1.四日目の朝
高度育成高等学校が課した無人島サバイバル特別試験は、全行程の折り返し地点となる四日目の朝を迎えていた。
巨大な岩壁に守られた1年Dクラスのベースキャンプ――通称「洞窟」の内部には、依然として外のジャングルの熱気から完全に隔離された、涼しい風が心地よく吹き抜けている。
他クラスであれば、固い地面で寝起きを繰り返す過酷な生活環境や、手持ちの食料の枯渇によって生徒たちの精神が限界まで磨耗し、とっくに内部分裂の一歩手前まで追い込まれている頃合いだろう。だが、我が1年Dクラスの様相は、それとは全く異なっていた。
「おーい! みんな、朝飯の準備ができたぞ! 今日のメインは、昨日俺たちが川の奥で見つけた野生のタロイモと、脂の乗った大ぶりの川魚の香草焼きだ!」
池寛治が元気よく声を張り上げると、洞窟内にいた生徒たちが一斉に歓声を上げた。朝の微光が差し込む中、起き上がったDクラスの面々は、重い身体を引きずるような他クラスの生徒とは違い、どこか活気に満ちあふれている。
「うわあ、今日も豪華だね! 池くん、山内くん、本当にすごいよ!」
「いやいや、これ全部、継国が教えてくれた知識と、あいつが最初に見つけてくれたルートのおかげだしな!」
池は頭を掻きながら、洞窟の入り口近くでヘラヘラとした薄笑いを浮かべている男――継国漣(つぐくにれん)へと視線を向けた。
Dクラスがこの過酷な無人島において、他クラスを圧倒するほどの強固な団結力を保てている理由。それはひとえに、主人公である継国漣がもたらす豊富な食料資源の調達ルートと、前世の記憶や超越的な脳から弾き出される圧倒的なサバイバル知識のおかげだった。
初日のインフラ投資によって衛生環境を十全に保ち、漣の指示通りに徹底した役割分担を行うことで、Dクラスは「飢え」や「不潔」というサバイバルにおける最大の敵から完全に解放されていたのである。
「あはは! みんなが喜んでくれて何よりだよ。食欲を満たすことは、この極限状態における精神的安定に最も直結するからねぇ。しっかり食べて、今日も一日頑張ろうじゃないか」
漣はサングラスの奥にある琥珀色の瞳を怪しく光らせ、喉をククッと鳴らした。そのすぐ隣には、いつものように彼のシャツの裾を遠慮がちに掴み、潤んだ瞳で見つめてくる佐倉愛里がぴったりと寄り添っている。
「うん……。継国くんの言う通り、ご飯が美味しいから、私、全然辛くないよ……」
佐倉は豊満な胸を漣の腕に軽く押し付けながら、愛おしげに微笑んだ。
その光景を少し離れた場所から見つめていた堀北鈴音は、小さくため息をつきながら、隣に立つ死んだ魚のような目をした綾小路清隆に声をかけた。
「……相変わらず、クラスの掌握術は見事なものね。実質的なリーダーが誰なのか、これではっきり分からなくなるわ」
「まあ、池や山内が自発的に動いて成果を出していると思わせることで、本人は裏に隠れやすいからな。あいつにとっては都合がいいんだろう」
綾小路は平然と答えるが、その視線はクラスの輪から外れたある一点へと向けられていた。
そこには、足首に包帯を巻いたまま、不機嫌そうに岩壁に寄りかかっているCクラスからの迷い人――伊吹澪の姿があった。
伊吹は、クラスメイトたちが和気あいあいと食事を楽しんでいる様子を、忌々しげに睨みつけている。彼女の瞳の奥には、Dクラスの信じられないほどの「団結」に対する焦りと、自身の飼い主である龍園翔から下された『ある命令』への重圧が渦巻いていた。
(チッ……何なんだよ、このクラスは。もっと飢えて、ギスギスして、内部分裂を起こしているはずだろ……。それなのに、あのサングラスの男が一枚噛んでいるだけで、信じられないくらい安定してやがる。これじゃあ、私の役目が果たせないじゃないか……)
伊吹は胸中で激しく悪態をつく。
龍園から彼女に与えられた真の任務は、Dクラスのベースキャンプに潜入し、彼らのリーダーに関する情報を奪うこと。そして可能であれば、最も脆く、かつ爆発しやすい「男女間の不信感」を煽り、クラスの関係性を内部から粉砕する妨害工作を行うことだった。
しかし、現在のDクラスは漣の絶対的な資本と力、そして彼がもたらす豊富な食料によって、他クラスが羨むほどの鉄壁の絆で結ばれている。普通に揺さぶりをかける程度では、この強固な団結はビクともしない。
やるなら、誰もが言い逃れのできない、決定的かつ最も最悪な形で「不信の種」を蒔くしかなかった。
伊吹は、視線を女子のテントの方向へと向けた。
(……やるしかない。あの男の化けの皮を剥がすためにも、このぬるま湯の楽園を地獄に変えてやる)
彼女の唇が、冷酷に歪んだ。
2.潜行する影
朝食が終わり、生徒たちがそれぞれの役割に応じて洞窟の外へと出かけていく時間帯。
漣は、池や須藤たちを連れて、さらなる食料資源の調達と他クラスの動向を探るためのハンティングへと出発していった。拠点内には、最低限の維持要員や見張りしか残っていない。
伊吹澪にとって、これ以上の好機はなかった。
「……ちょっと、お腹痛いから、奥のトイレに行ってくる」
近くにいた櫛田桔梗に適当な嘘を告げると、伊吹は足を引きずる演技を交えながら、洞窟の奥へと歩き出した。
彼女の目的地は、もちろんトイレではない。女子生徒たちの私物や着替えが集められている「女子専用テント」の周辺だった。
周囲に見張りの生徒がいないことを五感で確認する。現在のDクラスは、あまりの環境の良さに完全に油断しきっており、拠点内の警戒は驚くほど緩んでいた。
伊吹は音もなく女子テントのファスナーを開け、内部へと滑り込んだ。
テントの中には、数日分の生活で少し乱れた女子たちのリュックや荷物が並んでいる。その中から、彼女が標的に定めたのは、Dクラスの女子のリーダー格であり、最もプライドが高く、かつ感情的な少女――軽井沢恵の荷物だった。
「……あった」
軽井沢のネームタグがついたバッグを開け、伊吹は迷うことなくその奥底を探る。そして、彼女の手が掴み出したのは、洗濯用に小分けにされていた、軽井沢の私物である「インナー(下着)」だった。
それは、高校生の少女としての生々しい実感を伴った物証。
これを男子の荷物に紛れ込ませ、それを女子たちに「発見」させる。それだけで、これまでどれほど強固に築かれてきた信頼関係だろうが、一瞬にして「性的不信感」という名のドロドロとした泥沼へと叩き落とすことができる。
だが、伊吹はここで、龍園の指示以上の『独自の判断』を付け加えることにした。
通常の計画であれば、池や山内といった、いかにもやりそうな「凡愚(バカ)」のリュックに入れるのがセオリーだろう。しかし、伊吹の脳裏に浮かんだのは、いつもヘラヘラと笑いながら自分を「可愛い野良猫ちゃん」などと呼び、圧倒的な力で組み伏せてきた、あの忌々しい男――継国漣の顔だった。
(池や山内に擦り付けたところで、あのサングラスの男が口を挟めば、簡単に揉み消されるか、ロジックで解決されちまうかもしれない。……だけど、もし『犯人』が、そのクラスの絶対的な救世主であるはずの、継国漣本人だったらどうなる?)
想像するだけで、伊吹は全身にゾクゾクとした歓喜の震えが走るのを感じた。
いくら食料を持ってくる有能な男だろうが、同じクラスの女子の下着を盗むような「変態」だと分かれば、女子たちの態度は一変する。特にプライドの高い軽井沢や、貞操観念の強い女子たちは、二度とあの男を信用しなくなるだろう。絶対的なカリスマの失脚。それこそが、Dクラスを最も確実に、再起不能なレベルで崩壊させる一撃になるはずだ。
伊吹は軽井沢のパンツを小さく折りたたむと、自身のポケットへとねじ込んだ。
指示通り、Dクラスのリーダーシップを揺るがし、かつ龍園が求める「Dクラスのリーダーの情報を奪う」ために、あのサングラス男の反応を引き出す舞台を整える。
伊吹は女子テントを後にし、今度は男子の荷物置き場へと向かう。
男子のエリアには、数日間のサバイバルで泥や汗に汚れたリュックが無造作に並んでいる。その中で、一際異彩を放つ、高級ブランドのタグがついた特製の黒いリュック。それこそが、継国漣の私物だった。
伊吹は周囲の気配を極限まで警戒しながら、漣のリュックへと近づく。
「……ざまあみろ、天才。あんたのその余裕そうな面が、絶望に染まる瞬間が楽しみだよ」
そう呟きながら、ポケットのファスナーを静かに開け、中へと軽井沢のパンツを滑り込ませた。
カシャリ、とファスナーを元に戻す。
工作は完璧だった。誰にも見られていない。証拠はすべて、あの男のリュックの中に収まった。伊吹は何事もなかったかのように、再び足を少し引きずりながら、洞窟の中央へと戻っていった。
彼女の仕掛けた時限爆弾の針は、すでに確実に動き出していた。
3.凍りつく空間
夕刻、ジャングルでのハンティングや周辺探索を終えた漣たちが、大量の成果を抱えてベースキャンプへと帰還した。
「みんな、戻ったよ。今日はかなり大きめの野鳥が獲れたから、夜はジューシーなローストチキン風にしようじゃないか」
漣がヘラヘラと笑いながら、調達した物資を広げると、待機していた女子たちが歓声をあげる。
しかし、その和やかな空気は、洞窟の奥から響き渡った一瞬の『悲鳴』によって、完全に凍りつくこととなった。
「――いやあああああああッッ!?!? ない、無いんだけど!!」
声の主は、軽井沢恵だった。
彼女は自身のテントから飛び出してくると、顔を真っ青にさせ、激しい怒りと羞恥に身体を震わせていた。
「ちょっと! みんな聞いて!! 私の、私のリュックの中から、下着が……パンツが無くなってるんだけど!!」
「え、ええっ!? 軽井沢さん、それ本当なの!?」
近くにいた篠原さつきが、驚愕して声をあげる。
「本当よ!! 洗濯して、ちゃんとポーチの奥に入れておいたのに、綺麗に無くなってるの! 誰かが勝手に私のバッグを開けて、盗んだに決まってるわ!!」
軽井沢の怒号が洞窟内に響き渡り、クラスの全生徒の視線が集まる。一瞬にして、ベースキャンプ内の空気が重く、冷たいものへと変貌していった。
「嘘だろ……? 下着が盗まれたって、じゃあ、この中に『泥棒』がいるってことかよ……」
男子の生徒たちが、互いに顔を見合わせながら、気まずそうに囁き合う。
「最低……。いくらお風呂に入れないからって、女子のそんなもの盗むなんて、人として終わってるわ」
「男子の誰かでしょ!? 誰がやったのよ! 正直に言いなさいよ!!」
女子生徒たちの視線が、一角に集まっていた男子一同へと、一斉に極めて冷淡で、拒絶に満ちたものへと変わっていく。
「ま、待ってくれよ! 俺たち、そんなことするわけないだろ!」
池が慌てて手を振るが、女子たちの疑心の目は消えない。このままでは、せっかく築き上げてきたクラスの団結が、一瞬にして瓦解してしまう。
その危機感を誰よりも早く察知した平田洋介が、深刻な表情で一歩前へと出た。
「みんな、落ち着いて。軽井沢さんも、まずは冷静になろう。何かの見間違いや、荷物の奥に紛れ込んでいる可能性はないかな?」
「無いわよ!! 平田くん、私を疑うの!? 何回も探したのよ! 誰か男子が、私のテントに忍び込んで盗んだのよ! お願いだから、今すぐ全員の『ボディチェック』と、荷物の検査をして!!」
軽井沢は涙目を浮かべながら、平田に猛烈に詰め寄った。
「ボディチェックと、荷物検査か……。しかし、それはプライバシーの観点からも――」
平田が躊躇していると、横から腕を組んだ堀北鈴音は冷徹な声で言葉を挟んだ。
「いいえ、平田くん。軽井沢さんの言う通りにすべきだわ。このまま全員が疑心暗鬼になったまま試験を続ける方が、クラスにとって致命的な不利益になる。身の潔白を証明するためにも、今ここで全員の荷物と身体の検査を行うのが、最も合理的よ」
堀北の冷厳な言葉に、女子たちも「そうだ!」「やってよ!」と賛同の声をあげる。男子たちも、ここで拒否すれば「自分が犯人だ」と認めるようなものだったため、不承不承ながらも同意せざるを得なかった。
「……分かった。それじゃあ、男子の荷物検査は僕が責任を持って行うよ。女子の検査は、堀北さんと櫛田さんにお願いできるかな」
平田は重い口調でそう言い、ボディチェックと荷物検査の開始を宣言した。
その様子を、洞窟の隅で見ていた伊吹澪は、心の中で狂喜乱舞していた。
(さあ、始まったぞ。全員の荷物検査だ。平田、早くあの黒いリュックを開けろよ。そこに、お前たちの崇拝する神様の『正体』が入ってるんだからな……!)
伊吹は、自身の勝利を確信し、冷ややかな視線で継国漣を凝視した。
4.天才の数理、あるいは反転する悪意
男子の荷物検査が始まった。平田洋介は苦渋の決断を下し、男子生徒たちの荷物を一つずつ丁寧に確認していった。
池のリュック、山内のリュック、須藤のリュック……。どれからも、それらしきものは見つからない。男子たちは自らの潔白が証明されるたびに、ホッとした表情で胸を撫で下ろしていく。
その検査の最中、当の継国漣はといえば、相変わらずサングラスを弄びながら、ヘラヘラとした余裕の笑みを浮かべたままでいた。その表情には、焦りも、動揺も、一ミリたりとも存在していなかった。
(ククッ……あはは! まさかこんな古典的な泥棒劇が、この極限の檻の中で繰り広げられるとはねぇ。龍園、お前の描く絵図は相変わらず安っぽくて面白いよ)
実は、漣の超高スペック脳は、伊吹が女子テントに入り込んだ瞬間から、その全ての挙動を看破していた。なぜなら、彼がベースキャンプ周辺に独自に張り巡らせた「感知の糸」――物理的な罠や、空間の違和感を察知する鋭敏な五感――が、伊吹の隠密行動を完全に捉えていたからである。
さらに言えば、ハンティングから帰還し、自分のリュックに触れたその一瞬の重量バランスの変化、およびサイドポケットのファスナーの角度のズレから、漣は「中に何かが入れられたこと」を完全に把握していた。
(さてさて、お目当ての『果実』を少し確認しておこうじゃないか)
平田が山内の荷物を調べている隙を突き、漣は周囲の視線を独自の催眠誘導的な挙動で一瞬だけ逸らした。そして、自身の黒いリュックのサイドポケットに極めて自然に手を滑り込ませる。
指先に触れたのは、薄手で、滑らかな布地の質感。小さく折りたたまれた、紛れもない軽井沢恵のインナーだった。
(おやおや……これはこれは。僕を直撃しにきたわけだねぇ。気の強い野良猫ちゃんにしては、随分と大胆なプレゼントじゃないか)
漣の琥珀色の瞳が、サングラスの奥で肉食獣のように妖しくギラリと輝いた。
普通ならここでパニックに陥るか、どうやって隠すか、あるいは他人のバッグに移すかを必死に考える場面だ。しかし、世界の経済すら手玉に取る精神を持つ彼にとって、この程度の窮地は「娯楽」の範疇にすら及ばない。
(これをここで平田に見せて、クラスを大爆発させるのも一興だけど……。いやいや、それだとスマートじゃない。僕の荷物検査の時に、これが平田の手に渡れば面倒だし、何よりこの無人島の平穏をもう少し楽しみたいからねぇ)
漣はマジックの高等技術――プロの暗殺術すら応用した超絶的な手掌の操作(パーム)により、そのインナーを完全に死角へと隠蔽した。そして、自らの制服のズボンのポケットの奥深くへと、音もなく滑り込ませた。ポケットの膨らみすら、布地のシワを計算して完璧に偽装する。
「継国くん、申し訳ないけど、君の荷物も見せてもらっていいかい?」
平田が、ついに漣の前へとやってきた。その表情には、クラスの「救世主」である漣を疑わなければならないことへの申し訳なさが滲み出ている。
「あはは! もちろんさ、平田くん。クラスの秩序を守るためだ、いくらでも調べておくれよ」
漣は両手を軽く広げ、快くリュックを差し出した。
平田は慎重に、しかし手際よく漣の黒いリュックを開け、メインコンパートメントからサイドポケットに至るまで、徹底的に中身を確認していく。だが、当然そこからは何も出てこない。
その様子を、洞窟の隅から凝視していた伊吹澪は、今か今かとその瞬間を待っていたが、何も出てこないリュックを見て目を見開いた。
(な……何で!? 確かに、あのサイドポケットに入れたはずだ……! 私の工作は完璧だった! 誰も見ていなかったはずなのに、どうして……!?)
「うん、問題ないね。継国くんの荷物からは何も出なかったよ」
平田の口から告げられた言葉に、伊吹は愕然とする。
(そうだ、荷物から出なかったのなら、まだ手元に持っているか、衣服の中に隠しているはず……! 平田、もっとしっかり体を調べろ! そいつの衣服の中だ!)
「よし、これで男子の『荷物検査』は全員分終わったね。次は、衣服の上のボディチェックをさせてもらうよ。これも形式的なものだから、みんな協力してほしい」
平田はそう言って、男子生徒たちの一番端から、衣服の上から軽く触れるボディーチェックを開始した。
平田のチェックが順番に進み、再び継国漣の番が回ってくる。
「それじゃあ、継国くん。失礼するよ」
「どうぞどうぞ。徹底的にやってくれて構わないからねぇ」
漣はサングラスの位置を人差し指で直しながら、ヘラヘラと笑い、平田に対して完全に無防備な姿勢を取った。
平田の手が、漣のシャツの上から、そしてズボンの周囲へと伸びる。
そして、平田の手が漣のズボンのポケットに触れたその瞬間――平田の指先が、明らかに不自然に折りたたまれた、柔らかい布地の感触を捉えた。
平田洋介は極めて聡い男だった。
その布地の独特な薄さと滑らかさ、そしてこの状況下において、なぜ継国漣がそれを衣服のポケットに隠し持っているのか。その意味を、平田の明晰な頭脳が一瞬にして理解した。
(――これは、軽井沢さんの……!?)
平田の心臓が激しく跳ね上がった。
もしここで「これ」を引きずり出せばどうなるか。それは、現在のDクラスを食料と知識の面で完全に支えている、絶対的な大黒柱である継国漣が「下着泥棒」の犯人として、クラス全員の前に晒し上げられることを意味する。
たとえ目の前の男が犯人であろうが、あるいは何者かに嵌められた結果であろうが、それをこの場で暴くことは、Dクラスにとって「完全な破滅」を招く。女子たちの信頼は地に落ち、男子との間に修復不可能な亀裂が走り、クラスは明日からの生存すら危うくなるだろう。平田が何よりも恐れているのは、過去のトラウマでもある「クラスの崩壊」そのものだった。
平田の脳内で、聡明な計算と、クラスを守るための絶対的な防衛本能が交錯する。
漣はといえば、平田にポケットの中身を察知されながらも、サングラスの奥にある琥珀色の瞳を怪しく光らせ、ただククッと低く喉を鳴らしてヘラヘラと笑っているだけだった。その余裕に満ちた態度が、平田に「僕を暴けばクラスがどうなるか、分かっているね?」という無言のメッセージを伝えていた。
平田は一瞬だけ躊躇し、そして覚悟を決めた。
彼は、漣のポケットの中身に気づきながらも、その手を何事もなかったかのようにすっと離した。
平田は大きく深呼吸をし、クラス全員に向かって、一点の曇りもない声を張り上げた。
「……うん、継国くんのボディチェックも完了したよ。――何事も、なかった。誰も、不審なものは持っていないよ」
その言葉は、平田洋介が「クラスの崩壊を防ぐ」という目的のために、あまりの聡さゆえに真実を闇に葬ることを選択した瞬間だった。
「な……ッ!!」
洞窟の奥で、伊吹澪は完全に言葉を失い、激しい目眩を覚えた。
(平田……お前、何を言ってるんだ!? 何事もなかっただと!? 嘘だ……そんなはずはない! あの男が隠しているに決まっているのに、なぜ見逃した……!?)
伊吹の完璧だったはずの計画は、継国漣という怪物の圧倒的な人心掌握と、平田のあまりにも聡明で、かつ歪んだ平和主義によって、完全に無力化されたのである。
「これで男子は全員、完全に白だね」
平田は、どこか疲れ切った表情でそう締めくくった。女子側の検査を担当していた堀北と櫛田も、首を横に振る。
「女子側も、誰も下着らしきものは持っていなかったわ。荷物の中にもそれらしい形跡はなかった」
堀北の報告により、場は奇妙な静寂に包まれた。男子の荷物からも、身体からも何も出ず、女子側からも出ない。
「じゃあ……じゃあ、私のパンツはどこに行ったのよ!? 誰かが盗んだんじゃないなら、消えたって言うの!?」
軽井沢恵が、納得のいかない様子でキリキリと声を荒げる。その表情には、まだ男子に対する不信感が色濃く残っていた。
このままでは、犯人が見つからないという「不気味な疑心暗鬼」がクラスに澱のように残り続ける。それすらも計算の内である漣は、ヘラヘラと笑いながら一歩前へと出た。
「あはは! 軽井沢ちゃん、まあ落ち着きなよ。これだけ探してどこからも出ないってことは、きっと僕たちの思い込みや、原始的な自然環境がもたらした『悪戯』なんじゃないかなぁ? 例えばほら、風が強かったから、干していた時にジャングルの奥へ飛ばされてしまったとかね」
「そんなわけないでしょ!? ちゃんとポーチに――」
「いやいや、無人島の突風を甘く見てはいけないよ。それに、僕たちがこれ以上疑い合っても、美味しいローストチキンが冷めるだけさ。さあ、せっかくの四日目の夜だ、みんなで楽しく食事をしようじゃないか!」
漣のその軽快で圧倒的なカリスマ性に引きずられるように、池や山内たちが「そうだそうだ!」「腹減ったぜ!」と調子を合わせる。女子たちも、これ以上証拠がない以上、追及を続けることはできず、不満を残しながらもそれぞれの席へと戻っていった。
こうして、伊吹が仕掛けた渾身の爆弾は、爆発の光を放つことすら許されず、不発弾として処理されたのである。
5.闇夜の密約
その夜。クラスの連中がローストチキンの美味さに舌鼓を打ち、宴の喧騒が洞窟内に響き渡る中、平田洋介は一人、複雑な表情で洞窟の外の闇を見つめていた。
その隣に、足音もなく、ヘラヘラとした薄笑いを浮かべた継国漣が近づいてくる。
「やあ、平田くん。さっきは見事な機転だったねぇ。君のおかげで、クラスの『仮初めの楽園』は守られたというわけだ」
「……継国くん。からかうのは辞めてくれ」
平田は苦渋に満ちた声を漏らし、漣を振り返った。その目は、目の前の男に対する深い警戒と、隠しきれない不信感で満ちていた。
「君があの時、ポケットに『それ』を持っていたのは確実だ。……気づかないわけがないよ。だけど、君がそんなリスクを冒してまで軽井沢さんの下着を盗む理由がないことも、僕には分かっている。……一体、何が起きていたんだ?」
漣はククッと低く喉を鳴らし、制服のポケットから、小さく折りたたまれた軽井沢のインナーを取り出した。月光に照らされたそれを、平田は息を呑んで見つめる。
「あはは! さすがは平田くん、本当に聡いねぇ。僕がわざわざ盗むわけがないだろう? 僕はね、もっと高級で、極上の『果実』しか興味がないのさ。これはね、僕の可愛い黒いリュックに、誰かが親切にも放り込んでおいてくれたメッセージさ」
「誰かが……? 誰がそんなことを……」
「そんなの、このクラスに紛れ込んでいる『野良猫ちゃん』しかいないじゃないか」
漣の言葉に、平田の脳裏に一つの確信が浮かび上がる。
「伊吹……さん……? 彼女が、クラスを壊すためにやったというのか……」
「そういうことさ。龍園から与えられたスパイとしての仕事が、Dクラスの団結の前に一向に進まないからねぇ。焦った彼女は、最も安易で爆発力のある『性的不信』を利用しようとした。……だけど、僕をターゲットに選んだのが、彼女の最大の不運であり、数理の誤りだったね」
漣は手の中でインナーを器用に弄びながら、平田の胸元へとそれをそっと押し付けた。
「ほら、これは返すよ。軽井沢ちゃんと君は、『付き合っている』んだろう? 後で君が、誰にも見つからないように、彼女の荷物の奥にでもこっそり戻しておくといいさ」
「……軽井沢さんには、なんて説明すればいいんだ?」
「簡単さ。『探してみたら、やっぱり風でテントの隙間から飛ばされて、外の草むらに落ちていたみたいだよ』とでも言えばいい。彼女は君を信頼しているんだ、その言葉を疑いはしないだろう?」
平田は受け取ったインナーをきつく握りしめ、小さくため息をついた。漣の言う通りにするしか、この事態を穏便に収める方法はない。
「……分かった。そうさせてもらうよ。だけど、継国くん。伊吹さんが本当にスパイで、クラスを壊そうとした犯人なら、なぜそれをみんなに暴露しなかったんだ? 彼女を今すぐクラスから『追放』すべきじゃないのか? 彼女がここにいれば、また同じようなことが起きるかもしれない」
平田の当然の疑問に対し、漣は高級サングラスを指先でクイと上げ、その奥の琥珀色の瞳を、底知れない残虐性と愉悦でギラつかせた。
「あはは! 追放? ノンノン、そんな勿体無いことをするわけがないじゃないか、平田くん。彼女をここで追い出してしまったら、龍園への『情報のパイプ』が途切れてしまうだろう?」
「情報の……パイプ?」
「そうさ。彼女にはね、まだ重要な仕事が残っているんだよ。僕の檻の中で、僕の都合の良い情報だけを龍園に流すという、極上の『二重スパイ』としての役割がね。彼女がここにいてくれるからこそ、僕はCクラスの動きを完璧にコントロールできるのさ」
漣のその言葉に、平田は全身に鳥肌が立つのを感じた。
目の前の男は、伊吹がスパイであることを最初から全て知り尽くしていながら、彼女の工作すらも自分の利益のために「泳がせて」いたのだ。
「それとも何だい? 平田くん。君が伊吹ちゃんの代わりに、僕の忠実な『猟犬』として、他クラスを破滅させるための泥仕事を引き受けてくれるのかい? もしそうなら、今すぐ彼女をジャングルの奥に叩き出しても構わないけれど?」
漣は顔を平田の目の前まで近づけ、喉をククッと鳴らして囁いた。その圧倒的なプレッシャーの前に、平田は一歩も動けず、ただただ圧倒されるしかなかった。
「……いや。僕には、そんなことはできない」
「あはは! 賢い選択だ。大人しく僕の敷いたレールの上で、クラスの『王様』としての平穏を楽しんでおくれよ」
漣は平田の肩をポンと叩くと、軽快な足取りで、再び宴の喧騒の中へと戻っていった。
一人残された平田洋介は、手の中の下着を見つめながら、己の無力さと、継国漣という「本物の怪物」の恐ろしさに、静かに身体を震わせるしかなかった。
6.深淵の熱帯
平田との密談を終え、宴の喧騒が深夜の静寂へと完全に沈んだ頃。継国漣はベースキャンプのさらに奥、人目が一切届かない岩壁の死角へと、音もなく足を運んでいた。
彼の卓越した五感と「超高スペック脳」は、夕方の荷物検査の時点で、ある一つの異常な『数理の狂い』を完全に感知していた。
「……はぁ、はぁ……っ……」
暗がりの地面に浅い毛布を敷き、壁に身を預けるようにして激しく息を荒げている少女――堀北鈴音の姿があった。
彼女は夕方の検査の際、気丈にも女子側の指揮を執り、完璧なロジックでクラスの不信感を調停してみせた。だが、その白い肌は今や異様なほどに赤く火照り、額からは大粒の汗が絶え間なく流れ落ちている。
「おやおや、やっぱりねぇ。強がるのは君の美徳かもしれないけれど、自分の身体の数理すら計算できないのは、天才の僕から見ればただの『凡愚(バカ)』のやることさ」
漣がヘラヘラとした薄笑いを浮かべながら影から現れると、堀北は意識が朦朧とする中、 鋭い眼光で彼を睨みつけようとした。だが、その瞳は焦点が定まらず、激しく潤んでいる。
「つぐ、くに……くん……。何をしに……来たのよ……。私は、別に……何とも……」
「ノンノン、何ともないわけがないだろう? 君がここで倒れてリタイアすれば、Dクラスはリーダーを失い、僕の敷いた完璧な『楽園の数理』に狂いが生じてしまう。僕はね、この無人島サバイバルという最高のおままごとを、もっと特等席で楽しみたいのさ」
漣は有無を言わせぬ圧倒的なプレッシャーを放ちながら、堀北のすぐ目の前へと跪いた。プロの暗殺術すら応用したその無駄のない挙動のまま、彼は自身の冷たい手のひらを、彼女の熱く火照った額へと容赦なく押し当てた。
「ひゃうんっ……!?」
あまりの冷たさと不意の愛撫のような感触に、堀北の口から、およそ彼女らしくない可愛い悲鳴が漏れ出る。
「うわあ、これはひどい熱だねぇ。38度、いや39度近くまで跳ね上がっている。インフラ投資で衛生環境を整えていたとはいえ、慣れないジャングル探索の疲労と、クラスを背負おうとする無駄な重圧が、君の免疫システムを完全に破壊してしまったらしい。……さあ、ドクター漣の特製治療の時間だよ」
「くっ……、やめて……私なら、大丈夫よ……。明日になれば、こんな熱……」
堀北は必死に漣の手を振り払おうと、力のない腕を伸ばした。だが、漣はその手首を、有無を言わせぬ圧倒的な、しかし決して彼女の皮膚を傷つけない絶妙な力加減で優しく掴み取った。
「静かにしておくれよ、鈴音ちゃん。お前のそういうプライドが高くて、だけど中身は最高に脆くて可愛いところは嫌いじゃないけれどねぇ。今は僕の圧倒的な知識と力に、大人しく身を委ねるのが最も合理的な数理さ」
漣は独自の高度な医学知識に基づき、堀北の首筋や手首の動脈が通るポイントを、指先で的確に、しかし優しく刺激していった。同時に、あらかじめ用意していた冷たい湧き水で濡らした清潔な布を取り出すと、彼女のうなじや額、そして露わになった鎖骨のあたりまでを丁寧に拭い、効率的に体温を下げる処置を施していく。
「あ……、う、く……っ……」
漣の指先が触れるたび、その圧倒的な医術の技術によって、堀北の身体を支配していた激しい悪寒と苦痛が、嘘のように引いていくのが分かった。施術によって身体が劇的に楽になっていくのを実感し、堀北は激しい屈辱感と、それ以上の「抗えない圧倒的な安堵感」に包まれていく。
自身の全ての防壁を軽々と踏み越え、骨の髄まで自分の身体をコントロールしてくるこの目の前のサングラスの怪物に対し、堀北の冷徹な精神は、初めて完全な『敗北』を認めつつあった。
「よし、これでひとまずは危機を脱したよ。これを数時間おきに繰り返せば、明日の朝には通常の活動ができるレベルまで回復するさ」
漣は指先を離すと、サングラスを指先でクイと上げ、琥珀色の瞳を闇の中で妖しくギラリと輝かせた。
「さあ、明日からも僕のために、精一杯クラスの『表のリーダー』として踊っておくれよ、堀北ちゃん。あはは!」
漣はククッと低く喉を鳴らして笑うと、そのまま闇の奥へと消えていった。
残された堀北鈴音は、冷やされた額と、劇的に軽くなった身体の感覚を確かめるように胸元を押さえ、その場に力なく横たわった。
己の圧倒的な無力さと、継国漣という「本物の捕食者」の底知れぬ恐ろしさ、そして彼に救われてしまったという甘美な依存感に、彼女はただ静かに、熱帯の夜の闇に溺れていくしかなかった。