——翌日。
市立継嗣松高校の昼下がりの教室には、どこか異様で、そわそわとした空気が漂っていた。
窓際の席。
かつては机に突っ伏して寝ているか、授業をサボって高架下にたむろしていたはずの矢落雷太は、今や真面目に黒板に向かっていた。
……しかし、今日の彼は明らかにおかしかった。
(……あっ)
ノートに向かっていたペンの動きが、ピタリと止まる。
雷太の視線は黒板の文字を滑り、どこか遠くの虚空を彷徨っていた。
そして数分ほど呆然と固まった後、ハッと我に返り、慌てて黒板を書き写し始める。その繰り返しだ。
心ここにあらず。
雷太の脳裏を占めているのは、数学の公式などではなく。
昨日、自分を押し倒してきた極上に柔らかい肉の重みと、甘い吐息。
そして、涙ながらに熱に浮かされたように『雌にして下され』と懇願してきた、親友のあの切羽詰まった顔だった。
(……っ、あーもう! 集中できねえ……っ)
雷太は顔を赤くして頭を抱え、ノートに突っ伏した。
そんな雷太の斜め前の席。
いつもなら、そこにちょこんと座り、退魔師の激務の合間を縫って真面目に授業を受けているはずの『乙太公彦』の姿は、今日は、無かった。
* * *
「ねぇ、チャ雷ちゃんさぁ」
昼休みのチャイムが鳴ると同時だった。
雷太の前の席にドカッと座り、お弁当箱を広げながら話しかけてきたのは、クラスメイトのギャルだった。
「昨日、オタクちゃんと何かあったの?」
直球の質問に、雷太の肩がビクンと大きく跳ねた。
話しかけてきたギャルの顔立ちは、以前のような下品でケバいメイクではない。プロの美容師を志し、塾で技術を磨き始めた雷太の手によって、『真っ当に可愛く、彼女の素材を活かすメイク』の術を叩き込まれた結果、見違えるほど垢抜けて綺麗な女子高生になっていた。
彼女の問いかけに、周囲でお弁当を食べていたクラスメイトたちも、一斉にチラチラとこちらへ視線を向けてくる。
皆、気になっていたのだ。
かつて『終わっている掃き溜め』だったこの教室。
しかし、明確な夢を見据えて努力し始めた雷太と、そんな彼を嬉しそうにサポートする公彦の存在は、クラスの腐った空気を劇的に一変させるほどの起爆剤になっていた。
そんな二人の片割れが突然学校を休み、もう片割れはあからさまに不調で上の空。
皆が気にしないわけがなかった。
「あー……」
雷太は冷や汗をかきながら、視線を泳がせた。
「いや、何にもなかったよ。あいつ、ちょっと体調崩しただけだろ」
「うっそだぁ」
ギャルが、手にしたお箸で雷太をビシッと指差して不満の声を上げる。
「雷ちゃん、今日ずっと心ここに在らずって感じじゃん! 絶対、昨日痴話喧嘩でもしたんでしょ!? あんだけ毎日イチャイチャしてたくせにー!」
「イチャイチャって言うな! 喧嘩もしてねえよ!」
「じゃあ何があったのさ! まさかオタクちゃん、ついに雷ちゃんに告白して振られたとか……?」
その言葉が、図らずも昨晩の核心をかすめ、雷太の胸を鋭く抉った。
(……振った、のか? 俺は)
雷太は、ギュッと拳を握りしめた。
あの極限の状況。
どうしようもなく発情し、すべてを投げ出して『雌』として身を委ねようとした公彦を。
雷太は、最後の最後で、強靭な理性を振り絞って押し留めたのだ。
『馬鹿野郎……』
そう言って、震える公彦を抱きしめ、朝までただ背中を擦り続けていた。
それは、親友としての最大の誠意だったはずだ。
一線を越えてしまえば、公彦は本当に、自分自身を『ただの女』として完全に諦めて、壊れてしまうと分かっていたから。
でも、公彦からすれば、それは勇気を振り絞った懇願に対する『拒絶』だったのかもしれない。
「…………なんも」
雷太は、うつむき加減になりながら、努めて平坦な声で言った。
「なんも……無かったんだよ。本当に」
一線は、越えなかった。だから、何も起きていない。
けれど、二人の関係は確実に取り返しのつかない所まで踏み込んでしまった。
その重すぎる真実を抱え込み、雷太はただ苦しげに唇を噛み締めることしかできなかった。
* * *
一方、その頃。
昼間だというのに厚い遮光カーテンが引かれ、薄暗いままの乙太の屋敷の自室。
大きなベッドの上で、公彦はダボダボのTシャツを着たまま、体育座りのように膝を抱え込んで丸まっていた。
「…………」
ふかふかの膝の間に顔を深く埋め、公彦は微動だにしない。
華澄に拒絶されたトラウマから、自己防衛のために『愛される女の子の姿』へと逃げ込んだ。そこまでは、まだ自分への言い訳ができた。家の事情だ、戦うためだ、と。
しかし、昨晩の自分は。
あの優しくて不器用な、たった一人の大切な親友に対して。自ら発情し、馬乗りになり、あろうことか『自分を孕ませてくれ』と懇願してしまったのだ。
「……っ」
ギュッと、膝を抱える腕に力が入る。
雷太は優しかった。あんなに欲情していたはずの自分のオスとしての本能を抑え込んでまで、公彦の尊厳を守るために、誘いを断ってくれた。
抱きしめて、朝まで寄り添ってくれた。
その圧倒的な優しさと男らしさが、今の公彦には何よりも痛く、惨めだった。
「……かっこよすぎ、でござるや……」
静かな部屋に、か細く、震える声が落ちる。
それは、自らの魂の底の底まで見限ってしまったような、絶望的な自責の響きだった。
「拙者……ついに、中身まで……気持ち悪く、腐ってしまったでござるな……」
男の親友に抱かれたいと願い。
女の身体の快楽と安心感に完全に依存しきってしまった、醜い自分。
公彦は膝に顔を埋めたまま、声を殺して、ただ静かに泣き続けていた。
* * *
公彦が学校を休んだ日の夕方。
隣町の美容スクールでの講義は、いつもと変わらず、雷太の夢に必要な実践的な知識を与えてくれていた。
しかし、教室に漂う空気だけは、昨日までとは決定的に違っていた。
教壇に立つ華澄(かすみ)講師の視線が、時折、雷太を射抜くようにチラチラと向けられていたのだ。
『こいつは、何処まで知っている?』
そんな探りを入れるような、あるいは警戒するような冷たい視線。
雷太はそれに気づきながらも、授業中は一切表情を変えることなく、ノートを取り続けて決して答えを返すことはなかった。
そして。
すべてのカリキュラムが終わった後、ついに華澄は雷太に直接接触してきた。
「矢落くん。ちょっと、いいかな」
他の生徒たちが帰路につく中、呼び止められた雷太は、彼女の後に続いて塾の入っている雑居ビルの屋上へと足を踏み入れた。
ガチャリ、と重い鉄扉が閉まる。
夕暮れの冷たい風が吹き抜ける屋上で、雷太の鼻を突いたのは、かすかな紫煙の匂いだった。
公彦と再会してから、雷太が一切吸うのをやめた、安っぽい煙草の懐かしい香り。
華澄が、細いメンソール煙草に火を点け、紫煙を吐き出していたのだ。
「……で。なんすか、話って」
雷太がフェンスから少し距離を置いて尋ねると、華澄は煙草を細い指に挟んだまま、雷太を見据えて言った。
「乙太君は……今、どうしてる?」
「……それを、俺に聞きますか」
雷太は冷たく鼻で笑った。
「気になるんなら、本人に聞いたらどうっすか。あいつの連絡先くらい、知ってんでしょ」
「冗談言わないでよ」
華澄は、吐き捨てるように小さく、しかし明確な嫌悪を込めて返した。
そのひどく冷めた声と、イライラしたように煙草の灰を落とす態度は、美容スクールで生徒たちに見せている『気のいい優しい女性教師』のイメージとは、あまりにも大きくかけ離れていた。
——これが、素か。
どうやらこの女は、自分自身を良く見せることに関して、相当な腕を持つプロのようだった。
「あたしね。……オタクって生き物が、どうしようもなく嫌いなの」
華澄は屋上のフェンスに寄りかかり、遠くのネオンサインを虚ろな目で見つめながらポツリと語り出した。
「父さんが昔、悪いハマり方してね。二次元だか何だか知らないけど……あんなの、質の悪い新興宗教にハマられるようなもんよ。借金してまでグッズや円盤を買い漁って、おかげで家族はバラバラ。あたしも、借金のカタみたいに『あんな血生臭い仕事』に出されるまでに、家が追い詰められたってわけ」
それが、彼女が『生まれながらの女子の退魔師』として戦場に放り込まれた理由だった。
彼女には彼女なりの、どうしようもない地獄とトラウマがあったのだ。
「だから、私は乙太に謝らないわよ」
「……は?」
「あいつも、あの父親と同じ気持ち悪いオタクだった。あのままあいつと一緒に戦い続けてたら、私まであいつの都合の良い『嫁』として、泥沼に引きずり込まれてたわ。……だから、あそこで切り捨てたのは私の正当防衛よ」
自己正当化の塊のような華澄の言葉に、雷太は屋上の金網フェンスを握る指に、ギリッ、と強く力を込めた。
手のひらに金網が食い込み、血が滲みそうになる。
「……それなら。そんな事情があるからって、あんな良い奴を、あんたの感情のサンドバッグにして良いってことにはなんねえだろ!!」
雷太の怒声が、夕暮れの屋上に響き渡る。
「あいつがどれだけ努力したと思ってんだ! あんたを守るために、どれだけ自分を削ったと思ってんだよ!」
「――それは、あんたも同罪でしょうが」
間髪入れずに放たれた、氷のように冷たい華澄のカウンター。
「…………っ!!」
その言葉が、雷太の心臓を冷たい手で鷲掴みにした。
息が詰まり、反論の言葉が喉の奥で凍りつく。
「いつも言ってたわ、あの子。『雷太殿には悪いことをしたでござる』『いつかちゃんと謝らなきゃ』って」
華澄は、ゆっくりと煙草の火を携帯灰皿でもみ消し、雷太に向き直った。
その口元には、残酷な笑みが浮かんでいる。
「……でもね。退魔師同士だと、ちょっとした感情の機微も『霊力の同期通信(シンク・ノック)』で無意識に理解できちゃうのよ。……きっちりと、深く傷ついてたわよ、あの子」
「っ……」
「あなたがはじめた、あの『いじめ』にね。……それこそ、あなた自身に『理由』があったことに気付いていたからこそ、あなたへの恨み言を吐き出すことも出来ずに、一人でずっと苦しんでたんじゃないの?」
華澄の言葉は、恐ろしいほど正確に、雷太の心の一番柔らかい場所を切り裂いた。
お前も、公彦を深く傷つけた加害者の一人じゃないか。
私を責める資格など、お前にどこにあるのだと。
「可哀想な乙太くん。あなたにも、私にも裏切られて、心に深い傷を負って。……今頃、あの気味の悪い女の姿で、泣いてるんでしょうね」
絶対的な優位に立ったと確信し、華澄は冷ややかな目で雷太を見下ろした。
普通なら、ここで言い返せずに心が折れる。
過去の罪を抉り出された人間は、圧倒的な罪悪感の前に屈するしかないからだ。
しかし。
沈黙の数秒の後。
「……先生」
俯いていた雷太が、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳に、絶望や敗北の色は微塵もなかった。あるのは、静かで、しかし決して消えることのない烈火のような闘志だ。
「あんた、とことん性格悪いな」
フッ、と。
雷太は、鼻で笑ってみせたのだ。
「……は?」
華澄が、予想外の反応に眉をひそめる。
「俺が最低のクズだってことは、俺自身が一番よく分かってんだよ。だからなんだ。……俺がクズだからって、あいつを救っちゃいけねえ理由にはならねえだろうが」
雷太は、フェンスから手を離し、華澄を真っ直ぐに睨み据えた。
自分は、昨日の夜、公彦の一線を越える誘いを断った。
自分の欲を抑え込んででも、公彦の尊厳と未来を守りたかったからだ。
それに比べれば、目の前の女が吐く自己保身のための呪詛など、安い挑発でしかなかった。
雷太は、過去の罪の重さで折れてしまうほど、柔な兎ではない。
「メイクの腕だけ教わったら、こんな塾とっとと辞めてやるよ。……この反面教師が」
「……ふん。せいぜい、授業料分はきっちり教えてやるわ」
それは、誰もいない夕暮れの屋上で、元退魔師の教師と不良生徒が交わす宣戦布告にしては、奇妙に真面目で前向きな内容だった。
「じゃあな」
雷太は踵を返し、屋上の出口である鉄扉へと向かって歩き出した。
その去り際だった。
「……っ?」
不意に、髪の毛を一本、ピンと強く引っ張られたかのような奇妙な痛みが、雷太の頭を走った。
立ち止まり、頭を押さえながら屋上の出入り口の壁へと向き直る。
(……なんだ、これ)
屋上に来た時には全く気づかなかったが。
コンクリートの壁の表面に、赤黒い染みのような『奇妙な紋様』が刻まれていたのだ。
菱形の中央に、目玉のような二重丸。そして、その周囲から手足のように短く書かれた、何本もの斜めの線。
ただの落書きとは思えない、その無機質で幾何学的なデザインに、雷太は何故か背筋が凍るような不気味な薄ら寒さを感じた。
「なぁ、先生。……これ、何だ?」
雷太が指差した壁を見て、二本目の煙草を吸おうとしていた華澄が、面倒くさそうに目を向けた。
そして。
その紋様を凝視した瞬間、華澄は限界まで目を見開いた。
「……これ、嘘、でしょ……っ」
カタカタと、持っていたライターを取り落とす。
先ほどまでの余裕ぶった態度は完全に消え失せ、華澄は顔面を蒼白にして震える声で呟いた。
次の瞬間、華澄は雷太の袖をものすごい力で引っ掴むと、半狂乱になって鉄扉を開け、急ぎ階段を駆け下りようとした。
「おっ、おい!? あぶねえ、何だよ急に先生! 塾講師が体罰かよ!」
「うるさい、黙って! すぐ逃げ――」
パニックに陥った華澄の叫び声を。
物理的に、巨大な『肉塊』が遮った。
ズチャッ……。
階段の踊り場の天井から。
どろどろとした粘液状の身体を垂らし、真っ白で無表情な『能面』のような顔を貼り付けた悍ましい化け物が、二人の退路を完全に塞ぐように立ち塞がったのだ。
そして、化け物の口から、耳障りなノイズと共に無機質な機械音声が響き渡る。
『――System Notice.
[Backdoor] ノ形成ヲ確認シマシタ。
契約[Contract]ニ基ヅキ、現在座標ニ[Portal]ヲ展開・設置シマス。』
* * *
薄暗い乙太亭の自室。
ベッドの上で膝に顔を埋め、自己嫌悪の底なし沼に沈み込んでいた公彦の耳を、突如として不気味な音が劈いた。
『ウゥゥゥゥ――――ン……ウゥゥゥゥ――――ン……』
地の底から這い上がってくるような、あるいは巨大な獣の呻き声のような、耳の奥に直接こびりつく奇妙なサイレンの音。
一般人には聞こえない、退魔師の脳にだけ直接響く『外なる霊』の出現を知らせる警鐘だった。
「…………っ」
ビクン、と公彦の肩が跳ねる。
顔を上げると、その瞳は泣き腫らして真っ赤になっていた。
しかし、サイレンの音を聞いた瞬間、公彦の身体は条件反射のように動き出していた。
ベッドから滑り降り、フローリングの床に立つ。
「拙者は――退魔師だ」
ダボダボのTシャツの袖で、乱暴に涙を拭った。
「退魔師だから……戦わなきゃ」
それは、世界を守るための正義感などではない。
中身が腐り果て、親友に抱かれることを望んでしまった醜い自分。
そんな自分に残された、唯一の存在価値。
自分自身に言い聞かせるように。
あるいは、逃げ場のない運命で自らを縛り付け、呪うように。
公彦は呟きながら、傍らに置いてあった二丁の重厚な拳銃――己の半身たる咒具を、力強く握り締めた。
「――装来」
その言葉には、いつものような能天気な響きも、戦いに臨む高揚感も、一切の感情がこもっていなかった。
ただの無機質な音声入力。
しかし、相棒たる咒具は、主のその痛々しいほどの絶望を理解しているかのように、即座に、そしてどこまでも優しく反応した。
淡く、温かい黄金色の霊力の流れが、公彦の柔らかい全身を包み込む。
光の粒子が弾けると、Tシャツ姿だった公彦は、戦闘用の抹茶色の和風ドレスへと包まれていた。
それだけではない。咒具の力は、公彦の心身のコンディションを戦闘状態へと最適化し、泣き腫らした赤い目元も、みっともない涙の跡さえも、綺麗さっぱりと消し去ってくれたのだ。
「んっ……」
公彦は、手に馴染む冷たい銃身の感触に、そっと指先を這わせた。
「ありがとう……でござる」
唯一、自分を否定しない相棒に小さく礼を言うと、公彦は振り返ることなく自室の窓に手をかけた。
ガラッ! と窓を勢いよく開け放つ。
夕暮れから夜へと変わりつつある冷たい風が、部屋の中へと吹き込んできた。
トンッ、と。
窓枠を軽く蹴り、公彦の身体は重力を無視したように天高く跳躍した。
屋敷の屋根を越え、鍔競市の空へと舞い上がる。
風を切りながら空中に浮かび上がったその瞬間。
公彦は、退魔師の視界にだけ映る、怪異の発生箇所を示す『紅い点灯』の方角へと視線を向けた。
そして、漸(ようや)く事の重大さに気がついたのだ。
「…………え?」
空から見下ろす街並み。その紅い光が激しく明滅している場所。
そこは、隣町の駅前にある雑居ビルの屋上だった。
見覚えがある、どころの話ではない。
そこは、雷太が通っている美容スクールがあるビルであり、そして何よりあの水澄華澄が講師として勤めている場所そのものだった。
二人の顔が、同時に公彦の脳裏をフラッシュバックする。
自分の心を徹底的に破壊した、かつての想い人。
そして、自分を絶望の底から救い出してくれた、たった一人の大切な親友。
その二人がいるかもしれない場所に、外なる霊が出現したのだ。
「華澄、さん……雷太殿っ!!」
気づくや否や。
公彦は空中で身体を捻り、背後、空の虚空に向けて二丁の拳銃を構えた。
自己嫌悪も、トラウマの恐怖も、もはやどうでもよかった。
ただ、あの不器用で優しい金髪の青年を失うことだけは、絶対に避けなければならない。
カチッ、と。
撃鉄を起こし、弾倉に込められた銀弾へと、自身の莫大な霊力を限界までオーバーチャージする。
「咒名開放――『贖い(あがない)』ッ!!」
裂帛の気合いと共に放たれた詠唱。
ズドォォォォォンッ!!!
空中で、規格外の大爆発のような発砲音が轟いた。
その凄まじい反動(リコイル)の推進力を利用して、公彦の小さな身体は砲弾のような速度で急加速する。
抹茶色のドレスが夜空に一筋の流星のような軌跡を描きながら、公彦は大切な者を護るため、紅く染まる絶望の現場へと一直線に飛翔していった。
* * *
踊り場に立ち塞がった能面のような化け物が、無機質なシステム音を発した直後だった。
「うおぉぉっ!?」
雷太は華澄の腕を乱暴に引っ張り、来た道を逆戻りして再び屋上へと飛び出した。
逃げようとした階段が。足元の硬いコンクリートが。
ドクン、ドクンと嫌な拍動を響かせる『悍ましい肉塊』へと、概念的に置換されてしまったからだ。
「なんだよこれ……どうなってんだよ!!」
再び飛び出した屋上の光景を見て、雷太は発狂しそうになる頭を必死に押さえつけた。
見慣れた夕暮れの空は、まるで異なるテクスチャの画像を無理やり上書きされたかのように、不気味にうねる『紫色の空』へと変貌していた。
周囲に立ち並ぶビル群も、無機質な鉄筋コンクリートから、赤黒い肉と血管が絡み合う異常な景色へと姿を変えている。
「このビルの敷地だけに、『んかい』の外部法則が張りつけられている……っ! こんなの、自然に発生するわけがない!」
「おいおいおい、幽霊がテロでも起こすってのかよ!」
パニックに陥る華澄の背中を庇いながら、雷太はジリジリと屋上の端へと追い詰められていく。
肉塊に覆われた屋上の出入り口から、何百という『巨大な蛭』のような醜悪な生き物が、粘液を撒き散らしながら波のように押し寄せてきていた。
「くそっ、来んな! 気色わりぃ!!」
バチィッ! バチバチッ!!
雷太は、先ほど咄嗟に華澄から渡された、スタンバトンのような短い棒を必死に振り回し、迫り来る蛭どもを弾き飛ばしていた。
『EMM社』の刻印が彫られたその警棒は、大量生産品の簡易咒具らしい。
強力な原典の咒具と違って女体化の呪いすらかからない、本当にただの『一般人・技術者向けの対霊用護身武器』だ。
「先生も大人なんだからさぁ! なんとかしろよ!」
「護身用にそれを持たされてはいたけど……私、もう霊力を切除して『全くない』のよ!」
「マジかよ、使えねえ!」
雷太の背中にしがみつきながら悲鳴を上げる華澄。
無数の蛭の群れの後ろからは、さらに巨大な触手や、カサカサと嫌な音を立てて這い回る節足動物のような化け物までが姿を現し始めていた。
そのすべてが波状攻撃で襲いかかってくれば、いくら簡易咒具を振り回したところで、ひとたまりもない。
(万事休すか……っ)
雷太が奥歯を噛み締め、覚悟を決めた、その時だった。
「――咒名開放!!」
紫色の空を切り裂いて、鋭く、凛とした声が落ちてきた。
「『潰せ』ぇっ!!」
ゴ、ゴ、ゴ、ゴンッ!!!
目に見えない巨大な鉄槌のような、凄まじい『平面の圧力』が上空から降り注いだ。
雷太たちを囲むように迫っていた虫の群れが、一瞬にして見えない壁に押し潰され、グチャッ! と緑色の体液を撒き散らして文字通り『面で叩き潰された』のだ。
「……え?」
「無事でござるか、二人とも!」
シュタッ、と。
飛び散る体液の雨を避けるように、月明かりを背負って華麗に屋上に降り立ったのは、抹茶色の和風ドレスに身を包んだ、タヌキ耳の美少女――乙太公彦だった。
「公彦ぉっ!!」
地獄に仏とはこの事だ。雷太は安堵のあまり親指を立てて、親友の背中へ応えた。
「お前のおかげで、無事だ! マジで助かった!」
「ふふっ。間に合ってよかったでご――」
公彦が安堵したように微笑み、雷太の方を振り返ろうとした。
――その、一瞬の隙だった。
ヒュッ!!
ビルの外壁の肉塊に同化して潜んでいた、ひときわ太い触手が。
鞭のようなすさまじい速度でしなり、公彦の無防備な背後から、その細い『腰』めがけて先端の鋭い針を突き刺したのだ。
どちゅっ!
肉を穿つ、鈍く生々しい音。
そして。ずきゅ、どくっ、と。化け物の触手が脈打ち、公彦の体内へ直接『何か』を大量に注入する音が響いた。
「ぁっ……ぎっ……!?」
公彦の口から、空気が漏れるような苦しそうな悲鳴が上がる。
「――――公彦ぉっ!!」
雷太は血の気を引き、身を乗り出して叫んだ。
触手はすぐに引き抜かれたが、公彦はその場にガクンと膝をつき、口から一筋の鮮血をこぼした。
しかし。
「かはっ……――咒名、開放ッ!!」
公彦は絶叫するように叫びながら、己の痛みを無視して、二丁の拳銃を雷太と華澄の方へと力強くかざした。
「『黒鉄茶釜(くろがねちゃがま)』!!」
ズンッ!!
重低音と共に、雷太と華澄の二人をすっぽりと包み込むように、巨大な半透明の『茶釜』のようなドーム型の結界が顕現した。
直後、周囲の肉の壁から大量に湧き出してきた虫の軍勢が結界に群がるが、バチバチと紫色の火花を散らして悉く弾き飛ばされ、内部への侵入を完全に阻む。
強力無比な、絶対防壁。
しかし。その結界の中に、それを展開した『公彦自身』の姿はなかった。
「ぁっ……ぐぅっ、はぁ、はぁっ……!」
結界の外。
ビクビクと膝を震わせ、顔を異常なほど赤く火照らせた公彦が、自らの豊かな胸を掻き抱くようにして悶え始めていた。
「公彦、大丈夫か!? 毒か!?」
「は、はは……へーきへーき、毒は毒、でも……ひぐっ! あぁっ……え、エロゲに出てくるような……媚毒で、ござるから……大丈夫ぅ……」
強がるかのように乾いた笑いを浮かべ、公彦はガクガクと震える足でなんとか立ち上がり、拳銃を構え直す。
しかし、その瞳はトロンと潤み、口からは甘く熱い吐息が漏れ続けていた。
「外なる霊の媚毒じゃないの! 全然大丈夫じゃないわよそれ!」
結界の中で、華澄が蒼白になって叫ぶ。
彼女の言葉を証明するかのように。
びゅ、びゅるっ! と、周囲を取り囲んだ虫たちや蛭が、一斉に乳白色の粘液を吹き出しながら飛び上がり、苦しむ公彦の身体へと殺到した。
「ぁっ! このっ……んぎゅっ! く、くっつく、なっ……! は、ぁんっ!!」
飛び散る粘液自体にも強烈な媚薬の効果があるのか。
張り付かれ、衣服を溶かされ、あちこちの柔肌を噛まれ、抹茶色の和風ドレスをドロドロに汚されながら。公彦の口から、悲鳴に混じって艶かしい嬌声が弾ける。
それでも公彦は、震える手で虫たちに発砲し、必死に抵抗し続けていた。
結界の中からその惨状を見せつけられ、雷太は半透明の壁をバンバンと狂ったように叩いた。
「公彦! ここを開けろ! 俺が外に出て、くっついてる虫をバトンで祓ってやるから! それか、お前も早くこの結界の中に入れよ!!」
「ひぎっ……ああっ! む、無理でござるなぁ……っ」
群がる虫たちに全身を這い回られ、媚毒によってすべての皮膚を『性感帯』のように敏感にされた状態で、生々しい愛撫と蹂躙を食らいながら。
公彦は、涙目でへにゃりと笑い、絶望的な事実を告げた。
「それ……拙者自身が入ったら……反発して、焼け死ぬ仕様なんでござる……んぎゅっ、ひぁっ! ……そういう呪いを転用した、『大切な人を守るためだけ』の守りなんでござるよぉ……っ」
「そんな……ふざけんなよ……!」
雷太の口から、泣きそうな声がこぼれ落ちる。
自分が身を挺して張った絶対安全な結界の外で、ただ一人、敵の群れと戦い続ける続けるための力。
なんて悪趣味で、公彦の自己犠牲の精神を体現したような呪いなのだろうか。
「……っ」
華澄は、公彦が蹂躙される姿から目を逸らし、震える指でスマホを操作して、EMM社の本部へと必死に救難信号を発信し続けている。
しかし。
ズズズズ……ッ!
屋上の出入り口の肉塊が大きく裂け。
そこから、先ほどの比ではないほど大量の、そして極太の触手が生き物のように伸びてきた。
抵抗する力すら媚毒で奪われた公彦の細い手足、腰、そして首元を、無数の触手が蛇のように絡め取り、そのまま空宙へと吊り上げるように掴み、その先端の棘を、公彦の豊満な体中に刺し、媚薬を無慈悲に注入した。
「ひぎっ……ぃぁああっ、あぁぁぁっ!!」
限界を超えた快楽と苦痛に、公彦の口から悲痛な絶叫が上がり。
ついに、彼女(彼)の握っていた二丁の拳銃が、カラン、と無力に床へと転がり落ちた。
「公彦ぉぉぉっ!!!」
紫色の空の下。
結界を叩き続ける雷太の絶望の悲鳴が、異界と化した屋上に空しく響き渡った。
無数の触手に刺し貫かれたまま、どきゅっ、どくっどくっと、注入の音が肉のポンプを揺らす度、ビクンビクンと震える公彦の豊満な身体が……やがてドサリと肉の床に崩れ落ちた。
その瞬間を待っていたかのように、周囲を取り囲んでいた巨大な蛭の群れが、一斉に公彦の身体へと群がった。
びゅるっ、ずじゅっ、と。媚薬の混じった粘液の嫌な音をこぼしながら、蛭たちはまるでバケツリレーでもするように、抵抗する力を失った公彦の身体を屋上の出入り口――ビルの薄暗い内部へとズルズルと運び始めたのだ。
「っぐ……その、はぁっ……」
虫の群れに埋もれ、蹂躙されながらも、公彦は霞む視線で半透明の結界の中にいる雷太たちを見つめた。
「その『結界』なら……しばらくは、持つでござる。助けが来るまで……その中で、待ってるで、ござるぅ……」
「……は?」
雷太は、半透明の結界に張り付いたまま、信じられないものを見る目で親友を見た。
「おい、おい!! それじゃあ、お前はどうなるんだよ! 待てよぉ!!」
バンバンと狂ったように結界を叩く雷太に、公彦は、溶けかかった服と涙でぐちゃぐちゃになった顔で、へにゃりと。
この期に及んで、あのどこまでも優しくて諦めきった、自己犠牲の笑みを浮かべた。
「拙者は……雷太殿たちが無事なら、それで……っ。く、う゛っ……むぎゅっ、ひあ、ぁぁぶっ……んんっ!」
言いかけた公彦の顔を、巨大な蛭が覆い隠す。
そして、白く細い手足が虫の群れに完全に飲み込まれ、公彦の姿は、ビルの真っ暗な深淵へと完全に引きずり込まれてしまった。
「公彦ぉぉっ!!」
雷太の絶叫が屋上に木霊する。
背後では、華澄が顔を蒼白にしながら、涙を流して必死にスマホを握りしめていた。
幸い、通常の電波であれば完全に圏外のこの異界でも、華澄が持たされていたEMM社の特別仕様のスマホは『霊力』を通じての通信機能を持っており、本部への応援要請は既に完了している。
だが、助けがいつ来るかは分からない。
目の前の『茶釜』の結界は、公彦が命を削って展開しただけあって恐ろしく頑丈だ。
確かに、虫や触手の猛攻から自分たちを何時間でも守り抜いてくれるだろう。
しかし。
その間に、引きずり込まれた公彦は?
自分たちの見えないあの暗闇の底で、媚毒で敏感にされた身体を徹底的に凌辱され尽くし、あまつさえ、化け物の児を孕まされる可能性が高いのだ。
(そんなの、駄目だろ……!)
雷太はギリッと唇から血が出るほど奥歯を噛み締めた。
(俺たちだけ無事でも……あいつが壊れちまったら、何の意味もねえだろ、馬鹿野郎!!)
キィン――。
雷太の脳内に、金属を叩き合わせたような鋭い耳鳴りが響いた。
呼んでいる。遠く離れた場所から、あの獣の『牙』が。
雷太は、昨日、子泣き爺の外なる霊に襲われ絶体絶命に陥った時、公彦がやってみせた『咒具の転送』――失った武器を因果律を無視して手元へ呼び寄せる神業を思い出した。
「―――来い!!」
雷太は虚空に向けて手を伸ばし、喉の奥から絞り出すように叫んだ。
しかし、声は虚しく紫色の空に響くだけで、手の中には何も現れない。
「何を……!」
雷太の無謀な試みを見て、華澄が絶望に染まった瞳で首を振った。
「咒具がどこかにあるの!? だとしても無理よ、遠隔装来も遠距離からの転送も、何年も血を吐くような修行をして、咒具と完全に通じ合わなきゃ出来る芸当じゃないわ! ただの一般人のあなたに、呼べるわけが……っ」
「無理じゃねえ!!黙れよぉ!!」
雷太は、華澄の言葉を怒声で叩き斬った。
「いや、無理でもいい! やるんだよ!! ――来い!!」
バチンッ!
雷太の掲げた右手の周囲に、黄金色の雷光が奔った。
「じゃなきゃ……俺は、この先一生後悔して、自分のこと嫌いなまま燻り続けるんだよ!! ――来い!!」
バチチチッ!!
放電現象が激しさを増し、雷太の身体の周囲の空間が陽炎のように歪み始める。
不可能だと言われた現象。
しかし、雷太の圧倒的な後悔と執念が、物理法則の壁を無理やりこじ開けようとしていた。
「嫌だ……あいつは俺を救ってくれたんだ! まだ俺は、あいつの『何になるか』……答えを出してねえんだよ!! ――来いッ!!」
ドゴォォォォンッ!!!
落雷のような凄まじい轟音と共に、莫大な黄金の霊力が雷太の全身を包み込んだ。
視界を奪うほどの眩い光。それが弾け飛んだ直後。
結界の中に立っていたのは、ダボダボの服を着た不良の青年ではなく――。
純白のハイレグレオタードに、肩をはだけた豪華な和装の上着。
金髪にウサギの耳と尻尾を生やした、極限まで露出度の高い『バニーギャルの少女』だった。
「嘘……!」
華澄が、信じられないものを見るように驚愕の声を上げる。
手元に咒具の本体がないまま、遠隔で『装来』を成功させたのだ。それは、退魔師の常識を覆すほどの異常事態だった。
雷太自身も、急激な身体の変化と、全身の血管を駆け巡る莫大な霊力の奔流に息を呑んだ。
股の切れ込みがスースーする羞恥心。しかしそれ以上に、不可能を可能にした達成感と、霊力が細胞の隅々まで満たしていく官能的なまでの『高揚感』が、雷太の理性を彼方へと吹き飛ばす。
「ふざけんじゃねえぞ、オタク君がよぉ……ッ!」
羞恥も建前もすべてを放り捨て。
少女の姿になった雷太は、両手で自らの豊かな胸ぐらを掴み、夜空に向かってヤケクソのように、己の魂の底から絶叫した。
「一人で全部背負って、格好つけてんじゃねえよ!! 俺だってなあ……! 俺だって、お前が好きなんだよ馬鹿野郎!!」
それは、ただの親友としての感情の、決定的な境界線を越えた告白。
「――来いよ、俺の『牙』ぁッ!! オタク君に、公彦のいる暗闇に!! 俺の光を、届かせろぉッ!!」
その叫びは、距離も空間も、そして因果律すらも完全に突破した。
遠く離れた、乙太亭の地下深く。
静寂に包まれた広大な武器庫の中で。
公彦によって何重にも施された強化フォースフィールドの中に再封印されていた一対の獣の『牙』が、主の魂の叫びに呼応するように、強烈な黄金の輝きを放ち始めた。
ピシリ……ビギリッ!
強固な封印の力場に、内側から凄まじい衝撃の亀裂が走る。
そして。
バツンッ!!!
フォースフィールドがガラスのように砕け散り、解き放たれた牙のピアスは、光の軌跡となって空間そのものに溶け込み、消失した。
「――装ぅ来ッ!!」
雷太の耳元に、一瞬にして転送された牙のピアスが顕現した。
直後、バニーギャルの両手に、猛々しい黄金の電光を纏った一対のコンバットナイフが握りしめられる。
バァァァァンッ!!!!
雷太がナイフを交差させて振るった瞬間、公彦の展開していた強固な『茶釜』の結界が、内側からの圧倒的な雷の霊力によって融解し、吹き飛んだ。
同時に、結界に群がっていた無数の虫どもが、黄金の電撃に焼かれて一瞬にして灰へと変わる。
「公彦おおおおおッ!!」
雷太は、床の肉塊を強く蹴り上げた。
暗闇と絶望が渦巻くビルの奥底へ向けて。輝く電光の兎となった雷太は、群がる虫の壁を一切の容赦なく焼き払いながら、一直線に突っ込んでいったのだった。
* * *
ビルの内部は、もはや人工物の面影を完全に失っていた。
壁も床も、脈打つ赤黒い肉塊と無数の血管に覆われ、生温かい湿気と腐臭が充満する、巨大な生物の『胃袋』のような異空間と化している。
ぐちゅ、じゅぷ……ずりゅりゅっ。
粘膜同士が擦れ合う、ひどく卑猥で水っぽい音と共に。
天井の肉の壁を覆っていた虫の群れから、ぽいっ、と吐き出されるようにして、一人の少女の身体が虚空へと投げ出された。
「くはっ……ぁ、う……っ」
どちゃり、と粘液をまき散らしながら床に横たわった公彦の衣服はすべて溶かされ、一糸纏わぬ全裸にされていた。
「ぁゃ……ぁー……ぅぁ」
もはや、まともな思考など一ミリも残っていない。
限界まで体内に注入され続けた強力な媚薬によって、脳髄が文字通り痛いほどにとろけ切っていた。
視界はグルグルと回り、全身の皮膚は空気に触れるだけでビクンと跳ねるほど異常に敏感にされている。
霞む瞳で、公彦はただ茫然と、自分の真下――肉の床の中心にポッカリと開いた『渦』のようなものを見下ろしていた。
漆黒の泥が渦巻く、宇宙の深淵のような異空間への出入り口。
『――System_Log: [Coordinate_Axis] Stabilization_Complete.
[Virtual_Portal] Manifestation: Active.』
出入り口の奥底から、空間の軋むようなノイズと共に、システムメッセージを模した無機質な機械音声が響き渡る。
ここが、外なる霊たちの世界『んかい』への入り口。
直後、その暗黒の渦の向こう側から、公彦の身体の何倍もある巨大で悍ましい無数の触手が、ずるりと這い出してきた。
それらは何か見えない力に持ち上げられて、宙に浮く公彦の白い全裸に絡みつき、全身を這いずり回り、まるで極上の供物を吟味するように貪り、しゃぶり、ねっとりと嬲り回す。
「ひぎっ……あぁっ! や、ぁ、ひぁぁっ!」
特に自己主張の激しい豊かな双眸が、吸盤のついた触手にぐにぐにと無遠慮にこね回され、吸い上げられる。
その強烈な快感と嫌悪感に、公彦の喉の奥から、自制の効かない引き攣った娇声と悲鳴が漏れ続けた。
『――Target_Scan: [Optimal_Vessel] Detected.
Mode_Shift: [Divine_Proxy_Assimilation]
[Mausoleum] Modification_Sequence: Initiating...』
無機質なエラーコードが、残酷な宣告を下す。
最適な器。神の依り代。そして、受肉のための『陵(みささぎ)』への改造。
(あぁ……これが、拙者の終わりでござるか……)
公彦は、抗う気力すら失った霞む瞳で、絶望を受け入れていた。
目の前でずるりと鎌首をもたげた、一際太く、ごつごつとした異形の触手が脈打ちながら、公彦の無防備な下腹部――女性としての最奥へと、正確に狙いを定めて迫ってくる。
あれが入り込めば、自分の腹には化け物の児が植え付けられ、一生この女の身体のまま、意識だけが陵として生かされ続けるのだ。
(雷太殿……怒るかなぁ……)
最後に脳裏に浮かんだのは、金髪の不器用な親友の顔。
(でも、あの二人を……護れて、よかったでござる……。これで、もう、何も……)
痛覚も恐怖も、すべてが媚薬の快楽に塗り潰されていく中で。
公彦が諦めと共に、静かにその瞳を閉じた
――その、瞬間だった。
バツンッッッ!!!
「――え?」
圧倒的な熱量と、目を灼くような黄金の閃光が、深淵の空間を埋め尽くした。
耳を劈く轟音と共に、公彦を固定し、凌辱しようとしていた虫と触手の群れが、文字通り『一瞬にして炭化』し、四散したのだ。
「ぇ、ぁ……ゃうんっ!?」
拘束を解かれ、支えを失った公彦の身体が、奇妙で間抜けな悲鳴を上げて虚空へと落下しそうになる。
しかし。
その柔らかい裸体が肉の床へ叩きつけられるよりも早く、黄金の雷光の中から飛び出してきた力強い『二本の腕』が、公彦の身体をガッチリと、そして優しく抱きとめた。
「っぐ……おっっも!!」
抱きとめた者から、切実なツッコミが漏れる。
「な、なんだこの重量! お前、マジで無駄にデカすぎんだろ!!」
聞き慣れた、粗暴で、けれど世界中の何よりも温かいその声。
公彦は、自分を『お姫様抱っこ』の状態で抱きとめてくれたその人物の顔を、ぼんやりと見上げた。
「らい、た……殿……?」
そこにいたのは、純白のハイレグレオタードと兎の耳を生やした、バニーギャル姿の雷太だった。
彼(彼女)自身も華奢な少女の身体になっているため、公彦の豊満すぎるわがままボディの質量を支えきれず、プルプルと腕を震わせている。
しかし、その瞳には、親友を絶対に死なせないという烈火のような強い意志が、黄金色の霊力と共に眩いほどに光り輝いていた。
「雷太殿っ……! らいたどの、らいたどのっ! 雷太殿ぉっ!!」
光り輝くその姿に見惚れた公彦は、涙をポロポロと溢れさせながら、雷太の細い首周りにすがりつくように両手を回した。
もはや媚薬のせいで頭ははっきりせず、自分が全裸である羞恥心すら飛んでいる。それでも、愛しい親友の名を狂ったように何度も呼び、子供のように大声で泣きじゃくった。
情けない。退魔師の当主として、こんな姿を見せたくはなかった。
それでもいい。相反する感情とぐちゃぐちゃの涙の中で、公彦の顔には、心からの安心しきった満面の笑顔が浮かんでいた。
「まったく……世話が焼けるオタク君だよ、本当に……っ」
雷太は、首にすがりついてくる愛しいオタクの涙を振り払うように、前を向いた。
そして、両手に握りしめた黄金のコンバットナイフ――自らの半身たる咒具に向けて、冷静な、しかし絶対の信頼を込めた声で問いかける。
「……出来るよな?」
咒具はただの道具だ。
しかし、この雷太の因果を超えた執念に呼応して顕現した咒具に至っては、その常識は一切通用しない。
神から与えられた原典の咒具。その中でも、とりわけ『獣の特性』を強く持つ、じゃじゃ馬の銘。
雷太の脳内に、咒具自身から直接教えられた、その『本当の名前』が響いていた。
「咒名第一開放(まずはじこしょうかいしろ)――!!」
雷太は、ナイフを交差させ、空間そのものを切り裂くように叫んだ。
「――『光玉(アルミラージ)』ッ!!」
ガァァァァンッ!!!
落雷のような轟音と共に、黄金の電光が半球状の障壁となって二人を包み込んだ。
迫り来る無数の触手がその障壁に触れた瞬間、蒸発するように消し飛ぶ。
そして、一瞬にして周囲の景色がブレたかと思うと。
雷光の瞬きと共に。
二人の姿は、あの紫の空の下、華澄の待つ屋上へと既に『転移』を完了していた。
雷への変身と、超高速の移動(転移)。
それこそが、雷太の因果の牙――『光玉』の能力。その、ほんの入り口の力だったのだ。
「ひっ……!? 雷太、くん!?」
突然屋上に光と共に帰還したバニー姿の教え子と、抱き抱えられた全裸の公彦を見て、華澄が腰を抜かして悲鳴を上げた。
背後からは、結界を突き破って無数の虫どもが追撃してこようとしている。
「先生! 舌噛むなよ!!」
雷太は有無を言わさず、片腕で公彦を抱き抱えたまま、空いたもう片方の腕で華澄の腰をガシッと力強く掴み上げた。
「えっ、ちょ、きゃあああああっ!?」
そして、屋上の端から、隣のビルめがけて躊躇なく虚空へと飛び込んだ。
バチィッ!!
雷太の脚力に光玉の霊力が上乗せされ、三人の身体は砲弾のように宙を舞う。
そして、『んかい』の外部法則が張り付いた異常空間の境界の膜を、雷の速度で強引に突き破った。
パリンッ、と見えないガラスが割れるような音と共に。
周囲の景色が、おぞましい紫色のうねりから、本来の鍔競市の美しい夕焼け空……鮮やかな『青空』の残る光景へと切り替わった。
「ぐっ、とと……っ!」
隣のビルの屋上。雷太たちはコンクリートの床にドサッと着地し、衝撃を殺すために三人で絡み合いながらゴロゴロと激しく転がった。
「いっっっつ……! 死ぬかと思った……」
雷太が痛む肩を押さえながら起き上がると、腕の中で公彦がガクガクと震えていた。
「っひいぃぃぅぅぅっ……はぁ、あぁっ……」
「お、おい公彦! 大丈夫か!?」
「雷太、殿ぉ……せ、拙者……媚薬で色々限界でござるからしてぇ……もうちょっと、お慈悲をぉ……っ」
涙ながらに震え、涙目で文句を言う全裸のタヌキ耳美少女。
先ほどまでのヒロイックな救出劇から一転、艶めかしくビクンビクンと痙攣するあられもない姿に、雷太は顔を真っ赤にして爆発しそうになった。
「わ、わぁぁっ! 悪ぃっ!!」
雷太は気まずそうにバサッと自らの和装の上着を脱ぐと、公彦の裸体を包むように差し出し、慌てて明後日の方向へ目を逸らした。
「悪い……助けるのも……お前の気持ちに、答えをだすのも遅くなった」
雷太の、不器用で、けれど真摯な謝罪と告白。
それを聞いた公彦は、上着を胸元でギュッと握りしめ、媚薬の熱に浮かされた顔で、ふふっ、と嬉しそうに微笑んだ。
「んぁ……ひぅ……ふふ。ぬふふ。その、えっちなバニーの格好を見せてくれただけでも……十分な回答(アンサー)でござるよ、雷太殿」
雷太が恥ずかしさで頭を抱えそうになった、その時だった。
『――目標の異常空間、視認!』
不意に、下方の路上から凛とした少女の声が響いた。
雷太たちが飛び出した、異界と化したビルの正面入り口。
ザッ!
と、その前に降り立ったのは、ライトグリーンを基調とした、背中の大きく開いた和風ドレスに身を包んだ少女だった。
ふさふさのリスの耳に、大きな尻尾。手には、石突きに巨大なマニ車のついた錫杖(しゃくじょう)を掲げている。
「座標固定! 影響範囲に結界を二重展開する! 行けるよ、剛(ごう)!」
蓮(れん)が叫ぶと同時、ジャラララッ! と錫杖のマニ車が高速回転し、カシャン! と甲高い音を立ててアスファルトを打った。
その直後。彼女の背後から、赤い和風ドレスに黒い猫耳を生やした、小柄だが勝気な少女が弾かれたように跳躍した。
「おうよ! 必殺技は一気に決めるぜ、蓮!」
空中に舞い上がった剛が、巨大な鉄扇をバサァッ! と構える。
「咒名開放――『繚乱銅魚(りょうらんせきぎょ)』!!」
カキンッ、と。
赤い光のラインを見せるように展開した鉄扇から、まるで金魚のように優雅に、しかし凶悪な熱量を秘めて揺らめく紅い炎が立ち上った。
「咒名開放――『樹齢延展(じゅれいえんてん)』!!」
地上で蓮が錫杖を掲げ、詠唱を重ねる。
ぶわぁっ! と、ライトグリーンの神聖な霊力の檻が、異界と化したビルを一つ丸ごと完全に包み込んだ。これで、内部の熱も被害も、一切外には漏れ出さない。
完璧な連携。鍔競市を護るヒーローたちの、圧倒的な合体必殺技の布陣。
「いっけえええええええ!!!」
剛が、全霊の力で巨大な鉄扇をビルへ向けて振り下ろした。
ゴォォォォォォォォンッ!!!
凄まじい爆炎と共に、鉄扇から無数の『炎の魚』が濁流となって溢れ出した。
紅蓮の金魚の群れは、ライトグリーンの檻に包まれたビルの中へ怒涛の勢いで雪崩れ込み、肉の壁も、群がる蛭も、巨大な触手も。
建物そのものには一切の傷をつけることなく、ビル内のすべての異形の生命体を、文字通り一匹残さず一瞬にして灰へと変えていったのだった。
事態が収束し、それでも封鎖されたままの路上。
よろよろと、隣のビルの非常階段から下りてきた雷太と華澄、そして雷太の背中におぶられた公彦のもとへ、中学生くらいの年頃の二人の退魔師――剛と蓮が小走りで駆け寄ってきた。
「乙太センパイ! 無事か!?」
剛は、自分の赤い和風ドレスよりも遥かに大きなサイズの男物のジャケット(おそらく本部の支給品だろう)を持ってきており、雷太の背中でぐったりとしている公彦の全身を覆うようにバサッと被せた。
「助かったぜ……。ていうか、中学生?」
雷太が少し驚いて尋ねる中、蓮が公彦のそばに寄り、持っていた錫杖をかざして公彦の全身をスキャンし始めた。
「……うーん、これは。かなりマズいとこまで外なる霊の媚薬が浸透してますね。すぐに本社の特別医療班で精密検査と解毒を受けさせなきゃ」
蓮が眉をひそめて深刻な診断を下すと、公彦はジャケットの中でモゾモゾと身じろぎし、熱っぽい声で言った。
「はぁ、はぁ……それより、後で継嗣松市の……新しい退魔師の登録を、本部に頼んでおいてほしいでござるよ……」
「新しい退魔師?」
「ええ……そこにいる矢落雷太殿は、今日から……その、拙者の新しい相棒(バディ)でござるからして……」
何故か気恥ずかしそうにする公彦の突然の宣言に、剛と蓮の二人は目を丸くして驚いた。
「ええっ!? あ、あの最強の乙太先輩に、ついに固定のバディっすか!?すげぇ!!」
純粋に先輩の『ヒーロー』としての圧倒的な強さに憧れている剛は、驚きながらもキラキラと尊敬の目を輝かせて雷太の方を見た。
一方で。
退魔師の世界の『もう一つの事情』をよく理解している蓮は、一瞬驚いた後、その言葉の裏にある決定的な意図に気づき、口元を手で隠して妖しく微笑んだ。
「おやおやおやぁ……」
蓮の瞳が、面白そうな獲物を見つけたように細められる。
「わかりました。雷太さん、あなたのところには、後日EMM社の役員を正式に派遣して手続きさせますので。……公彦先輩の『伴侶』として、末永くよろしくお願いしますね?」
「……はんりょ?」
蓮のそのニッコリとした眼差しと、妙に引っ掛かる単語のチョイスに、雷太は強烈な嫌な予感を覚えた。
バディとは言ったが、伴侶ってなんだ。
それって普通、夫婦とかに使う言葉じゃないのか。
ああいや、確かにそんな事も言ってたような……
「おい公彦、どういうことだそれ。俺はただお前と一緒に戦うって言っただけで……おい!」
現実逃避気味な雷太が首を巡らせて問い詰めようとしたが、公彦はすでに駆けつけてきた本部の医療班によって、手際よく担架の上へと移されていた。
「やはは、雷太殿……」
酸素マスクを当てられながらも、公彦は担架の上でへにゃりと笑い、バニー姿の雷太に手を振った。
「不束者(ふつつかもの)ですが……今後も、末永くよろしくお願いするでござるよぉ。よっぽど、その咒具に気に入られたみたいですからなぁ」
「だから! なんで嫁に行くみたいな挨拶なんだよお前!!」
顔を真っ赤にして喚く雷太に、公彦は少しだけ真面目な顔になり、声のトーンを落として言った。
「……でも。本当に……ありがとう、雷太殿」
その言葉には、ただの命の恩人に対する感謝だけでなく。
暗闇に沈んでいた乙太公彦という魂を、過去ごとすべて丸ごと救い上げてくれたことへの、限りなく深い愛情が込められていた。
「……っ」
それを見せられては、これ以上文句を言う気にもなれず。
雷太は顔を背け、耳まで赤くしてそっぽを向いた。
「……わかったから。とっとと行って、その変な毒治してこい」
そんな、照れ隠しと素直になれない二人の微笑ましいやり取りによって。
鍔競市を揺るがした、白昼の悍ましい霊的事件は、ドタバタと騒がしく幕を閉じたのだった。
* * *
それから、数日後。
EMM社による速やかな隠蔽工作と、「雑居ビルでのガス漏れ事故」というカヴァーストーリーが徹底的に適用された結果。
美容スクールは何事もなかったかのように、問題なく運営を再開していた。
そこで講師をしていた華澄は、その生徒のうち一人の姿が『変わって』――いや、ある意味では元のまま『変わっていない』のだが、そこに明らかな異常があることに気づいていた。
授業が終わり、人気のはけた夕暮れの教室で、華澄はその生徒に声をかけた。
「気に入ったの? 女の子」
声をかけられた生徒――矢落雷太は、ビクッと肩を跳ねさせた。
「うるっせぇ……! あんた、霊力ないんじゃなかったのかよ?」
雷太は、あの戦いで変化した『金髪ギャル』の姿のままだった。
特徴的だった長い兎の耳と尻尾は、組織から教えられた簡単な隠形術で見えなくされている。
しかしその服装は、胸元が大きく開き、タイトなニットのシルエットがボディラインを強調する、いわゆる『童貞を殺す服』といった感じの、妙に清楚でえっちな出で立ちだ。
改めて真っ向からその格好を指摘されたことで、雷太は顔から火を噴き出さんばかりに真っ赤になり、恥ずかしそうに肩を縮こまらせた。
「認識改変はあくまで、『認識』だけだからね。事前に知ってれば、元の姿と変わってることくらいには気づけるわよ」
華澄はクスッと笑いながら、呆れたようにため息をつく。
「昨日、退魔師登録のために色々データをとるっつって、組織の連中に無理やり装来させられたんだよ……! で、呪いで一日元に戻らねぇから、仕方なく服を借りて……」
「ご愁傷さま。いろんな意味で」
華澄が含み笑いで言った『いろんな意味』の一つが、間違いなく公彦の『伴侶(バディ)』として組織に組み込まれた部分であることを察し、雷太はギリッと奥歯を噛む。
「……それかよ。……それでも、俺はあいつを助ける為にこの力を手に取ったことは、この血生臭い世界に足を踏み入れたことは、後悔してねえからな?」
ごまかすことなく放たれた、雷太の真っ直ぐな返答。
それを聞いた華澄は、少しだけ驚いたように目を見開き、そして、自嘲するように優しく目を細めた。
「……その純粋さが、私には眩しすぎて……認められなかっただけなのかもね。……まぁ、私も、一般人になって結婚したのは後悔してないけどさ」
ふぅ、と。胸のつかえが少し取れたような息を吐き出して、華澄は言った。
「……認めるわ。あの子は、私の知る気味の悪いオタクじゃないって。いつか、また会ったときにはちゃんと謝んないと」
あの日、彼女自身の手で完膚なきまでに叩き壊してしまった少年の魂を。
観念したように華澄が確かに『認めた』、その時だった。
「あ、雷太殿ぉーっ!」
教室の入り口から、明るい声が飛び込んできた。
二人が振り返って、思わず目が点になる。
声の主の口調は、あのいつもの能天気な『オタク君』のものではあった。
しかしその声のトーンは、かつてのふくよかな少年のものでも、可憐な少女のものでもなく、やけに野太く、渋く、腹の底から響くようなイケボに変わっていたのだ。
しかし、最大の驚きは、その声を発した人物の『存在感』そのものだった。
「え……?」
そこに立っていたのは、男の時の雷太でさえも見上げるような、凄まじい『偉丈夫』だった。
身長は優に一九〇センチを超え、全身は彫刻のようにがっしりとした筋肉で覆われつつも、無駄な贅肉のついていない引き締まった細さで整えられている。
そして何より、顔が異常なまでに良い。
丸い伊達眼鏡をかけてはいるが、それがむしろ知的な色気を放つ、少し変わった口調なだけの『超絶マッチョなイケメン』に他ならなかった。
「お、おまっ! おまおまおま……公彦ぉ!?」
「HAHAHAHA。二人とも、ナイスリアクションでごっざるぅ」
華澄が顔を赤くして両手で頬を覆い、ギャル状態の雷太が驚き尽くした様子で閉じなくなった口をどうにかパクパクと動かし、その名を呼ぶ。
「然り! 不肖・乙太公彦、媚薬に侵された女体の治療と解毒のため、一時的に原典の呪いを解除し、此方の姿に戻ったでござる!」
ドヤァッ、と筋肉を見せつけるようにポーズをとるマッチョイケメン。
「いやぁ、拙者もビックリしたでござる! 女体化している間も身体を鍛え続けていた成果が、いざ戻ってみたらまさか此方の身体にもこれほど劇的に出ていたとは!」
「いや、出すぎだろ!! もはや誰だよお前!!」
華澄もまた、出会ったばかりの頃の『どんくさくてふくよかなオタク少年』の姿しか知らなかったため、まさか数年の猛特訓の末に彼がここまで凄まじいイケメンに育っていたとは夢にも思わず、完全にフリーズしていた。
「……前言撤回。ちょっと後悔したかも」
「は!?」
「良かったじゃん、矢落くん。あんたの伴侶、最高にイケメンよ。おめでと」
「い、いやいやいや! 俺は男だから! いくら公彦の本当の姿がこんな、悔しいくらいにイケメンで良い身体だとしても……!」
真っ赤になって両手を振り回す雷太。
そんな雷太の反論を遮るように。ズイッ、と。
公彦の、男の色気に満ちた端正な顔が、雷太の眼前に迫った。
「雷太殿。……こんな拙者は、やはり嫌でござるか?」
低く、甘く、耳元で囁かれる渋い声。
「――――っ!!?!?」
その瞬間。
キュン!! と。
呪いによって完全に『女性』へと作り変えられている雷太の胎の奥底にある器官が、圧倒的なオスのフェロモンを前にして、本能的に、そして致命的なまでに反応してしまった。
雷太の変身後の姿は兎、年中発情期なのは人間もそうだが、理性で蓋をしているのと生存戦略で常に発情期なのは意味が違うわけで……
「ひゃうっ……!?」
ズキンと疼く下腹部の感覚に、雷太は腰から砕け落ちそうになりながら、育ち始めの胸を両手で必死に抑え込んだ。
顔は沸騰したように真っ赤に染まり、瞳は潤んでいる。
ハッとして、雷太は自分が今『メス』として完全に反応してしまった事実に戦慄した。
「ひ、い、いいい嫌に決まってんだろ!! 早く女に戻れ、俺がおかしくなる!! なんか今、俺の中でいろんな感情がバグってんだよ!!」
パニックに陥り、涙目で喚き散らす金髪バニーギャル(雷太)。
「むほほほほ! 雷太殿が嫁でも、拙者は一向に構いませぬぞ?」
「冗談抜かすな!! このマッチョオタクが!!」
夕暮れの教室に、そんな騒がしくも賑やかな喧騒が響き渡る。
オタクと、チャラ男。
大和撫子と、金髪ギャル。
決して交わるはずのなかった二つの運命は、血生臭い呪いを経て、誰よりも強固で、そして奇妙な『バディ』として結実した。
彼らは今日も、街の闇を祓う愉快な退魔師コンビとして。
そして互いの背中と尊厳を護り合う相棒として、可憐な少女の姿で戦い続けている――。