1.仮面の平穏、あるいは侵食される日常
高度育成高等学校の朝は、いつものように欺瞞に満ちた平穏とともに幕を開ける。
五月の爽やかな風が、青々とした並木道を通り抜けていく。行き交う生徒たちの顔には、この学園が保証する「特権階級」としての余裕と、人工的な楽園がもたらす無邪気な笑みが浮かんでいた。しかし、その華やかな舞台裏で、確実に一人の少女の日常は音を立てて崩壊へと向かっていた。
――ストーカー事件。
あの忌まわしい旧校舎裏での夜から数日が経過していたが、事件の凄惨な記憶と恐怖の残響は、まだ生々しく校舎の片隅にへばりついて離れない。
当事者である1年Dクラスの佐倉愛里は、表向きは学校へと登校していた。義務としての出席日数を確保するため、そして何より、これ以上周囲に不審がられて孤立することを恐れた、彼女なりの必死の防衛本能だった。
だが、その実態は「ただ席に座っている」というだけの骸(むくろ)に過ぎない。
教室の最果て、窓際の席に身を縮めるようにして座る佐倉の身体は、常に目に見えない恐怖に怯えるように、微かに、しかし絶え間なく震えていた。かつて彼女がひっそりと愛し、自身の唯一の拠り所としていたデジタルカメラを構える心の余裕など、今の彼女の精神には微塵も残されていなかった。
「……あ」
クラスの男子生徒が、プリントを配るために不意に彼女の机に近づいた。ただそれだけの、日常におけるごくありふれた、何の意味も持たない一コマ。しかし、今の佐倉にとって、それはあの夜に自分を暴力で追い詰め、衣服を引き裂こうとした狂気の男の影と完全に重なってしまう。
「ひっ……! 嫌……っ!」
短い、しかし悲痛な悲鳴が佐倉の喉から漏れた。彼女は反射的に両腕で自身の身体を抱え込み、椅子をガタガタと激しく鳴らしながら、のけ反るようにして男子生徒から距離を取った。怯えきった、まるで肉食獣を前にした小動物のような瞳が、涙を浮かべながら近づいた男子生徒を睨みつける。
「え? あ、ごめん……驚かせるつもりじゃなかったんだけど……」
困惑した男子生徒は、周囲の視線を気にして気まずそうにプリントを机の端に置くと、足早にその場を離れていった。教室中の生徒たちが「また佐倉が変な態度をとっている」「相変わらず暗いな」と、冷ややかな、あるいは好奇の視線を向ける。
佐倉は周囲の視線から逃れるように、さらに小さく身体を丸めた。
あの事件以来、彼女の心には深く、そして強固な楔(くさび)が打ち込まれていた。
極度の『男性恐怖症』――。
自分を力ずくで組み伏せようとした男の太い腕の感触、耳元で囁かれた粘着質な息遣い、それらが引き金となってフラッシュバックを起こし、主人公である継国漣以外の全ての男性に対して、彼女は生理的かつ激しい拒絶反応を示すようになっていたのだ。
なぜ、継国漣だけが例外なのか。
それは、あの絶望の淵、自らの尊厳が引き裂かれようとしていた暗闇の中で、圧倒的な暴力と、底の知れない傲慢さでストーカーをねじ伏せ、自分を救い出してくれたのが彼だったからに他ならない。泥水をすすりながら悶絶する男を見下ろしていた漣の姿だけが、今の佐倉がこの世界で辛うじて精神を繋ぎ止められている唯一の命綱だった。
だが、そんな彼女の精神的・肉体的な深い被害に対して、この学園が下した判断は、あまりにも冷酷で、不条理に満ちたものだった。
2.不条理の領収書、中庭の謀略
その日の昼休み、1年Dクラスの最後列に君臨する悪魔――継国漣は、校舎から少し離れた人通りの少ない中庭のベンチに腰を下ろしていた。
五月の眩しい日差しを浴びながら、彼はスマートフォンをいじり、一つの画面を見つめていた。表示されているのは、自身の膨大な融資ポートフォリオと、直近のプライベートポイントの履歴画面。そこには、佐倉の引き裂かれた制服を新規に購入し直した費用として、数万ポイントが引かれた記録がはっきりと残っている。
「……ったく、どこまでいっても融通の利かねえシステムだな、この学校は」
漣はいつもの底の知れないヘラヘラとした笑みを消し、不機嫌そうに低く舌を打った。
事件の際、ボロボロに引き裂かれた佐倉の制服代を建て替えたのは漣だった。ポイントが完全に枯渇している佐倉に支払えるはずもなく、自分の『所有物』として認識した女がみすぼらしい格好をしているのは、漣の極端に肥大化した自尊心が許さなかったからだ。だが、問題はその後だ。学校側にストーカー事件の被害報告を上げ、それに伴う物品破壊、および精神的損害の補償を求めたところ、帰ってきたのは「生徒個人の管理不足による不可抗力の事故」という冷淡な一蹴だった。見舞金すら1ポイントも出すつもりはないという。
「おーい、継国くん。ここにいたんだね」
その時、鈴の鳴るような軽やかで聞き馴染みのある声が静寂を破った。
振り返ると、美しい金髪を揺らしながら、1年Bクラスのリーダーである一之瀬帆波が歩み寄ってくるところだった。彼女はいつもの明るい聖母のような笑顔を浮かべようとしていたが、その瞳の奥には、どこか割り切れない硬い表情と、隠しきれない沈鬱さが混ざり合っている。
「よお、一之瀬ちゃん。どうした? 俺に融資の相談か? 今なら特別に、トイチのレートをトゴくらいにまけて貸してやるぜ?」
漣は瞬時にいつもの軽薄な高利貸しの仮面を被り、端末をポケットにしまいながらニヤリと下卑た笑みを浮かべた。
「もう、相変わらず冗談ばかり。ポイントの相談じゃないよ。……実は、佐倉さんの件で、ちょっと気になって」
一之瀬は漣の隣に腰を下ろすと、周囲に人がいないことを確認してから、少し声を潜めて言じた。その表情は真剣そのものだった。事件の夜、警察への通報を漣に促され、その後も彼女の動向を心配していた一之瀬は、独自に学校側の対応を調べていたのだ。
「ああ、佐倉の件か。一之瀬ちゃん一応、健気に学校には来てるぜ。ただ、俺以外の男が半径1メートル以内に近づくだけで、今にもショック死しそうな勢いで怯えてるけどな」
「やっぱり……心に負った傷は、そんなに簡単に癒えるものじゃないよね。それでね、継国くん。私、風の噂で聞いたんだけど……学校側、今回のストーカー事件について、佐倉さんへの見舞金を一切出さないって本当なの……?」
一之瀬の言葉に、漣は鼻で笑った。
「噂じゃなくて事実だよ。さっき俺の端末から引かれた制服代の履歴を見つめてたところだ。学校の言い分としては、『学園内での生徒間のトラブルではなく、外部の人間(ストーカー)による犯行であり、夜間に旧校舎裏という侵入禁止エリア付近にいた生徒側にも過失がある』だとさ。だから見舞金どころか、制服の修繕費も治療費も1ポイントたりとも出さないそうだ」
「そんなの、あんまりだよ……!」
一之瀬はベンチの端を強く握りしめた。彼女の白い指先が、怒りで微かに震えている。
彼女の脳裏には、あの夜、旧校舎裏の冷たい地面にへたり込み、衣服を乱され、大粒の涙を流しながら怯えきっていた佐倉の無残な姿が、今も鮮明に焼き付いていたのだ。同じ女子として、そして生徒を守るべき学校がその被害を踏みにじったことに対して、彼女の真っ直ぐすぎる正義感は激しく憤っていた。
「彼女はただの被害者なのに。ストーカーに狙われて、怖い思いをして、やっとのことで助かったのに……。学校がそれを守らないで、補償すら出さないなんて、どう考えても間違ってる! 生徒の安全を守る義務が、学校にはあるはずだよ!」
漣は、その憤る一之瀬の横顔を、値踏みするような琥珀色の瞳で見つめた。
(いい感じに温まってきたな、一之瀬ちゃん。お前のその真っ直ぐすぎる正義感、そしてお前という『盾』、利用させてもらうぜ)
漣はわざとらしく大きなため息をつき、一之瀬にさらに顔を近づけて、囁くようなトーンで声を落とした。
「まったくだ。だが、学校の上の連中ってのは、所詮はそんなもんだよ。生徒なんてのはシステムを回すためのただの駒。表沙汰にならない不祥事は、被害者を黙らせてコストを最小限に抑えるのが一番賢いと思ってるのさ。……ただ、学校側にその不条理を認めさせて、合法的に金を毟り取る方法が、一つだけないわけじゃない」
「え……? 方法って、何?」
一之瀬が弾かれたように漣を見た。その瞳には、一筋の希望の光が宿っている。
「この学園の特異な支配構造だよ。学校側の決定に異議を唱え、公式に発言権を持つ生徒組織が一つだけ存在するだろ? ――『生徒会』だ」
「生徒会……」
その単語が出た瞬間、一之瀬の瞳が僅かに揺れ動いた。
漣はその変化を完璧に見逃さなかった。一之瀬自身、Bクラスを率いるリーダーとして、この学園の全容を把握するため、そしてより多くの生徒を救うための権限を得るために、かねてから「生徒会」という組織に強い興味を抱いていた。もちろん、その事実を漣に直接話したことはないが、前世の知識と高い洞察力を持つ漣には、彼女の隠された関心が容易に透けて見えていた。
「そう、生徒会だ。あそこを通じて、学校側の安全管理体制の不備を公式なアジェンダとして突きつければ、学校側も無視できなくなる。生徒会は学園の秩序を守る最高機関だからな。そこを動かせれば、学校の予備費から補償金を出させることは十分に可能だ」
「でも……私たちがそんなところに直接行って、話を聞いてもらえるのかな? 生徒会長の堀北先輩は、すごく厳格な人だって聞くし……それに、すごく怖いっていうか……」
不安を口にする一之瀬に対し、漣は不敵な笑みを浮かべた。
「お前はBクラスの絶対的なリーダーだろ? その一之瀬帆波が、学園の治安維持に異議を唱えるとなれば、生徒会だって無視はできねえよ。それに……興味あるだろ? この学校を裏から動かしている『生徒会』の本当の力、そしてその中身にさ」
漣の言葉は、一之瀬の胸中にある正義感と、リーダーとしての責任感を絶妙に刺激する毒を含んでいた。
一之瀬はしばらくの間、自身の膝の上で拳を握りしめ、葛藤するように俯いていたが、やがて顔を上げた。その瞳からは迷いが消え、確固たる意志の光が宿っていた。
「……分かったわ。私、行くよ。佐倉さんのためにも、この理不尽な学園の対応をそのままにはしておけない。継国くん、私も手伝わせて」
「交渉成立だな。そうこなくっちゃ面白くねえ」
漣は立ち上がり、ポケットからバインダーを取り出した。そこには、事前に彼が用意していた、佐倉の精神状態を証明する医師の具体的な診断書、衣服の被害状況、 tenderそして引き裂かれた制服の購入証明書(領収書)が、極めて理路整然とした形式でまとめられていた。
「準備はすでに万端だ。佐倉の被害を証明する書類は俺がすべて揃えておいた。さあ、一之瀬ちゃん。学園の絶対権威である生徒会の牙城へ、殴り込みに行こうか」
3.氷の城塞:生徒会室の因縁
放課後の生徒会室。
その重厚な扉の向こうには、一般の生徒が立ち入ることを決して許されない、圧倒的な静寂とプレッシャーが支配する空間が広がっていた。
コツ、コツ、と静かな廊下に二人の足音が響く。
一之瀬は書類を胸に抱え、緊張のあまり微かに呼吸を乱していたが、その隣を歩く継国漣の辞書に「緊張」という二文字は存在しなかった。彼はいつも通り、どこか退屈そうに、ヘラヘラとした笑みを浮かべながら歩いている。
生徒会室の前に到着した瞬間、漣は何の躊躇もなく、ノックもせずに右足でその重厚な扉を勢いよく蹴り開けた。
――バァンッ!!!
激しい衝撃音が室内に響き渡り、室内の空気が一瞬で凍りついた。
「失礼しますよ、生徒会長。ちょっとお耳に入れたい理不尽な案件がありましてねぇ」
漣は片手を軽く上げ、我が物顔で室内へと足を踏み入れた。
長テーブルの奥、冷徹な双眸を書類に向けたまま、ピクリとも眉を動かさない男がそこにいた。――堀北学。Dクラスの堀北鈴音の兄であり、この学園の秩序そのものを体現する絶対の支配者。
漣が部屋に押し入ったその瞬間、堀北学の動きが明確に止まった。
学はゆっくりと顔を上げ、その切れ味の鋭い双眸を漣へと向けた。その瞳の奥には、通常の乱入者に対する不快感を遥かに超越した、深い『警戒』と『忌避』の念が渦悪んでいた。
それもそのはずだった。堀北学にとって、継国漣という男は、この学園で最も油断ならない不確定要素だった。
以前、妹である堀北鈴音に関するある決定的な「弱み(動画データ)」を漣に握られた際、学は生徒会の権威や自身のプライドをへし折られ、その動画の削除代として、個人資産から10万プライベートポイントという大金を文字通り毟り取られていたのだ。
ルールを尊ぶ学にとって、自身のルール外から襲いかかり、資本を奪い去っていったこの悪魔は、二度と対面したくない「捕食者」に他ならなかった。
(……継国、漣。またしてもお前か……)
学の奥歯が微かに鳴る。だが、学の傍らに立つ2年Aクラスの副会長、南雲雅は、漣の登場にどこか楽しげに、獣のような鋭い目を爛々と輝かせた。
書記の橘茜は、あまりに不躾な乱入者である漣を見るなり、鋭い一瞥をくれて即座に一歩前に出た。その声は怒りに任せて喚くようなものではなく、規則を遵守する上級生としての、冷徹でトゲのあるトーンだった。
「――そこまでにしなさい、1年Dクラスの継国くん。ここはあなたのような一般生徒が、私情による不満を品性もなく喚き散らしに来る場所ではないわ。ノックもせず、生徒会の敷居を跨ぐその不作法……最低限の礼儀も持ち合わせていないのかしら」
橘は一度言葉を区切り、漣の隣に立つ一之瀬へと冷ややかな視線を移す。
「一之瀬さん。Bクラスのリーダーであるあなたが、なぜこれほど分を弁えない問題児の片棒を担いでいるのかしら。あなたまで生徒会の規律を軽視していると思われたくはないでしょう。会長の貴重な時間を無駄にさせないで頂戴」
橘の突き放すような叱責を、堀北学は静かに手を挙げることで制した。学は眼鏡の奥の瞳を険しくさせ、漣、そして一之瀬を真っ直ぐに見据えた。
「何の用だ、継国。一之瀬も……お前たちが揃ってここに来た理由を聞こう」
学の声は低く、部屋全体の空気を支配するような重圧を孕んでいたが、漣に対してはあからさまな防衛の壁を築いていた。漣はその威圧感を完全に受け流し、手元にあったバインダーを長テーブルの中央へ、これ見よがしに叩きつけた。
「会長、先日発生した1年Dクラスの佐倉愛里に対するストーカー事件についてだ。学校側が下した『補償なし』というふざけた決定について、生徒会を通じて再検討、並びに補償金の支払いを要求しに来た」
漣の傲慢な要求を聞いた瞬間、橘は胸中で冷ややかに呟いた。
(……ストーカー事件の再検討? 学校側の対応が『ない』のは、今に始まったことじゃないけれど……)
実は橘とて、学校側が下した「自己責任による不可抗力」という冷酷な結論には、一人の女子生徒として内心呆れ果てていた。被害を受けた下級生の惨状を無視し、事なかれ主義で不祥事を揉み消そうとする学校の姿勢には、到底同意できない。
だが、それとこれとは話が別だ。学校の対応が不誠実だからといって、この神聖な生徒会室で堀北学の絶対的な権威に泥を塗ろうとする目の前の男の暴挙など、彼女のプライドが絶対に容認しなかった。
橘はすかさず、毅然とした口調で漣の言葉を切り捨てる。
「学校の決定に不服があるなら、正規の手続きを踏んで異議申し立てをしなさい。感情論と不作法な態度で生徒会を動かせると思っているなら、大きな勘違いよ」
漣は橘の言葉を完全に無視し、堀北学をニヤリと睨み据えた。
その不遜な態度に、南雲雅が面白そうにクスクスと笑い声を漏らした。
「へえ、1年のストーカー事件ねえ。学校側はすでに『自己責任』として処理を終えたはずだけど? それをわざわざ生徒会に覆せって言うのかい? 面白いことを言うね、継国くん。相変わらず不敵だ」
「黙ってろよ、金髪副会長。お前と話に来たわけじゃない」
漣が吐き捨てるように言うと、橘茜の眉が不快感でピクリと跳ね上がったが、漣は構わず交渉を進める。一之瀬もまた、学の放つ威圧感と因縁の空気に喉が渇くのを感じながらも、勇気を振り絞って一歩前に出た。
「堀北会長。私も、今回の学校側の対応には大きな疑問を感じています。佐倉さんは、学園が管理する敷地内(旧校舎裏)で、外部の犯罪者によって襲われました。それなのに、学校側は『侵入禁止エリア付近にいた自己責任』として、衣服の弁償はおろか、精神的なケアに関する治療費すら支給しないとしています。生徒の安全を確保するのは、学園側の最低限の義務ではないでしょうか? これを個人の実力不足として片付けるのは、あまりにも非人道的です!」
一之瀬の凛とした、しかし確固たる正義感に満ちた主張が室内に響いた。
4.盤上の泥合戦:最低額「50万」のロジック
堀北学は一之瀬の言葉を静かに聞き終えると、視線を漣へと戻した。以前、10万ポイントを毟り取られた際の記憶が、学の思考をさらに冷徹にさせる。この男が動くということは、単なる正義感などではない。確実に「目的」と、それを達成するための「牙」を用意しているはずだ。
「一之瀬、言いたいことは理解できる。だが、この学園は実力至上主義だ。自身の身に迫る危機を察知できず、またそれを未然に防ぐ実力を持たなかった者に、学校側が公的なポイントを用いて賠償を行う義務は存在しない。学園のルールは絶対であり、例外を認めれば、今後の規律が乱れることになる」
学はあえて基本原則を突き崩さないよう、冷酷に正論を述べた。
「規律、ねえ。相変わらず中身のない綺麗事(正論)を吐くのがお上手ですね、会長さん。以前もそんなセリフを聞いた気がするが、学習能力がねえのか?」
漣が冷笑を浮かべながら、学の言葉を切り裂いた。部屋の中の気温が一瞬で凍りつくような、どす黒い重圧が漣の身体から放たれる。
「あんたの言う『実力至上主義』ってやつに、学園側の安全管理義務の放棄が含まれているのだとしたら、この学校の理念は根底から腐り果てていると言わざるを得ないな。外部の人間が容易に生徒のエリアに侵入し、危害を加えることができる。そんな欠陥だらけの環境を放置しておきながら、『守れなかった奴が悪い』なんて理屈が、外部の社会(国)に通じると思っているのか?」
学の瞳が、さらに鋭く細められた。
「……言葉が過ぎるぞ、継国。ここが生徒会室であることを忘れるな」
「過ぎてねえよ。俺たちは今回、学校側に最低でも『50万プライベートポイント』の補償金を要求する。これは、佐倉が破壊された制服の費用、そこで今現在も男性恐怖症によって学業や日常生活に著しい支障を来している精神的苦痛に対する、最低限の合法的賠償額だ」
「50万ポイントだと? 根拠のない、あまりに法外な数字だな。学校側にそれを認めさせるだけの材料がお前にあるのか?」
学は漣を強く警戒しながらも、安易に要求を呑む姿勢は見せない。しかし、漣は最初から学のそんな反応を見越していた。
「根拠なら、そのバインダーの中身をよく見ろよ」
漣は顎で資料を示した。
「医師が発行した、重度のPTSDおよび対人恐怖症の診断書。そして学業への影響予測。この学園において、体調不良や精神的損害による授業の遅れは、そのままクラスポイント、ひいては将来の進路(Aクラス卒業の権利)に直結する致命的な損失だ。学校の管理不備によって、一人の生徒の人生が狂わされようとしている。その未来の価値を、たったの50万ポイントで買い取ってやろうって言ってんだ。格安の提示だろ?」
漣の言葉には、この学園のルールを逆手に取った、冷徹かつ論理的なロジックが完璧に組み込まれていた。
5.破滅へのカウントダウン:合法的脅迫
生徒会室の中に、重苦しい沈黙が降り積もっていく。
副会長の南雲は、顎を手に乗せて「ほう……」と感心したような笑みを浮かべていたが、橘茜は漣のあまりに傲慢な態度に視線を鋭く尖らせていた。
堀北学はバインダーを手に取り、中身の書類にゆっくりと目を通した。そこには、漣の言葉通り、完璧にフォーマット化された被害の証明と、学園側の落ち度(旧校舎裏の警備センサーの死角、夜間の巡回不足)が克明に記されていた。以前、動画1本で自分を追い詰めた漣の手際が、この書類の完璧さにも現れている。学は冷や汗が背中を伝うのを感じていた。
「……書類の出来は確かだ。学園側の過失を突く論理としては、一理あると言わざるを得ない。だが、継国。それでも学校側が首を縦に振ることはない。この程度の資料で、既存の決定が覆るほど、学園のシステムは甘くはないのだ」
学は資料を閉じ、静かに突き返した。学校という組織の巨大な壁を盾に、ここで引き下がるよう促す。これ以上、この悪魔に主導権を握らせるわけにはいかないという、学の必死の防衛線だった。
だが、継国漣という怪物の本領は、ここからだった。
「だろうな。だから、俺は最初から、学校の良識や正義感なんてものに期待しちゃいないさ」
漣は不敵に唇の端を吊り上げると、自身のスマートフォンを取り出し、指先で器用に弄び始めた。その所作を見た瞬間、堀北学の脳裏に、以前10万ポイントを奪われた際の光景が鮮烈にフラッシュバックした。端末の操作一つで、この男はすべてをひっくり返してくる。
「会長。もし、この要求が今ここで拒否されるなら……俺はこのバインダーに記載された『ストーカー事件の詳細』と『学校側の冷酷な対応、並びに安全管理義務の放棄の事実』を、今夜中に全校生徒に向けて一斉に公開する」
「なっ……!」
橘茜は息を呑んだ。漣が提示したカードの凶悪さを、生徒会書記としての優れた頭脳が一瞬で理解したからだ。彼女は即座に、冷徹な声音でその暴挙を遮る。
「……随分と大それたハッタリを口にするのね、継国くん。学園の信用を意図的に失墜させる情報煽動……それが何を意味するか分かっているのかしら。明白な規則違反であり、あなたを即座に退学処分にするだけの正当な理由になるわ。生徒会がそのような暴挙を看過するとでも思っているの?」
橘は手元の資料を強く握りしめ、漣を睨み据えた。
学校の管理体制の甘さは事実であり、対応の不誠実さには橘自身も反吐が出る思いだった。だが、それを材料に学校の喉元を破滅的な方法で脅し、あろうことか堀北学の目の前で主導権を握ろうとする漣の悪魔的な手際が、橘には狂気としか思えなかった。
「おいおい、そんなことをして何の意味がある? 生徒たちが学校への不満を募らせたところで、学校側がペナルティを科して終わりだよ」
南雲雅が指摘するが、漣はハッタリをかましている風でもなく、淡々と冷酷な事実を告げた。
「ただの噂話ならそうだろうな。だが、今回の事件には1年Bクラスのリーダーである一之瀬帆波が深く関わっている。一之瀬の持つBクラス、ひいては他クラスにまで及ぶ強大な信頼とネットワークを使えば、この『証拠付きの事実』は一晩で全校生徒、さらには上級生にまで完全に浸透する。――そうなれば、どうなると思う?」
漣は一歩、また一歩と長テーブルに近づき、堀北学を見下ろすように身体を傾けた。
「生徒たちは学園の安全性に強い疑念を抱く。特にポイントが枯渇して精神的に追い詰められている下位クラスの連中が、『学校は自分たちを守ってくれない』と知れば、暴動やサボタージュ、あるいは学園のルールそのものをボイコットする動きに出るかもしれない。学園の秩序は内側からガタガタに崩れる。――会長、あんたの理想とする『優秀な人材の輩出』とやら、そしてあんたがこれまで築き上げてきた『絶対的な生徒会の権威』に、回復不能な泥が塗られることになるんだぜ?」
「……私を二度も脅迫するか、継国」
堀北学の瞳に、明確な『敵意』と、それ以上の『戦慄』の炎が宿った。10万ポイントの件があるからこそ、学は漣が「本気で実行する男」であることを痛いほど知っていた。
橘は、あの完璧無比な堀北学が、1年の不良生徒を前にして僅かに動きを止め、苦渋の選択を迫られていることに、内なる衝撃を隠せなかった。
(嘘……。あの会長が、この男をここまで『本物の脅威』として見ているの……!?)
学校側の対応が不誠実だからこそ、この男の持つ爆弾は完璧な破壊力を持ってしまっている。橘は、学校の保身への憤りと、何より会長の築き上げた生徒会の絶対的な権威を守らなければならないという使命感の狭間で、屈辱に奥歯を噛み締めることしかできなかった。
一之瀬は隣で、漣のそのあまりにも冷酷で、一切の容赦がない交渉術を目の当たりにし、背筋に冷たい戦慄が走るのを覚えていた。
(継国くん……。彼は佐倉さんを救うために動いている。それは間違いないはず。だけど……このやり方は、まるですべての状況を最初から見越して、学園のトップを追い詰め、支配することを楽しんでいるみたい……!)
しかし、一之瀬はここで引くわけにはいかなかった。彼女は深く息を吸い込み、学の鋭い視線を受け止めながら、力強く言葉を重ねた。
「堀北会長。これは脅迫ではありません。対等な『交渉』です。私たちは学園を混乱させたいわけではありません。ただ、傷ついた生徒に対して、学園が当然果たすべき責任を求めているだけです。50万ポイントの補償を認めていただければ、この件を公にすることはありません。学園の評判と秩序を守るためにも、これが最も賢明な選択ではないでしょうか」
一之瀬のその言葉が、最後の決定打となった。
彼女のような、普段は規律を重んじる優等生が、漣の悪魔的な論理に背を押され、確固たる意志を持って「交渉」の席に立っている。その事実自体が、堀北学にとって無視できない最大の脅威であり、これ以上の抵抗は無意味であると悟らせるに十分だった。
激論の末、生徒会室を支配したのは、あまりにも重苦しく、耳が痛くなるほどの静寂だった。
堀北学は目を閉じ、数秒の沈黙の後、ゆっくりと息を吐き出した。接着、再び目を開けたとき、その瞳からは先ほどの激しい敵意が消え、冷徹な『諦念』と、漣という怪物への確かな敗北感が宿っていた。
「……認めよう。50万プライベートポイント。学校側の補償金として、佐倉愛里の口座へ即座に振り込ませる」
「会長……!? 本気で仰っているのですか!?」
橘茜が驚愕の声を上げたが、学はそれを手で制した。
「ただし、このポイントは学校の公式な予算から直接捻出するわけではない。旧校舎の管理体制を怠っていた担当教職員の給与処分、並びに学園の予備費から充当する形をとる。……継国、お前のそのやり方はあまりに強引であり、褒められたものではない」
「ハッ、結果が全てですよ、会長さん。以前に比べりゃ、これでも随分と紳士的に交渉してやったつもりだぜ?」
漣はフッと唇の端を吊り上げ、テーブルの上のバインダーを乱暴に回収すると、一之瀬に向けて首を振った。
「交渉成立だ。行くぞ、一之瀬ちゃん。長居すると、この氷の城の冷気で風邪をひいちまいそうだ」
漣はいつものヘラヘラとした態度に戻り、背を向けて歩き出した。一之瀬もまた、学に一礼すると、足早に彼の後を追った。
二人が去った生徒会室で、南雲雅は楽しそうに天井を見上げ、大笑いした。
「ハハハ! いやあ、傑作だね、堀北先輩! あの1年の継国って男、本当に面白い。50万ポイントも学校から毟り取っていくなんてさ。学園のチェス盤が、あいつの手でどんどん塗り替えられていくのが見えるようだよ」
堀北学は何も答えず、ただ遠ざかる漣の背中があった扉を見つめ、その心の中に底知れない『警戒の火』を激しく燃やし続けていた。
6.月下の境界線:揺らぐチェス盤
特別棟を出ると、すっかり夜の帳が下りており、冷たい夜風が二人の肌を撫でた。
満月の光が校庭を白々と照らし出し、二人の影を地面に長く伸ばしている。
「ふぅ……ッ!!」
廊下の壁に背中を預けた瞬間、一之瀬帆波の口から、堰を切ったように大きな溜息が漏れ出た。
彼女の華奢な身体は、緊張の糸が完全に切れたことで微かに震えており、おでこには薄っすらと汗が浮かんでいる。
「継国くん……すごい、よ……。本当に、あの堀北会長から、50万ポイントもの補償を勝ち取っちゃうなんて……。私、途中で本当に息が止まるかと思っちゃった。それに、堀北会長、なんだか最初から継国くんのことをすごく警戒しているみたいだったね?」
一之瀬は豊満な胸に手を当て、未だに激しく高鳴る鼓動を必死に抑えようとしながら、素朴な疑問を口にした。
漣はそんな彼女を振り返り、いつものようにヘラヘラとした表情のまま、彼女の肩を軽くポンと叩いた。
「さあな? 前にちょっとした『ビジネス』で、会長さんには高い勉強代を払ってもらったことがあるからな。その時のことを根に持ってるんだろ。まぁ、奴らの弱点さえ的確に握ってしまえば、生徒会長だろうが学園のルールだろうが、ただの交渉相手、あるいは都合のいいおもちゃに過ぎないんだよ」
「もう、そんな危険なことばっかり言って……。でも、今回のやり方、本当に危なっかしかったよ? 一歩間違えれば、私まで学園の秩序を乱したってことで、退学処分になっていたかもしれないんだからね?」
一之瀬は少し怒ったように頬を膨らませ、漣を睨みつけた。しかし、その瞳の奥には、恐怖を通り越した『抗いがたい魅力』と高揚感が確実に存在していた。漣という悪魔の底知れない強さに、彼女の心は知らず知らずのうちに惹きつけられつつあった。
「ハハッ、お前を退学になんてさせるかよ。一之瀬ちゃんは俺の、大事な『ビジネスパートナー』だからな。……まぁ、今回はお前の協力のおかげだ。感謝の印に、今度ケヤキモールの高級スイーツでも奢ってやるよ」
「もう、現金なんだから。……でも、約束だからね? 絶対に高いやつ奢ってもらうんだから!」
一之瀬はそう言って、ようやくいつもの眩しい笑顔を取り戻した。
だが、彼女はまだ気づいていなかった。継国漣という男の底の知れない欲望と、その手によって、この高度育成高等学校の権威構造が、静かに、しかし決定的に浸食され始めているという現実に。
「じゃあな、一之瀬ちゃん。夜道は危ないから、さっさと寮に帰りな。またストーカーが出ると怖いからな」
「それは継国くんが撃退してくれたでしょ! じゃあね、また明日!」
一之瀬は小さく手を振ると、軽やかな足取りで寮の方へと歩き去っていった。
一人残された継国漣は、スマートフォンの画面を開いた。佐倉愛里の端末へ50万ポイントが振り込まれたという通知を、システムを媒介して確認する。
「50万ポイントの補償金……。これで佐倉の制服代も、これからの医療費もすべて学校の金で賄える。そして、生徒会の盤面にはさらに深い穴を穿ってやった」
漣は下卑た笑みを月夜に響かせながら、ゆっくりと歩き出した。
以前の10万ポイント、割と今回の50万ポイント。学園の絶対的なチェス盤は、今、確実に、欲望の権化たる継国漣の手によって塗り替えられようとしていた。その先に待つのが、少女の救済なのか、それとも学園全体を巻き込む大いなる混沌なのかを、知る者はまだ誰もいなかった。