1.楽園の崩壊、剥き出しの現実
青く透き通るような空と、太陽の光を浴びてエメラルドグリーンに輝く広大な海。
東京湾を出航した超豪華客船での夢のような二日間のクルージングを経て、高度育成高等学校の1年生たちが連れてこられたのは、南洋にぽつんと浮かぶ、文明から完全に隔絶された無人島だった。
船内アナウンスに促され、お気に入りの水着や華やかな夏服に身を包んだ生徒たちがデッキからタラップを降り、白い砂浜へと足を踏み入れようとしている。男子たちはビーチバレーやパラソルの下での昼寝を思い描き、女子たちは日焼け対策やSNS映えするスポットの探索について楽しげに言葉を交わしていた。
だが、そんな浮ついた夏の空気は、砂浜に集められた全クラスの前に、担任教師たちが冷徹な表情で整列した瞬間に凍りついた。
1年Dクラスの担任、茶柱佐枝が、いつも通りの隙のないスーツ姿で一歩前に出る。彼女の手には、クリップボードと、無骨な黒いマニュアルの冊子が握られていた。
「全員、静粛に。これより、本年度の夏季特別試験――『無人島サバイバル試験』の開始を宣言する」
「……は? 特、別、試験……?」
池寛治が、間の抜けた声を漏らした。隣にいた山内春樹も、抱えていたビーチボールをぽろりと砂浜に落とす。
「ちょっと待ってください、茶柱先生! 南の島でバカンスだって聞いてたんですけど!? 高級ホテルのプライベートビーチとか、そういうんじゃないんですか!?」
「そうだそうだ! サバイバルって何だよ! 俺たちの夏休みは!?」
池の叫びを皮切りに、Dクラスの男子たちから一斉に不満の怒号が吹き荒れた。それだけではない。AクラスからCクラスに至るまで、状況を飲み込めずに愕然とした表情を浮かべる生徒たちの動揺が、さざ波のように砂浜全体へと広がっていく。女子生徒の中には、生い茂る原始的な亜熱帯の原生林を目の当たりにして、青ざめた顔で自分の身体を抱きしめる者もいた。
「バカンスだと? 誰がそんなことを言った。学校側が提示したのは、あくまで『南の島への案内』だ。それを勝手に都合のいい極楽浄土だと勘違いしたのは、お前たちの浅はかな妄想に過ぎん」
茶柱は冷酷極まりない視線で池たちを一蹴すると、クリップボードに挟まれた書類へと目を落とした。
「試験時間は、本日この瞬間から、七日後の正午まで。基本ルールを説明する。各クラスはこれより1週間、この無人島での集団生活を行わなければならない。ルールは極めてシンプルであり、かつ絶対だ」
茶柱の合図とともに、副担任たちが大きなプラスチックケースを運んできた。その中に入っていたのは、頑丈そうな特殊仕様の黒い腕時計だった。
「まず、全員にこの腕時計を配付する。これは1週間後の試験終了まで、いかなる理由があろうとも外すことなく身につけておかなければならない。この腕時計は単に時刻を確認するだけのものではない。お前たちの体温や脈拍、人の動きを探知するセンサーが内蔵されており、さらにGPSによる位置情報、 命の危険を感じた際のための緊急ボタンも備えている。許可なく腕時計を外した場合にはペナルティが課せられるから、肝に銘じておけ」
生徒たちは困惑しながらも、次々と腕時計を受け取り、手首へと装着していく。ずっしりとした金属の重みが、これから始まる過酷な日々の到来を告げているようだった。
「テントや最低限の衛生用品は初期物資として配給されるが、それ以外の飲料水や食料、追加の物資などは、この試験のために各クラスへ一律で与えられた特別ポイント『300ポイント』を消費して購入する必要がある。試験終了時、各クラスに残っているポイントは、その全てがクラスポイントに加算された上で、夏休み明けの9月に反映される。つまり、ポイントを一切使わずに乗り切れば、それだけで300クラスポイントを獲得できるということだ」
「300クラスポイント……!」
堀北鈴音が、鋭い目をしてその数字に反応した。現在のDクラスにとって、300ポイントという数字は上位クラスへと這い上がるための喉から手が出るほど欲しい巨利である。
「マニュアルは1冊ずつクラスに配布する。ルールや購入できる物資の一覧が記載されている。紛失などの際には再発行も可能だが、その際にも貴重なポイントを消費することになるので注意しろ」
茶柱は手に持っていた黒いマニュアルを、Dクラスの前に歩み出てきた堀北へと手渡した。
「説明は以上だ。では、各クラス、速やかに行動を開始しろ。これより先は、お前たちの実力のみが生存の可否を決める」
2.四者四様の始動
試験が開始された直後、上位クラスの行動は迅速そのものだった。
Aクラスの葛城康平は、ルールを咀嚼するや否や、即座に大荷物をまとめさせ、迷いのない足取りで森の奥へと進んでいった。彼らは事前に船上から島を観察し、効率的な拠点の候補を絞り込んでいたのだろう。その統率力はさすがと言わざるを得なかった。
Bクラスの一之瀬帆波も、持ち前の圧倒的な包容力とリーダーシップで、クラスメイトたちを笑顔で鼓舞していた。
「みんな、大変だけど、怪我だけはしないように協力して頑張ろう! まずは水場を探して、安全なキャンプ地を作ろうね!」
善性の塊のような彼らは、一糸乱れぬ団結力で、さっさと砂浜を後にして行動を開始した。
Cクラスの龍園翔にいたっては、不敵な笑みを浮かべながら、石崎や伊吹といった配下を怒鳴りつけ、軍隊さながらのスピードで動き出していた。彼らの目には、サバイバルを楽しむような余裕さえ感じられた。
上位3クラスが、それぞれの思惑を胸に、一瞬で砂浜から姿を消していく。
それに対して、我が1年Dクラスはといえば――。
「あー、マジで最悪……。暑いし、虫いそうだし、帰りてえわ」
「なぁ、この300ポイントって、使わなきゃ全部俺たちのプライベートポイントになるんだろ? だったら、1ポイントも使わずに我慢した方が得じゃん!」
「正気かよ!? 水も食料もないのに1週間も我慢できるわけねえだろ!」
絵に描いたような「ぐだつき」だった。
池や山内を中心に、ポイントをケチりたい派と、今すぐ快適な物資を購入したい派が醜い言い争いを始め、完全に行き詰まっていた。平田が「みんな、落ち着いて話し合おう」と宥めるものの、パニックに陥った彼らの耳には届かない。須藤はイライラと髪を掻きむしり、女子たちは不衛生な環境への不満を爆発させている。
「見苦しいわね」
腕を組み、冷たい氷のような瞳でクラスの惨状を睨みつけているのは、堀北鈴音だった。彼女はAクラス昇格という強い意志を持っているが、この烏合の衆をどうコントロールすればいいか分からず、苛立ちを隠せないでいた。
そんな中、漣がヘラヘラと笑いながら、ぐだついている輪の中心へと歩み出た。
「おいおい、みんな。そんなところでギャーギャー喚いてても、太陽は沈むし、お腹は減る一方だぜ? ちょっと俺の話を聞いてくれないかなぁ」
漣の声は、決して大きくはなかった。しかし、一学期中にクラスの大半を「融資(ローン)」の網にかけ、圧倒的なプレッシャーと財力で支配してきた悪魔の言葉だ。その一言で、池も山内も、ピタリと口を閉ざして漣を振り返った。
「継国……お前、なんか良い案でもあるのかよ?」
須藤が、睨みつけるように問いかける。
「良い案っていうか、至極当然の『投資』の話さ。平田くん、ちょっと学校のマニュアルの、物資購入ページを開いてくれる?」
「え? ああ、分かった」
平田が急いでマニュアルを開く。そこには、ポイントを消費してレンタル、あるいは購入できる一時的な「文明の利器」のリストが並んでいた。
漣はそれを横目で見ながら、冷徹な声で言い放った。
「結論から言おう。我がDクラスは、今この瞬間、『仮設トイレ』、『簡易シャワー室』、そして『1日分の食料と飲料水』を、ポイントを消費して即座に購入するべきだ」
「な、なんだとぉ!?」「ふざけんなよ継国!」
その進言に対し、池と山内が即座に噛みついた。
3.合理の天秤
「おい継国! お前、300ポイントがどれだけ大金か分かってんのかよ!?」
池が顔を真っ赤にして叫ぶ。「仮設トイレだのシャワーだの、そんなもん贅沢品だろ! 初期物資に簡易トイレが1個あるんだから、それで我慢すればポイントが丸々残るじゃねえか! 1ポイントでも多くクラスポイントに回した方が、夏休み明けに俺たちの小遣いが増えるんだぞ!」
「そうだそうだ! 食料だって、木の実を採ったり、海で魚を釣ったりすればタダだろ! 最初からポイントを使うなんて、負け犬のやることだ!」
山内も池に同調し、拳を突き上げる。一部の男子生徒たちも、ポイントの誘惑に目が眩み、彼らの意見に頷いていた。
(あはは、本当に底辺の凡愚は目先の数字しか見えないねぇ。だからいつまで経っても『持たざる者』のままなんだよ)
漣は内心で冷酷に嘲笑しながらも、表情にはヘラヘラとした薄笑いを絶やさなかった。彼は一歩、池と山内の前に進み出ると、持ち前の超高スペック脳から導き出された「論理的かつ合理的」な説得を開始した。
「池くん、山内くん。君たちの『ポイントをケチりたい』っていう気持ちは、実によく分かるよ。お金は大事だからねぇ。だけどさ、君たちの言っていることは、完全に計算の合わない『机上の空論』、いや、ただの『自滅行為』なんだよ」
「自滅だと……!? なんでだよ!」
池が食ってかかる。
「いいかい? まずは『トイレ』と『シャワー』の話からしようか。支給された初期物資にあるのは、ただのダンボールとビニール袋でできた、丸見えの『簡易トイレ』が1個だけだ。これをクラスの男女40人で使い回せって? しかも1週間だぞ?」
漣は視線を女子生徒たちのグループへと向けた。軽井沢恵をはじめ、三宅明人や長谷部波瑠加、櫛田桔梗たちが、一様に嫌悪感を露わにしている。
「想像してみなよ。プライバシーも糞もない、臭いの充満する簡易トイレを、女子たちが進んで使うと思うかい? 確実に彼女たちは限界まで排泄を我慢する。その結果どうなる? 著しい精神的ストレス、そして高確率での『膀胱炎』や『急性胃腸炎』の発症だ。ルールを思い出してごらん。著しく体調を崩してリタイアした生徒は、『一人につきマイナス30ポイント』のペナルティだ。もし女子が3人、体調を崩してリタイアしたら、それだけで90ポイントが吹き飛ぶ。仮設トイレのレンタル料なんて、数十ポイントで済むんだよ。どっちが安上がりかな?」
「う……っ」
池が言葉を詰まらせた。
「さらに『シャワー』だ。この真夏の猛暑の中、1週間も風呂に入らず、汗と海水と泥に塗れて生活してみなよ。皮膚の衛生状態は最悪になり、感染症があせも、体臭の悪化で、クラスの治安と士気は完全に崩壊する。特に女子のモチベーション低下は致命的だ。ギスギスした空気で揉め事が起きれば、最悪、暴力沙汰に発展するかもしれない。暴力は『即失格』、全ポイント没収だ。君たちは、そのリスクを背負ってまで、数十ポイントをケチりたいのかい?」
漣の整然としたロジックに、池の背中から冷や汗が流れた。女子たちの視線は、今や完全に漣を支持し、池たちを「不潔な提案をする不審者」を見る目で見つめていた。
「次に『食料と飲料水』だね。山内くんは『魚を釣る』『木の実を採る』なんて野生児みたいなことを言っていたけど、君にそんな技術があるのかい? 釣りの道具は? 毒のある木の実を見分ける知識は? 今日は移動と拠点作りの初日だ。全員が不慣れな作業で疲れ果てる。そんな状態で、水も食料も確保できず、飢えと脱水症状で初夜を迎えてみなよ。明日の朝、何人が動けなくなっているかな? 熱中症でのリタイアが続出すれば、それこそ300ポイントなんて一瞬でマイナスに突入して破産(デフォルト)だ」
漣は、決定打となる言葉を突きつけた。
「これは『我慢大会』じゃない。学校側が用意した『管理された特別試験』だ。勝つために必要なのは、無意味な根性論じゃなく、『人的資源(クラスメイトの体力と精神)を健康に維持するための、必要不可欠な初期投資』んだよ。初日のインフラと食料をポイントで買い、安全を確保した上で、明日から島のアドバンテージ(スポット占有)でポイントを回収していく。これが、我がDクラスが生き残るための、唯一の合理的最適解さ」
静寂が、砂浜を支配した。
漣の言うことには、非の打ち所がない合理性と説得力があった。目先のポイントに目を奪われていた池や山内も、自分たちの考えがいかに浅はかで、破滅に直結していたかを理解せざるを得なかった。
「……継国くんの言う通りだと思うわ」
沈黙を破ったのは、堀北鈴音だった。彼女は漣を一瞥し、悔しそうにしながらも、その正論を認めた。
「悔しいけれど、今の私たちの状態で、初日から完全な自給自足を行うのは不可能よ。体調不良による減点リスクを抑えるためにも、初日のインフラ投資は不可欠だわ」
「僕も、継国くんの意見に賛成だよ。みんなの健康が第一だからね」
平田も即座に同意し、クラスの意見は一気に漣の提示した方向へと傾いた。
「ちぇっ……分かったよ。継国がそこまで言うなら、従うわ……」
池が不貞腐れたように頭を掻き、山内もバツが悪そうに引き下がった。
こうして、Dクラスは初日の物資購入を決定した。悪魔の金融工学は、無人島という極限状態においても、凡愚たちの思考を完璧に調伏したのだ。
4.島の真実
物資の購入手続きを平田に任せる中、須藤が不安そうな顔で周囲の鬱蒼とした森を睨みつけていた。
「なぁ……合理的なのは分かったけどよ、本当にこの島、安全なんだろな? 毒蛇とか、凶妄な野生動物とかが出たら、投資もクソもねえだろ」
その言葉に、再びクラスの間にピリピリとした緊張が走る。都会育ちの高校生たちにとって、夜の原始的な森は恐怖の対象でしかなかった。
漣はフッと鼻で笑い、須藤の肩を叩いた。
「あはは、心配しすぎだよ須藤くん。島に危険な猛獣なんて、最初からいるはずがないさ。なんと言っても、ここは学校が完全に管理している『試験会場』だからねぇ」
「え……? 学校が管理してるからって、なんでそう言い切れるんだ?」
漣は、手首の重厚な腕時計を指差した。
「考えてもみなよ。僕たちに配布されたこの腕時計には、GPSや体温・脈拍のセンサーだけでなく、『緊急ボタン』まで備わっている。環境汚染にはマイナス20ポイント、他クラスへの暴力には即失格という、厳格な『ペナルティ』が機能している。もしこの島に、生徒の命を脅かすような本物の毒蛇や熊が野生のまま放置されていたら、学校側は『暴力禁止』なんてルールを敷く前に、生徒の安全を物理的に確保できないだろ? 訴訟問題になれば、この学園の特権自体が揺らぐ。つまり、事前に学校の警備スタッフが島全域を調査し、致命的な危険生物はすべて駆除、あるいは隔離していると見るのが、経済的・組織的な観点から見て当然の前提(ロジック)なのさ」
「そ、そうか……。学校の試験なんだから、死人が出るような状態にはしてねえってことか」
須藤は納得したように安堵の息を吐いた。
「ただし」と、漣は言葉を続けた。「学校が管理しているからといって、大自然の生理現象まで止めてくれるわけじゃない。特に注意すべきは『水』だね」
「水? ポイントで買うんだろ?」と池が首を傾げる。
「初日はね。だけど、明日以降、島の中にある川や湧き水を利用することになる。学校が管理しているとはいえ、野生の生水には目に見えない雑菌や原虫、寄生虫の卵が含まれている可能性がある。これをそのまま飲めば、一発で激しい下痢や感染症を引き起こして、それこそマイナス30ポイントのリタイア直行便だ。だから、島で手に入れた水は、『念のため必ず沸騰(煮沸)させてから飲む』。これは鉄則だ。分かったかい?」
「お、おう……。分かった」
池たちは、漣のサバイバルに対する造詣の深さに、半ば圧倒されながら頷いた。
実際、漣にとってこの程度のサバイバル知識は、基礎中の基礎に過ぎなかった。彼の肉体と脳には、人間の骨格や急所を熟知した格闘術や医術だけでなく、どんな極限状態の未開地であっても涼しい顔で生き延びる、プロフェッショナルな『サバイバル技術』が細胞レベルで刻み込まれている。
(水、火、シェルターの確保。そして衛生管理。これさえ守っていれば、無人島なんてただの涼しい箱庭さ。あとは、この環境をどう利用して、他クラスのポイントを毟り取るか……。ククッ、楽しくなってきたねぇ)
5.暫定リーダーの推薦
インフラの購入が決まったところで、平田が真剣な表情でマニュアルを指差した。
「みんな、物資の購入の前に、もう一つ、今すぐ決めなければいけない最も重要なルールがあるんだ。……『リーダー』の決定だよ」
その言葉に、一同の視線が再びマニュアルの「追加ルール」へと注がれた。
スポットを占有できる唯一の権限を持ち、かつ最終日に他クラスから特定されれば「50ポイントの損失」、逆に隠し通せば「防衛成功」となる存在。そして、正当な理由なく変更は不可能な、この試験の文字通りのキーパーソンだ。
「リーダーか……。やっぱり、クラスをまとめる平田がいいんじゃねえか?」
池が当然のように提案した。男子たちの多くもそれに同意するように頷く。
しかし、平田は困ったように首を振った。
「僕を選んでくれるのは嬉しいけれど、それはリスクが高すぎると思う。僕は良くも悪くも、クラスの表舞台で目立つ位置にいる。もし僕がリーダーになれば、他クラス(AやC)の偵察陣から、真っ先に疑われる対象になってしまうよ。リーダーは最終日まで他クラスに隠し通さなければならない『最重要機密』だ。僕のように目立つ人間がリーダーになるのは、リスクが高すぎる」
「だったら、誰にするんだよ……」
須藤が不機嫌そうに呟き、クラスが再び沈黙に包まれる中、最後列の漣がすっと片手を挙げた。
「それじゃあ、俺から推薦させてもらおうかな。適任がいるよ――そこの、ツンツンしたお姫様、堀北鈴音ちゃんだ」
「……なっ!?」
名前を呼ばれた堀北鈴音が、不快感を露わにして漣を睨みつけた。
「冗談を言わないで、継国くん。なぜ私がそんなリスクを背負わなければならないの?」
「あはは、冗談じゃないさ」
漣はヘラヘラと笑いながら堀北へと歩み寄り、彼女の背後に回り込むと、その華奢な耳元に顔を近づけた。一学期中、壁ドンや圧倒的なプレッシャー、あるいは調伏まがいの距離感で何度も彼女のプライドを揺さぶってきたが、その不健全な関係性は、この無人島においても微塵も変わっていなかった。
「君はクラスの誰とも無駄に群れないし、他クラスの生徒が接触してきても、その氷のような態度で追い返すことができる。それに、君はAクラスを目指すという強い意志を持っている。リーダーとしての責任感という点では、我がクラスで右に出る者はいない。平田くんが表のリーダー(まとめ役)として目立ってくれれば、君が陰の『暫定リーダー』として動くのが、最も他クラスの目を欺けるのさ」
漣の低く、どこか妖艶な声が耳腔をくくすぐり、堀北は微かに身体を震わせた。彼女は悔しそうに唇を噛み締めた。漣の言うことには、悔しいが非の打ち所がない合理性と、クラスを勝利に導くためのロジックがあった。彼女自身、この試験で圧倒的な成果を上げなければ、兄である生徒会長・堀北学に追いつき、認められることなど到底不可能なのだ。
「……分かったわ。私がリーダーを引き受ける。ただし、私の足を引っ張るような真真似は絶対に許さないからね」
堀北は冷たく言い放ち、平田から手渡されたリーダー専用の『キーカード』を受け取った。
「決まりだねぇ。それじゃあ、暫定リーダーの堀北ちゃん。最初の命令を下してくれないかい? ――このクソ暑い砂浜から、最高のキャンプ地への移動をね」
漣はニヤリと笑い、森の奥の一方角を指差した。
6.ベースキャンプへの進軍
「移動するって言っても、どこに行くんだよ? 当てはあるのか?」
須藤が初期物資のテントを担ぎ直しながら問いかける。
「当てなら、あるよ。実は僕、超豪華客船の最上階デッキから、高性能の望遠レンズを使ってこの島の地形を隅々まで観察しておいたんだよねぇ」
「は……? 船の上から……?」
池が呆然とした声を上げる。誰もがバカンスに浮かれ、ステーキを貪っていたあの時間、漣の「超高スペック脳」は、すでに特別試験の可能性を予期し、島のインフラ候補地を冷徹にスキャンしていたのだ。
「僕が目をつけたベースキャンプ地は、この砂浜から森を北西に15分ほど進んだ先にある『洞窟(平坦な岩場)』さ。そこは三方を頑丈な岩壁に囲まれていて、直射日光や突発的な雨風を完全にしのぐことができる。さらに、すぐ近くには川が流れていて、水場へのアクセスも完璧だ。何より、入り口が狭いから、他クラスからの覗き見(偵察)を物理的に遮断できる。リーダーである堀北ちゃんを隠すには、これ以上ない最高の間取り(シェルター)だよ」
「そんな場所が本当にあるの……?」
堀北が驚きを隠せない目で漣を見た。彼女自身、船から島を見てはいたが、そこまで詳細な地形の優位性を見抜くことはできていなかった。
「あはは、嘘だと思うなら行ってみなよ。ほら、ぐずぐずしてると、AクラスやBクラスにその最高の物件を横取りされちゃうぜ?」
漣の言葉に突き動かされるように、Dクラスの生徒たちは初期物資(8人用テント2張、懐中電灯2個、マッチ1個、アメニティリュック、日焼け止め、簡易トイレ、簡易医療キット)を総出で担ぎ上げ、砂浜を後にして森の奥へと進軍を開始した。
森の中は、外の砂浜以上の湿気と熱気が満ちていたが、漣の的確なナビゲートにより、クラスメイトたちは迷うことなく、また誰一人として怪我をすることなく、鬱蒼とした木々を掻き分けて進んでいった。
そして――漣の言葉通り、森を抜けた先に、巨大な岩壁に囲まれた、涼しい風の吹き抜ける広大な「洞窟」が姿を現した。
「す、げえ……! マジで洞窟だ! 涼しい!」
池がリュックを放り出し、歓声を上げて岩場に転がった。
「水だ! 本当にすぐそこに綺麗な川が流れてるぞ!」
山内も川を見つけて叫ぶ。
「素晴らしい場所だね、継国くん。これなら、みんなの体力を消耗させずに1週間を乗り切れそうだ」
平田が心底感心したように漣を見つめ、女子たちも「ここなら虫も少なそうだし、プライバシーも守れる」と、安堵の表情を浮かべていた。
7.隠された利権の確保
ベースキャンプである洞窟に到着し、クラスメイトたちが荷物を下ろして一息ついた頃、漣は周囲の様子を伺いながら、密かに次の行動へ移っていた。
彼の目的は、ベースキャンプ周辺の完全な掌握。そして、マニュアルの裏に隠された「スポット」の確保である。漣の超高スペック脳は、事前にスキャンした島の構造と、ここまで歩いてきた正確な歩数・高低差を統合し、この洞窟の至近距離に学校の指定した重要スポットが存在することを完全に確信していた。
しかし、ルール上、スポットの占有権限を持つのは『リーダーのキーカードを持つ者』――すなわち、堀北鈴音ただ一人。漣自身がカードをかざしても端末は反応しない。
「あはは、だったら、僕のお姫様(リーダー)に直接動いてもらうまでさ」
漣はヘラヘラとした薄笑いを浮かべながら、荷物の整理をしていた堀北の背後に足音もなく忍び寄った。そして、彼女の華奢な肩を背後からガシッと掴み、耳元に低く冷酷な声を吹き込む。
「ねぇ、堀北ちゃん。ちょっと付き合ってよ。リーダーとして、今すぐ果たすべき最高にエキサイティングな『義務』があるんだよねぇ」
「な、何よ急に……っ! 離しなさい、不愉快だわ」
堀北は顔を真っ赤にして漣の手を振り払おうとしたが、彼の鉄のように強固な肉体は微動だにしない。それどころか、漣から放たれる圧倒的なプレッシャーと冷徹な瞳に射すくめられ、彼女の身体は本能的な恐怖で硬直した。
「あはは、拒否権なんてないよ。さぁ、お散歩の時間だ」
漣は堀北の腕を半ば強引に引き、クラスの誰にも気づかれないスピードで、洞窟の入り口から少し離れた鬱蒼とした藪の奥へと彼女を連れ去った。
人の背丈ほどもあるシダ植物を掻き分け、泥濘を進んだ崖の直下。原生林に隠された場所に、無機質な小型の金属製端末が設置されていた。液晶画面には【未占有】という文字が冷たく光っている。
「これが何か、聡明な君なら分かるよねぇ?」
漣に促され、堀北は驚きに目を見開いた。
「指定スポット……! こんな近くに……」
「そうさ。そしてルールを思い出してごらん。ここはリーダーである君がカードをかざすことで、初めて我がDクラスの『利権(ポイント)』になる。さぁ、ぐずぐずしないで、その綺麗な手でカードを端末にかざしなよ」
堀北は一瞬、躊躇した。漣の圧倒的な主導権のもとで、まるで操り人形のように動かされることへの強いプライドの抵抗があった。
「私がリーダーよ。私の判断で――」
「おっと、勘違いしないでよ?」
漣は堀北の背後から包み込むように距離を詰め、彼女の手首を優しく、しかし逃れられない力で掴み取った。彼の琥珀色の瞳が、至近距離で残酷に光る。
「君がそこに立っていられるのも、リーダーとして輝けるのも、すべては俺の知識とロジックという『資本』の上に乗っかっているからなんだよ。君は俺の利益を最大化するための、最高に優秀な『手駒』なんだ。……ほら、早くしなよ、お姫様」
漣の抗えないプレッシャーと、甘く冷酷な支配の言葉に、堀北は喉を鳴らして完全に呑まれた。彼女の瞳には、彼に対する底知れない恐怖と、同時に抗えない依存の影が色濃く刻まれていく。
堀北は震える手でポケットからリーダー用のキーカードを取り出すと、漣に手首をホールドされたまま、端末の読み取り部へとカードをかざした。
ピピッ、という電子音が静かな森に響き、画面の表示が瞬時に切り替わる。
【占有クラス:1年Dクラス / 有効時間:8時間】
「よくできました。あはは、素晴らしいよ堀北ちゃん」
漣は満足げに笑い、ようやく彼女の手首を解放した。
ベースキャンプの目の前という完璧な立地で、他クラスに奪われるリスクをゼロにしつつ、自動的にポイントをプールできる難攻不落の要塞。その利権を、堀北鈴音というリーダーの身体(コマ)を通じて完璧に掌握した漣は、フッと口元を凶悪に釣り上げた。
「さぁ、最高のファーストステップだ」
漣は何食わぬ顔で歩き出し、堀北は屈辱と恐怖に顔を歪めながらも、すでに彼の張り巡らせた絶対的な支配の鎖から逃れられないことを自覚し、その背中に従うしかなかった。
8.業火の予備作戦
間もなくして、学校の運営スタッフが手配した、ポイント消費による「男女別の仮設トイレ」と「簡易シャワー室」、指示通りの「1日分の食料・飲料水」がドローンと作業員によってベースキャンプ地に運び込まれてきた。
快適なインフラが整い、冷たいミネラルウォーターと配給のサンドイッチを手にしたDクラスの生徒たちからは、さっきまでの絶望やぐだつきが嘘のように消え去り、前向きな活気が戻っていた。
「さてと。インフラの設置が終わったところで、次は今夜を乗り切るための命綱、火の確保だねぇ」
継国漣は、ヘラヘラとした薄笑いを浮かべながら、洞窟内を見渡して手を叩いた。
「みんな、ちょっと耳を貸して。初期物資にマッチは1個あるけれど、燃やすものがなきゃ意味がないだろ? 今から全員、総出で動いてもらうよ。男子も女子も、洞窟の周辺から乾いた落ち葉や、火が長持ちしそうな太めの枯れ木をできるだけたくさん探して集めてきてくれないかな。夜になればここは冷え込むし、生水を煮沸するのにも火は不可欠だからね。ぐずぐずしてると日が暮れちゃうぜ?」
「おう、分かった! 火がないと飯も食えねえしな。よーし、みんなで拾いに行くぞ!」
漣の的確な指示と、これまで一学期中に示してきた圧倒的な支配力への畏怖から、池や須藤をはじめとするクラスメイトたちは不満を漏らすことなく動き出した。彼の言葉には、反論を許さない絶対的な説得力と、従わなければ損をするという無意識の恐怖が混ざり合っている。
男女いくつかのグループに分かれ、それぞれが軍手やアメニティリュックを手に、洞窟の外へと燃料探しの探索に広がっていった。
漣は洞窟の入り口近くに佇み、テキパキと動き回るクラスメイトたちの姿を眺めていた。その脳内では、すでにこの無人島試験における完全な勝利へのチャートが、何十通りも更新されている。
(火の確保は基本中の基本だが、これによってクラス全員に『役割』を与え、余計な内紛を防ぐ心理的効果もある。サバイバルという極限状態において、人間は『暇』になるとロクなことを考えないからねぇ。常に小さなタスクを与え、それをクリアさせることで、俺への依存度と信頼度を無意識のうちに高めさせていく。……実にイージーなゲームだ)
漣が一人でそんな思考を巡らせていると、隣に気配を感じた。視線を向けると、いつも通り死んだ魚のような目をした綾小路清隆が、ぼんやりと空を見上げている。
「おや、綾小路くん。君は燃料探しに行かなくていいのかい?」
「……俺は一応、平田たちのグループに木を運ぶ手伝いをするように言われている。ただ、少し効率のいい場所を探そうと思ってな」
「相変わらず、やる気があるのかないのか分からないねぇ。まぁいいさ。お前はお前で、その冴えない頭を少しは使ってクラスに貢献してよ。」
「善処するよ。」
綾小路は淡々とした調子でそう言い残すと、のそのそとした足取りで森の奥へと消えていった。
漣はその後ろ姿を鼻で笑い、集まった枯れ葉や薪の山へと歩み寄り、池たちが起こそうとしている火の手際を眺め始めた。
9.迷い込んだ負傷兵と拒絶の論理
それから、数十分ほど経った頃だろうか。外の太陽がわずかに傾き始め、森の影が長く伸びてきた頃、突如として静寂が破られた。
「ちょっと! みんな、来て! 大変なの……っ!」
洞窟の入り口付近から、燃料を探しに出ていた櫛田桔梗や軽井沢恵たち女子グループの、焦燥に駆られた鋭い叫び声が響き渡った。
その声の尋常ならざる響きに反応し、漣や平田、あるいは堀北鈴音たちが即座に駆け寄る。
女子たちが両脇を抱えるようにして、泥だらけになりながら洞窟へと連れ帰ってきたのは、地面にへたり込み、荒い息を吐き出している一人の少女だった。
「これって……Cクラスの、伊吹さん……!?」
平田が目を見開いて声を漏らす。
その少女――伊吹澪は、衣服の一部が泥で酷く汚れ、顔や腕には痛々しい擦り傷や、誰かに激しく殴られたかのような赤黒い腫れが浮かんでいた。髪はボサボサに乱れ、呼吸は浅く、明らかに肉体的にも精神的にも限界を迎えている状態だった。
しかし、彼女はDクラスの面々に囲まれていることに気づくと、朦朧とした意識の中で鋭い警戒の視線を向け、獣のように歯を食いしばった。
「な、何よ……触らないで……っ」
「ちょっと、そんな身体で強がらないの。森のすぐ近くで倒れそうになってたのよ」
櫛田が心配そうに声をかけ、そっと肩に手を置こうとするが、伊吹はそれを激しく振り払おうとした。だが、その動作自体が彼女の身体に激痛を走らせたようで、「うっ……」と呻きながら再び冷たい地面に膝をつく。
それを見つめる堀北の瞳は、冷徹な氷のように細められていた。
「待ちなさい、みんな。不用意に近づくのは感心しないわ」
堀北は一歩前に出ると、周囲のクラスメイトたちを制するように片手を挙げた。
「彼女はCクラスの伊吹澪。あの龍園の側近よ。そんな彼女が、なぜこの試験初日に、こんなDクラスの拠点のすぐ近くでボロボロになって現れたのかしら? ……常識的に考えて、これは他クラスの動向を探るため、あるいは私たちの拠点を特定するために送り込まれた『スパイ』の可能性が極めて高いわ。不用意に保護すれば、私たちのすべての戦略が破綻しかねない」
「ス、スパイだって……!?」
須藤が顔を顰めて伊吹を睨みつける。池や山内も、その言葉に一歩身を引き、猜疑心の塊のような目を伊吹に向けた。
堀北の指摘は極めて論理的であり、サバイバル試験における定石だった。無人島という騙し合いの極限状態において、敵クラスの人間を安易に受け入れるのは、自らの首を絞める自殺行為に等しい。特に龍園という男の残忍さと狡猾さを知っていれば、この状況が巧妙に仕組まれた狂言であると疑うのは、リーダーとして当然の危機管理能力だった。
「私も堀北さんの意見に賛成かな。もし本当にスパイだったら、私たちの情報や、せっかく見つけたこの隠れ家の場所が全部Cクラスに筒抜けになっちゃうじゃん。悪いけど、別の場所に移動してもらうべきだよ。関わりたくないし」
軽井沢が腕を組み、嫌悪感を露わにする。女子たちの中にも、敵クラスの人間、それも素行の悪そうなCクラスの生徒と同じ空間にいることへの抵抗感が、油が広がるように浸透していく。
「あ、あの……でも、本当に痛そうだよ……? 狂言であんな怪我をするなんて、あり得るのかな……」
佐倉愛里が、おずおずと服の裾を引っ張りながら呟いたが、その声は多数派の警戒心にかき消されそうになっていた。
10.多数決の天秤と監視の鎖
しかし、連れ帰ってきた櫛田や、平田の表情は曇ったままであった。彼らにとって、目の前で傷つき、苦しんでいる人間を損得勘定だけで切り捨てることは、自己のアイデンティティを全否定することに等しかった。
「でも、堀北さん。伊吹さんは本当に酷い怪我をしてるんだよ? このまま放り出したら、熱中症や脱水症状、最悪の場合は夜の冷え込みで、本当に命の危険があるかもしれない。スパイかもしれないからって、見殺しにするような真似は僕にはできないよ……! 試験の勝ち負けよりも、大事なものがあるはずだ」
平田の言葉には、彼の持つ絶対的な善性と、過去のトラウマからくる「誰も見捨てない」という強い強迫観念が宿っていた。
「そうだよ、堀北さん。怪我人を見て見ぬふりなんてできないよ……。クラスのルールで揉めるのは嫌だけど、ここはみんなの意見を聞いて、多数決で決めない? それなら、みんなも納得できると思うんだ」
櫛田の提案に、周囲の生徒たちもざわつき始めた。人道的な観点から保護すべきという意見と、試験の勝利のために排除すべきというリスクヘッジの意見が真っ向からぶつかり合い、洞窟内は再び一触即発の不穏な空気に包まれる。
堀北は「多数決……」と忌々しそうに眉を寄せた。彼女の合理主義からすれば、多数決などという感情論に流されやすいシステムでクラスの命運を決めるのは愚気の極みだった。しかし、ここで独断で伊吹を追い出せば、クラスの精神的支柱である平田や、人望の厚い櫛田との間に決定的な亀裂が入り、一学期以上にクラスが空中分解することは火を見るより明らかだった。
「……分かったわ。そこまで言うなら、クラス全体の意思を問いましょう」
堀北は渋々と同意し、冷淡な声を響かせた。
「彼女をこのままここで『保護』することに賛成の人は、手を挙げて」
最初に勢いよく手を挙げたのは平田と櫛田だった。それに続くように、佐倉愛里が漣の顔を伺いながらも、覚悟を決めたようにおずおずと手を挙げる。さらに、櫛田の必死の表情に流されたいくつかの女子生徒や、平田の意見に逆らいたくない男子、さらには「女の子を追い出すのはちょっと……」と考えた池や山内などの浮動票が、雪崩を打つように次々と手を挙げた。
結果は――保護賛成派が過半数を占める圧倒的な多数だった。
「決まり、ね。……多数決に従って、彼女の臨時保護を認めるわ」
堀北は深くため息をつき、厳しい視線を伊吹へと戻した。
「ただし、条件があるわ。あなたを無条件で信用したわけじゃない。試験終了まで、あなたの行動は常にDクラスの女子が交代で『24時間体制で監視』させてもらうわよ。洞窟の外へ出る際も必ず誰かが同行する。不審な動きを少しでも見せたら、その瞬間に力ずくでも島外へリタイアさせるか、叩き出すから。それで文句はないわね?」
伊吹は悔しそうに爪が食い込むほど唇を噛み締めながらも、自分の置かれた満身創痍の状況を理解しているのか、小さく「……勝手にすれば」とだけ吐き捨て、洞窟の最も冷え込む壁際へと力なく身を寄せた。
11.捕食者の微笑
クラスメイトたちが伊吹の手当てや、集まった燃料での焚火の準備へと一斉に意識を移していく中、継国漣は一人、最後列の暗がりからその光景を眺めていた。
(あはは、最高だねぇ、龍園の野郎)
漣はククッ、と喉の奥で低く、地を這うような邪悪な笑い声を漏らした。
普通の人間なら、他クラスのスパイが潜り込んできたとなれば、警戒し、盤面が狂うことを恐れ、夜も眠れぬ夜を過ごすだろう。だが、前世の記憶と、人間の限界を遥かに超越した超高スペック脳を持ち、世界のすべてを自分の支配下(おもちゃ)としてしか見ていない漣にとって、そんな堀北たちの心配など、あまりにも矮小で、反吐が出るほど退屈な懸念に過ぎなかった。
(たとえ伊吹ちゃんがどれほど優秀なスパイだろうが、そんなことは俺にとっては『どうでもいい』んだよ。だってさぁ……)
漣の琥珀色の瞳が、洞窟の奥の暗がりで怪しくギラリと、肉食獣のように輝いた。
(わざわざこちらから罠を張って、どうやって揺さぶりをかけて誘い出そうかと考えていた極上の獲物が、向こうの飼い主――龍園の都合で、自ら俺の檻の中に飛び込んできてくれたんだからねぇ。龍園、お前には心から感謝するよ。お前がどんな絵図を描いて、彼女にどんな傷を負わせて送り込んできたかは知らないが、そのすべてが俺の手の平の上で踊るためのステップに過ぎないんだ)
伊吹澪という少女は、気の強い外見や暴力的な態度とは裏腹に、その内面に深い孤独と、龍園による恐怖と暴力の支配への強い反発、そして自己承認欲求を秘めている。それを漣の超スペック脳が見抜けないはずがなかった。傷ついた野良猫は、優しくされるよりも、圧倒的な強者によって完全に「存在を定義」されることを無意識に求めているのだ。
(泳がせて、情報を引き出し、Cクラスの仕掛けをすべて把握させてもらう。 そして最後は心も身体も、骨の髄まで、俺の資本主義と圧倒的な力で調伏して、俺の忠実な『猟犬(コマ)』に変えてやるさ。スパイとして送り込まれたはずの彼女が、いつの間にか俺のために動く二重スパイ、いや、俺だけの所有物になる瞬間を想像するだけで、たまらないねぇ。これだから人間観察(ゲーム)は辞められないんだよ)
フッと、いつものヘラヘラとした完璧な薄笑いに仮面を戻すと、漣は壁際で小さくなって膝を抱えている伊吹の元へと、足音もなく歩み寄った。
「やぁ、伊吹ちゃん。災難だったねぇ。Cクラスの龍園くんも、女の子に手を上げるなんて随分と野蛮で、器の小さい男だ。うちのクラスは見ての通り、お人好しで温厚な人ばかりだから、安心して身体を休めるといいよ。誰も君を無理に追い出したりはしないさ」
漣の、一見すると親切で甘やかだが、どこか底の知れない、冷酷な金属の響きを持った声に、伊吹はビクリと身体を震わせた。彼女は本能的な恐怖を感じたのか、ゆっくりと顔を上げ、漣の琥珀色の瞳を正面から見据えた瞬間、息を呑んだ。
その瞳の奥にあるのは、平田のような同情でも、櫛田のような親切でもない。自分という存在を完全に観察し、品定めし、いずれ完全に捕食し尽くそうと狙う、圧倒的な「支配者」の光だったからだ。
漣は、怯えと警戒で硬直する伊吹の視線を正面から捉え、悪戯っぽく、しかし底知れない捕食者の笑みを浮かべてみせた。伊吹が本能的な恐怖で小さく身震いしたのを、漣は極上の愉悦とともに、その脳内のコレクションへと収めていく。
「……な、何よ、あんた。私をあざ笑いに来たわけ?」
「まさか。何でもないさ。ただの、親切で資本主義的な同級生だよ。……これからよろしくね、伊吹ちゃん。君の滞在が、僕にとって最高の利益(エンターテインメント)になることを期待しているよ」
漣はそう言い残すと、集まった枯れ葉や薪の山へと歩み寄り、池たちがようやく起こし始めた火の粉を眺め始めた。
無人島サバイバル特別試験、その初日の夜が、静かに帳を下ろそうとしていた。周囲の生徒たちは、初めての過酷な環境と、紛れ込んできた他クラスの生徒への不安に胸を焦がし、あるいは暗闇の恐怖に怯えていたが、継国漣にとっては、これ以上ない最高のお膳立てが整った「極上の狩り場」の幕開けに過ぎなかった。彼の張り巡らせた見えざる網(ローンと支配)は、すでに伊吹を、周辺のスポットを、そして無人島全体の盤面を、確実に、そして残酷に捉え始めていたのだった。