、以前公彦が自慢していた『お手伝いさん』たちだった。
矢絣柄の和服に真っ白なエプロンという、いかにも大正ロマンなハイカラメイドの出で立ちに、雷太は思わず「おぉ……」と場違いな感心の声を漏らしかける。
しかし。
「――いい。自分で着替える」
公彦の口から放たれたのは、いつもの能天気な『でござる』口調ではなかった。
絶対的な冷たさを孕んだ、有無を言わさぬ命令口調。
「こっちは僕の友達だ。通せ」
その低く沈んだ声を聞いた瞬間。お手伝いさんたちは、まるで死神に宣告でもされたかのように恐怖に顔を凍らせ、びくりと肩を震わせた。
そして、蜘蛛の子を散らすようにササッと廊下の両端へ退き、深く首を垂れて道を空ける。
彼女たちは知っているのだ。限界まで精神をすり減らし、こうして感情を殺した状態の公彦が、この家において最も恐ろしく、手がつけられない強大な『爆弾』であることを。
二人が通り過ぎる際、伏せられたお手伝いさんたちの視線が、付き従う雷太へ向けられた。
それは畏敬でも歓迎でもなく、「あんな爆弾のそばにいて大丈夫なのか」とでも言いたげな、明確な『哀れみ』の色を帯びていた。
その視線を背中に浴びながら、雷太はギリッと奥歯を噛み締めた。
(それでも、話を聞いてやらないと……あいつ、今にもぶっ壊れそうじゃねえか)
放っておかないと制御できない。だから、誰も手を出さずに遠巻きにして腫れ物として扱う。
(こいつの扱いは、まるで……)
いじめの烙印から逃げるように底辺校に押し込まれ、親からも社会からも『汚物処理』のように諦められていた、どうしようもなかった自分自身の姿。
前を歩く公彦の小さく震える背中と、かつての自分の惨めな姿が、雷太の目には奇妙なほどピタリと一致して見えた。
たどり着いたのは、公彦の寝室だった。
純和風の広大な屋敷の中で、そこだけが唯一の『洋室』に改装されていた。巨大なモニターが並ぶゲーミングPCのデスク、壁一面を埋め尽くす漫画棚、そしてアクリルケースに綺麗に飾られた美少女フィギュアの数々。いかにもオタクの少年らしい、安心感のある空間だ。
しかし、部屋に入った公彦は、電気をつけることもなく洋服棚の前に立つと、おもむろに泥だらけのブラウスの裾を掴み、下から一気にめくり上げて脱ぎ始めたのだ。
「ちょっ!?」
露わになる白い肌と、可愛らしい下着。
(俺もいるの忘れてねえか!?)という真っ当なツッコミが喉まで出かかったが、雷太はそれを必死に飲み込み、咄嗟に視線を逸らすだけに留めた。
今、ここで軽口を叩いてはいけない。公彦を独りにしてはいけないと、雷太の直感が本能的に告げていたからだ。
衣擦れの音が響き、やがて大きめのTシャツに着替えた公彦が、ベッドの端に力なく腰を下ろした。
「――少し、自分語りをするでござる」
暗い部屋の中。公彦は、絞り出すように無理をして、元の『でござる』口調で話し始めた。
しかし、それが痛々しいほどの無理をしていると嫌でも分かるくらいに、その声は鉛のように重く、沈み切っていた。
「拙者は――弱かったでござる」
* * *
「……あの頃の拙者は、雷太殿の知っている通りの……本当にデブで、どうしようもなくどんくさくて。霊力だってたかが知れている、ただの――それどころか、気味の悪いオタクの少年でござった」
薄暗いオタク部屋のベッドの端。
膝に置いた両手をギュッと握りしめながら、公彦は自嘲するようにポツリと語り出した。
雷太は何も言わず、ただ黙ってパイプ椅子に腰掛け、親友の痛々しい独白に耳を傾けていた。
「でも、あの頃の退魔師の世界は、拙者のような落ちこぼれを笑っている余裕すらない、なりふり構っていられない大事件が起きていたのでござる。……『んかい』の開放未遂でござるよ」
「んかい……?」
「外なる霊たちが本来棲まう、この世界の外側にある暗黒世界。奴らは普段、そこから小さな『バックドア』を通ってこちら側に這い出してくるでござるが……」
公彦の声が、一段と重く、暗いものになった。
「苗床にされた無数の女性たち。そして、彼女たちの胎を食い破り、受肉して『最終形態』へと進化した外なる霊が一定数集まることによって発生する、莫大な呪的エネルギーを用いた『次元断層』。……それが、んかいの開放でござる。もしこいつが完全に開いてしまえば、数年間はその地域一帯が、奴らに汚染された地獄のコロニーと成り果てる危険すらあったのでござる」
雷太の背筋に、冷たいものが走った。
そんな絶望的な世界の危機が、一般人の知らない裏側で進行していたというのか。
「だからこそ、退魔師側も総力戦でござった。拙者のような非才の身でも、一人でも多くの戦力として、前線の戦いに駆り出さざるを得なかったんでござる」
当時の過酷な記憶を呼び起こすように、公彦は小さく息を吐いた。
「……退魔師は通常、二人一組(バディ)で行動するでござる。たとえ片方が化け物に不覚を取り、連れ去られそうになっても、もう片方が命懸けで回収できるように。……そして何より、一族の『跡継ぎ』を効率的に残すために」
「跡継ぎ……」
「鍔競(つばぜり)市という街を護っている、熊野看(くまのみ)家と府螺也(ふらなり)家。その二つの旧家をモデルケースとして確立された、効率的な血の濃縮と『嫁探し』のシステムでござる」
雷太は、先ほど公彦が「家の血を絶やすわけにはいかない」と漏らしていた言葉を思い出した。
「呪いの具足によって、どちらも『女の身体』になれる。つまり、互いに背中を預け合う相棒でありながら、同時に『どちらかが嫁になり、強い子孫を残す』ための見極め期間でもあるんでござるよ。……『女体固定』、つまり片方が身籠ると、その退魔師の夫婦は、神代の奇跡すら起こせるほどに数年間は途方もなく強い力を得るでござるから」
それは、究極の二択だ。
男として戦い抜くか、それとも女として孕み、最強の力を得て愛する者を護るか。
「もちろん、その力は外なる霊にとっても極上の餌であり、執拗に狙われる最大の要因にもなるでござるが。……とどのつまり、当時の我々退魔師は、世界を救うための『戦い』と、血を残すための『婚活』を、命懸けで両方迫られているに等しき極限状況だったんでござるよ」
公彦はそこで言葉を区切り、伏せていた顔をゆっくりと上げた。
その瞳の奥に、かつての純粋な憧れと、それが無惨に砕け散った絶望の残滓が揺らめいている。
「そんな中。初めての実戦を前にして、非才な拙者のバディとして紹介されたのが……華澄殿だったでござる」
暗い洋室に、公彦の掠れた声が虚しく響いた。
* * *
『君が、乙太家の坊や? よろしくね』
当時の、まだふくよかで、オタク特有の猫背でオドオドとしていた少年・公彦の前に現れた彼女は。
血生臭い退魔師の総本部の道場において、そこだけが別世界のように華やかで、美しかった。
水澄 華澄。
男の退魔師が大多数を占める中で、呪いの具足の副作用を必要としない『生まれながらの女子の退魔師』。
凛とした佇まいに、優しげな微笑み。サラサラと揺れる髪から漂う甘い香り。
それは、漫画やアニメのヒロインばかりを追いかけていたどんくさい少年が、現実の世界で初めて出会った、本物の『憧れ』だった。
『は、はいっ! い、いい今までこんな業界があるなんて知らなかった、非才の身でござりますが、よ、よろしくっ!』
初めて至近距離で見る綺麗な年上の女性に、公彦は顔を真っ赤にしてピンと背筋を伸ばし、カチコチに緊張したまま直角に頭を下げた。
そのひどくぎこちない、ロボットのような様子に、華澄はおかしそうにくすくすと笑い声をこぼした。
『わかったわかった、そんなに緊張しないで。この業界での戦い方は、私が一から教えてあげるよ』
ポン、と。
華澄の白く細い手が、公彦の肩を優しく叩く。
『いつか、かっこよく私を助けられるようになってね?』
そう言って年上の余裕を見せた華澄は、自らの咒具である白鞘の『刀』を腰に当て、ウインクしてみせた。
公彦の心臓が、柄にもなく大きく跳ねた。自分が、この綺麗な人を助ける。そんなヒーローみたいなことができるのだろうか。
そして息つく間もなく、公彦は華澄のバディとして、さっそく初めての戦闘訓練(実戦)に駆り出されることになったのだ。
『まずは、変身の訓練からね。力を抜いて、咒具に意識を集中させて』
『は、はいっ! ……装来ッ!』
緊張した面持ちで、公彦は教えられた通りに初めての『変身』を行った。
眩い霊力の光が、太り気味だった少年の身体を包み込む。
骨格が組み替わり、視界の高さが変わり、身体が驚くほどに軽く、霊力に満ち溢れていくのを感じた。
光が収まり、道場の壁に立てかけられた大きな姿見の鏡に映った自らの姿を見て、公彦はポカンと口を開けて驚いた。
『これはこれは……』
そこにいたのは、今の公彦よりもさらに幼く、可愛らしい少女だった。
抹茶色を基調とした、フリルたっぷりの和風ドレス。
ふさふさのタヌキの耳と尻尾。細く整った輪郭に、大きな瞳をパチクリとさせる、まるで精巧な市松人形のような少女が、こちらを見つめ返していたのだ。
『まさか拙者が魔法少女になってしまうとは。人生、何が起きるやもわかりませぬなぁ』
戸惑うどころか。公彦は鏡の前でくるくると回り、ひらひらと舞うスカートの裾や、衣装の細部の意匠をじっくりと観察し始めた。
『おぉ、此処のワンポイントなんか中々……。我らに武具を授けたデザイナーたる恵比寿神(えびすがみ)とやらとは、妙に趣味が合いそうでござる』
『……へぇ』
目をキラキラさせて、自らの身体を完全に『キャラクターデザイン』として吟味し、感心している公彦。
その様子を見て、華澄は少し意外そうに目を丸くした。
『そういう反応は珍しいねえ。男の子って、だいたい「俺は男だー!」ってショックを受けて否定するか、あるいは女の子になった自分にナルシスト的に見入るもんなんだけど』
『でゅふふ、拙者オタクですゆえ! こういうのは見慣れて(?)おりますからな!』
公彦は胸を張り、無邪気にそう返した。
しかし、その言葉を聞いた瞬間。
『……』
華澄の綺麗に整えられた眉が、ピクリと不快そうに反応した。
『君さ。……そうやって、自分を卑下すんの良くないよ?』
『え?』
突然、声の温度が数度下がったような華澄の指摘に、公彦はキョトンとして首を傾げた。
『……? 卑下なんて、一切しておりませんぞ?』
『オタクなんて、恥ずかしいことじゃない。もっと自信持ちなよ』
『ですから、恥ずかしいなどとは微塵も思っておりませぬ! アニメもゲームも、これは拙者と、誇り高い友人とが共有した、大切な魂の形でありますゆえ!』
公彦は、屈託のない、心からの笑顔で応えた。
彼にとって『オタクであること』は、かつて雷太と共に笑い合った、何よりも温かく、絶対に手放したくないアイデンティティだったのだから。
しかし。その一点の曇りもない笑顔を見た華澄は。
完全に興味を失ったかのように、あるいは、触れてはいけない汚いものを見たかのように、ふい、と冷たく目を逸らした。
『……そう』
短く、感情の乗らない相槌。
この時の公彦は、まだ知る由もなかったのだ。
自分の信じる『魂の誇り』を、そこまで底知れぬ嫌悪をもって、悪く思う人間がいるという事を。
* * *
それからの日々は、文字通り血を吐くような凄絶なものだった。
『危ないっ、華澄殿ぉっ!!』
『え……!?』
薄暗い廃工場での実戦。死角から迫る外なる霊の硬質な触手の前に、公彦は自らの身体を盾にして飛び出した。
華奢な少女の身体(装来状態)で、凄まじい反動を抑えきれずに後方へ吹き飛ばされそうになりながらも、まだ使い慣れない巨大なリボルバーの引き金を無我夢中で引き絞る。
ダァァンッ!!
放たれた銀弾が触手を吹き飛ばし、公彦は地面を無様に転がった。
ドレスは破れ、泥と擦り傷だらけになりながらも、必死に華澄の前に立ち塞がって拳銃を構え直す。
『……ふふっ。助かったよ、公彦くん。少しは様になってきたじゃない』
戦闘後、息を切らす公彦に向かって、華澄がふわりと微笑みかけてくれた。
その言葉と笑顔だけで、公彦の痛みと疲労はすべて吹き飛んだ。
(拙者は、絶対にこの人に見合う『男』になるのでござる……!)
華澄と少しだけ距離が縮んだと思った時期もあった。
稽古の合間に他愛のない話をして笑い合ったり、怪我の手当てをしてもらったり。
それが彼女にとって単なる「年下の相棒への気遣い」だったのか、それとも本当に少しは好意を持ってくれていたのか。今となっては、もう確かめる術もない。
しかし、当時の公彦は、その一瞬の優しさを信じて、ひたむきに突き進んだ。
『公彦……あんた、また学校をサボって修行ばかりして! 少しは休まないと、体が持たないわよ!』
『ダメでござる、母上! 今のままじゃ、華澄殿の背中を守りきれぬでござるよ!』
学校の勉強をする時間さえも完全に削り、心配して止めに入る家族の静止すらも振り切って、公彦は修行と実戦の明け暮れに身を投じた。
元のふくよかな男の身体で、吐くほど走り込み、筋トレを重ねてフィジカルを極限まで鍛え上げる。
そして、それだけでは足りず、公彦は修行にさえも『効率化』を優先するようになったのだ。
『――装来』
道場で、そして自室で。公彦は息をするように呪いの具足を発動させるようになった。
元の身体よりも圧倒的に軽く、霊力効率も劇的に跳ね上がる『女の子の身体』。
その状態を維持したまま、限界まで霊力の制御と銃のエイム訓練を繰り返す。
(この身体の方が、霊力の燃費が良いし、動きのキレも段違いでござる。……もっとだ。もっと早く、もっと正確に、もっと強く……!)
華澄を守るためなら、何だってした。
この時点で、公彦はもう、本来の『男としての自分』よりも、『戦うための仮の自分(女の子の姿)』でいる時間を優先し始めてしまっていたのだ。
呪いの副作用を厭わず、自らを最短距離で最強の兵器へと作り変えていく異常な適応力。
あるいはそれこそが、退魔師・乙太公彦の持つ、最も悲しい才能だったのかもしれない。
何度も傷つき、血を流して倒れ、ボロボロになりながら。
それでも、何度でも立ち上がった。
心の中にはいつも、華澄への純粋な恋心と。そして、かつて自分を見捨てずに、くだらないゲームの話で笑い合ってくれた、不器用な親友(雷太)との絆があった。
いつかまた雷太に会えた時、彼への周囲の誤解を解いて、「自分はこんなに強くなったんだ」と胸を張って再会できるように。
その二つの想いだけを信じて、地獄のような猛特訓と終わりのない死線を突き進んだ。
――そして。
どんくさかったオタクの少年が、華澄の隣に真のバディとして肩を並べられるようにまでなったのは。
出会いから、丸二年が経過したある日の事だった。
* * *
その日。
いつものように本部の道場で訓練を終えた後、公彦は華澄から人気のない中庭へと呼び出された。
夕暮れの風が吹き抜ける中、華澄はどこか思い詰めたような顔で、唐突に、そして決定的な言葉を口にしたのだ。
『ごめんなさい、公彦くん。……私、普通の人と結婚して、退魔師を引退するの』
『……え?』
公彦は、自分の耳を疑った。
あまりにも突然の出来事だった。相手は、退魔の世界とは全く無縁の一般人の男性だという。
『結婚に先駆けて、EMM社で私の『霊的資質』を完全に切除する手術を受けることも、もう決まっているわ』
淡々と告げられる事実に、公彦の思考は真っ白になった。
EMM社、表向きは世界規模のグローバルIT企業、その本質は霊的資源の管理を執り行う現代退魔師の総本山だ。
確かにそこの設備を以てして霊的資質を切除すれば、もう二度と戦うことはできない。
だが同時に、外なる霊に『極上の苗床』として狙われる危険も永久に無くなる。
先祖返りというイレギュラーでも起きない限り、子供に退魔師の呪われた血が遺伝することも防げる。
それはつまり、彼女が血生臭い世界から完全に解放され、普通の女性として、真っ当で穏やかな幸せを生きることができるという事だった。
公彦は、祝福したかった。
大好きな人が、化け物に狙われる過酷な運命から解放されて、人としての幸せを掴むのだ。相棒として、男として、笑顔で背中を押してやるべきだ。
頭では痛いほど分かっていた。
ただ、公彦にとってどうしても納得できなかったのは。
それが『すべてが決定し、後戻りできなくなった後』に、事後報告として伝えられたことだった。
『なんで……』
『え?』
『何で、相談してくれなかったんでござるか……!』
理性を超えて、公彦の口から悲痛な叫びが飛び出していた。
『言ってくれれば! 少しでも話してくれれば、拙者だって……!』
拙者だって、貴女を絶対に一人にはさせなかった。
貴女が普通の幸せを望むなら、拙者がもっと強くなって、この命に代えても守り抜いてみせたのに。
……あわよくば、その幸せを、拙者が貴女の隣で叶えたかったのに。
その、未練と執着の混ざった言葉を紡ごうとした、その瞬間だった。
『――その、「拙者拙者」言うの、やめなさいよッ!!』
ビクンッ、と。
公彦の肩が跳ねた。
それまで優しく微笑み、どこか困ったような姉の顔で公彦に接していた華澄の態度が。
まるで我慢の限界を迎え、張り詰めていた糸がプツリと切れたかのように、劇的に一変したのだ。
『……っ!』
『……いい加減、わかってよ!』
華澄は、親の仇でも見るかのような、憎悪と嫌悪に満ちた目で公彦を睨みつけていた。
『私に合わせて、無理して変わろうって? そんな『女の子の身体』になってまで? ……ずっと思ってた。すごく痛々しくて、重いのよ、貴方!』
『か、華澄殿……?』
『あんただって、どうせ最初から……生まれながらの『女』である私を、自分の家の跡継ぎのために『孕ませる』ことが目的だったんでしょ!?』
公彦の心臓が、冷たい手で鷲掴みにされた。
『そんな女の格好をずっとして、必死に誤魔化して……気持ち悪いのよ! 貴方の本質は、あの初めて会った時の、気味の悪いオタクのままじゃない!』
鋭い言葉の刃が、公彦の胸を滅多刺しにする。
『私、そういうの大っ嫌いなの。……ずっと、気持ち悪いって思ってたのよ!』
それは、おそらく。
過酷な運命から逃げ出し、一般人との結婚と手術を前にした彼女の『不安』。
そして、本来は自分よりも弱かったはずの少年に、いつの間にか背中を守られるほど追い抜かれてしまったコンプレックスや、戦いから一人逃げ出すことへの『罪悪感』。
そういった、彼女自身の歪に混ざり合ったぐちゃぐちゃの感情が、公彦の真っ直ぐすぎる好意をトリガーにして、最悪の形で暴発した瞬間だったのだろう。
だが、その理由を推し量れたとしても。
信じていた女神の、そのヒステリックな絶叫は。
彼女を守るためだけにすべてを捧げてきた公彦の心を、完膚なきまでに粉々に打ち壊して、彼をその場に何も言えない石像のように固まらせるには、十分すぎるほどの破壊力を持っていた。
『はぁ、はぁ……っ』
肩で息をしながら、華澄は蔑むように公彦の顔を見た。
『……手術を受ければ、もう、貴方なんかに追いつかれる心配もする必要がないと思うと……清々(せいせい)するわ』
そして、決定的なトドメの一撃を放つ。
『じゃあね。――『オタク君』』
そう言い残すと、彼女は公彦から目を背け、二度と振り返ることなく、夕暮れの中庭から足早に去っていった。
ヒールの音が、カツン、カツンと遠ざかっていく。
ただ一人。
痛々しくも美しい『女の身体』のまま取り残された公彦は、俯いたまま、声も出せずにボロボロと涙を流すことしかできなかった。
ぽたり、ぽたりと。
大粒の涙が、中庭の石畳に落ちていく。
その涙の一粒一粒が、完全に砕かれ、否定された、乙太公彦という『男としての魂』の残骸であるかのように。
公彦はただ、自分の足元で、もう二度と取り戻せないものが乾いたシミになっていくのを、虚ろな目で見届けることしかできなかったのだ。
* * *
其れからも、退魔師たちと外なる霊との戦いは激化の一途をたどった。
『んかい』の孔の向こう側から、悍ましい邪神の神気が直接流れ込み始め、現世に潜んでいた世界中の外なる霊がそれに呼応するように強大な力を得て暴走し始めたのだ。
そんな未曾有の危機の中、一人になった公彦のもとへ、乙太の家族もEMM社の上層部も、次々と新たなバディ(=交配相手の候補)を宛がおうと必死になっていた。
公彦は既に、単なる一介の退魔師の枠を飛び越え、最強クラスの戦力へと成長していたからだ。
しかし。
公彦は、彼らからのすべての提案を拒絶した。
『ふむ……拙者と組みたいと? なれば、まずは腕試しといきましょうか』
全く感情を見せない、硝子玉のような虚ろな瞳のまま。
ただひたすらに冷酷な『兵器』となることに徹した公彦は、恐ろしいまでに強かった。名門の血筋を誇る者も、実力に自信のあるベテランも、バディの名乗りを上げた者は悉く、模擬戦で正面から完膚なきまでに叩き潰した。
退魔師として誰かと組むということは、ゆくゆくはその誰かと『孕み、孕ませ合う』関係性を築くということ。
あの日、華澄から投げつけられた呪いの言葉の傷がまだ生々しく膿んでいる公彦にとって、それは想像するだけで強烈な吐き気を催すほど、気持ちの悪いことだったのだ。
(誰かが、この気持ち悪いオタクの拙者を孕ませる。……あるいは、拙者が、誰かに無理をして孕まされる……?)
そのすべてが、公彦にとって悍ましく、おぞましかった。
誰にも触れられたくない。誰の心にも触れたくない。
ただ一人で戦い、一人で血に塗れて死んでいく方が、余程マシだった。
* * *
そして、『んかい』開放未遂事件の最終決戦。
巨大な次元断層の封鎖機構を起動させるため、数十人の退魔師たちと技術者たちが決死の作業に当たっていた。
しかし、それを阻止せんとする親衛隊クラスの外なる霊の群れが、黒い津波のように押し寄せてくる。
『誰かが、奴らを引き付ける囮にならねば……! だが、この数を一体誰が……』
『――拙者が行くでござる』
絶望的な空気が漂う中、公彦はただ一人、淡々と囮役を買って出た。
味方の制止も聞かず、単騎で化け物の大群の真っ只中へと歩み出ていく。
孤独な死地。しかし、今の公彦には、背中を預けるバディなど必要なかった。
――ガチャリ、と。
公彦は、孤独の中で唯一文句を言わず、自分を「気味が悪い」と否定しない相棒――己の二丁拳銃を顔の前に掲げ、その冷たい銃身をそっと額に擦り当てた。
「……『贖い』、『潰せ』」
祈るように、静かに詠唱を紡ぐ。
「――『黒鉄茶釜(くろがねちゃがま)』」
それは、名も知らないまま渡されたこの咒具が、いつしか激闘の中で公彦自身の魂と共鳴し、自ら教えてくれた『咒具の本当の名前(真名)』だった。
退魔師が一生をかけて血の滲むような修行を積んでさえ、ほんの一握りの天才しか至ることのできない、咒具と魂の完全な同調。
原典のフルスペックの能力。
それを手にした公彦は、もはや一人の人間というよりは、圧倒的に完成された『退魔の神器』そのものへと成り果てていた。
放たれる銀弾は流星の雨となって戦場を蹂躙し、弾き出される平面の力場は巨大な化け物どもを次々と圧殺していく。
茶釜型の結界は内外からの干渉を完全に遮断し、次元封鎖作業を何物にも邪魔させずに完遂させる。
傷つくことも、疲労することもなく。ただ無機質に、正確に。
守るべき背後を完全に護り抜き、立ちはだかる敵の悉くを粉砕して。
公彦はたった一人で、この長きにわたる凄惨な戦いに、一旦の『終戦』をもたらしたのだった。
* * *
すべてが終わった後。
霊の残骸が砂となって消えゆく荒野の真ん中で、公彦はひとり、硝煙の立ち込める曇り空を見上げていた。
戦いが終わった。世界は救われた。
しかし、公彦の心にあるのは、達成感でも喜びでもなく、ただ底なしの虚無感だけだった。
これから先、自分は何のために生きていけばいいのか。
「そうだ……」
ポツリと、唇から乾いた声が漏れた。
「暇になるなら……久しぶりに同人誌でも描いて。学校のクラスにも顔を出して、まじめに勉強でもするでござるか……」
それは、希望から出た言葉ではない。
『どうせ、他にやることもなし』という、自分のこれからの人生を、ただの余生として完全に諦めきったような、酷く空虚な独り言だった。
数日後。
久方ぶりに、押し入れの奥から引っ張り出した黒いセーラー服に袖を通し、公彦は『底辺校』と名高い高校の教室へと足を踏み入れた。
自分のような気味の悪いオタクがいても、誰も気に留めないような掃き溜め。
教卓の上に置かれていた、新しいクラスの生徒名簿。
それを何気なくペラペラと捲り、ある一行に視線が落ちた、その瞬間だった。
「――え?」
公彦の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
息が止まり、名簿を握る指先が小刻みに震え始める。
そこにあったのは、何年も前に生き別れ、もう二度と会うことはないだろうと思っていた、かつての親友の名前。
「……矢落……雷太、殿……?」
ぽたりと、名簿の紙に涙の染みができた。
あの日、中庭で華澄に心を殺されてから。ずっと分厚い氷に閉ざされ、虚無の硝子玉のように死んでいた公彦の瞳に。
初めて、鮮やかで、本物の『光』が取り戻された瞬間だった。
* * *
薄暗いオタク部屋に、ぽつり、ぽつりと公彦の涙の落ちる音だけが響いていた。
それが、最強の退魔師・乙太公彦の背負ってきた、あまりにも重く、救いのない過去のすべてだった。
「……どうでござるか?」
語り終えた公彦は、パイプ椅子で呆然と固まっている雷太に向かって、涙で濡れた顔を上げ、自嘲するように尋ねた。
先ほど泥だらけのブラウスを脱ぎ捨て、大きめのダボダボなTシャツ一枚に着替えただけの公彦の姿は、下着のラインが透けて見え、隙間からは白い肌が覗き、本来なら目のやり場に困るほど扇情的だ。
しかし、その瞳だけは、どこまでも底が見えないほどに暗く、虚ろだった。
「拙者は、人を愛する資格も、愛される資格もない。……中身の男の魂は、あの中庭で完全に砕け散った。今の拙者は、都合の良い『乙太家の当主』の形をした、ただの抜け殻のようなものでござるよ」
アンニュイなため息交じりにそう吐き捨てながら、公彦はベッドの上で片膝を抱え、隣に座る雷太へと身を乗り出した。
そして、ほんの少しだけ熱を帯びて赤くなった顔で、困惑する雷太の顎にスッと白く細い手を伸ばし、強引に引き寄せる。
「それでも雷太殿は……空き教室で再会した時のように、この空っぽの『乙太公彦』にちゃんと中身があるのだと、怒ってくれますか? ……こんな拙者に、好きって、言えるでござるか……?」
誘うような、しかしひどく怯えたような声。
公彦の親指が、雷太の唇に触れ、そのまま口の中へと侵入しようとした――その直前。
「……当たり前だ」
ガシッ、と。
雷太は、顎に添えられた公彦の手首を強く掴んで止めた。
「というか、公彦……お前、空き教室で俺に怒られた時、本当はそれが凄く嬉しかったんだろ? 誰かに、ずっと言ってほしかったことなんじゃねえかよ!」
「……ええ。そうでござるね」
公彦は抵抗することもなく、へにゃりと笑った。
「立派な陵(おんな)の姿に建て直された『墓標』だって。手向けられた花や、弔ってくれた主への言葉が、嬉しくないわけないんでござるよ」
それは、ごく当たり前のように。
かつての自分の『決定的な死』を、疑いようのない事実として肯定する言葉だった。
その言葉の奥底にある、自分自身への凄まじい諦観と絶望。
雷太には、公彦のその言動の端々から滲み出る死の匂いが……少しずつ、しかし確実な違和感となって、どうしても受け入れることができなかった。
「ふざけんな!!」
雷太は、掴んだ公彦の手首を強く握り締め、今にも泣き出しそうな声で叫んだ。
「お前は生きてる! 乙太公彦だよ! 一人で頑張って来て、俺たちの世界も救った、凄い偉い奴だろ公彦!!」
「雷太、殿……」
「頼むよ、自分のこと墓標だなんて……死んでるみたいな、そんな悲しいこと言うなよ……っ! お前が救ったのは、世界だけじゃない。底辺で腐りかけてた俺の人生だって、お前が救ってくれたようなもんじゃないかよ!!」
真っ直ぐな、一点の曇りもない雷太の叫び。
それは、華澄に否定され、誰も見てくれなかった『乙太公彦の努力と魂』への、何よりも欲しかった絶対的な肯定だった。
「…………っ」
その瞬間。
公彦の中で、ギリギリのところで理性を保ち、雷太を『一般人の安全な世界』へ留めておこうとしていたストッパーが。
限界を迎えたかのように、音を立てて弾け飛んだ。
「――ちょっ、何を……おい!?」
雷太の視界が、ぐるんと反転した。
パイプ椅子から強引に引き剥がされ、背中からベッドの上へと乱暴に押し倒される。
公彦の華奢で白い手が、雷太の両腕の付け根をシーツに縫い付けるようにガッチリと掴み、固定した。
「おい、放せっ……痛ぇっ!?」
必死にもがく雷太だったが、ピクリとも動かない。
相手は小柄な少女の見た目をしていても、単騎で大群をミンチにする最強格の退魔師だ。
何の強化もしていない一般人の雷太の腕力で、敵うはずがなかった。
「公ひっ……」
「んっ……」
文句を言おうと口を開いた雷太の唇を、覆い被さってきた公彦の柔らかい唇が、力強く塞いだ。
「むぐっ!? んんっ……!」
躊躇いなど一切ない、深く、貪るような口づけ。
こじ開けられた歯列の間から、熱く湿った舌が強引に入り込んでくる。雷太の舌に絡みつき、口内を隅々まで舐め回し、唾液を絡め取る。
くぐもった雷太の抗議の声と、公彦の荒い吐息が混ざり合い、ちゅっ、くちゃり、と……ひどく卑猥でいやらしい水音だけが、静寂のオタク部屋に生々しく響き渡った。
「んむ……ちゅ、ぷぁ……はっ……っ」
数十秒の長い接吻の後。
銀色の糸を引きながら唇を離し、公彦は大きく息を吸い込んだ。
雷太を見下ろすその顔は、涙の跡を残しながらも、強烈な情欲によって熱っぽく上気し、とろけるように甘く歪んでいる。
(嘘だろ……こいつ、公彦だぞ……!?)
雷太の脳が、彼の中にあった『親友・乙太公彦』のあるべき姿との決定的な差異に、警報を鳴らして悲鳴を上げている。
しかし、それ以上に。
同年代の、極上に柔らかくて良い匂いのする美少女に押し倒され、舌を絡められた雷太の『オスとしての身体』は、脳の混乱とは裏腹に、どうしようもなく正直に反応してしまっていた。
ずんっ、と。
「あっ……」
公彦が、雷太の腰の上に跨った。
ダボダボのTシャツの下、下着越しに伝わってくる、筋肉の引き締まった、しかしたっぷりと柔肉のついた女性特有の重み。
それが、カーゴパンツの中で既に限界までテントを張ってしまっている雷太の『そこ』の上に、すとん、と正確に腰を下ろし、密着したのだ。
「ひっ……!」
あり得ない、あり得ちゃいけない暖かさと、そのあまりにも卑猥な状況に、脳のバグが雷太の理性を限界までかき乱す。
身をよじって逃げようとするが、公彦の太ももが万力のように雷太の腰をホールドしており、動くたびに硬くなった急所に柔らかな割れ目が擦り付けられ、火花が散るような快感が雷太の背髄を駆け抜ける。
「ねぇ、雷太殿……」
公彦が、雷太の耳元に顔を寄せ、蕩けるような甘い吐息を吹き込んだ。
「そこまで拙者のことを肯定して……『生きてる』って、言ってくれるなら。……拙者も、一つだけお願いがあるんでござるよ」
そして。
眼前に、覆い被さるように迫った公彦の顔。
それはもう、オタクの少年のものでも、悲劇の退魔師のものでもなかった。
極限の孤独から救い出してくれた唯一のオスに対して、どうしようもなく発情し、我慢の限界を迎えた『雌(メス)』の顔だった。
「拙者を……雷太殿の、雌にして下され」
「なっ……!?」
「この胎に、君の証を受け入れることができるなら……拙者は、完全に『雌』になったって、構わない」
それは、退魔師の当主としての、最も重く、取り返しのつかない決断。
「雷太殿は……男として、拙者を愛することが、出来ますか?」
熱い吐息と、甘い香り。
そして、逃げ場のない圧倒的な力と情欲。
雷太は、ベッドの上で両腕を拘束され、身体に跨がれたまま、自らの人生と理性を揺るがす、究極の『選択』を迫られた。