※この作品はR-18です。

よう実 実験   作:鳥ささみ

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第13話:錯綜するチェス盤

 

1.三日目の朝

 

高度育成高等学校が課した無人島サバイバル特別試験は、ついに三日目の朝を迎えていた。初日のインフラへの適切な初期投資と、二日目の徹底した役割分担によって、我が1年Dクラスのベースキャンプ――「洞窟」の治安は、他クラスに比べれば驚くほど良好に保たれている。だが、原始的な自然環境がもたらす肉体・精神的な磨耗は、生徒たちの表情にじわじわと影を落とし始めていた。

 

朝の冷涼な風が吹き抜ける洞窟の入り口付近で、継国漣は岩壁に背を預け、手首の端末の画面を眺めながらヘラヘラとした薄笑いを浮かべていた。そのすぐ隣には、いつものように彼のシャツの裾を遠慮がちに掴み、潤んだ瞳で見つめてくる佐倉愛里が寄り添っている。

 

正面には、堀北鈴音と、いつも通り死んだ魚のような目をした綾小路清隆が立っていた。

 

「堀北ちゃん、綾小路くん。二日目が終わるまでじっくり他クラスを観察してきたんだろう? ぜひ、その成果という名の『果実』を俺に共有してくれないかなぁ」

 

漣はサングラスの奥にある琥珀色の瞳を怪しく光らせ、喉をククッと鳴らした。堀北はそんな漣の軽薄な態度に眉をひそめつつも、手元の黒いマニュアルの端を握りしめ、冷徹な声で口を開いた。

 

「ええ、貴方にも情報を共有しておくわ。今後のクラスの動きを最適化するためにもね。……まずAクラスについてよ。彼らは非常に強固な防衛体制を築いていたわ。拠点の周囲には常に複数の見張りが配置されていて、監視の目が信じられないほど厳しかった。死角から接近することすら難しく、彼らが現在どのような物資を所持しているのか、ポイントの残高状況がどうなっているのかは、結局分からずじまいだったわ」

 

「へぇ、さすがは葛城率いるAクラスだねぇ。お堅い防衛陣地を作らせたら右に出るものはいないってわけだ」 漣は一切の動揺を見せず、楽しげに相槌を打つ。

 

「次にBクラス。一之瀬さんを中心とした彼らは、本当に信じられないほどの団結力を見せていたわ。不満を漏らす生徒は一人もおらず、全員が笑顔で協力し合って拠点を維持している。物資の購入も必要最低限に抑えているようで、かなりのポイントを温存していると見て間違いないでしょうね。私たちの最大のライバルになるのは、あの隙のない共同体かもしれないわ」

 

「あはは! 善意の塊、宗教じみた信頼関係か。実に美しいねぇ。まあ、限界が来たときにどう崩壊するかは見ものだけど。――で、気になるCクラスは?」

 

漣が最も関心を寄せる獲物の名を出すと、堀北はあきれ果てたようにため息をついた。

 

「Cクラスは……論外よ。龍園くんの独裁体制なのは相変わらずだけど、驚いたことに、彼らは初日から砂浜に巨大なテントをいくつも張り、冷たい飲み物や豪華な食材を大量に買い込んでいたわ。私が見たときも、彼らはまるで南国のリゾートにでも来ているかのようにポイントを散財していた。1週間を生き残るためのサバイバル試験で、あんな無軌道な散財をするなんて、正気を疑うわ。あの様子では、試験終了時に残るポイントなど、ほぼゼロに等しいでしょうね」

 

「なるほど、なるほど。散財, ねぇ……」 漣は顎に手を当て、フッと唇の端を吊り上げた。龍園翔という男が、単なるバカとして行き当たりばったりの散財をするはずがないことは、超高スペック脳を持つ漣には分かりきっていた。

 

その時、これまでずっと一言も発さずに影のように佇んでいた綾小路清隆が、ぼそりと抑揚のない声で付け足した。

 

「……そうだ。一つだけ、気になった細かい点がある。Aクラスの拠点を遠目から観察していたときのことなんだが、彼らのベースキャンプには、学校側からレンタルした仮設トイレが『二つ』並んで設置されていたんだ」

 

「仮設トイレが二つ?」 堀北が怪訝そうに綾小路を振り返る。

 

「ああ。普通に考えれば、男子用と女子用で明確に分けて設置している、と捉えるのが自然だし、一般的なマナーとしても当然のことだ。……一応、耳に入れておくよ」

 

「そうね、紳士的な葛城くんのクラスらしい配慮だわ。それがどうかしたの?」

 

堀北は特に疑問を感じていない様子だったが、漣の脳内では、その「トイレが二つ」という極めて些細なピースが、Cクラスの「散財」という別のピースと、凄ましき速度で噛み合い、一つの巨大な絵図を完成させていた。

 

2.捕食者の数理

 

「あはは! 最高だねぇ、綾小路くん! お前、本当にいい仕事をするじゃないか!」

 

漣は突然、狂おしげに喉を鳴らして笑い出した。その圧倒的なプレッシャーと知性の輝きに、堀北は本能的な恐怖を覚えて一歩身を引く。

 

「な、何がそんなに可笑しいのよ、継国くん。トイレが二つあることに、一体何の意味があるっていうの?」

 

「おやおや、堀北ちゃん。君は本当に真面目で、それゆえに『見たいものしか見えない』凡愚の思考に陥っているねぇ。いいかい? よく考えてみなよ。あのAクラスの性質と、現在の勢力図をさ」

 

漣はサングラスを指先で軽く上げ、琥珀色の瞳で堀北を射抜いた。

 

「Aクラスは今、一枚岩じゃない。入学当初から、徹底した保守派の『葛城康平派』と、革新派でありながら冷酷な天才である『坂柳有栖派』の二つの派閥に真っ二つに割れている。……そして、今回の無人島サバイバル試験。坂柳ちゃんは身体の自由が利かないという理由で、最初から試験を欠席している。つまり、島に降り立ったAクラスの指揮権は、完全に葛城が握っている状態だ」

 

「それがどう繋がるの? 葛城くんが指揮を執っているなら、なおさら規律正しく動いているはずでしょう」

 

「そう、葛城は規律を重んじる。だが、それは同時に『クラス内に存在する敵』、つまり自分を失脚させようと手ぐすね引いている坂柳派の連中を、極度に警戒しなければならないという呪縛でもあるのさ。もし、坂柳派の生徒が、葛城派の目を盗んで秘密の作戦会議を開いたり、あるいはリーダーの情報を他クラスに漏らしていたらどうなる?」

 

漣は指を一本立て、楽しげに左右に振った。

 

「葛城の性格なら、自派閥の機密を守り、かつ坂柳派の不穏な動きを完全に隔離・監視するために、男女で分けるのではなく『葛城派専用のトイレ』と『坂柳派専用のトイレ』として二つを用意した、と考える方が、あの異常なまでの防衛体制の説明として遥かに合理的(ロジック)なんだよ。仮設トイレの中は、学校側のプライバシー保護の観点から、カメラや外部からの覗き見が絶対に不可能な『完全なる密室』だからねぇ」

 

「そんな……派閥ごとにトイレを分けるなんて、そんな狂った真似を……」

 

堀北が戦慄したように息を呑む。しかし、漣の推論はそこでは止ない。彼の超高スペック脳は、さらにその先にある「経済の循環」を弾き出していた。

 

「そして、ここからが本題さ。Cクラスの龍園が、初日から狂ったようにポイントを散財しているという事実。あいつは利のない暴挙に出る男じゃない。となれば、答えは一つしか存在しないのさ。――Aクラスの葛城と、Cクラスの龍園は、試験が始まる前、あるいは初日の段階で、裏で何らかの『巨額の密約』を交わしている」

 

「密約……!? AクラスとCクラスが協力しているというの?」

 

「協力、なんて生ぬるいものじゃないさ。これは明確な『資本の横流し』、あるいは『ポイントの売買契約』だ。葛城は何としてもこの試験で大勝利を収め、欠席している坂柳ちゃんに対して圧倒的なアドバンテージを示し、自身のリーダーとしての地位を不動のものにしたい。そのためには、確実に他クラスの情報を手に入れ、かつ自クラスのポイントを1ポイントも無駄にできない。一方、龍園はクラスポイントの増減なんていう学校側の用意したルールには最初から興味がない。彼が欲しいのは、もっと直接的な、個人を支配できる『プライベートポイント』さ」

 

漣はヘラヘラとした笑みのまま、ホワイトボードを指差すかのように、空中に指で奇妙なラインを描いた。

 

「仮説を立ててあげよう。龍園は、初日に独自の探索によって見つけた有用なスポットの権利、あるいは『DクラスやBクラスのリーダーに関する極秘情報』を、葛城に法外な価格で売り払う契約を結んだ。その対価として、葛城はAクラスの特別試験用ポイント、もしくは莫大なプライベートポイントを龍園に支払うことを約束したのさ。……いや、もっと直接的かもしれない。サバイバル特別試験のルールを逆手に取り、Cクラスが物資を購入するフリをして、その物資をそのままAクラスへと『横流し』している可能性すらある。だからこそ、Cクラスはポイントの残高を気にせず散財でき、Aクラスは一切の物資購入の形跡を見せずに、潤沢な環境を裏で維持できているんだよ」

 

静寂が、洞窟の入り口を支配した。堀北は開いた口が塞がらないといった様子で立ち尽くし、漣の導き出したあまりにも冷酷で、かつ説得力に満ち溢れた推理に、全身から鳥肌が立つのを感じていた。

 

「……なるほどな。Cクラスが消費しているように見えたポイントは、実はAクラスから補填される、あるいは最初からAクラスのための身代わりとしての消費だというわけか」

 

綾小路が静かに、感心したように呟く。

 

「あはは、そういうことさ。葛城というお堅い防衛の城に、龍園という狡猾な商人が裏口から入り込んでいる。実に面白いチェス盤じゃないか。まぁ、この密約の証拠をどうやって掴むか、そこでどうやって彼らの喉元に俺の『資本』を突き立ててやるかは、これからじっくりと考えさせてもらうけどねぇ」

 

漣はそう締めくくると、満足そうに佐倉の頭をぽんぽんと撫で、次の行動へと意識を切り替えた。

 

3.原生林のハンティング

 

「さて、それじゃあ頭の体操はここまでにして、本日のメインイベント、食料調達(ハンティング)へと出かけようか」

 

漣が声をかけると、洞窟の奥から、今日の探索メンバーとして選ばれた女子生徒たちが、少し緊張した面持ちで集まってきた。漣に絶対の信頼を寄せる佐倉愛里をはじめ、一学期からの付き合いである長谷部波瑠加、そしてクラス内でも有数のプロポーションと観察眼を持つ松下千秋、その他数名の女子たちである。さらに、漣の視線の先には、足首に包帯を巻いたまま、岩陰で不機嫌そうに唇を噛んでいる伊吹澪の姿もあった。

 

「伊吹ちゃんも、ずっと洞窟の中に閉じこもってたら身体が鈍っちゃうだろう? 今日は俺が優しくエスコートしてあげるから、リハビリがてら一緒においでよ」

 

「はぁ!? 何言ってんのよ、私はけが人だって堀北に言われたんだけど! それに、あんたみたいな薄気味悪い男と一緒に行くわけないでしょ!」

 

伊吹は激昂し、漣を鋭い目で見据えた。しかし、漣はククッと低く笑い、躊躇なく伊吹に近づくと、彼女の華奢な肩を背後からガシリと抱きすくめるようにして、耳元で囁いた。

 

「あはは、拒否権なんて最初から無いんだよ、可愛い野良猫ちゃん。俺の目の届く場所で、しっかり飼い慣らされてもらうよ」

 

「っ……! あんた……!」

 

伊吹は顔を青ざめさせ、抵抗しようとしたが、漣の強靭な肉体スペックによるホールドからは指一本動かすことができなかった。周囲の長谷部や松下は、漣のいつもの強引かつ圧倒的な振る舞いに苦笑しつつも、特に止める様子は見せない。こうして、漣、佐倉、伊吹、長谷部、松下を中心とした、奇妙な食料探索チームが鬱蒼とした森の奥へと進んでいくこととなった。

 

「それにしても、継国くんって本当に何でも知ってるよね。無人島の歩き方までプロみたい」 長谷部波瑠加が、大きなシダ植物の葉を避けながら感心したように言った。

 

漣は超高スペック脳により、植物の分布、土壌の湿度、風の流れから、どこにどのような食材が群生しているかを完全に把握していた。

 

「あはは、これくらい経済の動向を読むのに比べれば、ただの算数みたいなものさ。……ほら、愛里ちゃん、足元が泥濘んでいるから気をつけなよ」

 

「は、はい……っ! ありがとう、漣くん……!」 佐倉は漣に手を引かれ、完全に夢見心地の表情で、胸元を大きく弾ませながら森を歩いている。その様子を、伊吹は引きずり気味の足で歩きながら、忌々しそうに睨みつけていた。

 

「おい、そこの不機嫌な野良猫ちゃん。そんなに睨むと、せっかくの可愛い顔が台無しだぜ? ほら、ご褒美を見つけてあげたよ」

 

漣が太い蔓を跳ね上げると、目の前に広がったのは、圧倒的な生命力で自生している、見事な「バカンスの果実」――昨日、漣が密かに目を付けていた『バナナの木』の群生地だった。さらにその少し奥の開けた斜面には、黄金色の実をたっぷりと実らせた『トウモロコシの群生地』が、波打つように広がっていた。

 

「うわぁ……! すごい、松下さん、見て! トウモロコシがこんなにたくさん!」 長谷部が歓声をあげ、松下千秋もその光景に美しい目を丸くした。

 

「本当にすごいわね、継国くん。これだけの量があれば、クラス全員の数日分の主食と糖分を完全に賄えるわ。ポイントを使って高い食材を買う必要なんて、本当に一切なくなるじゃない」

 

「あはは、当然さ。俺の資本主義帝国において、無駄な出費(デフォルト)は万死に値するからねぇ。さあ、みんなで手分けして、この完熟したトウモロコシとバナナを収穫しようか。愛里ちゃん、君は俺の隣で、袋を広げて待ってておくれ」

 

「はいっ! 喜んで!」

 

佐倉は嬉しそうに駆け寄り、漣が手際よくもぎ取るトウモロコシを、自身の豊かな胸で抱え込むようにして袋へと収めていく。

 

実物を渡す肉体的な損失をゼロに抑えつつ、「未開拓の富の源泉(群生地)」という高価値な情報を独占的に与えることで、Bクラスを自らの手足(実動部隊)として都合よく稼働させる資本主義的なスキームへと改訂しています。

 

4.一之瀬帆波との遭遇

 

収穫を終えたDクラスの面々は、ずっしりと重くなった袋を抱え、群生地の痕跡を完全に秘匿した状態でベースキャンプへの帰路についていた。

そこから数十分ほど原生林を歩き、群生地から完全に離れた開けた獣道の合流点に差し掛かったその時、前方から複数の話し声が近づいてくるのが聞こえた。漣が琥珀色の瞳をそちらへ向けると、現れたのは鮮やかなピンク色の髪をなびかせた、1年Bクラスのリーダー――一之瀬帆波だった。彼女の背後には、神崎隆二をはじめとする数名のBクラス生徒が付き従っている。

 

「あれ……? もしかして、継国くん……?」

 

一之瀬は漣の姿を見つけると、驚いたようにその美しい瞳を輝かせ、親しみやすい笑顔を浮かべて歩み寄ってきた。

 

「やぁ、一之瀬ちゃん。こんなところで会うなんて、奇遇じゃないか。相変わらず最高にスタイルが良くて、目の保養になるねぇ」

 

漣はいつものヘラヘラとした笑みで、一之瀬の健康的な美貌と、制服のシャツを押し上げるような見事な双丘を堂々と視線で舐めるように見つめた。神崎が一瞬、不快そうに目を細めたが、一之瀬は特に気にする様子もなく苦笑した。

 

「もう、継国くんは相変わらずだなぁ。……でも、みんなですごい大荷物だね。そっちの袋からすごくいい香りがする気がするんだけど……」

 

一之瀬の視線が、長谷部や松下たちが抱える大きな麻袋へと注がれる。隙間から微かに覗く黄金色のトウモロコシと、完熟したバナナの存在に気づいたのか、彼女の背後の神崎がピクリと表情を変えた。

 

「あはは、ただの運と、俺のちょっとしたスペックの賜物さ。そっちのBクラスはどうだい? 堀北ちゃんの偵察によると、一糸乱れぬ団結力で、素晴らしいキャンプ生活を送っているらしいじゃない」

 

漣が探るように言うと、一之瀬はふふっと誇らしげに微笑んだ。

 

「うん! みんなすごく頑張ってくれてて、水場も確保できたし、今のところは順調だよ。ただ、やっぱり食料のバリエーションには少し困ってたところで……。継国くん、もしよかったら、少し情報交換をしない? 私たちが見つけた果物のスポットの場所を教えるから、その大収穫のヒントを少し共有してもらえると嬉しいんだけど……」

 

一之瀬の提案は、極めて真っ当な「等価交換」だった。しかし、漣はククッと喉を鳴らし、サングラスの奥の目を悪戯っぽく細めた。

ここで実物のトウモロコシやバナナを分け与えるのは、Dクラスの貴重な現物資産をすり減らすことになる。それに、すでに収穫された現物をただ貰うよりも、「まだ誰も手を付けていない、無限の食料源泉」という特権的な利権を与えられた方が、人間はより深い恩義を感じるものだ。

 

漣の「投資脳」が弾き出したのは、現物を一切減らさずに、相手を完璧な信者へと仕立て上げるより狡猾な分配だった。

 

「いいよ、一之瀬ちゃん。交換なんてケチなことは言わないさ。この袋の中身は、これから洞窟の連中を黙らせるための現物資産だから渡せないけれど……代わりに、君たちBクラスに、この最高級のトウモロコシとバナナがザクザク実っている『秘密の群生地』の正確な座標とルートを、今ここで『無償』で教えてあげるよ」

 

「え……っ!? 場所を……!? しかも無償で……!? 本当にいいの、継国くん?」

 

一之瀬だけでなく、背後にいた神崎や、Dクラスの松下たちまでもが驚愕の声を上げた。

実物を分け与えるのではなく、その富を生み出す源泉の所在を丸ごと明け渡す。それは一見、現物を渡される以上の破格の「善意」に見えて、その実、汗を流して収穫する労働(リスク)をすべてBクラスへと押し付けつつ、決定的なアドバンテージを握る高等戦術だった。

 

漣はヘラヘラとした態度を崩さないまま、一歩一之瀬に近づき、彼女の耳元に顔を寄せた。

 

「あはは、本当さ。一学期の体育館での須藤の暴行疑惑事件、あるいは愛里ちゃんのストーカー事件のとき、君は俺たちのために、リスクを恐れずに証言者探しやポイントの融通に協力してくれただろう? 俺はね、受けた『恩』は必ず何倍もの利息をつけて返す主義なんだよ。この価値ある情報資産は、その時の君の善性に対する、俺からのちょっとした『配当金(ギフト)』さ。他のクラスには、絶対に内緒だよ?」

 

一之瀬の顔が、漣の至近距離での囁きと、そのあまりにも真っ直ぐな「恩返し」の言葉に、ポッと赤く染まった。

 

「継国くん……。ありがとう。貴方がそんなに義理堅くて、私たちのことを考えてくれる人だなんて、私、ちょっと誤解してたかもしれない。本当に、本当に助かるよ……!」

 

一之瀬は心底からの感謝と感動の笑顔を浮かべ、漣の手を両手でギュッと握りしめた。その柔らかく温かい手の感触を楽しみながら、漣は内心で冷酷な計算を完了していた。

 

(あはは、本当にチョロくて可愛いねぇ、一之瀬ちゃん。現物を毟られることもなく、ただの『言葉(情報)』だけで、Bクラスは俺に対して生涯頭が上がらないほどの『精神的債務(ローン)』を背負ったわけだ。それに、あそこはまだ結構な量が残っているからね。君たちがこれからあそこに赴き、汗水垂らし、泥に塗れて食料を収穫するたびに――君たちは俺の慈悲深さを思い出し、その脳髄に深く感謝の念を刻み込み続けることになる)

 

漣の超高スペック脳にとって、一度きりの現物を渡すよりも、相手に収穫の労働を行わせることで「継続的な感謝の永久機関」を構築する方が、はるかに利回りの良い「投資」だった。この恩義という名の目に見えない鎖が、今後の試験や学園生活で、一之瀬帆波という極上の駒をどれほど完璧に縛り付けるか、漣はサングラスの奥の目を怪しく細め、ククッと不敵に喉を鳴らすのだった。

 

5.調伏の序曲

 

Bクラスとの情報交換を終え、彼らと別れて再びDクラスのベースキャンプへの帰路につく頃には、太陽はすでに南の空高くへと昇り、原生林の湿度は不快なほどに上昇していた。

 

「あー、暑い……。もう歩けないわよ、最悪」

 

伊吹澪は、額から大量の汗を流し、息を切らせながら、ついに大木の根元にペタンと座り込んでしまった。彼女の細い足首に巻かれた包帯からは、無理に歩いたことで微かに血が滲んでいる。

 

「伊吹さん、大丈夫? やっぱり無理に連れてくるべきじゃなかったんじゃ……」 松下千秋が気遣わしげに声をかけるが、伊吹は「うるさい、触らないで!」と、頑なに周囲を拒絶した。その瞳には、肉体的な苦痛だけでなく、自分のスパイ活動が漣に完全に看破されているという圧倒的な敗北感と、龍園の恐怖支配との間で板挟みになっている、深い孤独と焦燥が剥き出しになっていた。

 

漣は、長谷部や松下たちに「お前たちは先にトウモロコシを洞窟へ運んでおくれ。俺がこの野良猫ちゃんをゆっくり送り届けるからさ」と指示を出した。女子たちは漣の圧倒的な統率力に従い、「分かったわ、気をつけてね」と言い残して、足早に森を抜けていった。

 

静まり返った森の奥、残されたのは漣、佐倉、そして座り込む伊吹の三人だけとなった。

 

「さあ、伊吹ちゃん。二人きり――いや、愛里ちゃんも含めて三人きりになったねぇ」

 

漣はヘラヘラとした薄笑いを浮かべたまま、伊吹の前にゆっくりと膝をついた。伊吹はビクッと身体を震わせ、威嚇する猫のように鋭く、敵意に満ちた目を向けた。

 

「な、何よ……。殺すなら殺せばいいでしょ。どうせ私はCクラスを追われて、あんたたちにも疑われてる、行き場のないゴミなんだから……っ」

 

「あはは! 誰も君を殺したりしないさ。そんなもったいないこと、この俺がするはずがないだろう?」

 

漣は優しく、しかし伊吹が拒絶する隙を一切与えない絶対的な速度で、彼女の痛む足首を大きな手でそっと包み込んだ。

 

「な……っ!? 触るなって言ってるでしょ……!」

 

伊吹は激昂し、漣の顔面に向けて右拳を突き出したが、漣はその拳を、まるで赤子の手を掴むかのように、電光石火の速さでパシッと受け止めた。そのまま彼女の手首を優しく握り、自身の頬へと寄せながら、琥珀色の瞳で彼女の心の奥底を覗き込んだ。

 

「いいかい、伊吹ちゃん。お前が龍園の暴力と恐怖による支配に心底から怯え、反発しながらも、自分の居場所を守るために必死にスパイを演じていることくらい、俺のスペックなら最初から全てお見通しなんだよ」

 

漣の声は、驚くほど低く、そして甘美な響きを帯びていた。

 

「龍園はお前をただの『使い捨ての捨て駒』としてしか見ていない。失敗すれば暴力で踏みつけ、成功しても何の承認も与えない。そんな冷たい檻の中で、お前はずっと一人で震えていたんだろう?」

 

その言葉は伊吹の核心を痛烈に抉った。伊吹の瞳が激しく揺れ動き、一瞬だけ圧倒的な「孤独」が顔を覗かせる。しかし、彼女のプライドと龍園への恐怖、そして何より漣という正体不明の怪物に対する警戒心が、即座に彼女の心を頑なに閉ざさせた。

 

「っ……、うるさい……! あんたに何が分かるっていうのよ……! したり顔で人の心の中を覗き見するような真似、虫唾が走るわ……!」

 

伊吹はハァハァと荒い息を吐きながら、漣の手を全力で振り払おうともがいた。だが、漣はビクともしない。彼は独自の医術知識に基づき、伊吹の足首のツボを的確に刺激しながら、有無を言わせぬ手足さばきで包帯を巻き直していく。施術によって痛みが劇的に和らいでいくのを実感し、伊吹はさらに屈辱感に歯噛みした。身体が楽になることすら、この男の計算通りに動かされているようで忌々しかった。

 

「お前みたいな気の強い、だけど中身は最高に脆くて可愛い野良猫ちゃんはね、龍園みたいな安っぽい暴力じゃなく、俺の圧倒的な『資本』と『力』によって、骨の髄まで愛され、存在を定義されるべきなんだよ。……これからは、俺が新しいお前の『飼い主』になってあげる。龍園の仕掛けを全て俺に流す二重スパイ、いや、俺だけの忠実な『猟犬(コマ)』になりなよ。そうすれば、お前に誰も侵せない絶対の安全と、最高の居場所を保証してあげるぜ?」

 

漣はそう言うと、手首を掴んでいた力を緩め、代わりに伊吹の唇を、自身の親指で挑発的に、愛おしげになぞった。

 

「ふざけないで……っ!!」

 

伊吹は激しい拒絶の声を上げ、漣の親指を強烈に撥ね退けた。その顔は怒りと、踏み込まれたことへの恐怖で真っ赤に染まっていたが、そこには「絆される」気配など微塵もなかった。彼女の瞳には、なおもギラギラとした敵意の炎が燃え盛っている。

 

「誰がアンタなんかになびくもんですか……! 私は誰の犬にもならない! 龍園も、アンタも……絶対に、思い通りになんてなってあげないんだから……っ!」

 

「あはは、最高だねぇ。それくらい噛みついてくれないと、調教しがいがないというものさ」

 

漣は伊吹の激しい反発を心地よさそうに受け止めると、ヘラヘラとした笑みに戻り、まだ自力で立てない伊吹の華奢な身体を、問答無用で軽々と横抱き(お姫様抱っこ)で抱え上げた。

 

「ひゃ、ゃ……っ!? ちょっと、何すんのよ、降ろしなさいってば……っ! ぶっ殺すよ!?」

 

伊吹は全力で暴れ、漣の胸元を拳で何度も叩いたが、漣はそれをそよ風ほどにも気に留めず、悠然と歩き出す。伊吹は悔しさに唇を噛み締め、助けを求めるように周囲を見回したが、広がるのは鬱蒼とした無人島の原生林だけだった。男の胸の温もりと圧倒的な腕力に囚われながらも、彼女は心の中で「絶対にこの男の裏をかいてやる」と、冷酷な復讐の炎を燃やし続けていた。

 

その様子を、隣で歩く佐倉愛里は、激しい嫉妬の炎を瞳に宿しながらも見つめていた。未だに牙を剥き続ける伊吹と、それを余裕でハメ殺そうとしている漣の「悪魔的な美しさ」に、佐倉はますます身体を熱くさせ、そのシャツの裾をさらに強く握りしめるのだった。

 

無人島サバイバル試験は三日目にして、継国漣という絶対的な捕食者の手によって、上位クラスの密約すらも巻き込みながら、完全に彼の描くシナリオ通りへと調教され始めていた。

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