九霄さんの予言は見事に当たった。
村長さんの口利きが効いたのか、村の人々が次々と僕の下を訪れた。首や肩、足の痛みを訴える者、内臓の不調を相談する者、治療ではなく差し入れを持ってきてくれる者……様々な目的で、僕の家に足を運んでくる。
「な?言っただろ。忙しくなるって」
「ええ……医者がいるとは聞いていましたが、まさか僕たちが着く前に亡くなられていたなんて……」
「……墓には手を合わせたが、死に目に会えなかったのが悔やまれるな。俺がもう少し早く村へ帰ると決めていりゃ……藪医者だったが、いい爺さんだったんだ。」
九霄さんは珍しく暗い顔をした。村人から愛されているのと同じように、彼もまた村の人々を深く愛していたのだろう。
「仕方ねえよ射陽。きっと、医者の爺様の腕が必要になったから、天のお呼びが来たんだろうさ。」
僕の灸を受けている村の男が、代わりに慰めるように言った。
「……勝手なもんだ。よりにもよって、あの藪医者の老いぼれを連れて行くなんてよ。もっと腕の立つ医者はいただろうに」
「大事なのは医者としての腕だけじゃねえさ。本当に患者のことを大切に思っていたからこそ、太上老君様に目を付けられたんだろうよ。」
「あの爺さんが?ハッ!神様ってのは案外、節穴みたいな目をしてんだな。」
九霄さんは耳を小指でほじりながら鼻を鳴らした。その目は潤んでいて、目元が赤く腫れている。……ああ、そういうことか。と、僕はようやく納得した。
「……暗い話をして悪かったな。そういうことだ、村の連中を頼むぜ!お代は俺が色を付けて取り立てておくからよ!」
「お代なんて、そんな。家まで貸していただいた上に、姉さんにまで気を遣っていただいたんです。代金など受け取れませんよ。」
僕は首を横に振りながら答えた。実際、明芳さんの化粧のおかげで、姉さんを気味悪く思う人も大きく減っていた。それどころか、
「あんたのお姉さんは随分と美人だね。目の保養になるよ。」
「もし病が治れば、間違いなくいい嫁さんになれる。」
と、姉さんを褒めてくれる人も現れた。色目を使う者がいないのが幸いだった。
「そういや、畑はどうだ?今年は天気も荒れなかったから、丸々太った葱がよく採れたんじゃねえか?」
九霄さんの問いかけに、村の男は苦い顔をして視線を逸らした。明らかに、何か隠していそうな表情だった。
「い、いやぁ……今年は葱は止めたんだ。土が悪くなっちまってな。」
「……そうか。ここの葱ほど辛味と甘味の塩梅がいい物はなかったんだがな。俺が食える野菜が減っちまったよ。」
「すまないね……来年こそは美味いのができると思うから……」
九霄さんは何かを察した様子だったが、それ以上言及することはなかった。
***
「ご機嫌よう、李様。村での生活には慣れましたか?」
朝、僕の家に明芳さんが訪れるのが、日課になっていた。姉さんに化粧を施すためだ。
「あ、明芳さん。おはようございます。おかげさまで、村の皆さんが良くしてくださるので、不自由は感じておりません。」
明芳さんは青白く、生気のない姉さんの顔を見ても、眉一つ動かさなかった。最初は姉さんも明芳さんを避けるようにしていたが、日を重ねるにつれ、少しずつ視線を合わせるようになってきた。
「あの……明芳さんは、姉さんのことを怖いと思わないのですか?」
以前一度だけ尋ねたことがある。明芳さんは顔色一つ変えず、静かに答えた。
「わたくしにとって大切なのは、目の前にいる方が良い人かどうかです。顔色の良し悪しなど、気にしたことはありません。」
その言葉を思い出すと、今でも少し胸が痛む。
「ほぉ……元が別嬪だから、化粧をすると随分と映えるじゃねえか。」
この日は九霄さんも一緒だった。今日は市が開かれる日だから、僕らも誘おうとついてきたらしい。
「ありがとうございます。でも、診療が……」
「この時間はよほど来ねえよ。皆、市場へ行っちまったからな。なんでも、西方から伝わる珍しい品もあると聞いたらしい。見るだけでもって魂胆だろうさ。」
西方の品……遠い異国の物となれば、確かに珍しいものが揃っているかもしれない。灸に使える貴重な薬草もあるだろうか。
「なに、前の祭りと違って、この村は俺の庭みてえなもんだ。怪しい奴がいたらすぐに分かるぜ。」
「あら、射陽様。李様の御命が狙われるようなことでも?」
柔らかでありながら、芯の強さを感じさせる微笑が、九霄さんに向けられた。
「よ、よせよ!ややこしい事がいろいろあったんだって!」
「ええ、長い話になりますので、事情は後ほどお話しします。九霄さんのせいで何かが起きたわけではありませんので……」
僕の発言を聞いて、明芳さんは止めていた手を再び動かした。
「……貴方がたが悪人でないことは、わたくしにはよく分かります。事情は聞かないでおきましょう。では、化粧が終わりましたら、皆で参りましょう。」
***
市場は村から少し離れた広場で開かれていた。九霄さんの言う通り、かなりの人集りだった。
野菜や干し肉、雑貨を並べた露店が立ち並び、異国の商人が珍しい品を広げている一角もあった。
透き通る深い青の瑠璃の杯を売る店は目を引いたが、値札を見れば目がくらむほど高価だった。買える者など、そう多くはないだろう。
九霄さんの目は、その隣に置かれた葡萄酒に釘付けになっていた。
「こりゃあいい品だ……飲む前から分かるぜ。豊潤な香りといい、色といい、口に含めば葡萄の味が弾けるに違いねえ」
「まあ!相変わらず射陽様はお酒に明るいのですね。」
「ああ。式を挙げる日には、こいつで夫婦の祝い酒を……おいおい、待て!まだお前の欲しそうな物もあるだ……おい、ちょっと!」
九霄さんを酒の誘惑から引き剥がすように、明芳さんは優しくその腕を取った。
振りほどこうと思えば容易いはずなのに、九霄さんは律儀について行く。その様子が、なんだか少し可笑しく見えた。
僕は見たことのない粉末を、まじまじと眺めていた。阿魏という植物の樹脂らしい。胃や腸の薬としても使われると聞き、興味を引かれた。唐では珍しい香辛料もいくつか並んでおり、つい目移りしてしまう。
(……もし買えるなら、灸の際に役立つかもしれない。)
「随分と楽しそうだな。お目当ての物はあったか?」
目に映るもの全てに興味を引かれている僕を見て、九霄さんが笑った。明芳は九霄さんの横に立ち、そっと腕を絡めて微笑んでいる。
「気に入った物があれば言えよ。俺が買ってやるから。」
「ありがとうございます。ただ、僕が欲しい物は自分で買いますので、大丈夫です。」
「やれやれ、変なところで真面目だな。こういう時は喜んでご相伴に預かるもんだぜ?」
九霄さんは呆れたように笑い、辺りを見回した。
しかしその表情は、次第に訝しげなものへと変わっていった。
「射陽様、どうかされましたか?」
「なんか……市にしちゃあ暗いな。周りの連中、目が少し死んでやがる」
九霄さんの言葉に、僕も行き交う人々の顔に改めて目を向けた。
確かに、賑わっている割には活気がない。商品を手に取る人は少なく、値切る声もまばらだった。高級品ならともかく、村民でも手が届く程度の品ですら、買う人は極端に少ない。
不意に、背後から小さな声が聞こえてきた。
『……里正*¹様が変わってから、こういう品を買う余裕がなくなっちまったなぁ』
『仕方ねえよ。納める物は納めねば、暮らしていけねえから……』
『それにしたって、今年は水が少なくて野菜が全然採れなかったぞ。あんな不作は初めてだ。今までの里正様の時は、毎年よく採れたのに……』
『なんでも、この不作は土地神様がお怒りになってるからだとか……美しい娘を生贄に捧げねばならん、なんて話もあるみてえだぜ』
「生贄……? なんだよそりゃあ」
九霄さんも気づいたらしく、声を潜めて呟いた。明芳さんが静かに答える。
「……ええ。少し前に里正が変わりまして、それを境に突然作物の育ちが悪くなりました。その上、税も大幅に上がり……村人の暮らしは確かに苦しくなっていますわ。」
その時、市場の喧騒を切り裂くような声が響いた。
「控えぃ!我々は里正様より遣わされた者である!」
一瞬で周囲が静まり返った。
円領袍を着込み、黒い幞頭を被った男が数人、槍を携えて立っていた。その後ろには、里正の印を刻んだ木札を首から下げた、若い男の姿もある。
村人たちは慌てて道を空け、多くが腰を低く折って頭を下げた。恐怖と諦めが入り混じった表情が、痛々しいほどだった。
「里正様より言伝を賜った! この中に楊明芳という女はいるか!」
九霄さんが反射的に腰の横刀に手をかけた。明芳さんがそれを制し、臆する様子もなく一歩前に出る。
「わたくしが楊明芳です。」
「貴様か!里正様が貴様を土地神様への生贄に選ばれた!大人しくこちらへ来い。手荒な真似はせぬ!」
「……っ!?」
明芳さんの目がわずかに見開かれた。
先ほどの村人たちの噂は、本当だったようだ。最悪なことに、選ばれたのは村のまとめ役であり、九霄さんの許嫁だった。辺りが一斉にどよめきに包まれる。九霄さんに至っては、今にも横刀を抜かんとする勢いだ。
「静かに!」
明芳さんの一喝が、ざわめきを鎮めた。
驚きこそしたが、その顔に恐怖の色は微塵も浮かんでいない。すぐ側で、九霄さんの歯ぎしりが聞こえる。
「……わたくしが断れば、どうなりますか?」
「貴様に断る権利はない。頑なに拒むならば、無理やりにでも連れて行くまでだ。その際、数人の村人が犠牲となる。」
男の言葉に、明芳さんは静かに目を伏せた。
自身の死を恐れているというより、自分の選択次第で村に余計な血が流れることを、深く案じているように見えた。
居心地の悪い沈黙が市場を支配する。
やがて、明芳さんが顔を上げ、静かに口を開いた。
「……分かりました。是非……」
その言葉が終わるより早く、明芳さんの前に立っていた遣いの男が、後方へと吹き飛んだ。
九霄さんが仁王立ちしている。その大きな体躯から、溢れんばかりの怒りと憎悪が滲み出ていた。
「てめえ……ふざけるんじゃねえ。誰に断って明芳を連れて行こうとしてんだ……あぁ!?」
「射陽様……?」
九霄さんは鼻を抑えてのたうち回る男の胸ぐらを乱暴に掴み上げた。上質な円領袍が裂ける音と共に、幞頭が地面に転がり落ちる。
「里正とやらに伝えろ。生贄は無しだ。てめえらにくれてやる人間は、ここにはいねえってな!」
もう一発、九霄さんの拳が男の顔に叩き込まれる。
血を噴き出して倒れた男を見て、後ろに控えていた者たちが慌てて武器を構えた。
「えぇい!貴様ら、冥鶴子様に逆らおうというのか!」
「冥鶴子……?ほぉ、それが里正様の名前か。」
どこかで聞いたことのある名前に、僕は胸の奥がざわついた。
しかし思い出す暇などない。僕は急いで明芳さんの元へ走り寄り、その手を引いて男たちから離した。
「殺せ!冥鶴子様の邪魔をする者には容赦するな!」
雄叫びと共に、遣いたちが一斉に飛びかかってきた。
九霄さんも、即座に前に出る。手始めに、目の前で槍を構えていた男から、得物を奪い取った。
そのまま槍を振りかぶり、肩口へ叩きつける。脳天を狙えば確実に死ぬ威力だったが、九霄さんはあえて殺さなかった。頭に血が上っていても、無益な殺生を避けるその信条が、はっきりと伝わってきた。
折れた槍の柄を握り直し、九霄さんは猛然と突進する。そのまま一人、また一人と薙ぎ倒していく。その荒々しい暴れっぷりに、村民たちの目が次第に輝き始めた。
「いいぞ……やれ!ぶちのめせ射陽!!」
「やっちまえ射陽!俺たちの恨みを晴らしてくれ!」
「この役人どもめ!よくも俺たちから種銭まで巻き上げやがったな!」
村民たちも、足元の石を拾って投げつける。
石の雨が降り注ぐ中、遣いたちの士気はみるみる崩れていった。「え……ええい!野蛮な田舎者どもめ!退け!冥鶴子様に報告するぞ!」
「覚えておけ!我々に楯突いたことを後悔させてや……ぐあっ!」
「うるせえ!さっさと失せろ!二度と来るんじゃねえ!」
「俺たちの射陽は強いんだぞ!ざまあみやがれ!」
遣いたちは我先に逃げ出した。背中に浴びせられる村民の罵声が、市場にいつまでも響き続けた。
ただ一人、明芳さんだけが、呆然と立ち尽くしていた。
その顔には、怒りよりも深い悲しみと、後悔の色が濃く浮かんでいた。
「……なんて事を……」
明芳さんは力なくその場に膝を落とした。そして顔を手で覆い、嗚咽を漏らした。
その泣き声に、さっきまで興奮していた村民たちの熱が、一気に冷めていく。
肩で荒く息をしていた九霄さんも、我に返ったように振り返った。
「わたくしが……わたくし一人だけが犠牲になれば……!村の皆が、これ以上苦しまずに済んだのに……!もう、終わりです……村は、もう……!」
辺りは静まり返り、ただ明芳さんの泣き声だけが響いていた。
やがて、乾いた音が響いた。九霄さんが、明芳さんの頰を叩いたのだ。
「お前一人で犠牲になれば済む……だと?阿呆か、お前は……!目を覚ませ……!」
「射陽……様……?」
「お前一人が死んだら、誰が村を纏めるんだよ……!村の連中は、誰よりもお前を頼りにしてるんだぞ……!そのお前が死んだら、それこそ村はおしまいじゃねえか!もう、お前一人の命じゃねえんだ!それに……」
九霄さんの太い腕が、明芳さんの腰に回された。
大切なものを二度と離さないと誓うように、強く、強く抱き寄せる。
「お前がいなかったら……俺はどうすりゃいいんだ!俺はお前がいねえと、何もできねえんだよ!弓の腕を磨いたのも、金を稼ぎに旅に出たのも、全部……お前と一緒に幸せになるためだったんだ!俺はお前がいねえと、生きていけねえ!お前が死んだら、俺も死ぬ……それぐらい……お前が必要なんだ!!」
それは説得というより、ただの叫びだった。
九霄さんの声は震え、大粒の涙が目頭から溢れていた。明芳さんの泣き声が、ふと止まった。
彼女は呆然と九霄さんの胸を見つめていたが、やがてゆっくりとその胸に顔を埋めた。
「……射陽様……」
九霄さんは明芳さんを抱いたまま、掠れた声で繰り返した。
「だから……死ぬな!生贄になろうなんて、考えるな……俺が守るから!村も、お前も……皆、俺が守ってやる!だから、もう泣くな……!頼む……!」
「……相変わらず……馬鹿なんですから……」
明芳さんは顔を上げ、九霄さんの頰にそっと触れた。
「……昔からそうでした。射陽様は村の為、わたくしの為だと言い、後先考えずに走るお方でしたわね。他の村に迷惑をかけることになったり、無茶な狩りをして大怪我を負ったり……わたくし達に迷惑をかける結果となっても、貴方は同じようなことを繰り返し……」
九霄さんが何かを言いかけたとき、明芳さんが静かに唇を重ねた。村人たちが一斉に息を飲む。
目を逸らす者、驚いて固まる者、慌てて視線を落とす者……様々な反応が広がった。唇が離れた時、明芳さんの頰は薄く赤く染まっていた。
けれどその瞳からは、先ほどの憂いがすっかり消えていた。
「……射陽様ほど、村を愛している御方はいません。だからこそ、わたくしは貴方が愛しいのです」
「……明芳……明芳!!」
九霄さんはその名を叫ぶと、明芳さんの胸に顔を埋めて泣き崩れた。大きな体を震わせ、嗚咽を漏らすその姿は、まるで子供のようだった。
明芳さんは優しくその頭を撫でながら、ゆっくりと村人たちに向き直った。
「……お見苦しいところをお見せして、申し訳ありませんでした。わたくしは、生贄になるつもりはありません。戦いましょう。村の為に、里正と。」
明芳さんの言葉が終わると同時に、村人たちの間から大きな歓声が上がった。
九霄さんと明芳さんを讃える声、からかう声、力いっぱい手を叩く音……それらが混ざり合い、二人を祝福するように市場に響き渡った。
何故か、僕まで胸が熱くなり、泣き出しそうになってしまった。
*¹里正:唐代の里の長。戸籍の管理や租税・労役の取りまとめなどを担う末端行政官。自身が管理する村の村長も纏めていた。