※この作品はR-18です。

月光光─天に背きて姉を抱く─   作:redStrange

10 / 17
8話──青鋒の剣

「呂青鋒……参る!!」

剣を構えた仁雲が地を蹴ろうとした瞬間、九霄さんが片手を差し上げた。

「待った!」

「……なんだ、この期に及んで命乞いか?」

苛立ちを含んだ声で仁雲が返すと、九霄さんは小さく鼻を鳴らした。

「馬鹿言え。そんなわけがあるかよ。」

そう言いながら、九霄さんは静かに一本の矢を抜き、仁雲に見せつけた。

「俺の村の儀式みてえなもんでな。決闘の前には足元に太陽を表す円を描き、一本の矢を羿に捧げる。矢を空に放った瞬間から始めるって決まりだ。文句ねえな?」

「異存はない。好きにしろ。」

了承を得ると、九霄さんは地面に円を描き、その中央に立った。真上に向かって弓を引き絞る。

「坊主、手出し無用だ。清ちゃんの側にいてやれ!」

「……はい」

僕の返事を聞き、九霄さんは星のない夜空へと矢を放った。

甲高い風切り音が闇を裂き、矢が遥か高みへと消えていく。それと同時に、仁雲が静かに地を蹴った。

迫り来る仁雲に対し、九霄さんは落ち着いた動作で二の矢を番えた。

弦の音が響き、矢は閃光のように仁雲の額を狙う。しかし仁雲は寸前で横へ跳躍し、それを易々と躱した。僕は思わず息を呑んだが、九霄さんはむしろ笑みを深めた。

「狙い通りだ」

即座に放たれた第二の矢は、仁雲が着地するであろう地点を正確に捉えていた。

横へ跳んだ仁雲の胸を、矢が襲う——はずだった。

しかし仁雲は、矢を視認するよりも早く体を捻った。流れるような曲線を描く剣閃が、飛来した矢を正確に薙ぎ払う。矢は刃に砕かれ、木片となって夜風に散った。

「……っ」

九霄さんの顔が、わずかに強張る。

「羿の矢とは、その程度か!」

仁雲は動きを止めず、間合いを一気に詰めてくる。

二本の矢を放つわずかな時間で、距離はすでに九霄さんの懐まで縮まっていた。

洗練された足運び、流麗でありながら無駄のない剣の構え。線は細いが、その動きには一切の隙がない。月光の下、白い円領袍が翻り、淡青の半臂が夜風に揺れる。

仁雲の冷たい眼光は、獲物を仕留める剣そのものだった。九霄さんは低く笑いながら、横刀を抜いた。

二人の距離が、ついに零になる。

「うおおおっ!!」

九霄さんの横刀──幅広でやや厚みのある刀身が、仁雲の胸を狙って振り抜かれた。

しかしその刹那、仁雲の姿は既にそこにはなかった。

体を流れるように回転させ、音もなく九霄さんの背後を取っていた。そのまま、仁雲の剣が九霄さんの首筋を狙って振り下ろされる。

避ける動作から攻撃への転換が極めて滑らかで、まるで舞のように美しい。だがその美しさの裏に、遠心力を活かした重く苛烈な斬撃が潜んでいた。咄嗟に九霄さんが振り向き、横刀で受け止めた。

刃と刃が激突する、高く鋭い金属音が夜の闇に響き渡る。致命傷は免れたものの、九霄さんの首筋に薄い赤い線が刻まれた。

防御したはずなのに、仁雲の刃は薄皮一枚まで届いていた。遠目に見ているだけで、その斬撃の重さと鋭さが骨身に染みた。

「……っ!」

仕留めたと確信していたのか、仁雲の目がわずかに見開かれる。

九霄さんが反撃するより早く、仁雲は後方へ軽やかに飛び、距離を取った。

「剣には自信がないと聞いていたが、今のを防ぐ程度の腕はあったようだな。」

「おう、自信はねえよ。『弓に比べりゃあ』って話だがな。」

いつの間にか弓に持ち替えていた九霄さんが、再び矢を番えて放った。

しかしその矢は、仁雲とは全くおかしな方向へと飛んでいく。動揺して手元が狂ったのか——そう思った。

だが仁雲は、距離を詰めるどころかさらに後退した。

その体が宙に舞う寸前、下方から跳ね返った矢が夜闇を裂き、仁雲の衣を浅く裂いた。

「ちぃっ……こいつも駄目か」

「地を狙って矢を跳ねさせたか。面白い芸当だ。だが、それだけだ」

仁雲の声は冷たく、余裕すら感じさせた。

白い円領袍の裾が月光に翻り、淡青の半臂が静かに揺れる。

その姿は、戦いの最中であるにもかかわらず、どこか絵画のように美しかった。

九霄さんは低く舌打ちをし、弓を構え直した。

一方の仁雲は、剣を中段に構えたまま、静かに間合いを計っている。

二人の間に、重く張りつめた空気が流れた。僕は姉さんの傍らで、ただ震えることしかできなかった。

この戦いの勝敗が、僕たちの運命を大きく左右することを、痛いほど理解しながら。

仁雲が余裕を持って間合いを詰めてきた、その刹那だった。

「くっ……!」

仁雲の体が不自然に反った。白い鼻先から鮮血が一筋垂れ、淡青の半臂に赤い染みを広げていく。矢が掠めたのだと僕にもわかった。だが、いつの間に?

九霄さんに視線を移すと、彼の右手には矢が二本、指の間に挟むように握られていた。

「二本同時の曲射とは……」

「弓から放たれる矢が一本だけだと思うんじゃねえ。特に、俺みてえに意地の悪い相手にはな」

九霄さんは低く笑ったが、その笑みにはすでに疲労の色が濃く滲んでいた。

仁雲は血を拭いもせず、表情をほとんど変えずに再び距離を詰めてくる。冷たい眼光は相変わらず鋭く、怒りや動揺すら感じさせない。

「……あ……あー……あう……」

その時、姉さんが低いうめき声を漏らした。

「……姉さん?」

反射的に振り向くと、意識が戻った姉さんは虚ろな赤い瞳で、ただぼんやりと夜空を見上げていた。

感情の読めない仮面のような顔のまま、月明かりを静かに浴びている。

僕もつい空を見上げたが、そこには冷たい月が浮かんでいるだけだった。何か特別なものがあるわけではない。

そのわずかな隙に、九霄さんは再び仁雲の剣の間合いに入っていた。

しかし横刀を構える様子はない。

仁雲が胸元に剣を構えた瞬間——地を割らんとするほどの力強い踏み込みと共に、剣が伸びた。もちろん、剣が実際に伸びるはずはない。

細身の体躯に秘められたバネと、完璧な体重移動が生み出す、目にも止まらぬ高速の突きだった。

九霄が、辛うじてその突きを躱した。受け身を取った拍子に後ろへよろめき、距離を取って体勢を整える。

だが仁雲は止まらない。

二の足を軸に体を捻り、流れるような曲線を描く斬撃を次々と繰り出す。弓の利点を封じるかのように、常に剣の間合いの中に九霄さんを閉じ込め、足捌きで逃がさない。

九霄さんも完全に防戦一方というわけではなかった。

回避の動作の中で素早く矢を番え、至近距離から地面を這うように跳ねる予測不能の矢を放ち、仁雲の足を一瞬だけ止める。

「この間合いでも弓に拘るか!」

「当たり前だ!的がでかくなって狙いやすいからな!」

九霄さんは強がって笑ったが、その顔には疲労の色が濃く浮かんでいた。

それでも、口元にはどこか満悦にも似た笑みが滲んでいるように見えた。跳ねる矢、曲がる軌道の射撃、そして時折見せるわざとらしい隙。

九霄さんは本当に押されているのか、それとも——僕には、もはや判断がつかなかった。

やがて九霄さんは弓を肩に掛け、横刀に持ち替えた。矢筒には、もう矢が残っていなかった。それを見た仁雲の攻めが、さらに苛烈さを増した。

反撃の隙も、退避の猶予も与えず、周囲を舞うように斬撃を浴びせ続ける。

「うお……!」

波状の攻撃に耐えきれなくなり、ついに九霄さんが片膝を地に突いた。

起き上がろうとするその喉元に、月光を冷たく反射する直剣が突きつけられる。

「九霄さん!!」

僕は思わず叫び、走り出そうとした。

しかし九霄さんは黙って片手を挙げ、僕を制止した。その目はまだ、諦めていなかった。

「終わりだ。何か言い遺すことはあるか。」

「……終わり?ハッ……」

死を目前にしても、九霄さんは嘲るように笑った。

「随分と気が早えな。俺はまだ死んじゃいねえし、まともに剣も貰ってねえのによ。」

「安心しろ。これで貴様は死ぬ。よって、この一騎打ちは俺の勝ちだ」

仁雲は表情一つ変えず、剣を振り上げた。

足が動かない。僕が飛びかかれば九霄さんは助かるはずなのに、恐怖と無力感が体を凍りつかせていた。

固まった僕の目の前で、仁雲の剣が振り下ろされようとした——その瞬間。

「ぐぁああああっ!!!」

突然、仁雲の喉から凄まじい悲鳴が上がった。

彼の右肩から胸にかけて、鮮血が噴き出す。

月光の下、白い円領袍が赤く染まっていく。仁雲は苦悶の表情を浮かべ、膝を折って倒れた。

思わず目を瞑ってしまったが、仁雲の悲鳴を聞いて再び目を開けた。彼の右肩から胸にかけて、一本の矢が深々と突き刺さっていた。

……いつの間に?九霄さんはもう矢を切らしていたはずだ。残っていたとしても、あの状況で番える隙など、なかったはずなのに。

「だから言ったろ。気が早えって。」

九霄さんは首を鳴らしながら、ゆっくりと立ち上がった。まるで最初からこうなることを予想していたかのような、余裕のある笑みだった。

「な……何だこれは……!どこから矢が飛んで来た……いつの間に……!?」

「最初からだ。俺が一騎打ちの前に、羿に矢を捧げるって言ったろ?」

「あぁ……その、儀式とかいう話か……?」

「儀式?あんなもん、俺の村にはねえよ」

「なっ……!?」

仁雲の表情が、初めて大きく歪んだ。

「咄嗟に出た法螺話とはいえ、我ながら上手い嘘だったと思うぜ。てめえが呑気に待っててくれたおかげで、どれだけ力を込めりゃてめえを正確に誘導できるか、時間をかけて測れたってわけだ」

「誘導……?ま、まさか……!」

仁雲が慌てて辺りを見回す。地面には、彼の周囲を取り囲むように、少々乱れた円が描かれていた。

「貴様……この円に……俺を矢が落ちてくる場所に……!?」

「ようやく気付いたか。太陽を示す円も、空へ放った矢も、全部てめえをここへ誘い込むための策だったのさ。剣の腕は大したもんだったが、もっと『ここ』を使った方が良かったな!ハハハハッ!!!」

九霄さんはこめかみを指で軽く叩きながら、豪快に笑った。

その足元で仁雲は苦虫を噛み潰したような顔をする。剣の技量では勝っていたはずなのに、戦い方という点では最初から負けていた。それも、こんな荒くれ者に。

やがて仁雲は観念したように大きく息を吐き、背筋を伸ばしたままその場に座り込んだ。

「……俺の負けだ。殺せ。」

九霄さんは横刀に手をかけたが、すぐにそれを鞘に収め、僕に視線を移した。

僕は彼の意図をすぐに理解し、呆れながらも震えの止まった足で仁雲の前に跪いた。

道袍の裾を裂いて紐状にした布を、右肩の傷の周囲に強く巻き付ける。矢を抜かずに固定したまま、わきの下をきつく締めて圧迫した。

「……何をしている?」

「動かないでください。まずは血を止めます。痛いかもしれませんが……九霄さん、お酒はありますか?なるべく強いものが良いです。」

「あぁ?坊主、この状況で飲むつもりかよ?」

「違います。傷口を消毒するんですよ。」

「あぁ、そういうことか。」

九霄さんが腰に提げていた瓢箪を外して僕に投げてよこした。栓を抜くと、酒の強い香りが広がった。量は十分過ぎるほど入っているようだ。

僕はそれを傷口の周囲に慎重に注ぎ、布で押さえながらさらに圧迫を強めた。

酒が沁みるのか、仁雲が痛みに耐えるように歯を強く食いしばり、目を閉じた。

「この場では止血しかできません。朝になったらすぐに街の医者にかかってください。大きな街なら、矢を安全に抜く設備もあるはずです。」

「……何故、俺を殺さない?」

「僕には、貴方を殺す理由がないからです。貴方は、事情を話しても理解しようとしないほど、分からず屋ではないはずですから」

***

「……つまり、俺は依頼主に誑かされたということか」

止血が一段落し、僕たちが事情を話したところで、仁雲は静かに納得した。冷徹な男ではあるが、話の通じない人物ではなかったようだ。

「てめえ、その依頼主とやらから、どういう風に聞かされていたんだ?」

九霄さんが腕を組んで尋ねると、仁雲はわずかに目を細めた。

「……妖道が僵屍の軍勢を操り、村々を滅ぼし回っている外道だと聞いた。道士を護る僵屍も、並の個体とは比べ物にならぬほど強力だと。首と共に僵屍も連れて来い、と。」

「あぁ、俺が聞かされていたのと大差ねえな。僵屍の軍勢だの村を滅ぼしただのというのは、初めて聞いたが。」

「お前も……か。」

「ああ。俺も似たような話だった。だが実際会ってみりゃ、こいつはそんな大それたことをしでかすような悪ガキじゃなかった。だからこうして一緒に賞金稼ぎをしていたってわけだ。」

仁雲は小さく息を吐き、僕の方へ視線を移した。先ほどまでの殺意は、もう影も形もない。

「確かに……罪状通りの人間であれば、こうして手当てもしないだろうな。」

「ハッ!ようやく分かってきたじゃねえか。その冷静さも、裴旻からちゃんと受け継いでりゃ良かったのによ。」

九霄さんの軽口に、仁雲が鋭く睨みつける。流石の九霄さんも言い過ぎたと気づいたのか、気まずそうに口を閉ざした。

仁雲は再び僕に向き直った。その眼差しは静かで、冷たいながらもどこか思慮深い。

「玄明、だったか。この男と共に賞金稼ぎを続けるのもいいが……ここまで名が広まった以上、身の振り方には十分気をつけた方がいい。奴は俺のような者たちに、手当たり次第に似たような依頼を出していたようだ」

「その奴というのは……?」

依頼主の名を聞いた瞬間、仁雲の表情がわずかに曇った。騙されたとはいえ、誰の差し金だったのかを口にするのは、さすがに躊躇があるらしい。

しかし少しの沈黙の後、彼はゆっくりと口を開いた。

「……冥鶴子(めいかくし)。そう名乗っていた」

聞いたことのない名前だった。どうしてその人物が、僕が外法に手を出したことや、姉さんを連れていることを知っているのだろう。

「若い道士だ。おそらく、俺と同じくらいの年頃だったが……妙なことに、香のような強い匂いを纏っていた」

「香……ですか」

「ああ。恐らく西方から伝わったものだろう。正直、他の匂いが全く分からなくなるほど濃い匂いだった。」

「女物の香だと?……そいつ、本当に男なのか?」

九霄さんが怪訝な顔で割って入った。男が女物の香を使うことが、そんなに気に食わないのだろうか。僕はそこまで奇妙だとは思わなかったが。

「……他の匂いが分からなくなるほど濃い香、ねぇ……。体臭がそんなに気になるのか?」

「知らん。酔狂か、何か理由があるのかは俺の知ったことではない。とにかく、言えることはこれだけだ。人が集まるような場所は避けろ。弓の名手がいるとはいえ、何時までも守りきれるとは限らん」

「それもそうだな。今までのように悪党や化け物を退治して回るわけにもいかねえとなると……」

仁雲の言葉を聞き、九霄さんは指で顎を撫でながら考え込んだ。やがて膝を軽く叩き、僕の方を向いた。

「……なら、ほとぼりが冷めるまで俺の故郷に来ればいい!ここから三日もかからねえ距離だ。余所者が来ればすぐに分かるし、村の連中も俺の顔が利く。どうだ、坊主?」

「九霄さんの……故郷、ですか……?」

意外な申し出だった。確かに、見知った環境の方が安全だろう。九霄さんが父親を亡くした後も、村を挙げて支えようとしてくれていたと聞いている。悪い扱いはされないはずだ。何より、僕自身も九霄さんの生まれ育った村に、興味がないわけではなかった。

「……ありがとうございます!是非、行かせてください!」

「いいってことよ。もちろん、できることは手伝ってもらうがな。村にゃあ薮医者しかいねえから、治療ができる奴は大歓迎だぜ。」

こうして、次の目的地は決まった。夜が明けたら必要な物をまとめ、そのまま出立するという手筈となった。

***

朝日が昇り、門の向こうから少しずつ街の喧騒が聞こえ始めた。新しい一日の商売が、早くも動き出しているようだ。

「……てめえは、これからどうするんだ?」

別れ際、九霄さんが仁雲に尋ねた。

「賞金稼ぎはしばらく止めて、西安に戻ろうと思う。一から鍛え直さねばならん。だが……」

仁雲はゆっくりと立ち上がり、背筋を伸ばした。

「その前に、俺を利用して無実の人間を始末させようとした罪は、清算させねばならんな。金にはならんが、そんなものはどうでもいい。俺は金の為ではなく、正義を成すためにこの道を歩んでいるのだから」

「……そうか。達者でな」

「ああ。さらばだ、逢射陽。噂に違わぬ、天下無双の弓だったぞ」

「何を今更……まぁ、てめえも剣に関しては相当なもんだったよ。二度と顔を拝みてえと思わねえくらいにはな」

フンッ、と小さく鼻を鳴らし、仁雲は足早にその場を去っていった。

去り際に一瞬見えた横顔は、どこか誇らしく、晴れ晴れとしたものだった。

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。