市場での喧騒から数日の間、村はまさにお祭り騒ぎだった。
九霄さんと明芳さん、村の人気者同士の婚礼は、村を挙げての盛大なものとなった。
「今は戦う時です。再び平穏が訪れましたら、改めて婚礼を執り行いましょう。」
と明芳さんは言ったものの、
「村の連中の前であんな事言っておいて、そりゃねえってもんだ!今は里正の連中の事は忘れて、派手にやろうぜ!」
と、珍しく九霄さんに押し切られる形で行われた。明芳さんは困ったような顔をしていたが、満更でもない様子だった。
婚礼の資金のついでに、九霄さんは今まで悪漢を成敗して稼いだ大金を「村の発展のために」と村長に寄付した。村の一つや二つは買えそうなほどの額を前に、村長が泡を吹いて倒れかけた姿は、失礼ながら滑稽にさえ見えた。
(花嫁姿の明芳さん……本当に綺麗だったな。)
誰も来ない玄関をぼんやりと眺めながら、今日も婚礼の日のことを思い出していた。
上質な絹でできた深紅の襦裙の上から淡紅の披帛を纏い、頭には花冠を乗せ、照れくさそうな顔の九霄さんの隣で幸せそうに微笑む明芳さんの姿は、日が経っても容易に脳裏に蘇る。夫婦になるということは、やはり幸せなことなのだろう……。
姉さんも、僕が外丹に手を出さなければ、回復してあのような晴れ舞台に立つ日が来たのかもしれない。
……そうだとしたら、僕は姉さんの未来を奪ったことになる。姉さんも花嫁衣装を着るはずだったのに。
いつの間にか、花嫁姿の明芳さんと、死装束を纏った姉さんが重なって見えてしまった。
「……うー……」
悲観的な思考に耽っていたところ、冷たい手が僕の手に触れた。
姉さんだ。僕の暗い表情を見て、心配してくれたのだろう。
「大丈夫だよ……ごめんね。姉さんも、あんな衣装を着たかったよね……」
触れられた手をそっと握り返し、優しく撫でながら答える。姉さんは、あの婚礼のことを覚えているのだろうか。
僕は側に置いてあった籠から、薬草と共に摘んできた花を取り出し、姉さんの髪にそっと挿してみた。
童が遊ぶような、稚拙な髪飾りだった。けれど、色素の抜けた磁器のように白い髪に、赤や紫の花が咲くと、それだけで華やかさが加わったように見えた。
「……綺麗だよ、姉さん」
姉さんは髪に挿された花を指先でそっと触れたが、すぐに興味を失ったかのように視線を虚空へと移した。
ほんの少しだけ、花嫁の姿に近づいた姉さんを見て、僕の心がうっすらと晴れた気がした。
***
平穏な日々に陰りが差すのは、予想より早かった。
まず、畑を潤す水路の水が、突然枯れた。間違いなく、里正の仕業だろう。
「ったく……性懲りもなく、人の幸せに水を差しやがって!」
九霄さんは苛立った様子で弓を担いだ。水路の様子を見に行くだけとはいえ、道中で何が起きるか分からないため、武装した数人で向かうことになった。
以前の九霄さんなら「一人で十分だ!」と意気揚々と出かけるところだが、明芳という伴侶ができた今、無茶はできないのだろう。
もう一つ、村の周辺を嗅ぎ回っている若い男の噂も流れていた。顔や体格は不明だが、存在自体はほぼ確実だった。大方里正の遣いが僕らの様子を探っているのだろう。
「旦那様、どうか無理をなさらず。皆様も、どうかご無事で……」
明芳さんは深々と礼をし、静かに見送った。
「心配するな!新婚早々お前を未亡人にするような真似はしねえよ。いざとなったら逃げるからな!」
九霄さんはそう言い残し、僕と姉さんも連れて、水路へと歩き出した。
水路に沿って歩くことしばらくにして、水が枯れた原因はすぐに見つかった。
「こりゃあ……ひでえな。」
九霄さんが、怒りと呆れを混ぜた声で呟いた。
分岐点で、村へ流れる水が巨大な石と丸太で作られた堰によって完全に遮断されていた。これだけ大掛かりなものを、少人数で作れるはずがない。誰の仕業かは、容易に想像がついた。
「文句があるなら堂々と殴り込みに来りゃいいものを……小賢しい真似しやがって……!」
「おい、この堰、よく見りゃ作り直された跡があるぞ!」
「じゃ、じゃあ……これが初めてじゃねえってことか?」
「土が悪くなったのも、あいつらの仕業かよ!何が土地神様だ、ふざけやがって!」
村人たちの不信と怒りが、次々と口から零れ落ちる。
「よし、こんな邪魔な堰、ぶっ壊しちまえ!」
「でも俺達だけで足りるか?これだけデカいと、村の全員でかかっても……」
「……俺に考えがある。」
九霄さんが僕を見た。
ちょうど、僕も同じことを考えていたところだった。僕は籠から符と小型の硯、墨、水、そして筆を取り出し、その場で符を書き上げた。あの大きさなら、四枚で十分だろう。
「これを、堰の隅……木と木の間に刺さるよう狙ってください」
「お安い御用だ。」
符を受け取った九霄さんは、それを矢に突き刺し、弓に番えた。僕が指定した箇所を、寸分の狂いもなく射抜く。
「よし、やれ!俺が許す!最悪、村長の爺には頭を下げて謝っておくからよ!」
「皆さん、離れてください!」
村人たちが十分に退避したのを確認し、僕は印を結んだ。
──ドォォォン!!!
爆風が周囲の木々を激しく揺らした。
符の力は丸太と大岩を吹き飛ばし、堰に大きな穴を穿った。
今まで堰き止められていた大量の水が、一気に流れ込む。その勢いは残った堰を削り取り、押し流していった。
「おお!あんな大きな堰が、こんなにあっさり……!」
「すげえ道士さんだ!」
村民たちが驚きと喜びの声を上げた。
しかし、その声はすぐ側で聞こえた葉擦れの音によって、ぴたりと止んだ。音に対し、九霄さんが一歩前へ出る。
音がした先から、数人の男達が飛び出してきた。
円領袍に幞頭を被った男達だ。顔こそ隠しているが、里正の手下であることは間違いない。先の爆発を聞いて駆けつけて来たのだろう。
男達は何も言わなかった。剣や槍を抜くと、そのまま一直線にこちらへ向かってくる。
「……っ!」
九霄さんが前へ出る。
だが男達は二手に分かれ、その横をすり抜けた。まるで最初から九霄さんなど眼中にないかのようだった。
「てめぇ!」
すれ違いざま、九霄さんが一人の襟首を掴む。
しかし残りの男達は振り返ることすらせず、そのまま村人達へ向かって駆けていった。弱い者から潰すつもりなのだ。
背後で村人達の悲鳴が上がる。
槍や木槌を手に応戦する者もいたが、相手は明らかに場数を踏んでいた。武器の扱いも、足運びも違う。
九霄さんも助けに向かおうとしたが、捕まえた男が剣を抜いて立ちはだかった。
「邪魔すんじゃねぇ!!」
金属音が響く。
その間にも、別の場所で怒号と悲鳴が入り混じる。
「うわぁっ!」
僕のすぐ後ろで声が上がった。
振り返る。
一人の村人が尻餅をついていた。
その眼前では、槍を構えた男がゆっくりと穂先を突きつけている。
恐怖で足が竦んでいるのか、村人は逃げることもできない。
考えるより先に体が動いた。男は村人しか見ていない。懐に飛び込むのは容易だった。
「このっ!」
肩からぶつかるように体当たりする。
不意を突かれた男が体勢を崩し、地面へ転がった。
「な……貴様、このガキ……!」
男は怒りに顔を歪めながら立ち上がろうとする。
だが――動かない。
「なっ……なんだ……!?」
脇腹に貼り付いた符へ視線が落ちる。
縛体符。触れた相手の動きを僅かな時間だけ封じる符だ。
効果は短い。それでも十分だった。
「お、おおっ!」
倒れていた村人が我に返り、慌てて男へ飛びつく。別の村人も加勢し、瞬く間に取り押さえた。
「すまねぇ、道士さん!助かったよ!」
男に馬乗りになった村人が叫ぶ。だが僕は礼に答える余裕もなかった。
「後ろです!」
叫ぶ。
村人の背後から、別の男が武器を振り上げて迫っていた。
「あぶな――」
そう思った瞬間だった。
「あ゛あ゛あ゛っ!!」
低い咆哮が響く。男の剣が振り下ろされるより早く、白い影が飛び込んだ。
姉さんだ。
冷たい拳が男の頬を捉える。
鈍い破砕音。男の体が横殴りに吹き飛び、地面を転がった。
「姉さん……!?」
思わず声が漏れる。
姉さんは倒れた村人の前に立ったまま、ゆっくりと拳を下ろた。
虚ろな赤い瞳は、僕ではなく、その村人へ向いている。
「あ……うぅ……」
低いうめき声。
けれど姉さんは僕の元へ戻ろうとしなかった。代わりに、別の村人へ向かおうとしていた刺客へ顔を向ける。
胸がどくりと脈打った。
これまで姉さんが戦う理由は一つだった。
僕を守るため。
化け物も、賞金稼ぎも、僕へ危害を加える者だったからこそ戦った。
だが今は違う。
姉さんが庇ったのは僕じゃない。村人だ。僕ですらない、他人を守ろうとしている。
「……姉さん。」
信じられなかった。けれど、目の前の光景は紛れもない現実だった。
姉さんはもう、僕だけのために動く屍ではないのかもしれない。失われたはずの心が、人としての何かが、少しずつ戻り始めているのかもしれなかった。
「僵尸だ!!」
男の一人が悲鳴のような声を上げた。
「こいつ、僵尸を連れていやがる!!」
その瞬間、男達の空気が変わった。
驚愕。恐怖。そして混乱。
先程まで村人達へ容赦なく襲い掛かっていた男達が、揃って引き攣った顔をして後退りを始める。
「あ……あ゛あ゛……」
姉さんが低く唸る。その赤い瞳が向くだけで、男達は怯えたように身を竦ませた。
「おい、どうする!?」
「知るか!!」
「こんな話聞いてねえぞ!!」
統率は完全に乱れていた。
刺客達は互いに怒鳴り合いながら距離を取り始める。
そして次の瞬間――
「時間は稼いだ!退くぞ!!」
誰かが叫んだ。
男達はまるで示し合わせたかのように踵を返す。
「貴様ら、泣いて後悔するがいい!!」
逃げながら一人が振り返った。
「貴様らの村も終わりだ!!」
森の中へ消えていく背中。
九霄さんは追わなかった。いや、追えなかったのかもしれない。その顔には勝利の喜びなど欠片もなかった。
「……村も終わり、だと……?」
低い声が漏れる。
その瞬間、何かに気付いたように目が見開かれた。
「まさか――」
九霄さんが地面に倒れた男の胸ぐらを掴み、無理やり引き起こす。
「おい!!どういうことだ!!さっきの野郎は何を言ってやがる!!」
男は覆面の下で血を吐きながら笑った。
「……知ったことか……」
苦痛に歪んだ声。だがそこには、確かな嘲りが混じっていた。
「精々悔いろ……」
男の口元が歪む。
「冥鶴子様に楯突いた報いを……その身で受けるがいい……」
「何をした!!」
「ハハ……ハハハハ……!!」
答える代わりに男は笑った。
次の瞬間九霄さんの拳が男の顔面に叩き込まれる。男の体が地面を転がった。
九霄さんは振り返る。その顔は焦りと怒りで歪んでいた。
周囲を見渡す。怪我人はいる、だが死人はいない。刺客達も途中から村人を殺そうとしていなかった。時間を稼ぐことだけが目的だったかのように。
「くそっ……!」
九霄さんが歯噛みした。
「お前ら!!村に戻るぞ!!」
その声に全員が振り向く。
「俺達はハメられたんだ!!」
言い終わるより早く、九霄さんは駆け出していた。僕も慌てて後を追う。
胸の奥で、不吉な予感が膨れ上がっていく。里正達の狙いは、最初から僕達じゃなかったのかもしれない。
***
村に着いた途端、僕たちは呆気に取られていた。
村が燃やされているとか、村人達の亡骸が積まれているとか、そんな惨状を想像していた。
だが、違った。
誰もいない村の中心に、一人の男が馬に跨って佇んでいた。
見た目は二十代前半ほどだろうか。九霄さんより若く見える。
細長い目に、痩せた顔。黒髪を肩まで伸ばし、外套を纏っているせいで体格までは分からない。
男が、ゆっくりとこちらを見た。
「……ごきげんよう、村の英雄様。」
男にしては高い声だった。
「……てめぇ、何者だ。」
九霄さんが低く唸るように言った。
猛獣の威嚇にも似た声だった。返答次第では、そのまま矢を射るつもりなのだろう。既に弓は手の中にある。
男は薄く笑った。
「私こそが里正だ。私に会いたかったのだろう?」
まるで旧友に話しかけるような口調だった。
「何でも、土地神様の怒りを鎮めねばならないというのに、生贄を差し出すのを拒んだそうじゃないか。」
「……里正直々に取り立てに来た、ってことか?」
「理解が早いじゃないか。」
風切り音が響いた。
九霄さんの指から放たれた矢が、一直線に男の胸へ吸い込まれる。
そして──
「……っ!!」
男は避ける間もなく、胸を貫かれた。
思わず息を呑んだ。
九霄さんが躊躇なく殺害を選んだ。確かに、それに驚いたのは事実だ。
だが、驚いたのはそこではない。
男は胸を射抜かれているにもかかわらず、平然としていた。まるで矢が刺さったことに気付いていないようだった。いや、気付いていたとしても、全く意に介していない。
胸に突き立った矢からも、傷口からも、一滴の血すら流れていなかった。
「……噂通り、いい腕だ。」
男は矢を抜こうともしないまま馬から降りた。
そのまま悠然とこちらへ歩み寄り、九霄さんの眼前で立ち止まる。
少し距離はあるはずなのに、妙な匂いが鼻を刺した。
香草とも違う。香木とも違う。
嗅いだことのない、不快なほど濃い香りだった。
その時、不意に誰かの言葉が脳裏をよぎった。
『俺と同じくらいの年頃だったが……妙なことに、香のような強い匂いを纏っていた。』
『恐らく西方から伝わったものだろう。正直、他の匂いが全く分からなくなるほど濃い匂いだった。』
「冥……鶴子……?」
気付けば、その名を口にしていた。
「ほぉ、私を知っているのかね?」
男がゆっくりと僕へ視線を向ける。
「冥鶴子……?つまり、てめぇがあのふざけた懸賞金をかけた野郎だってことか?」
「懸賞金?……ああ!」
男の顔がぱっと明るくなった。
「つまり君が玄明君か!」
冥鶴子は匂いを振りまきながら駆け寄ってきた。もう九霄さんのことなど見えていないらしい。そのまま僕の前で膝を折り、視線を合わせてくる。金にも似た奇妙な色の瞳が、じっと僕を見つめていた。
「ようやく会えたなぁ!」
その声音には、隠しきれない喜色が滲んでいた。
「あの愚図共を何人焚き付けたもう覚えてもいないぞ!まさか自分から私の前に現れてくれるとはな!」
「何故……僕を知っている?」
「私は道士に詳しいんだ。顔が広いものでね。」
「おい!てめぇの相手は俺だろうが!」
冥鶴子の背後で、九霄さんの怒声が響いた。
冥鶴子は露骨に眉を顰め、面倒そうに振り返る。
「やかましいぞ。私の喜びに水を差すんじゃあない。」
「ああ、そりゃあ悪かったな!明芳はどこだ!答えろ!」
鬼のような形相で怒鳴る九霄さんとは対照的に、冥鶴子は少しも怯まなかった。
むしろ鬱陶しそうに、一軒の家を指差す。
「娘ならそこだ。」
そして、心底どうでもよさそうに言った。
「分かったら失せろ。」
九霄さんが指差された家へ一目散に駆けていく。それを見送った時、僕はようやく周囲の異変に気付いた。
……囲まれている。
深々と外套を被った男達が、いつの間にか僕達を取り囲んでいた。
先ほどの刺客達ではない。
生気のない顔。風に揺られる草木のように、ゆらゆらと不自然に体を揺らしている。
僕には心当たりがあった。
僵尸だ。死人に囲まれている。
冥鶴子は、僕と同じように僵尸を操るのか。しかも、一人や二人ではない。
「私の客人だ!粗相をするな、愚図共が!」
冥鶴子が声を張り上げる。
すると僵尸達は命令に従うように一歩、また一歩と後退した。
「驚かせてすまないね。私の忠実な下僕達だ。」
冥鶴子は愉快そうに笑う。
「襲うことはないから安心したまえ。君と話を終えるまではな。」
穏やかな口調だった。だが、その言葉は明確な脅しでもあった。
僕が下手な真似をすれば、その場で僵尸達をけしかけるつもりなのだろう。村人達を人質に取られているようなものだ。
「それじゃあ――」
冥鶴子が両腕を広げる。金色の瞳が、愉悦に満ちた光を宿していた。
「楽しく話をしようじゃないか。玄明君?」