1.兆候
無人島サバイバル特別試験は、ついに六日目の昼を過ぎ、最終局面へと突入しようとしていた。
Dクラスのベースキャンプである「洞窟」の内部は、外の鬱蒼としたジャングルを覆う容赦のない熱気とは裏腹に、涼しい川のせせらぎと冷涼な風が吹き抜けている。だが、そこに滞留する生徒たちの精神状態は、すでに限界をとうに迎えていた。張り詰めた沈黙が、重苦しい澱のように岩肌へへばりついている。
その洞窟の入り口付近、岩壁に背を預けていた継国漣は、いつもの底の知れないヘラヘラとした薄笑いを浮かべながら、手元で弄んでいたサバイバルナイフをポケットへと収めた。彼の琥珀色の瞳が、洞窟の外、鬱蒼と生い茂る木々の隙間から覗く空の色彩を捉える。
つい先ほどまで不気味なほどにギラギラと輝いていた太陽は、いつの間にか厚く、どす黒い灰色の雲によって完全に遮られていた。風の向きが急激に変わり、湿気を含んだ重い空気がジャングルから吹き込んできて、森の木々がざわざわと不穏な音を立てて鳴り響き始めている。前世から受け継いだ超高スペックな頭脳と、極限状態を幾度も生き抜いてきたサバイバル能力が、漣の脳内に明確なアラートを鳴らしていた。
(あはは、これは来るねぇ……。南国特有の、すべてを押し流すような強烈なやつがさぁ)
漣はゆっくりと腰を上げると、洞窟の奥で体調不良を隠しながら必死に書類を整理している暫定リーダー、堀北鈴音の姿を一瞥した。彼女の顔色は限界を超えて蒼白であり、時折呼吸が浅くなっているのを周囲に悟られないよう、必死に肩を上下させている。だが、漣はその弱々しい姿に同情するどころか、極上のエンターテインメントを眺めるような愉悦の光を瞳に宿していた。
漣は洞窟の中央へと歩みを進め、疲れ果てて地面に座り込んでいる平田洋介や池寛治、山内春樹、女子生徒たちに向かって、わざとらしく大きな声を張り上げた。
「おーい、みんな。ちょっと耳を貸してくれよ。もうすぐそこまで強烈なスコールが迫ってきてるぜ。外の風の匂いと雲の動きを見りゃ、素人でもわかる。すぐにテントの固定を確認して、私物が雨に濡れないように注意しな。特に、外に干してある着替えや貴重品は、今すぐ洞窟の奥の乾いた場所に避難させておくんだな」
漣の言葉に、ぐったりとしていた池がハッとして顔を上げた。
「えっ、マジかよ継国!? せっかく服が乾きかけてたのに……! おい山内、手伝え! テントのロープも緩んでねえか確認しに行くぞ!」
「うわ、本当だ、急に暗くなってきやがった! 糞、サバイバルってマジで容赦ねえな!」
平田もすぐさま立ち上がり、「みんな、継国くんの言う通りだ。男子はテントの安全確認、女子は荷物の避難を急ごう。体力を削られないためにも、雨に濡れるのだけは絶対に避けなきゃいけない」と的確に指示を飛ばし始めた。
洞窟内が一気に慌ただしく動き出す中、堀北鈴音だけが、自身の震える身体を支えるように岩壁に手を突き、鋭い、しかしどこか虚ろな視線を漣へと向けた。
「継国くん……わざわざクラスのために忠告なんて、あなたにしては随分と殊勝な心がけね。何か裏でもあるのかしら?」
「あはは、人聞きが悪いねぇ、堀北ちゃん。俺はいつだってクラスの平穏を願う、ただの善良な一市民だよ?」
漣は肩をすくめ、いつもの軽薄な調子で返す。
「たださぁ、この後の展開を最高に楽しむためには、舞台が泥沼になりすぎちゃ面白くないだろ? だから、ほんの少しだけアドバイスをあげたのさ」
「……相変わらず、意味の分からない男ね」
堀北は不快そうに顔を歪め、それ以上は追及する体力を惜しむように、再び手元の書類へと視線を落とした。彼女は、己の肉体が発熱と極度の疲労によって、文字通り破滅の寸前まで追い込まれていることに気付いていながらも、兄である堀北学に認められたいという歪んだ一念だけで、その崩壊しそうな精神の糸を繋ぎ止めていた。
漣はそんな彼女を嘲笑うように背を向けると、洞窟の隅、簡易マットの上に腰掛けている一人の少女へと近づいていった。
2.心の綻び、捕食者の甘い罠
「よぉ、伊吹ちゃん。体調はどうだい? 俺の特製の医療処置のおかげで、少しは身体が動くようになっただろ?」
漣はヘラヘラとした笑みを浮かべながら、伊吹澪の前にしゃがみ込んだ。
伊吹は膝を抱え込んだ姿勢のまま、近づいてきた漣を刺すような、しかしどこか酷く揺れ動いている瞳で見上げた。彼女の顔や体には、龍園翔から受けた激しい暴力の痕跡が痛々しく残っていたが、漣が丁寧に施した包帯と適切な手当てによって、その痛みは劇的に和らいていた。
「……気安く話しかけるな。私はお前の所有物になったつもりはない」
伊吹は強がってみせるが、その声には、初日に見せていたような冷徹な敵意や、周囲を完全に拒絶するような鋭さは失われていた。
何より、彼女の胸の奥は、激しい自己嫌悪と混乱でぐちゃぐちゃになっていた。
――前日、伊吹は龍園の指示に従い、漣をクラス内で失脚させるための罠を仕掛けたはずだった。軽井沢恵のアンダーウェアを盗み出し、それを漣の荷物に忍び込ませて「パンツ泥棒」の犯人に仕立て上げようとしたのだ。
(なのに……なんで何も起きないわけ!?)
仕掛けたはずの爆弾は不発。なぜかその一件は発覚すらしておらず、クラス内は平穏そのもの。それどころか、漣はすべてを見抜いているかのような琥珀色の瞳で、相変わらず自分に極上の果実や医療物資を惜しみなく与え、手厚く「救済」し続けている。
(まさか、気づいた上で揉み消したの……? なんで、どうして私を責めない……っ!)
龍園のような「利用価値」や「暴力」による支配とは真逆の、底の知れない圧倒的な甘さとプレッシャー。裏切った自分に対して向けられる奇妙なほどの優しさに、伊吹は猛烈な罪悪感と、名前のつけられない依存心に引き裂かれそうになっていた。
「あはは、そんなに突っぱねなさんなって。冷たい態度を取られると、俺のピュアなハートが傷ついちゃうぜ?」
漣はふっと手を伸ばし、伊吹の頬に巻かれた包帯の端を、優しく、愛おしむように指先で撫でた。
「っ……!」
伊吹はビクリと身体を震わせ、反射的にその手を振り払おうとした。しかし、漣の指先は電光石火の速さで彼女の手首を掴み取り、完璧な力加減でその動きを封じ込めてしまう。プロの暗殺術すら凌駕する圧倒的な戦闘プレッシャーが、漣の身体から静かに、しかし密度高く放たれ、伊吹の本能を恐怖と、そして抗えない依存心で支配していく。
「言っただろ、伊吹ちゃん。俺の言う通りにしてりゃ、お前は何も傷つかずに済むんだ。龍園なんていう、暴力しか能のない凡人のために、これ以上お前の綺麗な身体をボロボロにする必要なんてないのさ」
漣の声は、鼓膜を甘く痺れさせるような不思議な説得力を持って、伊吹の耳奥へと侵入していく。
「お前はもう、俺という巨大な資本の蜘蛛の巣に絡め取られてるんだよ。今更そこから逃げ出そうとしたって、足掻けば足掻くほど、俺の優しさに絆されていくのさ」
「くっ……お前は、本当に最低の悪魔だ……」
伊吹は呪詛のようにつぶやくが、その瞳からは涙が滲みそうになっていた。彼女の頑なだった心は、漣の計算され尽くした圧倒的な抱擁と、絶対的な強さの前に、内側からジワジワと完全に崩壊させられ、絆されていた。龍園への忠誠心と、目の前の男に対する歪んだ情愛の間で、彼女の精神は引き裂かれそうになっていた。
だが、伊吹は知っていた。今日という日が、龍園から下された「最終作戦」の決行日であることを。
「じゃあな、伊吹ちゃん。雨に濡れて風邪引くなよ?」
漣は彼女の手首を放すと、満足そうに立ち上がり、再びヘラヘラとした笑みを浮かべてその場を離れた。残された伊吹は、自身の熱を持った手首を強く握り締めながら、洞窟の外で激しく鳴り響き始めた雷鳴を聞いていた。
3.烈火の欺瞞、混乱の渦
ゴロゴロと空を割るような雷鳴が轟くと同時に、天の川がひっくり返ったかのような猛烈なスコールが、無人島を白く染め上げながら激しく降り注ぎ始めた。ジャングルの木々は暴風雨に煽られて狂ったように揺れ、ベースキャンプの周囲は一瞬にして視界を遮るほどの泥濘と化していった。
「うわあああ! 尋常じゃねえ雨だぞこれ! 継国の言う通りにしておいて良かったぜ!」
「みんな、テントの中に避難して! 外に出たら一瞬で体温を奪われるよ!」
平田の声が暴風雨の音にかき消されそうになりながらも、Dクラスの生徒たちは慌ただしく、男女別のテントや洞窟の奥へと身を寄せ合っていた。
この混乱の直前、高熱を押して仮設シャワーへと向かっていた堀北鈴音は、あまりの豪雨の激しさに身をすくめていた。シャワーを浴び、着替えを済ませてベースキャンプに戻ろうとしたその瞬間、彼女は自らの胸元――衣服の内側に厳重に保管していたはずの「リーダーカード」が消失していることに気づき、血の気が引いた。
「嘘……ない!? どこで……まさか、さっきシャワーを浴びている隙に……!?」
パニックになりかける堀北の耳に、さらなる絶叫が飛び込んできた。
「――火事だ! 火事だああああッ!!」
池の悲鳴のような絶叫が、暴風雨の音を突き破ってベースキャンプに響き渡った。
混乱に乗じた伊吹澪が、男子テントの裏から内部の乾燥した荷物へ火を放ったのだ。乾いた布地は、スコールの湿気などものともせず、一気に激しい炎を噴き上げた。
「何だって!? こんな大雨の中でどうして火が!?」
「女子のテントにも火が回ってる! 早く水を! 川から水を運んで!!」
一瞬にして、Dクラスのベースキャンプは生き地獄のようなパニックへと変貌した。激しい豪雨が降り注ぐ中、テントの内側から燃え上がる烈火は、生徒たちの貴重な衣類や食料、あるいはサバイバル生活の拠り所を無慈悲に焼き尽くしていく。平田や須藤たちが血相を変えて川へと走り、手持ちの容器で水を汲み上げようとするが、突然の事態に混乱した女子生徒たちは泣き叫び、逃げ惑うばかりだった。
「落ち着いて! みんな落ち着いて行動して!」
堀北は、高熱で朦朧とする意識を無理やり叩き起こし、泥まみれになりながら叫んだ。だが、彼女の細い声は、暴風雨と生徒たちの怒号にかき消されて誰の耳にも届かない。
その時、堀北の鋭い視線が、燃え盛るキャンプの混乱の隙を突いて、猛然と森へと走り去ろうとする人影を捉えた。
雨に濡れそぼる、見間違えるはずのない後ろ姿――伊吹澪。
「伊吹さん……!」
その瞬間、堀北の脳内ですべてのパズルのピースが噛み合った。怪我を装ってベースキャンプに入り込んできたこと、先ほど自分がシャワーを浴びていたタイミング、そしてこの不自然な火災と同時に逃亡を図る挙動。
伊吹が激しい雨の中、薄暗い森の奥へと迷いなく消えていくのを見て、堀北は自分のすべてが、そしてクラスの命運が奪われたことを完全に確信した。高熱で視界が歪み、一歩足を踏み出すだけでも膝が砕けそうになるほどの激痛が身体を走る。だが、ここでカードを奪われれば、Dクラスは完全に終わる。兄のいるAクラスへ昇格する道は、永遠に閉ざされてしまう。
「待ちなさい……! 待ちなさい、伊吹さん!!」
堀北は血を吐くような叫び声をあげながら、燃え盛るベースキャンプを背に、伊吹の後を追って激しい豪雨が荒れ狂う暗いジャングルの中へと飛び出していった。
その様子を、洞窟の入り口から一歩も動かず、完全に他人事として眺めている男がいた。継国漣である。彼は燃えるテントの炎に照らされながら、琥珀色の瞳を愉悦に細め、クククと低く笑った。
「あはは、始まったねぇ。最高に泥臭くて、最高に美しい破滅の劇がさぁ。堀北ちゃん、そのボロボロの身体で、どこまで足掻けるか見せてくれよ?」
漣はそう呟くと、誰にも気づかれないように、静かに二人の後を追って雨の森へと足を踏みえ入れた。
4.黒百合の折れる時、ジャングルの決闘
激しい雨が容赦なく肌を叩き、地面は泥の川と化している。
森の奥、鬱蒼とした大樹の根元で、伊吹澪は追いついてきた堀北鈴音と対峙していた。
「ハァ、ハァ、ハァ……! 待ちなさい、伊吹さん。そのカードを……返しなさい!」
堀北は激しく肩を上下させ、今にも倒れそうなほどに身体を震わせながら、鋭い双眸で伊吹を睨みつけた。彼女の長い黒髪は雨で完全に濡れそぼり、顔には泥がこびりついている。
伊吹は振り返り、冷酷な、しかしどこか哀しみを秘めた瞳で堀北を見据えた。
「無駄よ、堀北。お前はその身体で、私に勝てると思っているの? 最初から勝負なんてついてるんだよ」
「やってみなければ……わからないわ!」
堀北は叫ぶと同時に、地を蹴った。彼女がこれまで培ってきた武道の技術は確かであり、病魔に侵されていながらも、その一撃は鋭く伊吹の顔面へと迫る。
しかし、伊吹澪もまた、龍園の過酷な環境で鍛え上げられた一線級の格闘能力の持ち主だった。伊吹は堀北の直線的な突きを最小限の動きでかわし、鋭いローキックを堀北の細い脚へと叩き込んだ。
「くっ……!」
激痛に顔を歪めながらも、堀北は執念で踏みとどまり、今度は回し蹴りを放つ。二人の少女の肉体が、激しい豪雨の中で激突し、鈍い打撃音が何度も森の静寂を切り裂いた。
しばらくの間、互角とも言える激しい戦闘が続いた。だが、決定的な差はすぐに現れた。堀北の肉体はすでに高熱によって限界を迎えており、酸素を求める肺は悲鳴を上げ、視界は二重、三重にブレ始めていたのだ。
伊吹の鋭い前蹴りが、堀北の腹部を捉えた。
「あはっ……!」
堀北の華奢な身体が泥の上に転がり、激しく咳き込む。
「終わりよ、堀北。カードは私が貰っていく」
伊吹が冷たく言い放ち、背を向けようとしたその時――。
ガサリ、と不自然に大きな足音が響き、生い茂る草むらを掻き分けて、一人の巨大な男が姿を現した。
1年Cクラス、山田アルベルト。
その漆黒の巨躯と、人間離れした圧倒的な体格は、立っているだけで周囲の空気を歪ませるほどのプレッシャーを放っていた。彼は一切の言葉を発しない。ただ、冷徹な機械のような瞳で、倒れている堀北と、カードを持つ伊吹を見つめていた。
「アルベルト……!? どうしてここに……」
伊吹が驚きの声をあげる。龍園から、山田をここに配置したという指示は聞いていなかった。
山田アルベルトは伊吹の問いに答えることなく、無言のままゆっくりと歩みを進め、倒れかかっていた堀北鈴音の胸ぐらを、巨大な片手で容赦なく掴み上げた。
「なっ……放し、なさい……!」
堀北は必死に山田の強靭な腕を叩き、抵抗しようとするが、大木のように太い彼の腕は微動だにしない。山田は無表情のまま、堀北の身体を軽々と持ち上げると、そのまま冷酷に、地面の硬い岩肌へと叩きつけた。
ズシンッ! という、肉体と骨が軋む凄惨な音が響く。
「あがっ……!?」
堀北の口から、空気が完全に吐き出された。頭部を強く打ち付け、彼女の高い誇り、プライド、そしてこれまで必死に張り詰めていた緊張の糸が、完全に音を立てて千切れた瞬間だった。彼女の瞳から光が急速に失われていく。
「……そこまでよ、アルベルト。もうそいつは動けない」
伊吹の声に、山田はそれ以上の追撃を止め、静かに手を放した。
泥まみれになり、ズタボロになった堀北鈴音は、ピクリとも動かなくなり、完全に気を失ってその場に伏した。彼女の心は、文字通り「完全に折れて」いた。
山田は一言も発せぬまま、伊吹に対して顎で先を促すと、自身もまた闇の中へと静かに消えていった。伊吹は倒れた堀北を一瞬だけ見つめ、複雑な感情を押し殺すようにして、指定された合流地点へと走り去った。
5.闇の中の契約、勝者の凱旋
ジャングルのさらに奥、雨避けとなる巨大な大樹の根元に、数人の影が集っ ていた。
そこには、すべての物資を放棄して「壊滅」したはずのCクラスの指導者、龍園翔が、いつもの不敵な悪魔のような笑みを浮かべて立っていた。そして彼の隣には、Aクラスのリーダーであり、堅実かつ冷徹な知将として知られる葛城康平の姿があった。
さらにその影には、現在はBクラスにスパイとして完璧に潜伏している金田悟の姿もあった。
この学校ではスマートフォンなどの私物の電子機器の持ち込みは完全に禁止されているため、外部や他クラスとのリアルな連絡は、すべて事前に仕組まれた綿密な直接対話と、学校の支給品を利用した最低限の手段で行うしかなかった。
伊吹は息を切らしながらその場に到着すると、懐から奪い取ったばかりの、堀北鈴音のリーダーカードを龍園の目の前に突き出した。
「持ってきたわよ、龍園。約束のものはこれよ」
「ククク……ハハハハ! よくやった、伊吹! さすがは俺の最高の猟犬だ!」
龍園はカードをひったくるように奪い取ると、それを隣に立つ葛城へと見せつけた。
「ほら見な、葛城。これがDクラスのリーダー、堀北鈴音の本物のカードだ。これで、俺たちの間の『密約』の条件はすべて揃ったわけだなぁ?」
葛城康平は、厳格な表情のままそのカードを受け取り、学校の支給端末と照らし合わせて間違いなく本物のリーダーカードであることを入念に確認した。彼は小さく息を吐くと、龍園に向かって厳かに頷いた。
「間違いない、本物だ。……いいだろう、龍園。お前の恐るべき謀略の成果を認めよう。これで、AクラスとCクラス(お前個人)との間の『経済的密約』は正式に合意に達した。試験終了後、約束通りのプライベートポイントを、毎月お前の個人口座へと振り込もう」
「ククク、話が早くて助かるぜ、真面目な葛城さんよぉ。クラスポイントなんていう不確かなものより、この学校における絶対の資本、プライベートポイントこそが至高だからな」
龍園は満足そうに顎をさすり、次に金田、伊吹、および山田アルベルトの三人を見据えた。
「金田、伊吹、アルベルト。お前らの役割はこれで完全に終わりだ。今すぐ学校の運営スタッフを呼んで『リタイア』の手続きをし、暖かい船の個室にでも戻ってろ。こんな泥臭い島に、これ以上長居する必要はねえからな」
「了解しました、龍園くん。Bクラスの動向も、これで完全にこちらの計算通りに処理できます」
金田が不気味にメガネを光らせて一礼した。
「……わかったわ」
伊吹はそう答えるが、彼女の胸の奥には、どうしても消えない激しい澱のような感情が渦巻いていた。洞窟に残してきた、あの男――継国漣の顔が、どうしても脳裏から離れないのだ。
「じゃあな。俺はまだ、この島で少しばかり『楽しいお仕事』が残ってるんでねぇ……」
龍園は不気味な嘲笑を残し、激しい豪雨が遮る暗闇のジャングルの中へと、一瞬にして姿を消した。葛城もまた、自身の目的を果たすために自陣へと引き返していった。
残された伊吹は、金田や山田と別れ、一人、リタイアの申請場所へと歩き出そうとした――その時。
6.感情の発露、別れの抱擁
激しい雨のカーテンを突き破るようにして、前方の暗がりから、一人の男が悠然と姿を現した。
いつもの底の知れない、ヘラヘラとした薄笑いを浮かべた男。
「よぉ、伊吹ちゃん。大仕事をご苦労さん。龍園との楽しい密会は、上手くいったかい?」
継国漣が、まるで最初からそこにいることが決まっていたかのような圧倒的な存在感を放ちながら、伊吹の前に立ち塞がった。
「っ……! 継国、お前……どうしてここに……!」
伊吹は驚愕し、本能的に身構えた。今の自分はリタイア寸前の満身創痍であり、もし目の前の怪物が力ずくで自分を拘束しようとすれば、抵抗する術など微塵もないことを理解していた。
だが、漣は戦闘の構えをみせるどころか、ポケットに手を突っ込んだまま、憐れみと深い愉悦の混じった琥珀色の瞳で伊吹を見つめるだけだった。
「どうしてって、決まってるだろ? 可愛い俺の所有物が、泥沼の中でどんな顔をして泣いてるか、見届けに来てやったのさ」
「ふざけるな……! 私はお前の所有物なんかじゃない! 私は龍園のために、お前たちのクラスを完璧にハメてやったんだ! カードはもう龍園に渡した! Dクラスは終わりよ!」
伊吹は狂ったように叫んだ。激しい豪雨のせいで、彼女の顔を伝うのが雨なのか、それとも悔し涙なのか判別がつかない。
彼女は、自分をあんなに手厚く看病してくれた漣を裏切ったという猛烈な罪悪感と、昨日仕掛けた「パンツ泥棒の罠」がなぜ発覚しなかったのかという困惑、そしてそれでも龍園の駒として動かざるを得なかった己の不条理な運命に対する怒りで、感情を完全に爆発させていた。
「お前がいくら優しくしたって、私は最初からお前たちを騙してたんだよ! 罠だって仕掛けたんだ! なのに、何でそんなに余裕そうな顔をしてるのよ! もっと怒れよ! 私を殴ればいいだろッ!!」
伊吹の細い拳が、漣の強靭な胸元を何度も激しく叩いた。だが、漣の身体は微動だにせず、ただ静かに彼女の感情の嵐を受け止めていた。
「あはは、そんなに泣くなって、伊吹ちゃん。お前がスパイなんてこと、俺は最初から全部知ってて、その上で遊んであげてたんだよ。……ああ、それから君が仕掛けた『お洋服の泥棒大作戦』も、俺の超高スペック脳にかかりゃ可愛いイタズラ以下さぁ」
漣はふっと長い腕を伸ばすると、激しく暴れる伊吹の華奢な身体を、正面から優しく、しかし絶対に逃がさない強固な力で強く抱きしめた。
「なっ……放せ! 放しなさいよ……ッ!」
伊吹は必死に彼の胸の中で暴れるが、漣の身体から伝わる圧倒的な体温と、心地よい医療用の消毒香、および絶対的な強さのプレッシャーに包まれると、不思議なほどに全身の力が抜けていった。彼女の頑なだった心は、漣の強引かつ優しい抱擁の前に、完全に融解していく。
漣は耳元で、優しく、鼓膜を痺れさせるような低い声で囁いた。
「お前の勝ちだよ、伊吹ちゃん。龍園の経済的謀略は確かにお見事だ。だけどさぁ、そんなちっぽけなポイントのやり取りなんて、俺の巨万の資本の前じゃ、ただの子供の砂遊びに過ぎないんだよねぇ」
漣は伊吹の濡れた髪を優しく撫ぜ、その顔を覗き込んだ。
「これ以上、この泥臭い島で苦しむ必要はない。龍園の言う通り、さっさと船に戻って、暖かいシャワーでも浴びてな。……今回の件の『続き』は、船に戻ってからゆっくりと、俺の部屋でディープに楽しもうや」
伊吹は漣の琥珀色の瞳に完全に射抜かれ、もはや言葉を返すこともできなかった。彼女は小さく頷くと、漣の腕から離れ、名残惜しそうに何度も振り返りながら、リタイア地点へと走り去っていった。
7.欺瞞と契約、折れた黒百合
伊吹と別れた漣は、すぐさま足元に転がっている足跡と、前世譲りの圧倒的な医術・暗殺術の知識から、堀北鈴音が倒れているであろう正確な位置を割り出した。
数分後、漣はジャングルの泥濘の中に、文字通りズタボロになって転がっている堀北鈴音の姿を発見した。
彼女は山田アルベルトによって激しく叩きつけられた衝撃と、連日続いた高熱のせいで、完全に意識を失い、死人のように蒼白な顔で泥水をすすっていた。
「あはは、随分と無残な姿になっちゃって。プライドの高い堀北ちゃんが、これじゃ形無しだねぇ」
漣はヘラヘラと笑いながらも、その強靭な両腕で堀北の泥まみれの身体を軽々と抱き上げ(お姫様抱っこ)、近くに見えていた小さな岩陰の洞窟へと連れ込んだ。
洞窟の内部は狭かったが、激しい豪雨と暴風を遮るには十分な場所だった。漣は堀北を乾いた岩肌の上に横たわらせると、ポケットから清潔な布を取り出し、彼女の顔の泥や雨水を丁寧に拭き取ってやった。
しばらくすると、激しい悪寒に身を震わせながら、堀北鈴音のまぶたがゆっくりと開いた。
「う……ん……。ここは……私、は……」
洞窟の入り口付近、薄暗い暗がりの中で、いつもの底の知れないヘラヘラとした薄笑いを浮かべる漣の姿を見て、堀北は自分のすべてが完全に終わったことを理解し、絶望のどん底へと突き落とされた。
「継国……くん……。カード、が……伊吹さんに……」
「ああ、お前の自慢のリーダーカードは、今頃龍園と葛城の間で美味い酒のサカナにされてるぜ?」
漣の冷酷な、しかし真実を告げる言葉に、堀北の身体が激しく凍りついた。
「嘘……そんな、私のせいで、クラスのポイントが……兄さんが……!」
堀北の目から、大粒の涙がボロボロと溢れ出た。彼女の高い誇り、プライド、そしてこれまで必死に張り詰めていた緊張の糸が、完全に音を立てて千切れた瞬間だった。彼女の心は、文字通り「完全に折れて」いた。
兄である堀北学に認められたい、その一心だけでこれまで全ての苦痛を耐え、孤高に戦ってきた彼女にとって、リーダーカードを奪われ、クラスに致命的な損失を与えたという現実は、死よりも重い屈辱であり、絶対的な絶望だった。
「あはは、そんなに泣くなよ、堀北ちゃん。お前の中身のない『正論』じゃ、龍園のリアルな暴力と経済的謀略には勝てないって、前にも教えてやったろ?」
漣はゆっくりと、しかし圧倒的な、プロの暗殺者すら平伏させるほどの強烈なプレッシャーを放ちながら堀北に近づき、壁際に身を縮める彼女のすぐ横の岩肌に、ドンッ! と激しく手を突いた。
「な、何よ……」
堀北は涙に濡れた瞳で、恐怖と絶望に震えながら漣を見上げた。漣の強靭な肉体と、琥珀色の瞳に宿る絶対的な捕食者の光が、彼女の華奢な精神を完全に覆い尽くしていく。
「いいか、堀北。お前は完全に負けたんだ。お前の綺麗な『正論』じゃ、失ったカードは戻らないし、お前の大好きな兄上様は、お前を軽蔑の目で見るだけだ」
漣はヘラヘラとした薄笑いを消し、ゾッとするほど冷徹で、甘い悪魔の囁きを彼女の耳元へと届けた。
「だけどさぁ、お前がどうしてもここから這い上がりたい、龍園やAクラスに大逆転の勝利を収めたいって言うんなら……俺の莫大な『資本』と、この超高スペックな脳を、お前のためだけに貸してやってもいいぜ?」
「え……?」
堀北は息を呑んだ。
「ただし、タダじゃねえ。この学校における絶対のルール、等価交換(契約)だ」
漣は親指で堀北の濡れた唇を優しくなぞり、不敵に笑った。
「失ったすべてを取り戻し、兄に認められたければ――俺の女になれ、堀北鈴音。お前のその高いプライドも、美しい肉体も、すべて俺に捧げて、俺の忠実なチェスの駒になると誓え。そうすりゃ、お前に最高の『救済』をくれてやるよ」
折れた一輪の黒百合のように、絶望の泥濘に沈んだ堀北鈴音は、目の前の一大資本家にして絶対的な怪物、継国漣が差し出した「悪魔の契約」を前にして、ただ激しく身体を震わせるしかなかった。無人島の激しい嵐は、彼らの欺瞞と欲望を包み込みながら、どこまでも激しく吹き荒れ続けていた。