1.琥珀色の目撃者:佐倉愛里へのアプローチ
6月初頭の高度育成高等学校は、名実ともに陰鬱な空気に包まれていた。
5月1日に突きつけられた「クラスポイント0」という現実、そして中間テストという最初の関門を乗り越えた直後に発生した「須藤健のCクラス暴行事件」 。学校側から言い渡されたクラスポイント配布の凍結というペナルティは、Dクラスの生徒たちを絶望の底へと叩き落とすには十分すぎる材料だった 。
学園の掲示板や生徒たちの噂話では、「Dクラスは近いうちに消滅する」「沈みゆく泥舟だ」といった甘美かつ退廃的な言葉が飛び交っている 。
そんな狂気と焦燥が渦巻く教室の最後列で、継国漣(つぐくに れん)は退屈そうにスマートフォンの画面を眺めていた 。
画面に表示されているのは【 17,500,000 pt 】という、およそ一介の高校生が保持していいはずのない巨万の富だ 。5月中旬まで体育会系の上級生相手に賭けポイント付きの道場破りを繰り返し、さらに金に困ったDクラスの債務者たちへ利息を上乗せした「融資(ローン)」を行うことで構築した、漣だけの絶対的な資本主義帝国 。
世界を動かす数字の羅列を見通す経済学、あらゆる事象を瞬時に理解する超高スペック脳を持つ彼にとって、この学校のルールなど、おもちゃの取扱説明書に過ぎない 。
(さて……狂犬(須藤)がやらかした泥仕合だが、そろそろ外堀が埋まってきたな)
漣はペンを指先で滑らかに回転させながら、クラスの隅で縮こまっている一人の女子生徒に視線を向けた。
佐倉愛里。地味な眼鏡の奥に琥珀色の瞳を隠し、クラスメイトとの接触を極端に拒絶している少女 。
圧倒的な観察眼を持つ漣は、彼女が旧校舎の事件現場付近に居合わせ、その華奢な肩にぶら下げたデジタルカメラで「何か」を撮影していたことをすでに看破していた 。
放課後、ケヤキモールの喧騒から少し離れた閑散とした裏通り。
周囲を何度もキョロキョロと見回しながら、怯えたように歩く佐倉の前に、漣は音もなく回り込んだ 。
「よお、佐倉。……ちょっといいか?」
「ひっ!? ぁ……つ、継国、くん……?」
不意に背後から声をかけられた佐倉は、小動物が大型の捕食者に出くわしたかのように大きく肩を跳ねさせた 。両手で抱え込むようにして胸元のデジタルカメラを庇う。その眼鏡の奥の琥珀色の瞳が、恐怖と不安で激しく揺れていた 。
漣はいつもの下卑た、しかしどこか人を惹きつけるヘラヘラとした笑みを浮かべ、彼女との距離を適度に保ったまま話しかける 。
「そんなに怯えるなって。俺は可愛い女の子にはとことん優しいってのがモットーでね 。お前みたいな素材のいい子がそんなに震えてると、思わず抱きしめて守ってやりたくなっちゃうだろ?」
「え、あ……う、うう……」
佐倉は顔を真っ赤にし、さらに後退りした。漣の「女好き」な言動はクラスでも有名だが、いざ面と向かって向けられると、免疫のない彼女はパニック寸前になる。
「冗談はさておきさ。――お前、あの日、あの時間に旧校舎にいたろ? 俺とすれ違った時のこと、覚えてるか? お前のそのカメラ、何か『面白いもの』を撮ったんじゃないのか?」
漣の言葉に、佐倉はみるみるうちに青ざめ、必死になって首を振った 。
「な、何のことか分かりません……! 私は、ただ、その……風景を撮っていただけで……。須藤くんたちのことなんて、何も……!」
あまりにも素直で下手くそな嘘だった 。その反応自体が、彼女が事件の決定的な瞬間、あるいはそれに準ずるデータを保持していることを雄弁に物語っている 。
普通の男であれば、ここで強引にカメラを奪い取り、SDカードを突き止めてデータを回収しようとするだろう。だが、漣の脳内の計算式は異なる 。
(ここで無理やり写真を回収するような野蛮な真似は、美学に反するねぇ。恐怖を与えすぎれば、パニックになってデータを消去されるか、あるいは他の誰かに泣きつかれるリスクがある 。データってのは、最適なタイミングで、最適な形で使われてこそ最大の価値を生むんだよ)
実は漣自身、バスケ部の上級生から「石崎たちが自ら仕掛け、須藤を挑発して被害者を演じた」という一部始終を収めた、完全な証拠となる動画をすでに押さえていた 。だからこそ、佐倉が持つ写真そのものを今すぐ無理に回収する必要は全くなかった。
漣はわざとらしく両手を肩の高さまで挙げ、降参のポーズを取ってみせた 。
「おっと、悪かったよ。責めてるわけじゃないんだ。信じるさ、お前がそう言うならな 。別に無理やりカメラを奪おうなんて野蛮なことはしないし、SDカードをよこせとも言わない 。俺は紳士だからね」
漣は一歩近づき、スマートフォンの画面を彼女に向けた 。
「ただ、もし今後さ、そのカメラにお前が抱えきれないような『重たいもの』が写り込んでいて、誰かに相談したくなった時は、いつでも俺のところに来い 。クラスの連中に言うのが怖けりゃ、俺が個人として聞いてやる。お前のそのカメラっていう素敵な趣味を、誰にも邪魔させないように俺が全力で守ってやるからさ。……どうだ?」
「あ……えっと……」
「ほら、連絡先だけでも交換しておこうぜ。友達として、な?」
滑らかで強引なペースに巻き込まれ、佐倉は戸惑いながらも、自身のスマートフォンを取り出して漣との連絡先交換に応じた 。
ふるふると震える手で端末を操作する彼女を見つめながら、漣は心の中でクククと喉を鳴らす。
(これで佐倉愛里という『駒』へのアクセス権は確保した 。物理的な回収じゃなく、彼女自身を俺のセーフティネットワークに組み込む。これが最善だ)
「ありがとよ、愛里ちゃん。困ったことがあれば、夜中でもいつでもメッセージしてくれ。寂しい時のお相手も、喜んでしてあげるからさ」
「ひゃいっ!? ぁ、失礼しますっ!」
佐倉は真っ赤になった顔を伏せたまま、逃げるように走り去っていった。その背中を見送りながら、漣は満足げにスマートフォンをポケットにしまった 。
2.静かなる観察者:ロビーのチェス盤
翌日の放課後。漣は男子寮の共有ロビーにあるソファに深く腰掛け、淹れたてのコーヒーを口に運んでいた 。
その視線の先、少し離れた位置にあるテーブル席には、1年Dクラスの「頭脳」とも言うべき二人の姿があった。
堀北鈴音と、綾小路清隆だ 。
二人の前にはノートやいくつかの資料が広げられており、堀北の表情はいつになく険しく、緊迫している 。
(案の定、あの二人は動いてるな。先月の中間テストで、須藤を救うために合計10万プライベートポイントという身銭を切った堀北だ 。自分の投資が無に帰すような『須藤の退学』なんて結末を、あのプライドの塊が受け入れるわけがない 。必ずこの暴行事件の審議に深く関わり、無実を証明しようと泥沼に足を突っ込むはずだ)
漣は、彼らの動向を静かに観察していた 。
この学校では、表向きのルールに縛られているだけでは勝てない。裏で誰がどう動き、どの糸を引いているかを見極める必要がある。
もちろん、Cクラスの裏で「龍園翔」という男が糸を引いていること、石崎たちを使ってDクラスに揺さぶりをかけていることは、漣の超高スペック脳にかかればすべてお見通しだった 。
しかし、漣はそれを堀北たちに教えるつもりは毛頭ない。龍園の影を完全に隠蔽し、自分自身も「クラスの厄介事には興味のない、冷めた高利貸し」を徹底して演じ続けていた 。
(堀北はまだ、裏で龍園が絵を描いていることには微塵も気づいていないな 。ただ石崎たちの因縁に憤慨しているだけだ。……いいよ、そのまま踊ってろ。ステージが混沌とすればするほど、俺の『資本』が持つ価値は跳ね上がるんだからな)
数日後、待望の「第1回審議」が学園の審議室で執り行われた 。
結果は、Dクラス側の完全なる惨敗だった 。
Cクラスの担任である坂上先生の冷徹かつ論理的な司会進行、そして石崎たちが用意した、医師の署名入りの完璧な「被害者診断書」 。さらに、龍園によって事前に買収され、口裏を合わせられたCクラスの複数の生徒たちが「須藤が一方的に殴りかかってきた」と、もっともらしい偽の目撃証言を重ねたのだ 。
これに対し、Dクラス側には須藤の「俺は悪くない、向こうから絡んできたんだ!」という感情的な怒号以外、客観的な証拠が何一つとして存在しなかった 。
審議室から出てきた堀北の顔は、屈辱と焦燥で激しく歪んでいた 。隣を歩く綾小路は相変わらず死んだ魚のような目をしているが、堀北の耳元で小さく何かを囁いている 。
(なるほど。客観的な証拠が見つからない以上、他クラスのネットワーク、それも『学園内で最も人望と情報網がある善意の塊』――Bクラスの一之瀬帆波に協力を求める気か。いかにもあの二人らしい、誠実だが甘っちょろい解決策だねぇ)
漣はその日の夕方、ケヤキモールのカフェスペースで一人、スマートフォンを眺めていた一之瀬帆波に接触した 。
桃色の髪をなびかせ、服の上からでもその圧倒的な発育の良さを自己主張している巨乳の美少女 。漣の女好きのセンサーが激しく反応する 。
「よお、一之瀬ちゃん。こんなところで一人でお茶か? 相変わらず、どこから見ても絵になる可愛さだねぇ。その胸元、男を狂わせるためにあるようなもんだろ」
「えっ……!? あ、あはは、からかわないでよ、継国くん」
一之瀬は一瞬、顔を赤くして苦笑いしたが、いつもの人当たりの良い笑みで漣を迎え入れた 。
「いやいや、本気だって。……それはそうと、ちょっといいか? 耳に入ってるんだよ。Dクラスの須藤の件で、堀北たちがBクラスのお前に協力を求めて、ネットや掲示板で広く目撃情報を募集してるんだろ?」
「うん、そうなの。堀北さんたち、本当に困っていて……。須藤くんが一方的に悪いわけじゃないかもしれないし、私としても、クラスの垣根を越えて力になってあげたいなって思って。……継国くんも、何か知ってたりするの?」
一之瀬の濁りのない、純粋な正義感に満ちた瞳が漣を真っ直ぐに見つめる 。
「いや、俺は基本、あの手のゴリラには興味ないんだけどさ 。ただ、もし堀北たちが泥沼にハマって、Bクラスのネットワークでも情報がどうしても集まらなくて手詰まりになった時……俺なら、お前が想像もつかないようなルートから『面白いもの』を引っ張ってこれるかもしれないと思ってね」
漣はそう言って、自身のスマートフォンを彼女に差し出した 。
「お前とはまだ、ちゃんと連絡先を交換してなかったろ? これを機に繋がっておこうぜ。可愛い一之瀬ちゃんといつでも連絡が取れるってだけで、俺のモチベーションは最高潮になるからさ」
「あ、ありがとう。継国くんって、普段はちょっと不真面目そうに見えるけど、本当はクラスのことを心配してるんだね」
「はは、どうかな。俺はただ、可愛い女の子の力になりたいだけの、底の浅い男だよ」
一之瀬は疑うこともなく、嬉しそうに微笑んで連絡先を交換した 。
短い会話を終えて別れた後、漣はフッと冷徹な笑みを浮かべ、スマートフォンの連絡先リストに登録された『一之瀬帆波』の名前をタップした 。
(一之瀬ちゃん、お前のその無垢な善意は、本当に利用しやすい 。堀北たちに直接データを渡せば、どこから手に入れたと追求されるし、裏を勘繰られる。だが、お前という『誠実な仲介者』を挟んで匿名で情報を流せば、誰も俺の存在に辿り着けない。完璧な情報ロンダリングの完成だ)
チェス盤の駒は、すべて配置についた。
3.悪魔の算術:プランAとプランB
その日の夜、21時。
漣は堀北鈴音を、人気のない男子寮の共有ロビーへと呼び出した 。
指定された時間に現れた堀北は、腕を組んだまま、氷のように冷たい視線を最後列の悪魔へと投げかけた 。
「何の用かしら、継国くん。私は今、明後日の第2回審議に向けて、一之瀬さんたちと証拠探しの最終確認をしているのよ。あなたのような、クラスの危機に一切に協力しない不真面目な人間と雑談している時間はないわ」
相変わらずのトゲのある態度 。だが、その琥珀色に似た強い瞳の奥には、第1回審議での敗北による焦りと、須藤を失うことへの恐怖が隠しきれずに滲み出ていた 。
漣はソファの背もたれに腕を回し、下卑た笑みを浮かべながら彼女を上から下まで値踏みするように眺める 。
「相変わらずキツいねぇ、堀北ちゃん。でもさ、そのプライドが高くてツンとした態度、ベッドの上で崩したらどんな可愛い声で泣くのか、想像するだけでゾクゾクしちゃうよ」
「……最低ね。侮辱を重ねるなら、今すぐ帰らせてもらうわ」
堀北が不快そうに背を向けようとした瞬間、漣の口から放たれた言葉が、彼女の足を完全に止めさせた。
「今のままお前たちが第2回審議に臨んでも、100%確実に須藤は退学処分になるぞ」
「――っ、なんですって?」
堀北が振り返る 。
「聞こえなかったか? お前たちがいくらBクラスの善意を頼って目撃情報を探したところで、結果は変わらない 。Cクラスが用意した偽の診断書と、口裏を合わせた複数の目撃証言。それを覆すだけの『客観的な証拠』が、今のお前たちの手元に一つでもあるのか? ないだろ。正論や情熱だけで学校が動くと思ってるなら、お前はただの、おめでたい頭の優等生だ」
漣は立ち上がり、ゆっくりと堀北との距離を詰めていく 。彼の強靭な肉体から放たれる圧倒的なプレッシャーに押され、堀北は思わず後退りし、背中がロビーの冷たい壁に当たった 。いわゆる「壁ドン」の形になり、彼女の身体がビクリと震える 。
「な、何よ……」
「大人しく俺の提案を聞け、ってことだよ 。お前が10万ポイントを支払ってせっかくキープした須藤っていう粗大ゴミを、ここで完全に失うのはもったいないだろ? だから、この俺が最高の『和解案』を提示してやる。これを見てみろ」
漣はスマートフォンを取り出し、画面に書き込まれた二つのプランを彼女の目の前に突きつけた 。
「【 プランA:現実的妥協案 】だ」
画面を読み終えた堀北の顔が、怒りと屈辱で真っ赤に染まった 。
「内容:須藤は1週間程度の停学処分を受け入れる 。そして、Dクラス側からCクラスの石崎たちに対し、プライベートポイントを『和解金(慰謝料)』として支払うことで、被害届を完全に下げさせる 。……これで須藤の退学は確実に免れるし、事件は表向き丸く収まる」
「冗談じゃないわ! ポイントを支払って頭を下げろと言うの!? 須藤くんは嵌められたのよ? 悪くもないのに相手にポイントを支払うなんて、それは実質的な敗北じゃない! そんな屈辱的な条件、受け入れられるはずがないわ!」
堀北は激昂し、漣の胸元を睨みつけた 。しかし、漣は冷酷な、感情を一切交えないトーンで言い放つ 。
「敗北だが、被害は最小限だ 。ビジネスや投資の世界ではな、損失をゼロにすることに固執して全財産を失う奴が一番の無能なんだよ 。これを『損切り』と言う。お前たちのちっぽけなプライドのために須藤が退学になれば、Dクラスは永久にクラスポイントを失い、Aクラスへの道は完全に閉ざされる 。どっちが合理的か、その高い学力で計算してみろよ」
「うっ……、それは……」
言葉に詰まる堀北に、漣はさらに下卑た笑みを深めて画面をスクロールした 。
「だが、お前がどうしてもそのちっぽけなプライドを優先して、相手を完膚なきまでに叩き潰し、須藤の『完全無罪』を勝ち取りたいって言うなら……もう一つの地獄、プランBを提示してやるよ」
「【 プランB:逆転の賭け 】」
堀北はその画面に表示された過激な内容に、今度こそ息を呑んだ 。
「内容:第2回審議の場で、Cクラスに対して超強硬な姿勢でブラフ(ハッタリ)を仕掛ける 。『俺たちは、石崎たちが自作自演をして須藤を嵌めたという【完全な無罪の証拠】を持っている』と大見得を切るんだ。その上で、Cクラスのクラスポイントの4分の1(1/4)を賠償金としてこちらに譲渡すること、そして石崎、小宮、近藤の3人を1週間程度の停学処分にすること、さらに彼らのプライベートポイントを賠償金として根こそぎ毟り取る、という超強硬な要求を突きつける」
「な……ッ! 正気なの!? Cクラスのクラスポイントを4分の1も要求するなんて、そんなこと……! それに、石崎くんたちの停学やポイントの賠償金なんて、そんな滅茶苦茶な要求、相手が飲むはずがないわ!」
「飲むさ。もし、彼らが『本当に自分たちの嘘が暴かれる決定的な証拠』がDクラス側に握られているかもしれない、と本気で恐怖(ビビ)ればな」
漣は堀北の耳元に顔を近づけ、悪魔の囁きを刻み込む 。
「これはチキンレースだ 。プランBはほぼ100%お前のハッタリ、つまりブラフだ 。だがな、後ろ暗いところがある悪党ってのは、相手が絶対の自信を持って『証拠がある』と脅してきた時、一番最初に自分から崩れる。石崎たちは頭の悪い小物だ 。お前が審議の場で一歩も引かずにこの条件を突きつければ、自分たちの不正が学校側にバレて退学になるのを恐れて、自ら被害届を取り下げる可能性がある」
堀北の鋭い視線が、漣の顔を射抜くように見つめた 。その瞳には、あまりの危険さに躊躇う脆さと、しかし逆転の可能性にすがりたいという強い意志が同居している 。
「ハッタリ……。そんな危険な賭けに出ろというの? もし相手がハッタリを見抜いて、そのまま審議が続行されたら、今度こそ須藤くんは終わりよ」
「そうだな。だからこれは賭けだ。プランAで確実に負けを受け入れて被害を最小限に抑えるか、プランBで奈落の底に落ちるリスクを背負って大逆転の勝利を掴みに行くか 。選ぶのはリーダー(仮)のお前だ、堀北ちゃん」
堀北は拳を固く握りしめ、震える声で漣に問いかけた 。
「……一つ、聞かせて。あなた、プランBをただの『ハッタリ』だと言ったけれど……。本当は、本当に須藤くんが完全に無罪だという、相手の嘘を暴く『証拠』なんて、この世に存在しないの? あなたが何かを握っているということは――」
漣はフッと唇の端を吊り上げ、いつもの底の知れない、ヘラヘラとした表情に戻った 。
「さぁな? そんな証拠があるのかないのか、俺に聞かれても困るねぇ」
「なっ……!」
「じゃあな。俺が持っているのは、お前たちのくだらない未来をいつでも買い取れるだけの『資本』だけだ。よく考えて、明後日の審議で恥をかかないようにするんだな」
漣はそれ以上何も答えず、壁ドンしていた手を離すと、ポケットに手を突っ込んで悠然と背を向け、エレベーターの方へと歩き去っていった 。
残された堀北は、悔しさと困惑にまみれたまま、冷たい壁に寄りかかって立ち尽くすしかなかった 。
4.嵐を呼ぶ動画:匿名ギフトと審議の崩壊
審議当日の前夜。
漣は自室のベッドに寝転びながら、ノートPCのキーボードを軽快に叩いていた。
彼の超高スペック脳は、すでに翌日の審議室で繰り広げられるであろう光景を完璧にシミュレートしていた 。
(堀北の性格からして、おそらくプランAという屈辱的な妥協案は選ばない。あのプライドの塊は、一か八か、プランBの過激なブラフを石崎たちにブチかますはずだ 。……だが、龍園の用意した罠はそれだけじゃ崩れない。ハッタリだけで押し通すには、石崎たちの背後にいる龍園の存在が邪魔になるからな。あいつが裏で『強気で行け』と指示を出していれば、チキンレースはDクラスの負けで終わる)
だからこそ、市場に決定的な「不確定要素」を投入する必要がある。
漣は匿名チャットの暗号化プロトコルを起動し、事前にバスケ部の上級生から手に入れておいた「石崎たちが自ら須藤を挑発し、殴らせるように仕向けた自作自演の一部始終」を収めた4Kの高解像度動画ファイルをサーバーにアップロードした 。
そして、その動画リンクを、ある一つの端末へと匿名で送信する 。
送信先は、1年Bクラスのリーダー――一之瀬帆波だ 。
(一之瀬ちゃんたちのBクラスは、ネットや校内掲示板で広く情報を募集している 。この最高のタイミングで、匿名の情報提供者(ギフター)として動画を流してやれば、彼女は持ち前の強い正義感から、真偽を確かめる間もなく審議室へ突入するはずだ 。……一之瀬帆波という『最高の、汚れなき神輿』を利用する。これが俺の金融工学(情報ロンダリング)だ)
メッセージの送信が完了したことを示すプログレスバーが消えるのを見届け、漣はスマートフォンを放り投げると、クククと喉を鳴らして笑った 。
(さあ、悪魔の算術の、最後の答え合わせといこうじゃねえか)