市立継嗣松(けいしまつ)高校、二年C組。
昼休みの教室は、うだるような夏の熱気と生徒たちの喧騒に満ちていた。
開け放たれた窓からはグラウンドの砂埃を孕んだ熱風が吹き込み、天井で首を振る扇風機の生ぬるい風と混ざり合う。
そんな、どこにでもあるような夏の日常風景。だが、その教室の中央には、ひときわ異彩を放ち、周囲の空気をさらに数度熱くさせている『熱源』が存在した。
「てかさー、オタクちゃん最近本当にいい男になってるじゃん。こっそりジムとか通って筋トレでもしてたの? 前はもっとこう、どんくさいっていうか、丸っこかったよね?」
「いやーはは、そんなとこでござるぅ。お恥ずかしながら、日々の鍛錬の賜物といいますか、己の肉体と対話した結果といいますか……コポォ」
女子生徒――それも、普段なら彼のような「オタク」タイプには絶対に見向きもしない、スクールカーストの頂点に位置する派手なギャルたちに囲まれ、タジタジになっている大男。
それが、現在の乙太公彦だった。
「マジウケるんだけど! 顔面国宝レベルのくせに、喋り方だけそのまんまじゃん! てかこの胸板ヤバくない? ちょっと腕触らせてよー」
「ひぃっ!? ち、ちょっと、おやめくだされぇ! 流石にそうベタベタ触られると恥ずかしいでござるよぅ!」
キャッキャと黄色い声を上げる女子たちに対し、巨体を丸めて照れるように言う公彦。
無理もない。彼の身長は一九〇センチを優に超え、夏用の薄手の半袖ワイシャツの上からでも、大理石の彫刻のように引き締まった分厚い胸板と、はち切れんばかりの丸太のような上腕二頭筋がはっきりと見て取れる。
おまけに丸メガネの奥の顔立ちは、ハリウッド俳優かトップモデルも裸足で逃げ出すほどの、非の打ち所がない超絶イケメンなのだ。
つい数日前まで、彼は退魔師としての異能により、規格外のプロポーションを誇る『大和撫子な美少女』として学園生活を送っていた。
だが、彼が纏う『認識阻害』の術式により、その事実は周囲の一般生徒の記憶から都合よく改竄され、「ちょっと丸っこかったオタクが、急激に垢抜けてマッチョになった」という辻褄の合う過去へと補正されている。
女子だった頃もその美貌で人気を集めていたが、本来の男の姿を取り戻した今も、その強烈すぎるビジュアルの進化は隠しようがなかった。
圧倒的な『雄』の肉体と美貌。それに反比例する、「拙者」「~でござる」という筋金入りのオタク口調と、どこか挙動不審で小動物的なリアクション。
結果として公彦は、ギャルや元不良男子たちから「無駄にガタイとビジュアルが良すぎる、面白くて可愛いオタクくん」として、奇妙な寵愛とイジりを一身に受ける謎のポジションに収まっていたのである。
「あはは、オタクちゃん顔赤ーい! 可愛いとこあるじゃん!」
「や、やめるでござる~、からかわないでくだされ! 拙者には心に決めた、それはもう愛らしくて気高い伴侶(バディ)が……!」
顔を真っ赤にして弁解する公彦。彼から放たれる、健康的で圧倒的な『雄(オス)』のフェロモンは、無自覚なまま周囲の女子たちの頬を紅潮させていた。
――そんな公彦の様子を、教室の最後列、窓際の隅の席から、じっとりと恨めしそうに睨みつけている生徒がいた。
「……っ、ぁ、はぁっ……くそ、なんだよあいつ……」
熱に浮かされたような荒い吐息を漏らすのは、その数日前まで男の不良青年であったはずの、矢落雷太である。
異界からの侵略者『外なる霊』との戦い。
退魔師としての過酷な闘争は、彼らの日常を裏側から激しく侵食していた。
圧倒的な素質を持つ公彦の実力に少しでも追いつくため、雷太は最近、公彦が見守る中で単独での実戦訓練を重ねていた。
退魔師としての勘を叩き込むための、死に物狂いの特訓。
だが、その力――『原典咒具』を引き出す代償は、彼にとってあまりにも重い。
先日の一戦の反動により、雷太は現在、咒具の仕様である『一日女化』の絶賛継続中であった。
背中まで届く、透き通るような色素の薄い金髪のロングヘア。
男用の学ランの代わりにどこからか調達され、無理やり着せられたのは、体にタイトに密着する黒いセーラー服。
元不良としての反骨心か、あるいは持ち前の美意識か、セーラー服の丈は極限まで短く調整され、柔らかな腹部の白い肌がチラチラと覗く。
その抜けるように白い柔肌と、男の時からは考えられないほど華奢で滑らかな骨格、そして制服の生地をツンと押し上げる控えめだが形の良い胸のふくらみは、誰がどう見ても「ちょっとヤンチャで極上の美少女ギャル」のそれである。
だが、今の雷太が抱える深刻な問題は、その単純な性別や外見の変化だけでは決してなかった。
(な、なんだよアイツ……無駄に、いい匂いさせやがって……っ。教室の端っこにいるのに、ここまで届くってどういうことだよ……!)
退魔師は通常、女の子化している間は咒具の力の根源である『神使』――すなわち神の御使いである動物の霊が深く憑依している。
雷太のそれは『兎』。
今は公彦に最初に教えられた隠形の術によって、頭に生えた大きな兎耳と腰のフワフワの尻尾を一般の生徒からは見えないように隠しているが、物理的にはしっかりとそこに存在しているのだ。
そして、その神使の影響は表面上の肉体だけでなく、新造された胎内にまで深く及んでいる。
今の彼は極めて、そして致命的に『発情』しやすい状態にあった。
少しの刺激で肌が粟立ち、体温が急上昇してしまう。
そして何よりタチが悪いのが、数メートル先の席にいる公彦から無自覚に発散されている、強烈なまでの『雄(オス)』のフェロモンだった。
ただでさえ、雷太は公彦の背負っていた壮絶な過去と絶望を知り、彼を自己否定の牢獄から救い出したという強い自負がある。
その過程で、雷太は公彦をひとりの人間として、そして「女」としても「男」としても、強烈に意識し始めてしまっていた。
そんな雷太にとって、自信を取り戻して一皮剥け、圧倒的なオスとしての肉体を誇る公彦の巨体から漂う熱気は、この雌の身体に慣れ切っていない雷太には刺激が強すぎて、理性を一瞬で焼き切る劇薬に等しかった。
「はぁっ! も、もう無理……っ。ちょっと、保健室……いや、早退するぅ……」
赤いんだか青いんだかわからない、尋常ではない顔色になり、額にじっとりと汗を浮かべた雷太は、ガタッと乱暴に音を立てて席を立った。
掠れた声で誰に言うともなく呟き、ふらつく足取りで教室の出口へ向かおうとする。
太腿を固く擦り合わせ、内股気味に歩くその姿は、周囲からはひどく体調が悪いように見えただろう。
しかし、その小さな異変を、驚異的な聴力と愛する者への執着を持つオタクは見逃さなかった。
「おや? どうしたんでござるか雷太殿! 顔色が優れないようでござるが……」
「うう゛っ!? くっ、ちょ、待って公彦……っ!」
弾かれたようにギャルたちの輪を抜け出し、公彦がドスドスと床を鳴らして心配そうに近づいてくる。
その巨体が、威圧感すら覚える分厚い胸板が視界に迫ってくるだけで、雷太の鼻腔を濃厚な、むせ返るような『オスの匂い』が撫でた。
単なる汗の匂いではない。生命力そのものが匂い立ったような、本能の奥底を直接殴りつけてくるような芳香だ。
じわ、と。
熱い湿り気が、下着越しに内股へと伝わった。雷太はビクンと肩を跳ねさせ、慌てて股をきつく締める。
「ひぅっ……!? く、くんな!」
「らいたどのー! 避けちゃ嫌でござる! 顔が真っ赤でござるよ!? 拙者、何かお気に障ることをなさり、なさいましたかぁ!?」
「違うぅ! お願いだから追ってくんなバカ彦ぉ!!」
バァン! と教室の引き戸を勢いよく開け放ち、雷太は脱兎のごとく駆け出した。
比喩や形容詞ではない、文字通り純度百パーセントの『兎の脚力』である。
セーラー服の短いプリーツスカートをふわりと翻し、常人離れしたバネのような踏み込みで、一瞬にして廊下の遥か彼方へと跳ねていく。
「待つでござる雷太殿ー! 具合が悪いなら拙者が保健室までお抱えするでござるぅー!」
だが、恐怖と羞恥で逃げ惑う雷太の後ろからは、さらに規格外の重低音の足音が迫っていた。
「うわっ、矢落も乙太もスゲェ!?」
「何あれ、映画の撮影!? てか乙太くん動きキモッ、でも速っ!」
「廊下走るなーっ!! って、速すぎて見えんぞ!?」
昼休みの廊下ですれ違う生徒たちや、見回りの体育教師が、突風に煽られながら驚愕の声を上げる。
公彦は、その有り余る筋肉と人間離れした身体能力をフル稼働させていた。
廊下の角を壁蹴りで直角に曲がり、階段の手すりを軽々と飛び越え、踊り場から踊り場へ一直線に跳躍するという、パルクールさながらの変態的な動きで雷太を猛追しているのだ。
「くっそ、あいつやっぱ男の状態でも無駄に、身体能力高え……っ!」
走りながら後ろを振り返り、雷太は涙目で悪態をつく。
さもありなん、寧ろ雷太が捕まらずにある程度逃亡できていることの方が異常に近い。
相手は歴戦の、それも常人なら発狂するような地獄の修行と死闘を生き抜き、退魔師の頂点にまで上り詰めた怪物である。
追われる雷太は無意識のうちに本能で神使の力を引き出し、己の力量以上の身体スペックを限界まで駆動させていた。
言うまでもなく互いに前代未聞の事態。天賦の才を持つ原石のバニーギャルと、鍛え上げられた最高峰のアスリートなオタク。
二人の逃走劇を説明するのに、これほど適した言葉はないだろう。
タタンッ!
と、雷太は最後の階段を跳び上がり、旧校舎の最上階へと滑り込む。
そこは普段、生徒はおろか教師すら滅多に寄り付かない、埃っぽい行き止まりの踊り場だった。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……っ、ここまで来れば……」
息を乱し、壁に背中を預けてへたり込む雷太。胸の鼓動は早鐘を打ち、隠された兎の耳が限界の熱を逃がそうとピクピクと痙攣している。
逃げ切れたかと思った、次の瞬間。
「見つけましたぞぉ、雷太殿ぉ……!」
階段の下から、獲物を狙う猛獣のような、ひどく低く、熱を孕んだ声が響き渡った。
ビクンッ!
と雷太の背筋が凍るよりも早く。
背後から音もなく伸びてきた、丸太のような強靭な腕に、あっさりと退路を塞がれた。
ドンッ!
「あ……っ」
「びっくりしましたぞ、やればできるではありませぬか雷太殿。……はぁっ、退魔師たる身体の扱い、御見事でござるっ」
息を乱し、胸を大きく上下させながら、壁際まで追い詰められた雷太。
そのすぐ横、耳の真横の壁に、公彦の大きな手が叩きつけられる。
逃げ場を完全に封じる、完璧な『壁ドン』の体勢だった。
「して……なぜ逃げるのでござる、雷太殿?」
真上から降ってくる、低く、甘く、オタク口調なのに腹の底に響く無駄にイケボな声。
恐る恐る見上げれば、一九〇センチ超えの圧倒的な『雄』の質量がそこにあった。
全速力で追いかけてきたせいで、二人はお互いに息を切らし、肩で息をしている。
公彦の太い首筋を伝う、光る汗の雫。熱を帯びた、少し荒い吐息。それが密室めいた踊り場で、ダイレクトに雷太の顔を撫でる。
(やばいやばいやばい! 落ち着け、俺は男だ!
男として公彦を対等に扱うって決めたんだろ……っ! あ、でも、公彦のすべてを肯定するなら、男同士のままでも別に問題ないのか?
いやいや待て待て、それだと俺のアイデンティティがやばいってば! 頼むから黙ってろ本能《からだ》ぁ!)
限界を迎えつつある脳内で、男としての最後の理性と、雄を求める雌兎としての本能が高速で大激論を交わす。
だが、どれだけ理屈を並べ立てても、身体の反応は残酷なまでに正直だった。
下腹部の奥がきゅぅっと熱を帯びて疼き、腰から下の力が抜けそうになる。
股の奥が粟立ち、甘い痺れが背筋を駆け上がる。視界がグラグラと揺れ、思考のピントがまったく合わない。
「あ、あっ、ちょっと待って……混乱してきた……ヤバイ、胸板近づけんなあぁぅっ♡」
「雷太殿……? 顔が真っ赤でござるよ。やはり熱が……おでこ、失礼するでござる」
「ちが、ふぁっ……! や、やめろ、触んな、匂い嗅がせんな……っ」
公彦の大きくて熱い手が、雷太の額に触れた瞬間。
ビクン!
と雷太の身体が大きく跳ねた。
――プツン。
雷太の中で、何かの回路がショートする音がした。
「—―ぅふお゛っ♡」
瞬間、驚くほどだらしない声が己の口から飛び出たことに雷太は絶望した。
公彦に心配され、迫られることへのどうしようもない嬉しさ。
そして、至近距離から浴びせられる強烈な雄の匂いと体温。それらがキャパシティを超えて脳髄に流れ込み、雷太の瞳の焦点が定まらなくなる。
比喩ではなく、文字通りぐるぐると渦を巻くように目が回り始め、雷太は古典的な漫画のようなグルグル目で、ひたすら鼻を両手で押さえて必死に抵抗する。
(あひぃっ、無理無理無理! 頭おかしくなる!
公彦の匂いヤバいし、手ぇ大きいし、優しいし……って、俺は何を考えてっ!?)
しかし、閉鎖空間でゼロ距離から発散される、圧倒的な『雄』の引力とフェロモンの暴風雨に、限界まで感度が高まっていた兎の身体が耐え切れるはずもなかった。
「も、無理ぃっ……ふひぅっ♡ はぁっ、あぁっ……」
ぶわり、と鼻腔を突き抜け、脳髄を直接揺さぶるような強烈なオスの匂いに、ついに雷太の中で張り詰めていた理性の糸が、音を立てて完全に切断された。
甘く蕩けた吐息を漏らし、隠しているはずの兎の耳が幻影のようにピクピク、ブルブルと震える。細く白い膝が、ガクガクと小刻みに震え始めた。
「雷太殿!? どうしたでござる、急に力抜けて……!」
「ど、どうすりゃいいんだよぉ……っ。お前のせいで、おかしくなるぅ……っ♡」
完全にのぼせたように顔を真っ赤に火照らせ、ぐるぐると回っていた瞳をやがてとろんと潤ませて見上げてくる金髪の美少女。
彼女はそのまま、ヘナヘナと膝から崩れ落ちた。
公彦のたくましい足元で、セーラー服を乱しながら完全に「メス」の顔になってへたり込む雷太。
抗えない呪いと本能、そして不器用すぎる愛情が交差する、彼らの前途多難な日常は、今日も休むことなく続いているのだった。
* * *
継嗣松市立図書館の三階、児童書・図鑑コーナー。
よく冷えたクーラーの風と、古紙特有の少し埃っぽい匂いが漂う静寂の中、不釣り合いな金髪のセーラー服美少女――矢落雷太は、大きな児童向けの『どうぶつ大図鑑』を睨みつけていた。
『ウサギさんは年中発情期! 人間と一緒だね!』
ポップなウサギのイラストと共に書かれたその残酷な一文に、雷太は深く、深くため息をついた。
「……同じであってたまるかこんなもん。駄目だ、全然わかんねぇ。どうすりゃいいんだよこれ……」
図鑑をパタンと閉じ、机に突っ伏す。
雷太の脳裏には、数時間前の昼休みの惨劇――階段の踊り場で、公彦の強烈なオスの匂いに当てられ、完全に腰を抜かしてしまった己の情けない姿が焼き付いていた。
『ひぅ……ご、ごめん君彦……嫌いになったわけじゃないんだ……っ。ただ今、兎の神使のせいで俺の身体、お前の匂い嗅ぐだけで発情しちゃうから……っ、だから、少し離れて……!』
涙目で——いやボロボロと大粒の涙をこぼして泣きじゃくりながら、荒い息を吐いてそう懇願した時の、公彦の顔。
あのやけにデカい偉丈夫が、雷太の言葉を聞いた瞬間、まるで『飼い主に捨てられた超大型犬』のように、巨体をきゅっと縮こまらせて露骨にしょんぼりとしたのだ。
『そ、そうでござったか……。拙者、てっきり雷太殿に嫌われたのかと……。相分かったでござる。拙者、雷太殿の御身が落ち着くまで、息を止めて気配を殺して、遠くから見守るでござるよ……コポォ……』
そう言って、本当に息を止めながらズンズンと後ろ歩きで去っていった公彦の姿は、ひたすらに残念で、そして少しだけ申し訳なかった。
今も雷太の制服のポケットの中では、公彦からのメッセージアプリの通知が定期的に震えている。
『雷太殿、お加減いかがでござるか?』
というメッセージと共に、物陰からじっとこちらを見つめるタヌキのスタンプが十連続で送られてきているのだ。
さすが、この4年間という思春期を女として生きて来た公彦、その様子はどちらかというと女子の心配の仕方に近かった。
(しかし、重い。愛が重い。)
そう思いながら、ちょっと嬉しくてにやけてしまうのは雄としてか雌としてか判別はつかなかった。
「理性で本能を抑え込める人間と、生存戦略で常に子孫を残せる道を選んだ小動物とじゃ、物は違うわねぇ、そりゃあ」
突っ伏す雷太の頭上から、呆れたような女の声が降ってきた。
顔を上げると、そこには一人の女性が立っていた。
落ち着いた色合いのブラウスにタイトスカート、手入れの行き届いた艶やかな黒髪と、大人の余裕を感じさせる整った顔立ち。
水澄華澄——元退魔師であり、公彦の元パートナー。
現在はすべての霊的資質をEMM社の手術によって取り除かれ、一般人の主婦となり、雷太が通う美容専門塾でヘアメイクの講師を務めている女性だ。
「……でも分かった? 私じゃ頼りになんないってのが」
「アンタが『図書室で調べれば何か分かるかも』って言い出したんだろうが」
「あら、言葉の綾よ。まさか本当に児童書コーナーまで来るとは思わなかったわ」
クスクスと意地悪そうに笑う華澄を、雷太はジロリと睨みつけた。
雷太は未だに、この女のことが許せないでいる。かつて、不格好なオタク少年だった公彦の純真な好意を「気持ち悪い」と徹底的に踏みにじり、彼の心を一度完全に壊した張本人。
性格は今も変わらず外っ面だけは良い、控えめに言って最悪の女狐だと思っている。
しかし、美容の技術に関しては一流であり、講師としては信頼せざるを得ないのもまた事実だった。
だからこそ、今の『女の身体で男のフェロモンに発情してしまう』という前代未聞の悩みを、同性(今は)であり、酸いも甘いも噛み分けていそうな華澄に渋々相談しに来たのだ。
その結果が、「いや私にわかるわけないでしょうが」という一蹴と、この図書館行きである。
「だいたいさぁ、アンタ元退魔師だろ? 神使の憑依現象とか、呪いの副作用とか、そういう専門的な対処法を知らねぇのかよ」
「無茶言わないでよ。私はもうただの一般人よ? 霊力なんて欠片も残ってないし、退魔の知識なんて昨日の夕飯のメニューと一緒に忘れちゃったわ」
「うっぜぇ……」
悪びれもせず肩をすくめる華澄に、雷太は再び盛大なため息をつく。
腹立たしいが、彼女の言う通りだ。
霊力を切除した華澄に、咒具や神使の呪いについて専門的な助言を求めること自体が間違っていたのだ。
「まぁ、せいぜい頑張ることね。今の公彦くんの熱量を受け止めるのは、並大抵の覚悟じゃ無理でしょうし、いっそ一旦抱かれちゃった方がすっきりするんじゃない?」
「ばっ!……っかじゃねぇの………?」
それを大声で否定しようとして、周囲の視線が集まったのを感じると雷太は肩を縮こま背て真っ赤な顔で、それこそ蚊の鳴くような声で反論した。
「それもいいかもとか思っちゃってんじゃないのぉ?」
「あーあーあー、うるせぇ糞が……訊く相手を間違えたぁ」
顔を真っ赤にして反論する雷太を見て、華澄は「はいはい」と適当に相槌を打ちながら、楽しそうに目を細めた。
「……そう、間違ってんのよ。私はあの子を決定的に見誤ってたし、嫉妬するほど追い詰められてもいた。
発情で悩むのもいいけど、向き合うのも忘れちゃ私みたいになっちゃうわよ?」
そう言うと華澄は立ち上がり、來田が止める間もなく図書館を後にしていった。解決策は全く見えない。
ポケットの中のスマホは、未だに公彦からのタヌキスタンプを受信して震え続けていた。
「……っし!こうなったら、物理で何とかするしかねぇ!」
図書館を飛び出した雷太が向かったのは、駅前の大型薬局とホームセンターだった。
霊的な呪いには霊的な対処を、というのがセオリーだが、相手は本能(ウサギ)とフェロモン(オス)である。
ならば、己の嗅覚とあの雄の匂いを物理的にシャットアウトしてしまえばいいのだ。
* * *
数十分後。
ぴーんぽーん、ぴんぽんぴんぽんぴんぽん!!
公彦の屋敷のインターホンが、けたたましく鳴らされた。
「はーい、どちら様でござるか……ヒィィッ!?」
ガチャリとドアを開けた公彦は、そこに立つ人物の姿を見て、悲鳴にも似た声を上げた。
「ら、雷太殿ぉぉお!? そのお姿は一体!? 未知のウイルスでござるか!? パンデミックでござるか!?」
「ちげぇよ!!」
雷太は即座にツッコミを入れたが、その声はひどくくぐもった『鼻声』だった。
それもそのはずである。現在の雷太の出で立ちは、控えめに言っても狂っていた。
透き通るような美しい金髪と、華奢な身体に張り付くセーラー服姿はそのままだが、顔の下半分を医療用の高密着マスクで『三重』に覆い隠しているのだ。さらに、マスクの下の鼻には水泳用のノーズクリップ(鼻栓)ががっちりと装着され、ダメ押しとばかりに鼻の下には『超絶クール・男の氷撃ミントリップ』が致死量ほど塗りたくられている。
強烈なミントの揮発成分による刺激で、目は真っ赤に充血してボロボロと涙を流しており、両手にはホームセンターで買い込んだ衣服用の強力消臭スプレーとアルコール除菌スプレーを、二丁拳銃のように構えている。
極上のギャル美少女に不釣り合いすぎる、完全なる不審者スタイルであった。
「今すぐ無菌室を作らねば! 拙者の結界術でウイルスごと――」
「だーかーら、ちげぇっての! お前の! 匂い対策だバカヤロッ!」
「におい……対策……? はっ、まさか拙者、自分では気づかぬうちに、目も当てられないほどの悪臭を放っていたでござるか……!?」
「そういう意味じゃねぇ!」
公彦の勘違いは、雷太の想定を軽々と飛び越えていった。絶望して両手で顔を覆おうとする公彦の鳩尾に、雷太はマスクが苦しくて少し息切れしながら、軽い蹴りを入れた。
そして、ずかずかと上がり込んだ公彦の作業部屋を見渡す。
相変わらず無駄に広い和室だが、足の踏み場もない。
そこには大量のコピー用紙やスクリーントーンの切れ端、インク瓶、そして修羅場を物語る栄養ドリンクの空き瓶が無数に散乱していた。
数週間後に迫るオタクの祭典――通称『夏コミ』に向けての同人誌制作が、文字通り佳境に入っているのだ。
雷太は部屋の中央、唯一開けたスペースに仁王立ちになると、ミントの刺激で充血した目で、巨体を丸めてオロオロしている公彦を真っ直ぐに睨みつけた。
「昼間は、急に避けるようなことして……悪かった。ごめん」
「ら、雷太殿……」
「本能とか呪いとか、俺にはまだよくわかんねぇ。でも、だからってアイツみたいに、お前のこと気持ち悪いって突き放すような真似は、絶対にしたくねぇんだよ」
鼻栓と三重マスクのせいで、「ごべん」「ぜったいにじたくねぇんだよ」と、ひどく間の抜けた発音になっている。
おまけにミントの刺激で涙と鼻水が止まらず、見た目は完全にギャグだった。しかし、マスク越しのその瞳に宿る光は、どこまでも真剣で、仲間を絶対に見捨てない真っ直ぐな『男』のそれだった。
「俺は、お前の相棒(バディ)だ。逃げる気はねぇ。
とりあえず男の身体に戻って呪いが抜けるまでは、この不審者スタイルで耐え切ってやるから……ほら、今の状況、夏コミ準備手伝わせろ」
ばさっ、と雷太はセーラー服の袖をまくり上げ、両手に持っていた消臭スプレーをドンッと床に置いて、足元に落ちていたトーンの切れ端を拾い上げる。
「べつのに、おばえの雌になろうが男同士だろうが、俺が俺であることに変わりはねぇだろ。……だから、一人で抱え込もうとすんな」
少しだけ照れくさそうに、そっぽを向きながら放たれたその言葉。
それを聞いた瞬間。公彦の丸眼鏡の奥の目から、滝のような勢いで涙が噴き出した。
「雷太殿ォォォォォォォォッ!! 拙者は、拙者はなんて幸せ者なのでござろうかぁぁぁ!!」
「うおっ!? バカ、くっつくな! 匂いが、雄の匂いがマスク貫通してくるぅっ!」
感動のあまり、人間離れした跳躍で抱きついてこようとする公彦の巨体を、雷太は床に置いた消臭スプレーを瞬時に拾い上げ、顔面に向けてフルバーストで噴射しながら必死に押し返した。
「シュッシュッシュッ! 来るなバカ彦! 近寄んな!!」
「むせるっ! 雷太殿、フローラルブーケの香りが目に沁みるでござるぅ!」
部屋中に強烈なミントと消臭剤の香りが充満する。
公彦の圧倒的な質量と熱気に、雷太の心臓はやはり煩いほどに鳴っていたし、股の奥も微かに疼いていたが、先ほどの踊り場でのような、いたたまれない哀愁漂う空気はもうどこにもなかった。
* * *
強烈なミントの揮発成分と、フローラルブーケの香りの強力消臭スプレーが充満する公彦の作業部屋。
雷太は、医療用マスク三枚重ねの上に鼻栓という完全武装のまま、カッターナイフを器用に操ってスクリーントーンの削り作業を手伝いながら、完成間近の原稿の束をパラパラと捲っていた。
「……それにしてもお前、ほんと絵上手いよな」
鼻栓のせいで「ほんとえうばいよな」と酷い鼻声になっているが、その声には純粋な感嘆が混じっていた。
数週間後に迫った世界最大のオタクの祭典『夏コミ』。
公彦が主宰するサークル『おたいまし!』は、その界隈では知らぬ者がいないほどの人気を誇る壁サークル(長蛇の列ができるため壁際に配置される超大手サークル)である。
息を呑むほどに精緻な背景、キャラクターの艶やかな表情。プロの漫画家すら顔負けの圧倒的な画力がそこにはあった。
ただ、一つだけ雷太にはどうしても気になっていることがあった。
「あの神サーの作家が実はお前だったってのにも驚いたけどさ……。新刊の内容、急に路線変更しすぎじゃねぇか?」
「はて、なんのことでござろう?」
「とぼけんな。前回の冬コミまでは、ドロドロの『許嫁寝取られ(NTR)もの』とか、触手にグチャグチャにされる『苗床尊厳破壊もの』ばっかり描いてたのに、今回の新刊、めちゃくちゃ甘々な『幼馴染純愛ハッピーエンド』に急激に舵切ってんじゃねぇか。どういう心境の変化だよ」
雷太の的確なツッコミに、机に向かってガリガリとペンを走らせていた超絶マッチョなイケメンは、ピタリと動きを止めた。
そして、彫刻のような端正な頬をほんのりと赤く染め、もじもじと巨体を揺らし始める。
「そ、それは……やはり、愛の尊さに気づいたといいますか。拙者の凍てついた心に、雷太殿という温かい光が差し込んだ影響が、作品にも顕著に表れた次第でして……でゅふふ♡」
「……あっそぉ?」
少しにやけかけるのを、雷太は奥歯を噛んで気合で止めた。
チラリとこちらに向けられた、濡れたような熱い視線。
そして、三重のマスクと鼻栓越しでもビリビリと伝わってくる、『雄の匂い』の急上昇。
「シュッシュッシュッ!!」
「目がぁ! 雷太殿、また消臭スプレーが直撃しているでござるぅ!」
これ以上語らせると、ミントと鼻栓の防壁すら突破されて再び雌堕ちさせられかねない。雷太は慌てて己の周囲と公彦の顔面に向けて、消臭スプレーを乱射した。
なんとかフェロモンの濃度を下げ、話題を逸らすべく、雷太は原稿の端を揃えながら別の疑問を口にした。
「でもさ、よく両親とか一族の連中は許したよな? 学力終わってるうちの高校に通わざるを得ないくらい、退魔の修行にのめり込んでたんだろ? 当主の器だなんだって期待されてたのに、こんなガッツリ同人活動してて怒られなかったのか?」
「あー……それはまぁ、オタク活動も修行も、拙者の魂の一部でしたゆえ」
公彦は苦笑交じりに、ポリポリと頬を掻いた。
「寧ろ、華澄殿と別れて独り身になってから、流石に周囲からもオタク活動を控えるよう突っ込まれたのでござるが……。その時にはすでに、拙者、一族最強になっておりましたゆえ」
「……嫌な予感がするんだけど」
「『拙者のオタク活動まで禁止するというなら、すべてぶち壊して家を出てってやるぅ!』と、本家でひと暴れしましてなぁ。やはは、今思い返すと若気の至りでお恥ずかしい……」
和やかに、まるで昔の武勇伝でも語るかのように照れ笑いする公彦だが、雷太の背筋にはゾクリと冷たいものが走った。
想像してみてほしい。
当時の公彦は、華澄に拒絶されたトラウマから完全に心を閉ざし、現実逃避のために日常的に『規格外のプロポーションを誇る大和撫子な美少女』の姿を維持し続けていた、情緒不安定で最強の退魔師である。
そんな、一歩間違えれば精神が崩壊しかねない最強の美少女が、オタク活動を咎められた腹いせに「すべてぶち壊す」と実力行使に出たのだ。
おそらく、原典咒具の圧倒的な霊力を振り回し、歴史ある本家の屋敷の半分くらいは更地にしたのではないか。
それはもう、家庭の事情などという生易しいものではない。誰も手出しできないアンタッチャブルな存在による、『局地災害』レベルの大惨事だったに違いない。
先日、本家に足を踏み入れた際、乙太家の女中たちが公彦(女姿)に対して見せていた『絶対に触れてはならない爆弾』を扱うような、腫れ物扱いの態度。その真意に新たな解釈が加わった瞬間だった。
(つまりあの爆弾扱いは、こいつの自業自得なんじゃねえか!
俺よりよっぽどファンキーな人生送ってんじゃん……)
…………むずっ。
「……んっ? ぁ……ふっ」
内心で激しいツッコミを入れていた雷太は、ふと、自身の身体の奥底から込み上げてくる妙な感覚に気づいた。
むずむずと、全身の細胞が粟立つような違和感。骨格が内側からミリミリと軋むような感覚と、下腹部に灯る微かな熱。
間違いない。女体化した退魔師が必ず迎える、元の男の身体へと戻る『タイムリミット』の兆候だ。
「わり、そろそろ戻りそうだから、個室借りるよ?」
「おや、もうそんな時間でござるか。どうぞどうぞ、隣の和室をお使いくだされ」
公彦に促され、雷太は持参したスポーツバッグから男物の下着と制服を引っ張り出し、逃げるように隣室へと急いだ。
ここで着替えを済ませておかないと、あと数分で『極端に丈の短いパツパツの女物セーラー服を着た、金髪のチャラ男』が爆誕してしまう。
ベテランの退魔師であれば、タイムリミットの直前にもう一度『装来』を行うことで、女の子の時間を引き伸ばして調整することも可能なのだが、退魔の世界に足を踏み入れたばかりの雷太には、まだそんな高度な技術は使えなかった。
ピシャリ、と雷太が隣の和室の襖を閉める。
一枚の薄い建具を隔てた先から、カサリ、と衣擦れの音が聞こえてきた。
「……ふむ」
公彦は原稿に向かったまま、ピタリとペンの動きを止めた。
――隣の部屋。
薄暗い和室の中で、雷太は三重のマスクと鼻栓をむしり取り、大きく息を吐き出した。
「はぁっ……っ、あつ……」
男の身体に戻る直前の急激な変化に、肌が熱を帯びて汗ばんでいる。
震える指先でセーラー服のジッパーを下ろすと、少しずつ平らになっていく胸元から、甘い汗の匂いがふわりと立ち昇った。
スルリ、と。
短く調整されたプリーツスカートが、汗ばんだ白い太腿を滑り落ちて畳の上に落ちる。
女の子の身体の感覚が薄れていく安堵と、細胞の奥底にまだこびりついている『雌の快楽』の余韻。
ウサギの呪いの名残が、肌着を脱ぐという些細な刺激にすら過敏に反応し、雷太の口から微かな吐息を漏れさせる。
「んっ……ぁ、くそっ、変な感じが……っ」
――そんな色香に満ちた着替えの光景が、隣の部屋で耳を澄ます公彦の脳内には、手にとるように鮮明に——多分に妄想の補正を交えて再生されていた。
(ら、雷太殿が今、セーラー服を……! 柔らかな素肌が顕になり、あんなことやこんなことに……ッ!)
ゴクリ、と公彦の喉仏が大きく上下する。
頭の奥で煩悩が核爆発を起こしそうだった。
今すぐ襖を開け放ち、男に戻りかけの無防備な伴侶を抱きしめて匂いを嗅ぎまわりたい。
だが、駄目だ。
ここで己が少しでも興奮して『雄の匂い』を放てば、襖の隙間を潜り抜け、不安定な状態の雷太のウサギの呪いを無駄に刺激してしまう。
最悪の場合、男に戻りかけているのに発情してしまうなどというバグを引き起こしかねない。
「無の境地、無の境地でござる……色即是空、空即是色……いや、色が強すぎるでござるがぁ……」
一九〇センチの超絶マッチョなイケメンは、額に滝のような冷や汗を流しながら、ブツブツと念仏のようにつぶやき続けた。
己の圧倒的なフェロモンを必死に抑え込み、ひたすら丸ペンの先を見つめて原稿のペン入れに集中しようと耐え忍ぶ。
カサリ、と隣から聞こえる衣擦れの音と、甘い吐息。
そんな中で描かれる公彦の夏コミ原稿は、彼自身の煩悩と理性のせめぎ合いの中で、かつてないほどの凄まじい熱量とクオリティを帯びて完成へと近づいていくのだった。
――そんな時だった。
『……』
ふと、公彦は原稿の上で丸ペンの動きをピタリと止めた。
開け放たれた窓の外。夏の庭を囲む青々とした生垣の向こう側から、ジトッとした、だが確実にこちら——というより公彦自身を執拗に監視する『怪しい気配』を感じ取ったのだ。
肌を刺すような邪気はない。
つまり、外なる霊などの霊的なモノではない、人間だ。
だが、その物理的な距離と結界を無視してまとわりついてくるような粘着質な視線には、ひどく見覚えがあった。
(……やれやれ、またでござるか。今は愛しの雷太殿がいらっしゃるというのに、無粋な)
公彦は小さく、だがひどく冷たいため息をついた。
次の瞬間、彼の顔つきから「煩悩と戦う限界オタク」の気配がスッと消え失せ、冷徹で研ぎ澄まされた『最強の退魔師』の顔へと切り替わる。
「雷太殿。少し、驚かないでくだされ?」
襖越しに声をかけ、公彦は座ったまま静かに右手を窓の方へと突き出す。
「――装来(そうらい)」
鼓膜を圧するような微かな音と共に、空間が歪む。
一九〇センチ超えの超絶マッチョな男の肉体が光に包まれ、瞬時にして規格外のプロポーションを誇る『大和撫子な美少女』へと変貌を遂げる。
そして、白く細い右の手のひらには、虚空から銀色に輝く大口径のリボルバー――原典咒具『黒鉄茶釜』が実体化していた。
「……んぇ?」
襖の向こう側から、ひどく間抜けな声が聞こえた。
まさに今、男物のトランクスの片足を通し、片足立ちでフラフラとバランスを取っていた雷太の声である。
ガ ァ ン!!!
「ちょまぁ!?」
直後、公彦が窓の外の生垣に向けて容赦なく放った、轟音の銃声。
それに心底驚いた雷太が、バランスを崩して盛大にすっ転び、襖に激突する音が響き渡った。
「ぶぇーっ!?」
バサササッ、ドサッ!
それとほぼ同時に、人体には痛みと衝撃だけを与えて貫通しない公彦の『銀弾』が見事に命中したのか。
窓の外の庭木の木陰から、素っ頓狂な悲鳴と共に、何者かが茂みに転げ落ちる無様な音が聞こえてきた。
「無粋でござるぞ、夢詩宮(ゆめしのみや)殿。拙者にすら気付かれぬよう、この乙太の本家結界を掻い潜った隠密の腕前は見事でござるが……その粘つく視線はどうにかならぬでござるか?」
開け放たれた窓の縁に立ち、公彦は絶対零度の冷ややかな声を落とした。
その姿は、先ほどまでの男としての公彦の姿ではない。
落ち着いた抹茶色の和風ドレスに身を包み、頭にはふさふさの狸の耳、腰からは立派な尻尾を揺らす、絶世の美少女の姿。
彼女の右手には未だ硝煙を上げる銃型の咒具が握られ、その無骨な銃口は、茂みへと転げ落ちた不審者にピタリと狙いを定めている。
そんな、一触即発のヒリついた空気をぶち破るように――。
背後の襖が、勢いよくスパーン! と開け放たれた。
「な、何だ公彦、敵か!? 外なる霊か!?」
血相を変えて飛び出してきた雷太の姿を振り返り、公彦は「おっふ!?」と美少女の声帯ながら野太く短い悲鳴を上げた。
「ら、雷太殿、閉めるでござる! 殿方がおりますぞ!?」
「おわっ!?」
公彦は咄嗟に身を翻し、慌てて雷太に覆いかぶさってその身を隠した。
それもそのはずである。飛び出してきた雷太は、なんと『全裸』だったのだ。
いつ男の身体に戻ってもいいようにセーラー服と下着を脱ぎ捨てていた雷太は、一糸纏わぬ極上の白い柔肌を剥き出しにしていた。
あろうことか『男物のトランクス』を股間に押し当てるように両手で押さえ、いつでも履けるように構えながら仁王立ちしていたのである。
透き通るような金髪の極上美少女が、全裸で、男物のパンツで股間だけを隠して緊迫した顔をしている。控えめに言って、完全なる『痴女』のそれであった。
「は!? 殿方って、お前も男……っ、いや今は女だけど!」
「ち、違うでござる外でござる! 窓の外に男が!」
「外ぉ!?」
公彦の豊満な胸に顔を押し付けられながら、雷太が間抜けな声を上げて窓の外を見た、その時。
「ふっふっふ……相変わらず手厳しいね、ハァニィー」
カサリ、と音を立てて。
銃弾に撃ち落とされたはずの茂みから、ネットリとした芝居がかった笑い声と共に、一人の青年が立ち上がった。
芸術的なまでにウェーブのかかった長い髪。まるでファッション誌から飛び出してきたような、モデルのように整った顔立ち。
額には先ほどの銀弾が命中した箇所であろう立派な『たんこぶ』が自己主張して赤く腫れ上がっているが、本人は全く気にする素振りを見せない。
彼は優雅に立ち上がると、自らの美しさを誇示するようにクルリと華麗なターンを決め、窓際の公彦に向けて一輪の赤い薔薇を差し出した。
「この夢詩宮眞吾(ゆめしのみや まさご)が、一度結んだ婚約を諦めるものか! 否! 反語!」
無駄に朗々とした、声優顔負けの甘いバリトンボイスが、夏の庭に高らかに響き渡った。
「君の『相棒(バディ)』をとったという報せは、寧ろ私の愛を試す試練と受け取り馳せ参じた次第!
そして、愛しの君を奪った不逞の輩の登場を、息を潜めて待ち構えていたのだ!」
「は……? こんやく……?」
男物パンツ一枚(手持ち)の雷太が、ポカンと口を開ける。
高らかに名乗った青年――夢詩宮眞吾は、美少女姿の公彦に明らかな熱視線を送りながら、芝居がかった仕草でビシッと屋敷の奥を指差した。
「そいつを倒し、私は今度こそ君に打ち勝ち、添い遂げてみせよう! さぁ、出てこい泥棒猫め!」
「……いい加減、諦めてほしいでござるぅ……」
公彦は、銃を構えたまま心底げんなりした様子で、深い、深ぁいドデカいため息をついた。
かつて公彦が華澄に心を壊された直後、周囲から次々と送られてきたという『婚約者候補』たち。
退魔師は強力な血統と跡取りが必要であり、さらには「妊娠すれば夫も嫁も大きく霊力がパワーアップする」という特異な呪いの性質がある。
退魔師の事情としては理にかなっているが、倫理観に欠けるその婚約を、当時の公彦は残らず力で返り討ちにして追い返したと聞いている。
無理もない。当時の公彦はトラウマのどん底であり、『孕ませる雌として見ることも、見られることも完全拒否』という精神状態だったのだから。
その執念深い生き残りの一人が、このストーカーもとい、夢詩宮であるようだ。頭では理解できる、だが――。
「え、ちょっと待って。状況が全然飲み込めねぇんだけど……」
パンツで股間を隠したままの雷太は、突然の『恋敵(?)』の登場と、カオスすぎる空間に目を白黒させた。
「しかしハニー、いやさ公彦! やはり君は素晴らしい、私の目に狂いはなかった!
はじめは窓越しに、何やら一心不乱に原稿を描いている大男がいたから、てっきりあれが例の泥棒猫かと思っていたが……いやさ私も退魔師だ、君が生来男だとも知っていたがまさかあれが本来の姿だったとは、感動したよ!」
「目ぇ早速狂ってんじゃねえか」
雷太の冷静すぎるツッコミが飛び、眞吾は漸く、公彦の豊かな胸の谷間……ではなく、公彦の身体に隠れてパンツ一丁でうずくまっている小柄な金髪の存在に気付いた。
ピクリ、と美しい眉を動かすが、眞吾は気にも留めない様子で、雷太に向けてシッシッと手を払った。
「なんだねお嬢ちゃん、此処は男と男の、いやさ男女の神聖なる逢瀬の場だよ? そんなやんちゃな格好で夏風邪でもひいたらどうするのかね、早くお家に帰りなさい」
その対応は、登場時の奇行に比べて、相手を気遣う事の出来る紳士然としたものだった。
だが、逆にそれが、雷太の元ヤンとしてのプライドにカチンと致命的に反応した。
「あ? んだよそのガキ相手みてえな態度は! こちとら高校生だっての! ふざけんな!」
「らーいたどの雷太殿! 見えちゃう、見えちゃうから!」
怒りに任せて身を乗り出そうとした全裸の雷太を、公彦が慌てて己の身体で覆い隠そうとする。
すでにあちこち見えているのだが、最早こうなっては怒りに火がついた雷太も、自身の痴女っぷりを気にすることはなかった。
そしてその時。
そう、よりによって、そのタイミングだった。
一瞬、雷太の華奢な身体が淡い光に包まれたかと思えば――。
ポンッ!
と。
軽快な鼓のような音と共に、光が弾けた。
「へ?」
「あ」
雷太は、本来の『男の姿』になって、公彦の前に身を乗り出していた。
先ほどまでの華奢で白く滑らかな女の子の骨格ではない。身長こそ公彦(男)よりはるかに低いが、引き締まった筋肉質で、肩幅もしっかりとある青年の身体である。
そして、不運な事故の要因は最悪の形で重なった。
公彦が雷太を隠そうと身を屈めていたこと。
雷太が急激に男に戻って、骨格が変化したこと。
そして、雷太が手で適当に押さえていたトランクスが、激しい動きによってズレてしまったこと。
「……あっ」
公彦の目の前。本当に、目と鼻の先に。
手で押さえられていたせいでズレたトランクスの隙間から、プラン、と。
無防備に垂れ下がる、雷太の『それ』があった。
立派な、雄の象徴である。
「……ひぇっ」
これには、さしもの最強退魔師たる公彦も、顔を限界の限界まで真っ赤にして目を見開き、石像のように固まった。
最近まで数年間、極度の自己否定から「女のまま」で過ごしていたため、自分の『それ』を見る頻度すら少なかった公彦である。
愛しのバディのイチモツを、あろうことか至近距離で直視してしまった反応は、正しく純情な乙女のそれであった。
丸眼鏡の奥の瞳がぐるぐると回り、口をパクパクと金魚のように動かし、顔だけでなく首から耳の先までゆでダコのように沸騰している。
一瞬の時間差で、雷太も下半身の強烈な涼しさと、目の前の公彦の顔面大紅潮に気づき、ギョッとして慌てて背を向ける。
「わ、わわわ! 悪い公彦! マジで悪い! 事故だ事故! お目汚しすまん!」
「いいい、いえいえ雷太殿! 拙者も自身の成長したそれを、最近はお風呂場の鏡で見ておりますゆえ! いい今のはちょっと、近かったですごじゃるが! ええ、かぐわしかったでござるが!」
「おい、臭えみたいに言うなって……!」
そこまで突っ込みかけたところで、雷太はハッと言葉を詰まらせた。
今日一日、散々公彦の『雄の匂い』について文句を言い、嗅ぐだけで発情してしまうと泣きついていたのは、他ならぬ自分である。
完全に特大のブーメランだった。
おまけに、真っ赤になって両手で顔を覆いながらも、指の隙間から大きな目を見開いてこちらをガン見している美少女姿の公彦の反応が、あまりにも「純情な女の子」すぎて――。
(……やべぇ、今の反応、ちょっとすげぇ可愛かった……っ!?)
男に戻ったはずの雷太の胸の奥で、別の意味で心臓がドクンと大きく跳ねた。
「……いや、これは俺が言えたもんじゃねえな。とにかくすまん! 忘れてくれ!」
雷太は勢いをなくし、顔を真っ赤にしながら、いそいそと床に落ちていた男物の制服のズボンを拾い上げて履き始める。
その後ろで、公彦は真っ赤になった乙女の顔を両手で覆い、指の隙間から目を逸らせないままフリーズしていた。
窓の外では、蚊帳の外に置かれた夢詩宮眞吾が、一輪の赤い薔薇を持ったままポツンと立ち尽くしている。
――そんな、どう見ても『初々しい付き合いたてのカップルに起きたラッキースケベハプニング』を、特等席で目の前で見せつけられた眞吾は……。
「ふ、ふふふ……ふふふはーっはっはっは!」
耐え切れなくなったかのように、天を仰いで爆笑した。
それはもう、豪快に、快活に、夏の青空に向かって高らかに。
「夢詩宮殿!?」
「うわ、変な奴が壊れた……だ、大丈夫か!?」
あまりの奇行に公彦が素に返って声を上げ、ズボンのチャックを上げ終えた雷太がドン引きしたように窓の外を覗き込む。
腹を抱え、肩を震わせて笑い声を上げる眞吾。だが、その美しい顔を彩る両目からは、ツーッと、一筋の美しい『血の涙』が流れていた。
「大 丈 夫 に 見 え る か こ れ が ぁ !!」
血の涙を流しながら絶叫し、渾身の一喝を放つ眞吾。
その、あまりにも理不尽で、あまりにも悲痛な魂の叫びと勢いに、雷太も公彦も思わずビクッと首をすくめ、変に納得してしまった。
「ご、御尤もです」
「すんません」
脳破壊。
雷太と公彦からすれば、決して悪意を持って寝取ったわけではないし、そもそも最初から脈などない。
だが、この残酷すぎる光景は、以前彼らが退治した『許嫁寝取られ(NTR展開)』への強烈な恐怖を纏っていたホテルの外なる霊ですら、同情して泣きながら成仏しかねないレベルの惨状だった。
薔薇を握り潰し、血の涙を流して立ち尽くす哀れなストーカーの、完全なる脳破壊の瞬間であった。
* * *
カッ——ポン。
涼しげな鹿威しの音が、静かな和室に響き渡った。
先ほどのカオス極まるポロリ事故と、ストーカーの血の涙による脳破壊から数十分後。
綺麗に片付けられた乙太亭の広い客間には、奇妙な三すくみの図が完成していた。
上座に背筋を伸ばして正座する、夢詩宮眞吾。
彼と相対するように、乙太家の主としてお淑やかに正座する、和風ドレス姿の美少女――公彦。
そして、制服のズボンをしっかりと履き直し、公彦の隣にドカッと胡座をかく、金髪で目つきの悪い雷太である。
「こほん」
わざとらしく咳払いをして、公彦が気まずそうに口を開いた。
「紹介するでござる雷太殿。彼は夢詩宮眞吾殿。我らEMM社系列の退魔師と、日本の退魔業界を二分する別派閥……『天波派(あまなみは)』所属の退魔師でござる」
「天波派?」
「ようは、古き良き退魔師の家系と伝統を重んじる、超保守派の組織でござるよ」
公彦の説明に、眞吾は額のたんこぶをさすりながらも満足そうに頷き、そしてビシッと雷太を指差した。
「そして! この乙太公彦との神聖なる決闘において見事勝利を掴み取り、両家から結婚を公的に許可されし『許嫁』である!」
「だから何度も言ってるでござろうがぁ」
眞吾の無理やり挟み込んだ補足に、公彦はガクリと肩を落とし、心底困り果てたように言い返した。
「あれは不戦勝でござる! あなたが勝ったら拙者を相棒にしていいと請け負った決闘の最中に、それまでの戦いと修行で溜め込んでいた無茶が祟って、ただの過労でぶっ倒れたタイミングが偶然重なってしまっただけでござろう!? ノーカン、ノーカンでござる!」
「ふん、一勝は一勝。勝ちは勝ちだと認めたまえ!」
「あの後、目が覚めてから再戦したらば、ボコボコにして裏山の木に吊るして返してやったでござろうが!」
「一勝一敗! しかし最初の勝敗こそが、両家のその後の運命を決めたのだ! それに健康管理も退魔師としての必須事項である!」
堂々と胸を張る眞吾に、雷太はジト目で冷たいツッコミを入れる。
「成程ね。それで、それ以降また公彦がぶっ倒れそうなタイミングを狙って、ストーカーみたいにこっそり見張ってたってわけだ」
「うっ……」
図星だったのか、眞吾はあからさまに動揺して言葉に詰まり、石像のようにピタリと固まった。
雷太は呆れ果ててため息をつく。顔も声も無駄に良いのに、やっていることがひたすらに姑息で残念な男だった。
「言うではないか、金髪のヤンキー君」
気を取り直したのか、眞吾は鋭い視線を雷太に向けた。
「幼馴染というだけで、公彦のハートを掴んだと錯覚する愚かな間男め。
君のようなポッと出の野良犬に、伝統ある乙太の血を任せるわけにはいかないのだよ」
「あぁ? 誰が間男だ。俺は正式に公彦と契約を結んだ『相棒(バディ)』だ。
別派閥だか、“自称”婚約者様だか何だか知らねぇが、こればっかりは譲れねぇんだよ!」
雷太は“自称”という部分をあえて強く発音し、眞吾を真っ向から睨みつけた。
バチバチと火花を散らし、唸り声を上げる二人の男。
――そんな一触即発の空気の真横で。
二人の男に取り合われている絶世の美少女(中身はオタクの大男)は、両手で乙女のように口元を覆い、ぽやぁんとした顔で中空を見つめていた。
(自称許嫁の由緒正しき美青年と、幼馴染の不良ヤンキーが、この拙者を巡って火花を散らす……。コポォ……)
ピコーン! と、公彦の脳内で何かが閃いた。
「ハッ! 次描く新刊は、高圧的な許嫁から奪い返しに来てくれる、愛のある間男(ヤンキー)とのイチャラブセックス本も良いかもしれませぬな!」
「何考えてんだぁ!!」
べしっ! と。
凄まじい破裂音が和室に響いた。何も言わずに振り抜かれた雷太の怒りの張り手が、公彦の後頭部にクリーンヒットしたのだ。
「おうふっ!? 理不尽な暴力でござるぅ!」
「お前もお前で、もっとはっきり断れよ! 好きじゃねえなら、好きじゃねえって!」
涙目で頭を抱える公彦に対し、雷太は眉を吊り上げて怒鳴った。
ストーカーまがいの真似をされているなら、最強の退魔師である公彦の力をもってすれば、完全に本家から叩き出すことも、二度と近づけないようにすることも容易なはずだ。それなのに、なぜか公彦の態度は煮え切らない。
「い、いや……そうでござるが……そのぅ」
雷太のド直球の正論に、公彦はしどろもどろになり、気まずそうに視線を泳がせた。
「なんだよ?」
「…………」
雷太が眉をひそめて問い詰める。
その様子を静かに見つめていた眞吾は……膝の上で、ほんの少しだけ拳を強く握った。
「……はっ、素人め」
眞吾は芝居がかったように鼻で笑った。
「勢いだけで相棒に登録しただけの、野良の術師はこれだから困るのだ。君は何も分かっていない」
「勢いではないでござる……でござるが……」
公彦は、市松人形のように綺麗に切り揃えられた黒髪を、くしゃりと自嘲気味に掻き上げた。
そして、口惜しそうに、絞り出すような声で言った。
「あぁもう、どうかしてたでござる、あの時の拙者は。……夢詩宮家からの『縁談の申し出』だけは、確かに一度、受けてしまっていたんでござるよ」
「え……?」
公彦のその言葉を聞いた瞬間。 雷太の脳裏に、かつて初めての装来のせいで公彦の実家に泊まったあの夜の記憶が、フラッシュバックのように鮮明に蘇った。
薄暗い寝室で、雷太が投げかけた質問に対する、公彦の力ない答え。
『なぁ公彦、お前……いつまで、その『女の姿』でいるつもりなんだよ』
『でも……乙太の家の血は……絶やすわけには、いかないでござるからなぁ……』
(あの時……既にッ!?)
雷太の心臓が、ドクンと嫌な音を立てて大きく跳ねた。
あの頃の雷太は、原典咒具に魅入られただけの公彦に、ただ助けられるだけの一般人だった。
咒具を再封印し、雷太が退魔師になって己の隣に並び立つなど、当時の公彦は微塵も考えていなかったはずだ。
華澄に心を壊され、男としての自信を完全に喪失し、心を閉ざして『女の姿』のままで生きようとしていた公彦。
それでも、由緒ある退魔師『乙太家』の血を絶やさないために、彼が取るべきだった唯一の選択肢。
それは、己の心を殺し、永遠に『女』として、誰かの子供を産むための嫁になることに他ならなかったのだ。
そう。目の前で馬鹿なストーカーのように振る舞っているこの夢詩宮眞吾という男は、絶望の淵にいた公彦が、自らの血を残すためだけに、すべてを諦めて受け入れようとした『婿候補』の筆頭だったのである。
「……っ」
ただの頓痴気な乱入劇だと思っていた。
だが、その背景にある公彦の『重すぎる覚悟』と孤独、そしてそれに真摯に向き合おうとしていた眞吾の存在を知り、雷太は己の軽薄さを恥じるように、強く、強く奥歯を噛み締めた。
「そこで、だ!」
びしっ! と。
空気を切り裂くように、眞吾は胡座をかく雷太の鼻先を真っ直ぐに指さした。
「再戦を申し込む。しかし、これは公彦に婚約を求めての力比べではない――雷太殿、といったか? 貴様と私、どちらが乙太公彦の『相棒』、いや『婿』に相応しいか、直々に決めようではないか!」
「なっ……!?」
予想外の矛先と提案に、公彦は狸の丸い目をさらに見開いた。
もしこれが、公彦との婚姻を決めるための『公彦自身への決闘』の申し込みであったなら、まだ自分の圧倒的な暴力で無理やり叩き潰して追い返すこともできただろう。
いや、それでも今の公彦はその決闘を受け入れなかっただろうが。
しかし、一度でも縁談を受けてしまっていた以上、それを一方的に反故にするのは政治的な詭弁となる。
そして何より、眞吾の申し出は退魔業界の理にかなっていた。
すでに公彦は、EMM社を通して雷太を正式なバディとして登録してしまっている。
伝統ある天波派の婚約者候補として、その『相棒の権利』を巡って現在の相棒である雷太に勝負を挑むのは、道理なのだ。
ここで断れば、規律を重んじる天波派全体から乙太家への非難と干渉は必至である。
公彦の圧倒的な『強さ』に頼った拒否を封じる、これは徹底的に計算し尽くされた、眞吾に有利な申し出だった。
「雷太殿、受けてはなりませぬ! これは……」
「……いいぜ、やってやろうじゃねえか」
「ら、雷太殿……」
焦る公彦の制止を手で遮り、雷太はポキポキと指の関節を鳴らして、不敵に笑って見せた。
元々、勝ち負けで正義を決める不良の世界で生きて来た雷太である。売られた喧嘩は買って潰すのが彼のモットーだ。
いや、それ以上に。公彦を賭けて争うなどと目の前で言われて、今の雷太が黙って尻尾を巻いて逃げる理由など、どこにもなかった。
「上等だ。俺が勝ったら、二度と公彦の前にそのツラ見せんなよ」
「ふっ、良い覚悟だ。――しかし」
眞吾は妖しく、ひどく狡猾な笑みで口角を上げると、懐からスッと『何か』を取り出した。
「決闘の方法も、こちらで決めさせてもらおう」
「あぁ?」
バン! と。
畳の上の低い座卓に、一冊の薄い『冊子』が叩きつけられた。
それを見た瞬間、公彦はヒュッと息を呑み、雷太はポカンと間抜けに口を開けた。
「なっ……!? お、お主、まさか……!」
「あぁ? ……って、おい、お前、嘘だろ!?」
そこにあったのは、どう見ても『同人誌』だった。
しかも、ただの並の一冊ではない。
表紙の滑らかで美しい塗りの技術、原作への深いリスペクトを忘れない精緻な作風の維持、そして何よりプロ顔負けの圧倒的な画力。
どれをとっても、並のアマチュア同人作家を遥かに凌駕する凄まじいオーラを放っている。
「私とて、嫁にもらう相手の趣味嗜好くらいは把握して当然と思っている。……思った以上に奥が深い界隈だ、同人誌というのは」
誇らしげに胸を張る眞吾は、さらに芝居がかった手つきで天を仰いだ。
「それに、同人誌の頒布部数……それは即ち、己の魂の叫びがいかに多くの大衆の『心(パトス)』を揺さぶり、熱狂という名の『信仰』を集めたかの可視化に他ならない!
我々退魔師が扱う霊力の根源、すなわち人々の祈りや念を集める行為と、本質的に同義なのだ!
より多くのリビドーを集めた者こそが、より強き力を持つ証明! これぞ現代における、最も神聖なる呪術戦と言えよう!」
「絶っっ対違う!!後付けだろその理由!」
雷太は震える手でその同人誌を手に取り、表紙の隅に印字されたサークル名を確認した。
『はまのまさご』。
公彦はもちろんのこと、最近になってネットで密かに同人誌を漁り始めていた雷太ですら知っている、界隈を席巻する新進気鋭の超有名サークルだった。
「私のサークル『はまのまさご』と、公彦(ハニー)とお前のサークル『おたいまし!』。……同人誌の売り上げ部数で、決着をつけようではないか!」
「……は?」
「な……なんという事でござるか……!」
それは一体、何の思惑なのか。
愛する者の痛みを分かち合うための不器用な歩み寄りなのか。あるいはただの異常な執着と、途方もない才能の無駄遣いなのか。
公彦の命運を分ける、由緒正しき退魔師たちの神聖なる争いは。
よりにもよって、日本最大のオタクの祭典『夏コミ』の即売会場にて、新刊の売り上げ部数で決着をつけることになったのである。
「なんじゃそりゃああっ!」
限界を超えた戸惑いのせいでひたすら喉に詰まっていた雷太の魂のツッコミが、夏の青空に虚しく響き渡るのだった。